老後の練習

しのび寄るコドクな老後。オヂサンのひとり遊び。

『闇の子供たち』

2008-09-30 23:06:41 | 映画
週末をやや忙しく過ごしてまた1週間。今週は夜からの出張が2回もあって、一体誰のためにそんな効率的な生き方をしようというのか。それで今、新幹線の中で、ケータイで書いていたりして。何とも効率的。
で、コレは先週の火曜日の祭日に見た映画で、もともとワタシの趣味じゃなかったこともあるが、かなり後あじが悪くて、なかなか書いておく気にならなかったのだが、、こうして時間を効率的に使おうという気持ちの中で書き始めたのはいいが、もう指が疲れてきた。

話のほうはタイの子どもの人身バイバイに幼児趣味がからんできて、その上にまた臓器バイバイまでもが乗っかって、そういう悪を暴くニッポン人新聞記者が最後に正体暴かれて、その記者にバカ女とまで呼ばれたNGOのオジョーちゃんが結局は正義だった、みたいな。ホントにそのオジョーちゃん、どうしようもないバカ女ぶりで、NGOなんてしょせん自分探しか、って新聞記者のセリフが痛快に聞こえたくらい。

主演は新聞記者が江口洋介、それにアニキぃ、みたいにつき従う世の中を直視できないダメなカメラマンに妻夫木聡、嘘っぽいNGOのオジョーちゃんが宮崎あおい。こんな重いテーマに場違いな美男美女?のキャスティングゥ~、ってな感じで、リアリティーのないさわやか青春映画みたいな雰囲気。
その一方で幼児趣味のオッサンがみんな白ブタみたいな欧米人だったり、タイの子供からジブンの子どもに生体心臓移植!!を受けさせるニッポン人の夫婦が、夫が商社マンでツマが資産家の娘でジブンのことしか考えていないバカ夫婦だったり、現代社会の病理ともいうべき状況が現代人の人格の多重性から生み出されているという実態からはほど遠い表面的な描写に終わっていて、なんとも薄っぺらい。かと思いきや最後に正義の味方の新聞記者だけに暗い心の闇を覆いかぶせてみても、ちょっと唐突過ぎた。

わざとわかりにくく書いたが、映画がわかりやす過ぎることへの不満。
たぶん映画よりおもしろいであろう原作は梁石日、監督が阪本順治。2008年日本映画。
2008.9.23、109シネマズ川崎にて。

ケータイで書いて投稿ボタンを押すと文章が1/3くらい消えることがわかってまた一歩進歩した。

『偶然の音楽』

2008-09-28 22:59:27 | 演劇
今年の秋は芝居をたくさん見る。いつ死んでもいい、ってくらいに、っていうのは冗談?だが、その第1弾がコレ。白井晃サンの演出ということで見に行ったのだが、客席は95%くらいが若い女性で、、誰が目当てなのかはわからないが。
話のほうはやや教訓的な不条理劇、とでもいうか、見ながらワタシは安部公房の「砂の女」を思い出していた。

あっちのほうは男が休暇を取って砂丘のある町に昆虫採集に出かけて、砂の中に埋もれるようにして生きている人たちの集落に迷い込む。そこから出ようとすると女の家に連れて行かれ、村の人たちが出られないようにして、、自分が閉じ込められたことに気付く。村の人たちは男が女と合体して子どもをつくることを期待しているだけなんだが、男のほうは拉致されたくらいに思い込む。そりゃ当然といえば当然。だが、毎日家の中に吹き込んでくる砂をかき出す作業をしているうちに女が病気になって、村の人たちがあたふたしているうちにいつでも逃げられる状況になる。そういう状況になって、男はもういつでも逃げられるという気持ちの中であえて逃げようとしない。逆に砂の中での生活を楽しもうとする。人間が変わっていく、そういう生き物だということを描いた傑作。

で、こっちのほうは宝くじかなんかで大金持ちになった男が回りの人たちから見放されて孤独になってあるときばくち打ちの若者と出会う。で、その男が大金持ち相手にポーカーやるのに自分のカネを使う。結局、大負けして一文無しになって、その借金を返すのに、その大金持ちから自分の邸宅の庭に石を積み上げて壁を作る仕事を与えられる。若い男のほうはウンザリしながらその仕事をしているが、男のほうはやがてその仕事をやり遂げることに意味を見出す。で、とうとうその仕事をやり遂げてもう借金もなくなっていつでも出て行けるという状況になって、もう自分の行き場がないことに気付いて自ら死を選ぶ。
生きる目的って何?、みたいな話。白井さんの言葉では「存在の真理」。

話の進行につれて自分の手で積み上げていく壁がだんだん高くなって、やや象徴的過ぎる感じもしたが、わかりやすいことが否定的でない世界ではこういう形もあるだろうと思った。
主演は仲村トオルサン。この人目当て?。若い男役は田中圭サン。かなりイッポン調子でもうちょっとって感じ。悪くはなかったが。この前新コクリツで見た初音映莉子サンも出ていて、なかなか艶っぽかった。
舞台の上を人が前後左右に動き回る。直角に。死人の世界で霊魂がうごめいている感じに。おもしろかったが、全体に平たい感じがした。

2008.9.26 世田谷パブリックシアターにて。


『フリータイム』 

2008-09-28 08:48:50 | 演劇
昨日は朝からわが家の競走馬のレースを見に三浦半島のほうまで行って、そこそこ走ったのを見届けて昼には横浜に戻った。今年の横浜トリエンナーレのワタシとしてはメダマである、コレを見るため。
昨日と今日、それぞれ2回ずつ公演があって、トリエンナーレの入場券で見れる。って、だからといって安いからラッキー、とかそういうことじゃなくて、この演劇、っていうか、パフォーマンス、っていうか、まあそういうジャンル分けみたいなのはどうでもいいことだけど、、コレを見ないで一体、今何が語れるか、くらいの、っていうか、別に語らなくてもいいんですけど、まあ、それくらいスゴイものだという予感があって、って、それはいろんなメディアが報じるところのものを読んだりして、たとえば大江健三郎サンが六本木まで見に行ったとか、ヨーロッパのゲイジュツ祭みたいなのにも招待されたとか、まあ、そういうのを読んだりして、ワタシなりにこれは乗り遅れちゃ遺憾、いや、いかん、みたいな気分になって、整理券配布の1時間以上も前に並んで、ツマと6番目と7番目の整理券もらって開演までの2時間をソーセージにビールなんか飲んで過ごしました。。って、だんだんこの芝居のセリフ風の書き方になってしまったりして。

内容はくどくど書いても意味がないので、戯曲も新潮の6月号に発表されているし、全体として、俳優というか、パフォーマーというか、そういう出演者のひとたちの不自然で無理のある体の動きとか姿勢とか、ファミレスの店内という設定の、椅子とテーブルが床から少しだけアタマが出てる状態のなかを、ひとがテーブルの上を歩き回ったりすることとか、ときどきステージの端に置いたペットボトルの水とかお茶とか、それは出演者がひとりひとり自分のを置いてるのですが、それを飲んだかと思ったら舞台の裏に消えていったりとか、あと、緑の四角いモノに足を突っ込んで歩きにくそうに歩いたりとか、たまに特定の人だけがマイクで喋ったりとか、まあ要するに全体として、それぞれの人の内面で起こっている波立つような感情の動きを視覚化しながら、出勤前に30分間、ファミレスで1杯160円のコーヒーを飲みながら、昨日、自分に起きたことをノートに書くといいながら、実際はただぐるぐる丸を書いているだけの若い女と、そこに偶然居合わせただけの他人とのあいだに薄い感情の行き来があって、それも別に生きていくうえで必要とかってことじゃなくて、、ってわざとこんな風に書いているんですけど、ひととひとの関係っていうか、かなり低い温度でいつでも、どこにでも起きている人間関係を、なにかひとつひとつ分解するように描いて、それが何でこんなにおもしろいのか、よくわからないけど。
解釈が無意味だというのは確か。

赤レンガ倉庫の1号館2階でもテレビで見れる。

後期高齢者医療制度

2008-09-23 09:11:26 | 風景
コイズミの頃から恒例となったジミン党の大根役者による茶番劇が終わって、いよいよジミン党政権そのものも終わりかという今日この頃。そのどさくさで後期高齢者医療制度までが廃止されかねない状況にはひとこと言っておかなきゃって気になってしまった。
そもそもコノ後期高齢者医療制度ほど十分に説明されずにギロンされているものも珍しい。コレは頭脳明晰な官僚が作ったキワメテうまい仕組みであって、一言で言えば、老人が自宅で死ぬための制度、やわらかく言えば、家族が年寄りを家で看取るための制度なのだ。
でもって厚生労働省のサイトをみてもそういういいことは書いてなくて、ただただ問題はない、みたいなことしか言っていない。国民の知能程度を低く見積もってキチンと説明しないところに問題があるわけだが、優秀な官僚から見ればコクミンはみんなバカに見えるのだろうからソレも仕方がない。

そこでその辺の本当の目的をわかりやすく説明すると、現在の国民医療費はとんでもなく増えてしまって、今や消費税を10何パーセントまで上げないとお金が足りなくなってきている。それはこれからの超高齢化を考えるとひどくなる一方で、働く世代の負担だけでは耐えていけなくなるのは明らか。
そこで高齢者の医療費を減らすためにとりあえず無駄な入院、つまり特に治療の必要もないのに家で面倒見れないから入院させとけ、みたいなのをなくそうというわけで基本的に75歳以上のひとには地域の診療所の医師が「かかりつけ医(高齢者担当医)」になって、年間を通していろんな検査をセットにして行って、で、時には訪問看護を利用して病気になっても家である程度はケアできるようにする。で、そういう生活を何年かして、最終的には家で家族に囲まれて死んでいくという、そういう道筋を描いている。
そのためのお金の出どころをはっきりさせるために保険制度も別にして、そういう制度にかかる費用の半分は国が、ということは税金で面倒見て、残りの4/5は働く世代の保険料から払って、で、残りの1/5、つまり全体の1/10だけをサービスを受ける75歳以上の高齢者が払うというもの。

いろんな状況で保険料が増えたり減ったりするのはどうしてもあることで、部分だけを取り上げて議論しても仕方がない。問題は将来のことを考えて、そのために今できることを確実に実行することだ。
そもそもコレまでの医療はあまりに無駄が多かった。風邪引いただけで大病院の誰々センセに見てもらわないと死んでしまうとワガママ言ったり、茶飲み話するために病院に通うのが日課になっていたり。そういうことが大病院の長蛇の列や、病院勤務医の疲弊や、救急車が右往左往したりすることにつながっている。
高齢者を地域の診療所が面倒を見る。診療所の側は一人の高齢者のかかりつけ医になる毎に保険点数がもらえて安定的な収入になる。それになにより今は圧倒的に大部分の人が病院で死んでいるが、管につながれて人工的に生かされて骨と皮だけになって最後を迎えるのではなく、ジブンの家で自然に死にたいと思っているひとは多い。あるいはどこかの駅の待合室とかで、、。

そんなわけで、後期高齢者医療制度がうまく機能すればこんなにいいことはないと思うのだが、マスコミに煽られたコクミンに媚びるためにアソウ太郎氏は見直しを打ち出してしまった。小沢さんに代わるとしてもこの辺はもう一度じっくり考えてもらいたいところだが。。
保険料を年金から天引きするとか、事前の宣伝が不十分だったとか、後期高齢者って言い方も、前期、後期ときたらもう後がないわけで、だからってあわてて長寿医療なんて言ったってヴォキャブラリーがなさ過ぎる。人間のココロを読めないトー大卒の官僚がやったことだから失敗も多いがそれらはみんな事務的なことばかり。確かに年金から天引きするのではなく、払わない人にはサービスを提供しないという大原則を貫くべきだったのだ。

まあそんなこんなでワタシは後期高齢者医療制度に大賛成というだけのはなし。


『百寺巡礼 第一巻 奈良』 五木寛之

2008-09-21 17:42:55 | 文学
金曜の夜、台風で飛行機が遅れて、時間つぶしで入った空港の本屋でこんなジジ臭い本、買ってしまった。ジジぃがジジ臭い本買うのは当然といえば当然だが、ジブンの頭の中はまだせいぜい30代半ばなので、レジに差し出すときに違和感があった。
まあ、そんなことはどうでもいいが、中を開いたら前書きにインドのはなしがあって、同じことが翌日の朝刊の別の単行本の広告にも載っていて、五木寛之はこれで今売ってるのかと思ったわけで。

それは、インドでは人間の一生を4つに分けて、0~25歳までを学生(がくしょう)期、25~50歳を家住(かじゅう)期、50~75歳を林住(りんじゅう)期、75~100歳を遊行(ゆぎょう)期と呼んでいたというはなし。それはつまり、勉強して、家庭を築いて、林の中で人生を振り返って、そして最後に家を離れて放浪する、そういうふうに人間は生きていくものだというインド人のものの考え方で、五木サンの場合はこれまでこの4つの時期をごちゃ混ぜにして生きてきたが、もうそろそろ遊行期らしく、好きなようにいろんなところを旅して、そして最後はどこかの駅の待合室あたりで静かに死にたい、と思っているかはわからないが、なるほどというか、まあ、ワタシの場合はいよいよ臨終期、いや、林住期だから、林の中に入ってみようかという気分になってきた。

本のほうは歴史の話はキチンと押さえておいて、あとは五木サンが個人的にはこんな風に感じました、というようなやさしい内容で、テレビでやってたときの中里雅子アナのナレーションを頭の中に流しながら一気に読める。
とはいっても台風の雲に果敢に突っ込んでいった飛行機は上下左右にハゲしく揺れて、さかんにCAが座席ポケットの袋を使ってくださいってアナウスするもんだから、あと少しのところでギブアップするところまで追い詰められた。林住期なんだから、こんな苦しみはできれば味わわずに生きてイキたい、もっと静かな生活。。。

『猛牛』 足土嘉奈子

2008-09-17 00:56:44 | アート
ゲイジュツの秋。街にアートがあふれている、というわけで、コレはおととい見に行ったCow Parade 東京・丸の内 2008というイベントでの作品。丸の内でやるのは今年で3回目ですっかり恒例の行事になってしまった。というのも、そもそも牛が町なかで寝そべっていたり行列作っていたりする、その場違いな雰囲気のオドロキがコレのおもしろさだったのだが、恒例になってしまうとそういう部分は半減してしまっている。

となると今度は話題性で勝負、というわけで、今年一番の話題は中川翔子の2頭出しだ。2頭出し、というのは競馬用語でGⅠみたいな大きなレースに同じ厩舎から2頭出走させることで、それはそのレースにどうしても勝ちたいという、調教師の意欲の現われとして、馬券を買う側は2頭出しがあったらそれを買うのはジョーシキみたいに言われている。
で、今年は中川翔子サマがその2頭出しをやっておられて、勝負に出たか、って感じなのだ。まあそれなりに丁寧に作ってはいるが、、ワタシとしては興味の対象外。

ということで、そういう話題づくりの芸能ジンと同じ土俵に上がらされた作家の皆さんは気の毒としか言いようがない。東京フォーラムの真ん中の皇居側のエスカレーターを上がったところに立ちはだかるこの写真の猛牛なんか、背中の唐獅子牡丹がココロなしか泣いているように見えたし。

『Kiss』 ティノ・セーガル

2008-09-15 09:47:31 | アート
昨日は歩いても行ける三渓園横浜トリエンナーレの会場になっているのでひょっくら行ってきた。三連休のナカ日でトリエンナーレ目当てでない観光客も多く、ましてや夜には恒例の観月会が予定されていて、月観て、雅楽聴いて、みたいな人が多い中、この「Kiss」はビミョーに羞恥心を刺激して、一緒に行ったツマなどは興奮状態。

三渓園の中の大きな住宅の大広間でたぶんニッポン人の女の子と、たぶんヨーロッパ系のオトコが延々と抱き合ってチュッチュし続ける。次に何か起こるだろうと期待しながらワレワレだけが座敷に座り込んで30分は見続けたか。
イッパンの、古い木造民家の見学者として入ってきたヒトビトは、座敷でモンゼツ状態の男女を目にして、見てはいけないものを見てしまった、みたいな、子どもには見せられない、みたいな感じで早々に立ち去っていく。逆にワレワレのほうが現代アートを知ったかぶりしてカンショウしているヘンテコなニッポン人、みたいにみえてきて、それこそがこの作家の意図だったりして。
結局、期待していたような展開にはならず、プログラムによればこれを会期中続けるのはケッコウつらいことのようにも思えたが、平日の、ほかに見物人が誰もいないようなときに、1対1で見るのも一興ではないかと思ったシダイ。

で、今回の全体のテーマは「タイムクレヴァス」で、簡単には言えないであろうところを簡単に言えば時間の裂け目みたいなところから覗いて見える別の世界みたいなものをそれぞれの作家が表現している。三渓園ではほかに細かな霧を林の中にたちこめさせる中谷芙二子の作品や、古いお堂の中で20分間、音と光が静かに流れていくだけのホルヘ・マキ、エドガルド・ルドニツキーの『薄明』がおもしろい。

とはいえ、現代アートってわかるとかわからないとかいうことじゃなく、ソレを見たり体験したりして自分の中に起きる微妙な感情の揺れ、というか、神経細胞の膨張収縮みたいなことを、ああいまどうなっちゃったんだろう、みたいな感じで、福田首相みたいに客観的にジブンを眺めたりすることの面白さみたいなことではないかと。。恥ずかしさで顔をそむけたりするのも、それはそれで日常生活から浮き上がる瞬間であったリするわけなのだ。


カタルーニャ地方の米料理

2008-09-06 21:41:02 | 料理
今週は月曜の夜から福岡に行って火曜日一日ゾンビ相手に奮闘して帰ってきた、と思ったら、次の仕事を言い渡されて金曜日にその関係で奈良に日帰り。時間があれば薬師寺とか唐招提寺とか見たかったのに、つまらぬ人間と一緒だったのでソレもオアズケ。残念だっ。

奈良へは京都から近鉄特急で行った。ほとんど20年ぶりの駅前はチンケな店がいっぱいできて、古きよき奈良にもこれでさよナラ、みたいな感じ。それでも車で1分走ったら何もない奈良がすぐに見えてきて、京都ほど汚れていないのは明らか。何しろあっちはどこが世界胃酸、いや遺産、みたいなキタナサで、それでも住んでる人間は変に気取ってて見ているこっちが気恥ずかしくなるくらい。ゴミ溜めのなかに古い寺が残っている感じで、一方の奈良は遠くから見た薬師寺の風景なんか、1300年前の風景そのまま。うまいこといけばこれから通うことになる。

そんなわけでほとんど折れかかっているもののなんとか生き延びている。とりあえずコレは見たいし。
写真はずいぶん前に作った米の料理。骨付きの豚肉と鶏肉、魚介で米に味を染みわたらせる。玉ねぎ、赤ピーマンを一緒に煮込んでニンニク、パセリ、サフランで味をととのえる。200年前からカタルーニャの人々が、少ない肉を補うために米でカサを増して食べたという料理。アントニ・ガウディ・イ・コルネもサグラダファミリアの現場から帰ってこういうのを食べていたんだろう、か。