老後の練習

しのび寄るコドクな老後。オヂサンのひとり遊び。

夕焼けとビール

2009-06-30 00:16:30 | 風景
おとといの夜に缶ビールを6本まとめて飲んできのうから来月下旬までビールを飲まないことに決めた。夕焼けが余りにきれいだったから。。。

というのはウソぴょーんで、誕生月の健康診断で尿酸値が高く出ないようにするためなのは言わなくてもわかるでしょうけど、そういうのは正しい結果が出ないからよくないというのは、悪いけどソコの奥サン、あまりにコーチョク的な考え。
こうやって年に一度、ムリヤリでも体調を整える。それこそが健康診断の真の目的だということに気付いてほしい。

試合前に減量に減量を重ねて検量でパンツまで脱いで体重計に乗るボクサーのように、あるいは必要最小限のビキニ短パンとランニングシャツでトラックを駆け抜けるスタイルのけっして良くない陸上短距離女子選手のように、はたまた残り少ない髪の毛を天然記念物の海藻でも触るように整えるオトーさんのように、ハタから見ればそんな崖っぷちで無駄なことしてないで毎日の積み重ねが大事だと言いたくなるのもわかりマスが、、そうやってバリウム飲むのも全然苦に感じなくなったワタシはこんなことをもう15年くらい繰り返してぎりぎりケンコーを保っているのダ。

『シクロ』 トラン・アン・ユン

2009-06-28 13:36:31 | 映画
先週買ったDVDは結局みんなベトナム出身の監督が撮った外国映画で純粋なベトナム映画はコウいうのを読むと衰退の一途をたどっているようだ。ハノイには映画館が6、7軒しかなくていわゆるシネコンみたいなのはココだけ。アメリカの安っぽい娯楽映画が中心でその辺はニッポンと似たり寄ったりだが映画産業自体は作る方も上映する方も風前のトモシビ状態。かと言ってテレビドラマのほうに流れが移っているかというとそういうわけでもなく、このクニの底の方に淀んでいる目に見えない制度によって何かを表現するエネルギーそのものが吸い取られている感じ。まあガイジンがそんなこと言っても大きなお世話なんだろうけど。

とりあえず記憶が消えないうちにコレを書いておくと、前の「パパイヤ」に比べてホーチミンの町中で撮影しただけあってリアルな雰囲気は出ている。内容もベトナムヤクザの勢力争いみたいな中で男女がくっついたり離れたり、ヘンタイ趣味のオッサンの前でオンナの人が・・・したり、はたまたマヤクでヨレヨレになってピストルでジブンを撃ったり、、ベトナムにもこういう闇の世界があるんデスかと心配になるような映画。ただコレでヴェネチア映画祭グランプリってのもヨーロッパ人の植民地思想的異国趣味によるモノとしか思えない。
だいたい話の流れが雑というか、そもそものギモンとしてなんでシクロの営業権くらいのことで家に火をつけたりリンチみたいなことをしなきゃいけないのか、その辺がヨーロッパ人のアジア人を見る、まるで野蛮な動物か何かを見るような見方がまる出しでイヤなモノを見せられたというようなあと味の悪さ。

ユン監督がベトナムの日常性を象徴化しているシクロというのは自転車の前の車輪が二輪になっていて普通の三輪車の前と後ろが逆になったような乗り物で、たぶん5、6年前くらいまでは一般にたくさん走っていたんだろうが今では観光客向けのイカガワシイ人たちだけが営業しているノリモノ。基本的に自転車なのでキワメテゆっくり走る。ニッポンの人力車みたいに観光地の文化保存的さわやかさもなく、ハタから見てるといかにもカッタルイ。その疑似的な日常性とその裏で進行しているベトナムの変化。ヤクザがハビこってひとびとの平和な生活が脅かされて、、そういう暗い社会のなかでも男女がたくましく生きていく、みたいなモノを作りたかったんだろうが、このクニにはもっとあからさまな血の社会みたいなのがあって、それがいろんなことの邪魔になっている、というようなところを撮らないとまったくもの足りない。

1995年、フランス・香港・ベトナム映画

マイケル

2009-06-27 00:28:52 | ヒト
マイケルとはワタシがフィリピンで仕事をしていた時に一度、偶然同じホテルの近い部屋に泊まったことがあって、そのころはもう孤独なロックスターの頂点に上り詰めていたから、別に廊下ですれ違って、やあ、とか言ったわけでもなく、この同じ建物の中にマイケルがいるんだと思いながら、眠れなかったことを覚えている。
今、調べてみると、あれが最後のワールドツアーで1996年か97年のことだ。「HIStory tour」で35カ国58都市をまわったうちの1回がマニラでの公演だったわけで、ワタシはいつも泊っていたホテルが満室だったためにたまたまマニラで一番格式の高いマニラホテルに泊まることになって、まだ明るいうちにチェックインしたらホテルのロビーがやたらざわざわしていて、何なのかよくわからないまま正面玄関の上の3階か4階のの部屋に入っていた。
夕方になったらざわざわしていたのがもっとすごくなって、窓の外を見ると人がたくさん集まってきて何なのかと思っていたらやがて白バイに先導されて黒塗りの大きな車が車寄せに入って来た。その先の状態は上から見ることができなくて、ヤジ馬的に見に行こうと思って下のロビーに降りようとしたらエレベーターが使えなくなっていて階段で降りていったら2階か3階が立ち入り禁止になっていてホテルのニーちゃんに誰?って聞いたらマイケルだって教えてくれた。
あとはもうこの状況をだれにどう伝えるべきか、とりあえずロビーまで下りて行ったら自分のいる側が立ち入り禁止側で、逆にロビー側に出て行けない状態で、おいおいおいみたいに、もう上に行ったり下に行ったりのコーフン状態。結局何をしたかは覚えていない。もしかしたらこの頃はムスコが小さかったので出張に行くと家に絵葉書を送っていたから、このことを書いて送ったかもしれない。
でもよくマイケルが泊まる部屋の上に一般客を泊まらせたもんだと、、今から考えるとまだあの頃はブッシュが世界を壊す前ののんびりした時代だった。

マイケルは真の天才で20世紀を代表するパフォーマーで、美しく繊細でありながら同時に革新的でオリジナリティーにあふれていた。この世に生まれたのがワタシと1か月しか違わないのにもう先に死んでしまって、、天才らしいというか、そんな気持ち。


ゴマダラカミキリ

2009-06-25 12:16:28 | 風景
我が家の家虫、カチューである。家訓とか、家宝とか、家紋とか、家風とか、そういうのの一つをなす重要な虫なのであール。
世間では作物を食い荒らす害虫という見方もあるが、カレラもお腹がすけば何かを食べるわけで、海の魚をとって食べるニンゲンが害人と呼ばれないように、害虫という呼び方はカレラにととっては受け入れがたいものに違いない。
黒い鞘翅の光沢、繊細なマダラ模様、末端にまで神経がいきわたっている触覚、すべてが完璧なバランスで全体を構成している。
甲虫界のブラックパール、空飛ぶ宝石なのであーる。


サルを相手に苦闘し続けていると、虫の世界に逃避したくなる今日この頃・・

落陽

2009-06-24 00:19:33 | 風景
ハノイの今日の夕焼け。
夜明けに雨がかなり降って昼間はそこそこ晴れていた。蒸暑い、どころじゃない。日中はサウナの中を歩いている感じ。夕方になるとオンナのひとはパジャマで町中を歩きまわる。なんか淫ら。パンツとか透けまくりで。

この前ニッポンに帰った時に吉田拓郎のつま恋ライブをブルーレイに録ってあって「落陽」もよかったけど中島みゆきと歌った「永遠の嘘をついてくれ」がかなりよくて、時々頭の中で自動再生する。

永遠の嘘をついてくれ、いつまでも種明かしをしないでくれ・・って、どこか外国で病気で死にそうなのに、元気でいる、みたいな嘘をついてくるオトコに向かって中島みゆきが歌うわけで、実にオトナの哀愁というか、同世代的共感を禁じえない雰囲気。
僕たちはまだ旅の途中だから、、ってワタシなんか去年までは出張しまくりで、今はまた単身フニンでまさに死ぬまで旅の途中、みたいな。。

『Tres Estaciones』 トニー・ブイ

2009-06-23 00:30:55 | 映画
きのうまでのはベトナム映画と言ってもベトナム出身のフランス在住監督が撮ったフランス映画で、今日のはアメリカ在住のベトナム人が撮ったアメリカ映画。結局この前買った6枚のうち、ホントのベトナム映画は1枚もなくて、いかに才能が流出しているか、というか、共産主義のもとでは芸術は育たないというか、、。なんとなくわかる。
町には画廊がそれこそニッポンでのコンビニと同じくらいあるが扱っている絵は観光客相手の模造品だったり、新しっぽい表現を試みているつもりの絵でも伝統的な技法から抜け出るようなものではなかったり、かなり内容的には停滞している。やっぱり表現の範囲を制限されていると結局何も飛び出てこないという感じ。

で、コレはアメリカ映画として見るとあまりに素朴っぽく作り過ぎていて、娼婦が出てきてもSEXも暴力もなく、純な蓮の花摘みのオジョーちゃんやら病気で先のない詩人やら、はたまた道端でたばこを売るストリートチルドレンとかが明日は希望の花が咲く、みたいな芝居をしてて、完全にアメリカ人化した監督だからこそ、こういうわが懐かしきソコク的なモノができたんだろうと想像する。そういう背景を知らずに見ればそれはそれでキレイな映像と、アジア的異国趣味が満足させられる映画になっている。

ちょうど今の季節、町中では花売りのオバサンが蓮のまだ開いていない大きな花を束にして売り歩いていて、紫がかったのとか白いのとかどういう匂いがするのか買ってみたいと思いつつなかなか買えないでいるのだが、蓮茶とかも試しに飲んで見たいような。。
まあ、そういうディスカバー・ベトナム的映画。ストーリーはさっきも言ったいろんな人たちがバラバラで出てきて3つか4つの話が別々に展開して、最後になんとなく一つにまとまったのかどうか、よくわからない。
原題は3つの季節という意味なのに邦題は「季節の中で」。季節が3つっていうところがミソだと思うのだがなんでマツヤマ千春になってしまうのか、、まったく意味不明。

1999年、アメリカ映画。

『青いパパイヤの香り』 トラン・アン・ユン

2009-06-21 15:18:31 | 映画
きのうから映画ばっかり見てる。コレはトラン・アン・ユン、ベトナム発音ではチャン・アイン・ヒュン監督のメジャーデビュー作。カンヌ映画祭の新人監督賞を受けている。ベトナムが舞台だが撮影されたのはパリで、すべてセットで撮影されている分、リアリティーがあまり感じられない、テレビドラマのような雰囲気もあるが、。

ストーリーは一人の女性の山あり谷ありのジンセイを、10代で金持ちの家の下女としておシンのようにその家の子供にいじわるされながらもケナゲに働いている時代と、その10年後にすっかり大人のオンナになって、その家を踏み台にして、というか、オンナの本能からにじみ出てくる魔力とでもいいましょうか、ひとことでいえばおイロケをいかんなく発揮してシアワセをつかみとっていく、そういう波乱の人生を描いたもの。薄幸の少女が成長してオンナとして世間を見返す、みたいなよくある話。その分、オトコのほうはおイロケに吸い取られていくような下等動物的に描かれているのは仕方ない、というか、実際オトコは動物みたいなものだということで、性的な部分では人間も犬も猿もライオンもカバもオットセイもオオアリクイも大差ない。

主人公のオンナが青いパパイヤの皮をむいて、やわらかい白い部分を薄くそいで千切りにしてドレッシングをかけて仕上げるところがサクサクした食感まで感じられるようで印象的。パパイヤを二つに割ると中に真っ白な種が、米粒か小さな虫の幼虫のように、ハッキリ言えば蛆のように湧きあふれるのもキレイな映像だ。
そういう食べ物を官能的に描写するようなところは「夏至」にもあったような気がして、この監督の目で食べる、みたいな感覚は独特なものがある。女性がややジメジメした裏庭みたいなところで黒髪を洗うシーンも非常にsexualで、薄い布をまとって頭から水を流して髪と布がカラダにひっつく感じもまた、目でなめ回しているような倒錯的な世界である。

ヒュン監督はこのあと「シクロ」でヴェネチア映画祭のグランプリを獲るのだが、そのあとの、きのうの「夏至」を最後にベトナムを舞台にした映画からは離れていく。つい最近はキムタクもでてくるレを発表したばかりでその次は「ノルウェーの森」というわけ。
実は「シクロ」ももう見たのだが、ベトナム戦争のときにジブンの親が拒絶して捨て去った共産主義国家としてのベトナムに、ジブンは永久に戻れないということをサトったんじゃないかというような、ベトナムに対する疎外感っぽい雰囲気の漂う映画でシタ。ワタシもまた外人としてベトナムに進んで疎外されている身だけに共感っぽい雰囲気。

1993年、フランス・ベトナム映画


『夏至』 トラン・アン・ユン

2009-06-20 17:31:45 | 映画
ハノイはこのところやたら暑い。マジ、激暑。もうすぐ夏至だし。朝の8時くらいでオフィスまで15分歩くと汗がしたたり落ちてくる。でもまあそれくらいなら耐えられる。昼になるともうだめ。息を吸うと肺の中が熱くなる。体温より暑いから。10分も外にいたら意識がだんだん薄くなって、まだ倒れるまでがまんしたことはないがそのままだと必ず倒れる。そういう暑さの中を観光客が死にそうな顔で観光している。特に必死なのがニッポン人。眉をしかめてタオルで汗を拭きながら黙々と歩いている。見ていて痛々しいが彼らにはそれが楽しいのだろう。ああやって苦しみを分かち合うことに意味があるのだ。相手がたまたまパックツアーで知り合った見ず知らずの他人であろうと同じニッポン人同士として。

そういう光景を横目で見ながら久々のハノイの週末をタクシー使って買い物巡り。
今日はJALの機内誌で読んだベトナム映画のDVDを買いに旧市街へ。トラン・アン・ユン-tran anh hung監督の「夏至」と「青いパパイヤの香り」と「シクロ」がみつかったのと、店のオジョーちゃんが、ベトナム映画ならコッチの方がいいと言って、必ずコッチから先に見るようにとまで言った「tres estaciones(邦題:季節の中で)」ってコレ、アメリカ映画じゃん、と「gardien de buffles(邦題:バッファローボーイ!?)」と、「vuot song」ってコレもアメリカ映画を購入。全部で90,000ドン、500円ナリ。
ユン監督のがベトナムの日常をベースにした人間の微妙な感情のドラマみたいなのに対し、オジョーちゃん推薦はかなり芝居がかったスペクタクル映画ってな感じで、コッチのニーズとはややずれていた。で、ユン監督は村上春樹サマの「ノルウェイの森」の映画化で監督に選ばれた人でもあり、スベるかハマるか、それもまた見もの。

ウチに帰ってさっそく言われたのじゃないコレを見た。テーマは3人の美人姉妹の日常のシアワセとその陰で静かに進行する男女の感情のモツレみたいなもので、場面が突然世界遺産のハロン湾のようなところに、しかも合成であるのがすぐにわかるようなつくりで跳んでったりして若干興がソガれたが、ハノイの町の奥深い感じがきれいに映されていてまあまあの内容。
ユン監督はベトナム人だがパリに住んでいて「青いパパイヤの香り」で注目され始めたヒト。やや退廃的な映像感覚がベトナムに住んでいる人たちには違和感があるのかもしれない。
映像で見るとハノイもなかなかきれいな町に見えるのだが、実際はドブの臭いと食べ物の匂いが混じり合って、そこに熱風が吹き込んでくる感じで、それが映像では見えなくて伝わってこないのは残念。

2001年、フランス・ベトナム映画。

コフキコガネ

2009-06-18 23:05:09 | 風景
結局きのうは出発が3時間遅れてこっちに着いたのは夜中の1時前。空港の入国審査のオ役人さんも眠たそうな眼をこすってダラダラやってるもんだから荷物を拾い上げて空港を出たのが1時半。空港からタクシーに乗って一目散でアパートに着いたのが2時15分でまとめ買いしたソーメンとか無印のカレーとかを棚に並べたりして寝たのが3時=日本時間の午前5時。すっかり徹夜状態で3時間寝て会社に行った。やれやれ。

それにしてもいつもはベトナム航空に乗っているのをはじめてJALにしたらこのアリさまで、夜中の1時に空港に着きましたヨっていわれても不慣れなヒト人は途方に暮れるんじゃないかと、、さすがの国営航空にはそういう想像力が欠けているのか。
それでもって思い出したんだけどJALにはとんでもないサービスマニュアルがあって、離着陸直前直後の危険な何分間かは普通の航空会社はトイレは絶対使用禁止なのに、JALだけはその都度CAが機長にお伺いを立ててトイレを使わせることがあるとかで、最近、実際にアブナイことがあって、その危険な何分間かに機長が余計なやり取りをしなくていいように、やっとそれは絶対に断ろう、みたいになったらしいが、飛行の安全よりワガママなごく一部の乗客へのサービスを優先していた一つの例。

ほかにも今や語り草になっているが、たった一つの席のオーディオシステムが故障して、その修理のために出発を何時間も遅らせたとか、ワタシ自身が受けた被害としては、せっかく選んだ窓際の席に座ってもう扉も閉めて動き始めようとしているときに、バカカップルの片割れがワタシの席の隣に座ったかと思ったら、アイカタと席が離れているのが嫌だとか言って、CAにワタシを別の席に移動させられないかと詰め寄って、そのバカCAはワタシにこっちに移ってください、みたいに、それが当然のヤサシさ、みたいに言うもんだから呆れて無視したことがあった。
アホの、アホによる、アホのための航空会社。それがJALです。みたいな。アホがアホを擁護してアホを助長させる。いくらでも言える。

まあもう乗らないからどうでもいい。で、写真は何の関係もなくこの前、話題に出たコフキコガネ。ハノイ空港のオ役人のダラダラしたのを見て思い出した。のんびりしてダラダラした虫。朝、道端に仰向けになってよく転がっている。硬い背中の羽に細かな毛が生えていて粉をふいたように見えるのでコフキコガネ。触覚を広げるとトナカイの角のようにミゴトな形をしている。

『犬と日常と絞首刑』 辺見庸

2009-06-17 18:15:36 | 評論
また出稼ぎに戻ろうと思って成田に着いたら飛行機が2時間半も遅れるというのでラウンジでワインを飲みながら新聞読んでたらおもしろい記事、というか、コラムというには大きすぎる、ほぼ1面の3/4を占めるこの文章を読んだ。
辺見さんは元共同通信の記者で、小説「自動起床装置」で芥川賞をとって「もの食う人びと」とかの随筆でかなりワイルドな感じでおもしろかった人だが何年か前に講演会の最中に脳溢血になって、その後はカラダが若干不自由ながらキワメテ鋭い文章を発表してセケンと闘っている人。ワタシかなり好き。
最近はニッポンの死刑制度に反対する文章をたくさん書いていて、ワタシはどちらかというと死刑賛成だったのでどうしたもんかと思っていたのだが、この新聞の文章を読むと言っていることは十分理解できる。ほかの情緒的死刑反対論者とはラベルが違う、いや、レベルが違う。

で、何を言ってるかというとニッポンの死刑制度は完全に日常化しニッポン文化の一部をなしていて、ソレとよく似ているのは天皇制度で、ヨーロッパの先進国が早々と死刑廃止を決めている中でニッポンではおそらく廃止はあり得ないというようなことからはじまって、やっぱりそこには恐ろしい国家の演出のようなものがあるんじゃないかというようなこと。
一部に死刑廃止論が、茶碗にこびりついた汚れのようにありながら、いざ凶悪犯罪が起きてその犯人像がその家族や無関係な周辺までをも含めてマスコミがあばき出すと一気にコクミン的合意が形成される。そしてその執行制度はヤスクニ神社の奥の奥で行われている隠微な儀式のようにコクミンの目の前に明らかにされることはなく、またコクミンのほうもそういうことまでは知らされたくないという一致した目に見えない世論がある。
つまりキワメテ日常の奥深い部分で死刑制度は存続していて、それは天皇が天皇として国家をコントールしていながら、日常の、今日の晩御飯は何を食べたんだろう的な、そこまでは別に知りたくないというか、そこまで知ったら天皇制そのものがぐらついてくるというような、そういう制度として成り立っているということを、辺見さんは不自由な右半身を使えず左手で犬の糞を片付けながら、テレビから流れてきた死刑執行のニュースを聞いて、その日常の光景とその中で確実に行われている死刑執行との間の闇のようなものを感じて、ニッポンの死刑制度の意味をあらためて理解した、というような内容。

辺見さん的に言うと、ワレワレは自分で悲しむことのできる悲しみしか悲しんでいないのであって、死刑はおそらくその外側のできごとで、ニッポン人がニッポンを国家として成立させていく上で不可欠なモノではあるが、はたして世界が目指すべき方向として一つの方向に向かっている中で、たかがクジラの問題であんなに無駄な労力を費やしているのと同じように、この死刑問題でも、まさか死刑はニッポンの文化デスみたいな主張をするんデスか、みたいな問いかけ。

2009.6.17 朝日新聞朝刊