老後の練習

しのび寄るコドクな老後。オヂサンのひとり遊び。

『夜と陽炎 耳の物語**』 開高健

2007-07-28 08:22:10 | 文学
きのうは朝、成田の近くまで行って打ち合わせしてから、首都圏を大回りする武蔵野線に乗って東京の西の町へ。途中新座あたりから一人で乗ってきた中学生が、いきなりコンビニの餃子弁当を車内で食べ始め、クサイ匂いが車内にたちこめた。サイタマ、、のどかといえばのどかだ。
午後の打ち合わせが終わってからは、八王子まで行って各駅停車で横浜へ。結局6時間以上電車。お陰でコレを一気に読み切った。

作者の数少ない小説のひとつと思って買ったのだが、内容は長編自伝。焼け跡に立ち尽くした頃のことから、サラリーマンになってサントリーの宣伝誌作りながら小説書いて当たって、編集者に追いまくられて、その後フランスやらベトナムやらに出かけていって、戦争について書いてるうちに鬱病になって、とうとうアラスカから南米まで釣りしながら旅行した頃までを、「私」という主語抜きで書き上げたもの。いい気なもんだとは思わせない凄まじい生き方を美しい文章で語っていて、自爆テロの炸裂のような言葉の強さを感じた。

開高健というひとは結局のところものすごい人間嫌いで、現実社会のドロドロしたものから逃げ出すために酒を飲み、ベトナム辺りをさまよい、最後にはアラスカで魚を釣って生きていた。それでも喰えていたのはやはりその強烈な文章のちからによるもので、中国人が文字の民族というとするならニッポン人は言葉の民族だと言いたいくらいの、ニッポン代表的な表現者だったんだろうと思わせる。
だから、こういう言葉を自由に使えたらと思うようなコトバが文中にあふれていて、例えば、その技は敦厚(とんこう)の一語である、とか、、光耀(こうよう)は力みなぎり、とか、、安逸な懈怠(けだい)を分泌し、とか、、晩秋の澄明(ちょうめい)な弱陽のなかで、とか、、、御叱呼に雲古、とか、、。最後のにはあえて振り仮名を省略するが、文字を言葉に変えていく、そこのところに独自の美を込めていたかのようだ。

文中に2度、ゲーテの同じ言葉が引用されている。
・・(ゲーテは)人を火にとびこむ蛾にたとえ、死を介してこそ生は十全に味わわれるのだ。それを体得しないかぎり人はいつまでも「地上の夜の悲しい客人」と書いた。・・とあって、そのためにベトナムの奥地に行って、そこでそれを体得して、一旦は精神の死を遂げる。鬱病になっちゃったってこと。
そこからある日家族と焼肉屋に行って、焼肉の煙越しにジブンの娘の頬の肌の輝きを見て、戦争を追っかけることをやめようと思う。戦争を伝えることは、「祖国のために大嘘を平然とつくことを職業とする正直者の唾の飛ばし合い」だってことに気付いたのだ。

まあ、戦争に限らず、カイシャも政治もサッカーニッポン代表も、「祖国」のために平気で嘘をつき合うショウジキ者の集まりだ。抜け出そうとすればみんなで足を引っ張って、何度でも底のほうに落ちていく。抜け出す方法は一つしかないかのようだ。
このところの極度の対人疲労。そのクスリになるのか、はたまたそれを悪化させるだけのものか、この本はワタシにとってはビミョウな内容で、この週末は、月曜からの「戦犯裁判」を前にして、崖っぷちを散歩し続けるしかない。

新潮文庫版 1989年刊

『ザ・ヒットパレード ~ショウと私を愛した夫~』

2007-07-24 08:19:30 | 演劇
ミュージカルってーのはなんかなー、と思っていて、23年くらい前に新宿でキャッツを見て以来、ほとんど見てこなかった。へたな俳優がセリフ喋っていて唐突に歌いだすのは見てられないし、ニッポン人が金髪のカツラかぶったりするのも想像力を麻痺させるようで論外だと思っていた。それは今も同じ考えだが、今年に入って早くも3本目の鈴木聡さんの脚本で、コレはやっぱりココロの底の懐かしいものが大いに刺激されて、見終わっていいキモチになった。

ストーリーは戦後の東京で渡辺プロダクションを作ってニッポンの芸能界を変えた夫婦の話で、この前、フジテレビのドラマで柳葉敏郎サンと常盤貴子チャンがやっていたものと話としては同じ。ミュージカルのほうはネプチューンの原田泰造クンと戸田恵子サマが演じている。原田クンは楽天的でサービス精神にあふれた夫役にうまくはまっていたし、歌も森繁久弥的なヘタウマさ加減でまあまあ。戸田恵子サマは歌が抜群にうまくて、意外に小柄なカラダが舞台の上ではじける感じ。シビレタ。
全編に昭和30年代以降のヒット曲が散りばめられて、タイガースとかピーナッツとか、ワレワレ世代には子守唄のようで、思わずうたごえ喫茶風に頭の中でリフレインしたりして。

鈴木聡さん的な脚本の流れとしては、一人の人間が生きて死んでいく、その短い時間の中で、やっぱり楽しいことを思いっきりやっていくのが一番幸せ、ということが中心にあって、それに昭和30年~40年代のニッポンの高度成長期のドタバタというか、あの頃はまだいろいろ人間的なところがあった、というような過去への郷愁が背景にある。同世代的にはまったく共感しっぱなしなのだが、一緒に見たムスコはどう思ったのか。ケイタイの画面ばっかり覗いていては見えなくなるものがいっぱいあるのだが。

音楽はマツケンサンバの宮川彬良サン、演出は山田和也サンで、RAG FAIRが全体を通して歌っている。ピーナッツ役の瀬戸カトリーヌちゃんと堀内敬子チャンもオヂサンとしては脱力感的にヨカった。

7/23 ル テアトル銀座にて。


『こうちん鍋』@名古屋・錦 鳥銀本店

2007-07-22 19:07:35 | 料理
長かった名古屋出張通勤も、あとひと月ちょっとでオシマイ。4年間で200回は通った。先週金曜の夜には、身もココロもボロボロのワタシを、優しいヒト達が労わってくれた。とりあえず名古屋的なものが食べたいというリクエストに、連れてってくれたのはココ

美人おかみには会えなかったが、おもわずこれが鶏肉か、と洩らしてしまいそうなほどの名古屋コーチンを堪能した。(ちょっと言いすぎ、、)ってゆうか、普段鶏肉って、ケンタッキーなんかも含めてあまり食べないし、肉質、旨味が外国鶏とはまったく違う、っていわれても、、要はブランド、ってことだ。

はじめに出てきたのは刺身。さかな以外の刺身って好きではない。とくに馬刺しは食べられない。お馬さんの顔が眼に浮かんでしまって。新鮮ってことを言いたいわけだろうが、、ひとつの儀式としてやり過ごすしかない。
その後は焼き鳥、煮込みときて、季節はずれではあったがこの店が元祖の「こうちん鍋」でフィニッシュ。八丁味噌のコクのある味噌味が鶏肉にしみ込んで、これはカンドーものの絶品だ。白菜、ミズナ、シメジ、ネギの野菜に、かまぼこ、餅が入って、コーチンの肉と卵を賑やかに囲んでいる。
一人で全部食べられるくらいの鍋だが、オトコ3人で分けて食べた。美しいオヂサン愛。チームワークだ。

こうやって日々が過ぎていく。楽しいことだけ考えてイキテいきたいもんだ。

『花影』 大岡昇平

2007-07-21 13:24:57 | 文学
昨日は名古屋で深夜まで打ち合わせ。世間では夏休みも始まり、観光客で一杯の午前の新幹線で帰ってきた。今日は昼間からワイン飲んで、競馬。自堕落な日々?ストレスからのがれるための自己防御本能だ。どうせいつか、、想像の及ぶ年月の果てに、この世から消えていくわけだから。

「花影(かえい)」は読み残していた一冊。戦後復興期の銀座を舞台に、夜の町で働く女が、年をとって落ちぶれていって、そのなれの果てに、、という話。大岡昇平のフリン女遊び系小説の傑作だ。
主人公の葉子はオトコを次から次にノリ換えて世の中を渡っていく。オトコにはオトコの欲があり、オンナがそこからはみ出たときに欲望は一気にしぼむ。そんなことを繰り返して気付いたときは40過ぎて、その花影を追い求めるオトコもいなくなる。よくある話だ。
所詮、世の中はオトコとオンナ。好きで、裸になって、SEXしてれば満足なんて時間はすぐに過ぎていく。花はそのうちしぼむし、毎日同じご飯じゃ誰だって飽きる。それだけで生きてきた女は、、オトコも同じだが、葉子と同じように世の中から消えていくだけだ。それはそれで良しとしなければ、、社会保険庁の無能とか、アベシンゾーのアホさ加減を批判して、残されたジンセイを生きていくのもツライ。キリがないから。

終盤で葉子が自殺の準備を進める姿が詳細に描かれている。死を目の前にした人間の内面の動きが、自分の体験をもとにリアルに描かれている。戦争で敵の船に突っ込んでいくことを強制されて、無駄な死をとげた若者も、結局のところあの世に引きずっていったのはオンナの肌の柔らかさとぬくもりだけだ。毎日のシゴトも、ストレスの源になっている傲慢な客とのやりとりも、はかないロールプレイングゲームでしかない。
大岡文学はスタンダールの心理描写が背骨にある。その前景に桜の花の風景とかがあって、戦後復興の混乱時に、まさにワタシがこの世に出現した頃に、こういう文学が世の賞賛を受けたと知ることは意味のあることだ。
結局はそういうことかと、、結局はオトコとオンナがくっついて裸になって、犬と同じようにカラダを隅々まで舐めまわして、その結果としてぐちょぐちょになって、それでもって離れていく、、それが人間が何万年も前から繰り返してきたことなのだ。

新潮文庫版、1963年刊。

『石焼きハンバーグ 270g』@横須賀・Stone Burg

2007-07-16 08:16:40 | 料理
台風は過ぎ去った。いつもこうやってジッとしていれば、いつかは過ぎていく。とはいえ、ウチの近所で土砂崩れがあって、避難した人もいたようだが。海の見える高台に住んでいると、そういうこともたまにはある。これもすべて、宇宙と過去からの波動の揺らぎのなせる業だ。

写真は土曜日に暴風雨の中、用事があって出かけていった横須賀で食べたハンバーグ。京急横須賀中央駅に隣接したモアーズの9階にあるお店。千葉と川崎にも商業施設の中にあるようで、広い店内は水兵さんの格好をした自衛隊の若者も混じって賑わっていた。

ハンバーグは牛肉100%。こういう時期だからわざわざ断っているのか、ダンボールは確かに入ってなかった。肉の量で値段が分かれていて基本は180g。炭で焦げ目をつけてから300℃に熱した石板の上に乗せてテーブルに運ばれる。そこでチロルの服を着たピチピチおネエさんが2つに切ってくれて、切れ目を石板の面に向けて、何種類かの中から選んだソースをかけて焼きながら食べる、というわけ。ワタシはダイコンオロシ、ツマはスパイシーなエスニック風?ソースをかけて食べマシタ。

石は熱すると遠赤外線を出すから肉の芯まで焦がさずに火が通る、、という原理は石焼き芋と同じ。付け合わせがトウモロコシとクレソンというのは、ちょっと広々とした石板の上をもてあましたが、牛肉だけのハンバーグのモチモチした食感が最後まで楽しめた。
和食セットを頼むとご飯、味噌汁、漬け物がついてご飯のおかわりは自由だぁ~っ、、というわけで、1回だけおかわりした。

『ポークの焼きカレー』@博多・伽哩本舗

2007-07-15 09:05:32 | 料理
先週の月曜日、天神からホテルのある博多の近くまで歩いた。ちょうど祇園山笠の飾り山がいくつも通りに並び、褌のオニイサン達が歩き回って、華やかな雰囲気。

途中の川端商店街の真ん中で見つけたこのお店は、店内に木彫りの大きな看板を掲げて元祖焼きカレーを謳っている。門司あたりが発祥の地だとかって説もあるが、、食べるほうとしてはうまければどうでもいいのだ。(名古屋の味噌煮込み戦争なんかホントにくだらんよね。。)
発注したのは「ポークの焼きカレー」、870円ナリ。カレーの上に生卵をのせて、オーブンで焼き上げた、ということだろう。表面がこんがり焼けて、中までアツアツ。卵の甘みでまろやかな味だった。

そういえば、この前浅草橋を歩いていたら偶然焼きカレーの店があって、そのときは昼メシ食べた後だったので食べなかったのだが、こうしてみると、その時から焼きカレーを食べる運命にあったのだ。世の中すべてウンメイ。ヒトバシラに導かれている、というわけだ。

今日は台風で朝から雨。横浜港の花火は52年目にして初の中止。福岡は台風は過ぎたのだろうが追い山は無事に終わったのか。それもすべて宇宙と過去からの波動の揺らぎで決まっていることなのだが。

『ボルベール <帰郷>』

2007-07-14 09:32:59 | 映画
3連休前の金曜夜、カイシャの束縛からのがれられないアワレなサラリーマンの群れが雑居ビルの玄関先を占拠している隙間を抜けて、レイトショーの映画館についたのは9時過ぎ。ゆったりした座席に座り込んで、久しぶりに神経が緩んだ。
女性しか出ない映画と聞いていて、最初のシーンから画面に引き込まれた。なにしろ何十人もの女が、その大部分は未亡人が、東風が強く吹いて土埃が舞う中、せっせとラジオ体操のように墓石を磨いているんだから。登場人物が早口のスペイン語でまくしたてる。ダイレクトな映画だ。

ストーリーは単純なようでキワメテ複雑。終盤に主人公の女性が背負った大きな秘密が明らかにされ、すべてが解けていく。父親に犯された女たちの血のつながりの宿命のようなものが土台になっている。
舞台はスペインの田舎の集落と都会の町の両方で、都会から田舎に帰るという帰郷と、娘が母親のもとに帰るという帰郷が重なり合っている。実際のところはもっと深いものがあるのだが、それは見てのお楽しみ、というところ。

父親殺しとか夫殺しとか、陰惨な話の筋とは正反対に、映画としてはカメラアングルのおもしろさや、冒頭のシーンのように情景を作りこんだ絵のように見せる見せ方など、笑ってしまうようなおもしろさにあふれている。例えば主人公のチョウ美人の女が真っ赤な血の色のトマトをまな板の上できざむシーンなど、天井から見下ろして胸のタニマがいい眺めだったり。その女が料理をする場面が全体にちりばめられて、結局は女は乳房と料理で世界を支配している、みたいなふうに思えてきた。それに比べてなんとだらしない男のペニス、、という情けないシーンもある。

スペインのどの辺の話かわからないが、東風がいつも吹いて、風力発電のプロペラが建ち並ぶイメージ。
主演のペネロペ・クルスはこの作品でカンヌの最優秀女優賞をとった。途中で主題歌?を歌い上げるシーンもあり、昔の美空ひばり映画のような趣にもカンペキな輝きを放っていた。タニマやぷりぷりのお尻、、など、だって絵としてわざと強調しているんだから仕方ないのだが、シビレル感じ。
ペドロ・アルモドバル監督は注目作品を連発しているようだが、見たのは初めて。おもしろい。ほかにない、映像作品としての映画になっている。

2006年スペイン映画。川崎TOHOシネマズにて。

福島競馬場

2007-07-10 12:22:25 | 競馬
日曜日、朝起きて急に思い立って福島まで行ってきた。前の週の金、土が出張で、昨日、今日も九州から名古屋に移動している。そういう生活に耐え切れなくなった、というほどではないが、何のために生きているのか、って気になってしまって。・・もっと重症か。。

福島は夏競馬真っ盛りで、とはいえ福島競馬場での開催は最終日となって、芝生に幾筋も馬の通った跡がついていた。七夕の飾りや夏草の匂いが、気持ちの良い休日の雰囲気を振りまいて、崖っぷちのところで精神のバランスを保つことには役立った。
次は新潟か、と、ムスコは時刻表を眺めている。カネの続く限り、こうやって谷底に落ち込むのを耐えていかないと。

『パニック・裸の王様』 開高健

2007-07-08 09:00:36 | 文学
人間が肉体と意識で成り立っていて、意識=精神が失われることは人間にとってひとつの死であることは間違いないので、その意識=精神を残しておくために、こうやって、自己満足と知りながらも文章を書くことはジブンにとって意味のあることだ。200年後のワタシの子孫が、200年前の先祖の意識=精神を読み返すことは、写真以上にリアルにワタシを感じてくれるだろうと。もちろんこういう形式がいつかオシマイになって、別の形式に変換されて、コピーされて、保存されていけばの話だが。

魚釣りと酒飲み以外に印象のなかったこの作家の作品を、死んでから20年近く経って初めて読んで、その精神をまのあたりにした。先日出張先で見たNHKテレビの映像も、作家の精神を断片的に伝えてはいたが、それは制作者によって都合よく編集されたものだったから正確なものではない。こういう人だったのか、と、文章はリアルに作家の人間としてのイメージを喚起してくれる。
だから、半年から1年間、同じ作家を集中的に読むとして、意識が明晰な残り少ない生涯にあと30人読めるかどうかというところで、こういう人間がいたということを、知っておかなければ死ねない人を選んで読んでいかなければならない。やや悲壮的に見えるかもしれないが、50半ばでほとんどボケ状態の上司を見ているとこんな気持ちになるのも仕方ないのだ。

この作品集は、それまでサントリーの宣伝誌の編集をやっていた開高健が、作家としてデビューした頃の作品を集めたもの。(最近、その宣伝誌に関する本が出て、そっちのほうもおもしろそうだ。)
「パニック」は、120年毎に花を咲かせる笹が、開花して実をつけた秋以降、その実を食べて繁殖するネズミの大群を巡って大騒ぎになるという話。それに対応できない役人社会と、その中で一人冷静にそのパニックを眺めている若い研究者を引き合いに出して、ひとつの方向に群れて移動するネズミ=人間社会の中で、群れからはずれては生きていけないことを、その若い研究者が悟るという印象深い場面で終わっている。
「裸の王様」は、かなり想像していた話と違っていたが、児童画教育という偽善者の集まりのような世界で、リッパな思想を持った若き進歩的教育者が、結局はまわりからおだてられて木に登っているサルだったという話。今選挙がらみで話題になっているヤンキーだか、ファンキーだか、ああいう「先生」をイメージして読むとピッタリ。
ほかに「巨人と玩具」は作家自身がかかわっていた広告業界で、終わりのない競争に明け暮れて疲弊していく男たちを描いたもの。最後は死しかない、というあたりがリアルだ。

テレビ番組で開高さんは、小説は社会への告発でなければならなくて、テーマを探すのに相当苦労していたようなことを言っていた。それでも、小説は社会の問題点をえぐり出し、その本質を見極めて、真のワルモノを寓話にのせて告発する、というスタイルを貫いた作家だ。今ならまた、テーマが山のようにあふれているようにも見えるが、、薄っぺらなヤクニンや政治屋のシソウなど書くにも値しないと言うだろうか。

『ほうとう』@大月・濱野屋

2007-07-01 17:52:50 | 料理
ほうとうって言葉は知っていたが、この年になるまで食べたことがなかった。モノの本によれば、武田信玄の頃からあった山梨の郷土料理だそうで、ひとことで言えば、きしめんのような平たい麺を野菜の入った味噌汁で煮込んだモノ。

野菜の中では白菜が中心で、にんじん、だいこん、その他いろいろのほかに、かぼちゃが入っているのがほうとうの特徴。味噌は甘い白味噌で、野菜とともにマイルドな味わい。名古屋の味噌煮込みうどんのような強烈さはない。

濱野屋さんはJRの大月駅前で創業以来100年の老舗。庭の見える薄暗い部屋で食べたが、かなりボリュームがあったのと、昼間からビール飲んだりしたので汁は残した。一応、仕事中だということを、すっかり忘れた。