老後の練習

しのび寄るコドクな老後。オヂサンのひとり遊び。

ザンボー湖

2010-09-28 01:16:53 | ベトナム
ハノイは狭いようで広い。ワタシが普段散歩で歩いているのは南北4~5キロ、東西2~3キロの範囲。今となっては庭のようなもの。北はTay湖で南は片側6車線くらいの大通りがあって横断歩道がないのでそれより先にはなかなか行く気がしない。同じように東は空港からつながる大通りでその先には紅河があるし、西はハノイからホーチミンに行く鉄道の線路がある。そんなわけで四方が道路とか線路とかで仕切られているから世界が限定されてしまうわけだが、よくよく考えたら西のほうは行こうと思えば行けるじゃん、ということで、きのうは延々と歩いてきた。

で、西のほうは東京で言えば新宿のような新都心として開発中で、超高層のアパートとかホテルが市営墓地の墓石のように建ち始めている。焼肉店の集まったコリアンタウンとかもある。ニッポン大使館やニッポン人学校もあるので家族と一緒に来ているニッポン人は大部分がソッチのほうに住んでいる。だからワタシは日常的にはニッポン人のヒトヅマとかと会う機会はなく、たまにニッポン料理店とか、あとはオペラハウスでのコンサートとかでそういう集団に遭遇して、あの何か目に見えないオキテのもとでココロに思ったことの3割くらいを小出しに出し合う独特な会話を聞かされると、ああこの人たちも狭い世界で苦労してるんだな、と思う。

ま、それはそれとして、きのうはなぜか中華料理を食べたかったので湖の畔のレストランをいくつかまわって、ということは昼と夕方に中華系のソバを食べた。ハノイには中華料理屋は少ないがニッコーにしてもそうだが、ホテルのレストランは中華系が多いのはなぜ。写真はその散歩の途中のザンボー湖。イッキに秋の気配が水面に漂っている。
で、大通りのKim Ma通りを歩いていたらコギレイなSpaがあったので試しに入ったら値段もそこそこで、というのは安すぎず高すぎず、店内は清潔で天井にはシミ一つなかったし、お店のヒトたちはべトナム人とは思えないほどモノ静かで平和そうな顔をしていたし、BGMも静かで揉むほうは今までで一番と言ってもいいくらいウマかったので、久しぶりにココロ静かな時間を過ごした。

・・・散歩というのはいいものだなと、そういうときにあらためて思う。人の心にしか残らないもの、だからこそ何より貴重なものを、散歩は僕らに与えてくれる。その時には気づかなくても、あとでそれと知ることになるものを。もしそうでなかったら、いったい誰が散歩なんかするだろう? 
  
ムラカミ・ハルキさまの『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』のあとがきから、「旅」を「散歩」に置き換えてしまいまシタ。
旅はもちろんいい。散歩も、日常生活の小さな冒険に過ぎないけれど、いろんなものを与えてくれる。僕らに。

ガンバラナイ

2010-09-26 23:39:07 | 風景
尊敬する鎌田實センセの言葉をまねてワタシの座右の銘を作りまシタ。座右の銘ってジブンで作るもんじゃないかもしれないけど本人至ってマジメです。
じゃあ、イキます。。

粘らない、値切らない、眠らない

韻まで踏んじゃったりして。ちょっとオサレ。

最初の「粘らない」は説明するまでもなく、妥協こそが人類共存の唯一の道であるという信念のもと、センカク諸島問題なんかも、ああいう話の通じないクニを相手に、なんであんなに粘るんだろう、と思っていたら、またまた疑惑のコンビニ、検察庁がアンナこと言って逃がしたりして、そんなことするなら拘留延長なんかしなきゃいいじゃん、、という意味の「粘らない」ではなく、ハノイで買う納豆はいくらかき回しても粘りが出てこないことを嘆いていマス。

次の「値切らない」は、ハノイでは市場とかみやげ物屋とか、アパートの契約なんかでも、なんでもかんでも値切ると値段が下がるということがあって、ソレがガイドブックなんかにも書いてあるもんだからニッポンからの観光キブンの出張者とか長期滞在者がソレを楽しみのようにやるので、横で見ているワタシはめんどクセーと思って、いい加減にしろっ、と言いたくなるキモチを表していマス。ワタシはどんなことがあっても絶対に値切らない。めんどクセーから。値切ったところで100円、200円の世界。ホントにめんどくせーヤツらだ。早く帰ってくんないかな。

気を取り直して最後の「眠らない」は、夜眠れなくてもソレならソレで眠らないぞ、とジブンに言い聞かせているコトバです。まあハッキリ言って最近眠てまセン。よく眠れた記憶は、もう遠い昔。酒飲んで酔っ払えば10時過ぎには寝て2時には目が覚めて朝まで水飲んだりニュース見たり。4時間眠れれば立派なほう。そうでないときは3時くらいまで起きていてウトウトしたかと思ったら5時頃目が覚めて、もうひと眠りしようとじっとしていてもなかなか眠れないのが、もうすぐ起きないといけないという6時半頃になってウトウトしだして、ソレで無理やり起きるもんだから一日中眠い状態が続く。トシとったからか、それともウツ病の前兆か。

ま、でも一日おきにはそこそこ眠れる。だからマジに、寝るのは一日おきにしようかと思っている。きのうは酒も飲まずに10時に寝て今朝は8時に起きた。だからきょうは眠らない日。

亜熱帯の黒く長い夜が、関門海峡のトンネルの入口のように、ワタシの前で意地悪そうに口を開けて待っている。

『Emperor』

2010-09-19 09:35:19 | アート
ニッポンから戻ってずっとゲリ。シゴトで身内からクレームつけられて、とにかく何でもいいからケチ付けとこ、みたいな、ソレでいてジブンが何したらいいのかジブンでは決められない、どうしようもないガキみたいなヤツがいて、ストレス性のゲリってのがあるとしたらたぶんソレ。まあ、既にワタシはケツロンに達しているから、ソレを実行するだけ。

でもって、若干調子が悪い中を今年のベト響(ベトナム国立交響楽団)のメダマ、ピアノの小山実稚恵サマを迎えてのベートーベン・シリーズの一夜に行ってきた。曲はピアノ協奏曲の5番。通称「皇帝」。ゲリベンとベートーベンのダブルベンで直前まで行くのやめようかと思ったけど、まあ、イってヨカッタです。

小山サンてひとはちょうど同世代なのでアチコチで賞をとっていた頃から名前だけは知っていた。ソレがこのハノイのオペラハウスで初めて聴くことになるなんて。残響ほとんどゼロで、3分おきに鳴るケータイの着メロとか、外のバイクと車のせめぎ合いとか、そういうワイルドな環境の中でも集中してやれるっていうのはタイシタもの。
アンコールで弾いたのは、聴いたことのある有名な曲だけど題名知らない。で、そのあと休憩をはさんで、これもまた5番の俗称「運命」だったわけだが、スシを腹いっぱい食べた後にラーメン食べるか?みたいなキブンだったのでササッと帰ってきた。

外はお祭りの大渋滞。とにかくバイクで賑やかなところに集まれ、みたいな雰囲気で、歩道に乗り上げて猛スピードで突っ走って来る。ジブンさえ早く行ければいいというベトナム人の狂気。ボード―にならないのが不思議なのはこういうキョウサン主義の国ではコッカがかなり強くコントロールしているから。チュウゴクみたいに当たり屋やってヨソの国に因縁つけてくるのもウラで操られているだけのことで、アレに比べればみんないいヒトたちに見えてくる。

『ハーパー・リーガン』@Parco劇場

2010-09-15 15:56:37 | 演劇
木曜の深夜にハノイを出てきのうの午後にもう帰ってきた。そんなふうに短期間ニッポンに帰ることに何か意味があるのか、というと、高度経済成長期の東北地方の農家のオト-さんのように、出稼ぎで稼いだお金を持ち帰るコトと芝居を見るコトくらい。あとは何の必然性もない。高い飛行機代払って。
家族の顔をみたりとか、食べたいモノを食べたりとか、ソレはソレで一瞬の気休めにはなっても、ソレでなにかが深く満たされるわけではない。大サカ地検トク捜部の取調室でかつ丼喰わされるようなもん。すぐにまたドブの臭いのする現実に送り込まれるわけだから。

で、コレは月曜の夜に見た芝居。役者が、そのセリフには直接は現れでない、登場人物の性格のようなものが舞台の上でぶつかり合うような、キンチョー感のあるもので、これみよがしにへんてこな衣装着て、意味のないシグサ付けて大声で叫び合うような土曜の芝居とは大違い。まあちょっと、考えさせられすぎるような内容ではあったけど。

小林聡美サマ演じる主人公のハーパーは父親が病気で死にそうなのに会社の上司が休暇を許可しないのでどうしようか悩んでいる。夫は冤ざいかどうか微妙な状況の事件に巻き込まれて性犯罪者リストに入れられてしまってシゴトに就けない。娘はアタマでっかちの受験世代で学校に行くためにカネがかかる。
だから休暇取るならクビ、みたいな状況に追い込まれて、行きヅリの若い美形のニーちゃんとの触れ合いに逃げ場を求めたりするが、、結局誰にも言わずに父親のもとに行くと既に死んでしまっていて、今はもう父親と別れて別のオトコと再婚している母親のところに行く。
その母親とハーパーはソリが合わなくて、コウいうのは脚本原作者のイギリスでもよくあるのかなあ、みたいに思ったが、要はお互いに求めすぎる関係というか、愛情に満たされない関係の中にいる。まあニンゲン関係でうまくいかないというのはだいたいそういうことだから、お互い何も求めないというのがジサツとかしなくて済む生き方だろうと思う。

テーマ的には母と娘のそういう関係が代々伝わっていって不幸の再生産がおこなわれる、という救いのないモノだが、そこで性犯罪者リストに入れられて毎日ぶらぶらしている夫の存在ってナニ? みたいな。それが本当にムラ八分にされなきゃいけないような犯罪だったのか、とか、いまのネット社会の息苦しくなるようなところが合間に織り込まれる。
夫はプールで10歳の女児の写真を撮っていたというだけのことで、ソレを告発したニンゲンがいて裁判にかけられて性犯罪者のレッテルが張られる。そういうのは今の世の中ホントに普通にあることで、、一方で裁判でえん罪を晴らすとリッパなおニーさん、みたいに持ち上げられて、、メディアのタレ流しの情報がヤマのような不幸を作り出している。だからそういうことも言いたいのかなー、みたいなところもあったがなんとなくそのへんはボケていた。

まあはっきりしたテーマ、みたいなコトはあまり大事なことではない。むしろ必要ない、というかそういうのがあからさまに出すぎると見るに堪えないモノになる。ジブンのいるこのセカイとソコでジブンのしているコトの現実感、というか、ソレがネットが作り出すもう一つのセカイとずれているコト。どっちが本当のことか、とか、そういう区別もつかないような日常の風景みたいなものを、あえて今書いたような状況を持ち出して目の前に見せてくれた、ということ、かな。
最後はスガスガしい日常の風景。それまでにどんな悲惨な話を見せられていても、今のコレが現実だと言われれば、そうかもしれないと思えてくる。

原作はサイモン・スティーヴンス、演出は今をトキメク長塚圭史サマ。26日までやっていマス。

『タイタス・アンドロニカス』by劇団山の手事情社

2010-09-13 09:52:15 | 演劇
金曜にニッポンに帰ってきてあしたまた向こうに帰る。インガなショーバイ。今回は特に目的もなく、絶対にみたいという芝居もなく、ただウワサに聞いたニッポンの暑さを少しは味わっておかないと、みたいなこと。

で、コレは土曜の昼に浅草まで行って見た芝居。シェークスピアってのはどうかな、と思いつつ、実際途中で眠くなるようなモノだった。
どこか海外の演劇祭で好評だったとかで、街宣、いや凱旋公演と称している。でもナカミ的にはニッポンの劇団がシェークスピアやりました、みたいな、黒い着物着たヒトがバスタオルをたたんだり放り投げたりしながら話を進めるという設定で、コレもまた黒いスーツに白ペンキをぶっかけたようなモノを着た役者達のヘンテコな衣装とか、オンナのヒトは黒の網タイツなんか履いて、それでもってとってつけたようなしぐさとともにセリフをわめき散らす。わめき散らすからなかなか聞き取れなくて、特にその中の男優サンの一人は声がスットンキョ―に高くて、全体の流れからアキラカに浮いている。
セリフを聞きとるのも苦痛だったし、見ていてもやれやれ、みたいな約1時間半。

話はローマの権力闘争みたいなモノで次々に腕を切り落としたり舌をヌいたり、コロした肉をミキサーにかけて肉団子にしてソノ親に食べさせたり。だから舞台上には冷蔵庫と電子レンジとミキサーが置いてあって、なんか古臭い。グロのほうはやたらリアルなのに対し、えろのほうは腰をフリフリするくらいでモノ足りない。ゼンラで合体するくらいのリアルさがないと。ヒトが殺されるたびにコロされたヒトは舞台の上で逆でんぐり返しをして床に足をたたきつける。意味不明。

芝居の初めに演出家のヒトからの親切な解説があって、現代人の感情と行動がずれていて、ソレの本来の姿を表現した、とのこと。趣旨は理解できたが、、尾ひれ、というか、ムダな要素が多すぎたような、、好き嫌いをいくら言っても仕方ないが。

2010.9.11 アサヒ・アートスクエアにて。

『The Tillman Story』

2010-09-09 01:48:51 | 映画
アメリカで最近公開されてマイナーながら話題になっている映画がハノイの路地裏の映画館で見れる。情報化社会における世界のフラット化というのかな。その一方でアフガニスタンの山岳地帯で起きていることはその場にいるヒト以外はだれも知らないから、誰かの都合のいいように話がでっちあげられる。そしてそのウソの話がネットに乗って世界中でものがたりが共有される。それはあくまでもモノガタリ、ウソのつくり話かもしれないという映画。

映画といってもドキュメンタリーで、最近アメリカで主流になっている、アカデミー賞まで獲ったイルカ漁映画に代表される、善悪を初めから決めつけた独善的軽薄ドキュメンタリーとは違う。だから今年のサンダンス映画祭にノミネートされてウケた割には受賞に至らなかった。
主人公はアメリカンフットボールのスター選手、Pat Tillman。選手として最盛期を迎えていたときに9.11のテロを見て米軍のアフガニスタン侵攻に志願する。それで山の中で銃で撃たれて死ぬ。ソコで一体何が起きたのか、ソレを明らかにすることが作者の意図するところだが、事実を知っているニンゲンが口を割らなければ真実は絶対にオモテに出ないというのが結論で、二つの立場がやや誇張されて光を当てられながら示される。

ひとつはアメリカンヒーローってやつ。愛国心をかき立てるためにヒーローとして祀り上げて自己陶酔して他国への侵略を正当化させるヒト達の立場。勇敢にも敵にコロされたというTillmanの死は世界中のメディアを通じて伝えられ、追悼試合ではチアリーダーたちも遺族の前で足をおっぴろげて特別な追悼ダンスを披露する。ファントム戦闘機の編隊が競技場の上を飛びブッシュの演説が大画面に映し出される。まさにお祭り。見ず知らずの他人にジブンの息子であり夫であり兄である家族がヒーロー呼ばわりされて、そういうことに家族は疑問を持ち始める。

そこでその死について調査した軍のレポートを詳細に調べた家族は大きな疑問にぶつかる。果たしてホントに敵にコロされたのか、と。レポートの多くは黒く塗られて具体的な情報が特定できないようになっている。でもソレを詳しく読んでいくとTillmanは敵にコロされたのではなく、味方に撃たれたということが分かってくる。friendly fireってコトバ。このへんは英語の字幕なし上映だったので全体の半分も理解できない中で、あとで批評を読んでわかったコト。

ただソレももっと穿って読めば、この侵攻を世界中に向けて正当化しなければならない強大な権力をもったヒト達が一方にいて、もう一方に産まれながらのヒーロー志願の若者がいて、その若者はまたアメリカンフットボールという国技のスターでもあり、まさに大ヒット間違いなしの舞台と演出家と役者と観客がそろった状況で、じゃあ本当のところはこういうことなんじゃないか、と、ソレを決めつけるわけではなく、父親が国防チョーカンに投げつけたコトバを借りながら一つの見方としてホノメかして映画は終わる。エンディングの音楽はUSA、USAを連呼するワリと軽いモノでソレも作者のひとつの主張に聞こえる。

ま、ニッポンで公開されるかどうかはわからないが、大雨の中をわざわざ見に行ったカイはあった。
監督はAmir Bar-Lev。原題は “I'm Pat_______ Tillman”。Tillmanの最後のコトバとして軍のレポートに書いてあったもの。_______の部分は放送キンシ用語。

Raffles Hotel @Phnom Penh

2010-09-04 10:44:25 | 旅行


ラッフルズというのはブランドに疎いワタシでもシンガポールの有名なホテルだということは知っていたが、カンボジアにはココと、アンコールワットに近いシュム・リアップにあって、シンガポールの本家は1泊、7~800USDくらいするのがコッチでは100USD台で泊まれる。だから得したとか、そういうことではなく、やっぱりショーバイ柄、インターナショナルグレードのホテルに泊まってみたかったワケです。

ココのウリは豊かな緑。巨木が敷地内に何本も立っている。部屋の窓には、常にロックしておくよう注意書きがあり、どうしてかというと猿が部屋に入るからだと。
泊まったのはプールに面した旧館の3階。木の葉越しに水面がわずかに見える。昼ごろに必ずスコールがあって、必要最小限の布切れを身に付けたオーベー系のおネーさんがたが一斉にプールサイドから消える。

それにしてもポルポト時代と言えばワタシが高校を出て駿河台の特殊な空間に閉じこもっていた頃。つい何十年か前。プノンペンの住民は強制的に農村に送られたり、特に不満を示したというわけでもなく、ただ空気を吸っていたくらいの理由で捕まえられて木にぶら下げられて石を投げつけられて虐殺された。で、町は廃墟になって、コノ濃密に樹木が繁る中庭もゴミ捨て場のようになっていた、のか? 
町を見るとよくまあココまで復興したと思いマスよ。古い建物はメインストリートからはキレイさっぱりなくなっているが、やっぱり樹木まではその時代にすべて切り倒されたわけではないようで、舗石をめくりあがらせる根っこが時間の連続性を確かに感じさせてくれる。

ベトナム建国記念日

2010-09-03 08:36:22 | ベトナム
きのうはベトナムの独立記念日。独立したのは1945年だからニッポンの占領から解放されて独立国家になったというコト。

町には国旗があふれ、ヒト気のない裏通りはこんな感じ。シュールでいい光景だったので思わず写した。

でもってきょうはホー・チ・ミンさんの亡くなった日、かというと、モノの本によれば亡くなったのは1969年の9月2日だから亡くなった日の翌日を慰霊の日としている。休日ではないが官庁は休みらしく、ベトナムでは珍しい大型連休。もう年内、祝日なしだから。

とはいえハノイは来月10月10日が建都1000年祭でたぶん休みになるんじゃないかという予測。

トゥクトゥクとか、中華とか、

2010-09-02 21:12:16 | 旅行


プノンペンではタクシーはまだ数が少なく、基本的に電話で呼んで来てもらうシステム。街中を流している車はまったくない。一番多いのはベトナムと同じバイクタクシーでバイクの荷台にしがみついて移動する。ハノイほど交通が無秩序ではないのでバイクタクシーでもまったく問題ないのだが、トゥクトゥクというバイクの荷台に座席を縛り付けて引っ張るモノのほうが乗り心地がよさそうだったのでもっぱらコレで移動した。
ホテルの玄関を出ると門の外に何台かが待っていてコッチに寄って来るのでヒトのよさそうな運ちゃんを選んでアンタ、みたいにして決める。で、行き先を言って値段交渉、ってほど、交渉はしなかった。そんなにふっかけてはこない。2,3キロ離れたレストランに行って、食べてる間待っていて、ホテルに戻って1時間で4~5ドルくらい。別に待ってもらわなくてもいいのだが、お願いだから待たせてくれ、みたいに言うので、じゃ、待ってて、みたいになる。

プノンペンの町は内戦時代に相当破壊されたようでコロニアル様式の建物はほとんど残っていない。見たのはジブンが泊まったホテルくらい。超高層ビルもいくつか建設中で中国風のヘンテコなのが多い。中華料理屋もハノイと段違いに多い。中国がなんでこんなに入っているのか。
歴史をしっかり読んだわけではないのでこの辺がよくわからない。たしかポルポト政権を支援したのは中国で、それを追い出したのがベトナム戦争後のベトナムで、結果的には中国とベトナムの後ろにいたソ連との戦いがカンボジア内戦の実態だったようなのだが、、ポルポト派はあんな大虐殺を繰り返してとんでもないと思われてるかというとそうでもないのかどうかわからないが、ベトナムの侵攻に反対する西側がシアヌーク派と一緒になってベトナムに対抗したから、敵の敵は味方、みたいなことでポルポト派とシアヌーク派は味方同士だったのか、みたいな、、戦争とは実際複雑なモノなのだ。やられたからやり返すという、ブッシュのアメリカのような単純な戦争とは大違い。

韓国もケッコウ出ていた。泊まっていたホテルで月曜の朝に韓国企業のセミナーかなんかがあってスーツ姿で大勢歩きまわっていた。滞在者以外立ち入り禁止のプールサイドにまで入ってきてケータイ電話ででかい声を張り上げる。ずうずうしさ、というか、マナーの悪さは相変わらず世界一だ。
それにしてもニッポンはバブル崩壊後の失われた10年だか20年だかで大幅出遅れもいいところ。ベトナムでもおんなじ。みんながカネもうけの話をしているところで援助のカネをばらまくことしか考えていない。たいして喜ばれていないとも知らずに。
今、アジアの中心はアキラカにニッポンではない。中国とシンガポールに二つの中心があって、インド、韓国、台湾、タイ、マレーシア、インドネシアあたりと同列にニッポンがある。実際、イキオイが違いすぎる。多くのニッポン人はそんなこと、夢にも思っていないだろうけど。

トンレサップ川とメコン川 @FCC, Phnom Penh

2010-09-01 19:43:43 | 旅行


プノンペン旅行 その1
ハノイからの飛行機はダイレクトにプノンペンに飛ぶのかと思っていたら、空港のチェックインカウンターでもらった搭乗券は2枚。1枚目にはビエンチャン行きと書いてあったので何かの間違いかと思って係のキレイなオネーさんに聞いたら、コレは各駅停車だと。ハノイからビエンチャンに行って、そのあとプノンペンに行って、最後はホーチミンシティまで行くのだと、居眠りして乗り過ごさないようにと注意された。
で、最初の災難はビエンチャン空港で、15分の待ち時間が3時間に延びた。飛行機の調子が悪いと。どこがどう悪いのか説明しないから不安がツノル。直ったから乗っていいよと言われた時は若干タメらったが、墜落するなら海じゃなくて陸地がいいと前から思っていたのでスナオに乗りマシタ。

ま、墜落なんてメッタにないこと。プノンペン空港はできたばかりで、おそらくニッポンの援助は入っていないと思われ、ホーチミンの国際線やビエンチャン空港のようなニッポン絡みの空港独特の安っぽいつくりではなかった。インターネットでとったe-visaですんなり入国手続きも完了してタクシーでホテルへ。その運ちゃんがやたらしつこくてそれが2つ目の災難。プノンペンで最高級のホテルを予約してあるというのにアソコは高いからコッチがいいと別のホテルを進める。たいして高くないよ、とカネ持ちぶって言ってたら今度は明日一日このタクシーで市内観光しろとうるさい。このへんはインド的だ。まあ観光するならそれでもいいんだが、あんまりその気もないので断るとヘンなニッポン人だと呆れられた。

で、基本的に名所旧跡巡りはしなくてまずは川沿いのキモチのいいところでビールでも飲むかと思って行ったのがココ、Foreign Correspondents Club of Cambodia。カンボジア内戦時代、外国人特派員のクラブのような場所になっていたところでいまは壁いっぱいのアーティスティックな写真とパツ金のオネーさんのむき出しの背中を見ながらillyのコーヒーが飲めるカフェになっている。写真はその窓際の席から見たトンレサップ川がメコン川に合流するところ。ちょうど右端に見えるのはメコン川。
メコン川を見るのはコレが2度目で、1度目は去年の3月頃にラオスとタイの国境付近で橋を渡った瞬間にチラッと見ただけ。奥多摩の渓谷のようだった。ところが今回のはまさに泥の大河。で、メコン川って世界5大文明発祥の地だったっけ。中国とインドとエジプトとパキスタンとインドシナ半島??

ま、それはそれとして川べりはずいぶんきれいに整備されて立ち並ぶ建物も南仏の海岸のよう。青空に万国旗がはためいて、ビールを一杯飲み終わった頃にワタシのタマシイが遅れてこの地に着いた。いつもカラダとタマシイは少しずつずれて移動する。この時は割と早く着いた。
ビール飲んで酔っ払って歩きながら、途中のホテルでトイレに入ったついでに晩ご飯食べてジブンのホテルに帰った。そのホテルは1929年のオープンでワタシの部屋の棟は違うが斜め向かいにはジャクリーヌ・ケネディさんの名前の付いたスイートルームがあったり、そのまた並びにはサマセット・モームやアンドレ・マルローの部屋がある。ワリと名前の知ってる人ばっかり。
でもってさっそくお絵かきでもしようと思って便箋を探しても部屋にない。係の人を呼んでレターペーパーって言っても通じなくて、まずはトイレットペーパーを3巻きくらい持ってきたかと思ったら、そうじゃなくてぇー、みたいにして、こういう四角いのぉ、っていったら、今度は昔のニッポンの便所っ紙みたいなのを持ってきて、それじゃお絵かきじゃなくて□カキじゃん、とか言っても通じず、3回目にやっと持ってきた。

ま、そんなこんなでとりとめもなく話は続く。