老後の練習

しのび寄るコドクな老後。オヂサンのひとり遊び。

地味な花屋

2007-12-31 17:35:42 | 散歩
土曜日から休み。とりあえず散歩していつもの花屋に。予約が一杯でタイシタ花は残っていないが、、と言われて、じゃあ、タイシタ花じゃないのでケッコウ、ということで包んでもらった。かなり地味。もし足らなかったら何かほかのお店で買い足して、っていわれたが、コレに合う花はどこにも見つからず。わが家の塗り壁の色には合っている。

昨日はムスコと朝、床屋に行ってその後は大井までお馬さんを見に行った。寒い上に2時過ぎに大雨が降って、超重馬場。泥水跳ね上げて、ホントにお馬さんはご苦労なことだ。熱いラーメンが馬勝った。いや馬は負けたがウマカッタ。

で、今日は横浜で買い物して、帰りは元町でワインなんぞを買って歩いて帰ってきた。大晦日だというのにデパートの地下は戦場のような混雑。ホントの戦場、行ったことないが。おばはんが買い物かご抱えて突進してくる。魚売り場ではマグロの解体ショーなんかやって混雑に拍車をかけている。タカシマヤの名物、バウムクーヘン売り場には50人以上の行列。年輪を重ねる感じで、横浜の正月にバウムクーヘンは欠かせないのだ。

すっかり疲れて帰ってきて、今年はコレでオシマイ。これから紅白見て、明日は国立に決勝見に行って、あさっては箱根駅伝を見物。毎年同じことの繰り返し。

『迷子の警察音楽隊』

2007-12-24 08:32:04 | 映画
タイトルはホンワカ調だが、人間は本当に他人を理解できるか、ということをテーマにしたシビアな映画。それもイスラエルで迷子になったエジプト人という超現実的存在を介して。見方を間違えると単なるホンワカ映画で終わってしまう。実際にホンワカさせられる内容だけに。

われわれニッポン人は、人類はみなキョーダイで、話せば必ず理解しあえると安易に考えていて、歴史を勝手に書き変えたりとか、遠くの海まで行って鯨獲ったりとかしているが、そもそも人間同士は理解できないことは明らか。それでも同じことを何度も繰り返して、火種を絶やさないようにしている。
だから、生死にかかわる問題として、本当に理解し合わなければという状況に直面している人たちの話としてコレを見るのはなかなか難しいのだが、その辺をなんとなく深い部分でわかるようにうまく描いているのが、スグレたところなんだろう。

主人公のカタブツ男はエジプトのアレキサンドリア警察音楽隊長で、、といっても7、8人の民族音楽をやる楽隊のボスなんだが、家族同士で理解し合えなかったことでココロに深い傷を負っている。それでも国の代表、みたいな気持ちをガンコに持っていて隊員からは煙たがられている。
で、イスラエルに演奏旅行に来て、空港でバスを乗り間違えて、降ろされたさびしい町で迷子になる。そこでなんかオンナオンナした美人に親切にされて、お互いに少しだけ理解し合えたような雰囲気になって、、オトコとオンナが理解し合えばすることは万国共通なんだが、不器用なカタブツ男は、、、という、よくあるダメ男映画のようにも展開するが、話はエジプトとイスラエルが理解し合えるか、というところから始まっているのでなかなか奥深いかたちで流れていく。

作者は人間同士は、国とか会社とか、家族とかも含めて、そういう何かに属して、その利益とか何かの役割を演じている限りは理解し合えないと思っている。だから戦争したり、家庭崩壊したりするのも仕方ないわけだ。でもそういう殻みたいなものを脱いで、結局、オトコとオンナが裸になれば理解し合えるように、ナマ身の人間同士なら理解し合えるかもしれないと、それを古めかしい楽隊の制服とか、帽子とかにシンボライズしてホンワカした中に描いている。腹がよじれるくらい笑わされる場面もあって。

主演のカタブツ男はイスラエルでは有名なサッソン・カーベイ。誘惑光線ビンビンの美人オンナにはフランスでも活躍しているイスラエル人のロニ・エルカベッツ。
脚本・監督はエラン・コリリン。この作品で東京国際映画祭のグランプリを受賞。カンヌ映画祭でも賞を獲った。

2007年、イスラエル・フランス映画。
12/22、川崎チネチッタにて初日はほぼ満員。

『偏路』 劇団、本谷有希子

2007-12-23 10:17:33 | 演劇
前世紀の遥か昔、ワタシが新入社員の頃、会社の近くに老舗の喫茶店があって、昼休みの食事が終わった頃にその前を通ると、必ず決まったカイシャの人たちがニコニコしながら静かにコーヒーを飲んでいた。部外者を寄せ付けない異様な空気。それでいて、コレは、というカモが見つかると仲間に引きずり込もうとする。ワタシも不覚にも一度呼ばれたことがあったのだが、ひとことで言えば限りなく「いい人」たちの集まりで、お互いの「いい話」を聞くために集まっていることがわかった。
世の中の汚職や姦通や詐欺や絞首刑や下着泥棒やセクハラなどとは無縁のいい人によるいい人のためのいい世界。次からの誘いを断ったら、何かワタシ達が悪いことを言ったのかしらと、それだけで数日間盛り上がる。コッチの気持ちを探るためにお菓子を持ってきたりして。。優しさジゴク、思いやりジゴクの洗礼だったわけだ。
この芝居はそういう優しさジゴクのなかで精神的にコロサレそうになる苦しいオンナの話。

女優を目指して東京に出て行ったものの、夢破れて田舎に帰ってきて家族や親戚に「優しく」迎えられる。その家は優しさの極致とも言える、お遍路さんに無償で奉仕するいい人たちの家。夢をあきらめようとしているのに、もう一度がんばってみたら、みたいに優しく励マス。
そういう人たちの、小さなどうでもいいようなことに喜んで、隣の家から醤油を借りるのが普通のコトのような生活にうんざるする。都会の、いつも防弾チョッキを身に着けているような、絶えず周囲を警戒しながらの生活との落差についていけない。そこでふたつがぶつかり合って、いい人たちの中からもドロドロしたものが出てきて、ドロドロぎとぎとの人間ドラマ、、という感じで話が進むのだが。。
かなり南海、いや難解で、一緒に見た高一のムスコは、ギャグの突込みが浅くて退屈したとの感想。単に話の深い部分が理解できなかったというだけにも聞こえたが。

都会と田舎という対立。都会から見れば田舎の、そういう「いい人」の世界は薄っぺらいが、田舎から見れば都会の、一見複雑で繊細な感情も逆に薄っぺらいものに見える。まあただこういうのは、田舎からでてきて大成功しつつあるこの作家の視点で、生まれてからずっと都会生活しているとちょっと違って見えてくる。
田舎から出てきて路上ライブかなんかで這い上がってメジャーになっているロックグループなんか見ても、歌っている内容は、みんなでチカラ合わせて、キボウの明日に向かっていこう、、みたいな、歯が浮くようなものだったりする。B'zとか、歌詞だけ読むとはっきり言ってキモチ悪い。ロックという衣を着ても、結局は、田舎の純朴ないい人たちだなあ、という感想。
都会は田舎の人たちの集まりだから、そういうのが流行るのは当然のことで、本谷サンが売れてるのもそういうことかなあ、と思ってしまった。プログラムにジブンの父親のエッセイを載せたりして。ほほえましい。本当の都会人のココロはもっと複雑で洗練されているわけで、、都会生活3代目のムスコの言ってることがケッコウ当たっていたりする。
あきらめることが好きだ、みたいなことも書いているが、がんばらない、とか、がまんしない、とか、そういう流れに乗っかったようにも。。

主演は馬渕英俚可、その父親役が近藤芳正。田舎的複雑さをよく演じていた。
2007.12.21 紀伊国屋ホールにて

『豚挽き肉と茄子のカレー』

2007-12-16 23:16:13 | 伽哩
サッカーのクラブワールドカップを見ながら台所仕事。相変わらず実況アナウンサーの余計なカンドウ安売りコメントが耳障りで、特に日テレはサッカーの試合をバラエティ番組に仕立てたいらしく、わざとらしいのなんのって。お笑いタレントも余計なことして、、やたらと隠し味ぶち込んだ、まずいカレーみたいなもんだ。

というわけでこっちのカレーはネタも尽きてきたので、この前鶏肉で作った茄子キーマカレーを、今度は豚肉で作ってみるかと。。教科書どおりトマトも生ではなく、トマトピューレにして、グリーンピースも散らしてみた。
結果はかなり濃厚で舌にからんでくる感じ。ラテン系のボカ・ジュニアーズ風カレーだ。この前の鶏肉+生トマトの淡白さはなかったが、コレはこれでまたうまい。
ご飯が炊けてから乾燥サフランのありかがわかって、サフランライスは次回に持ち越し。できればタイ米かなんか、どこかで探しておこう。

明日からは今年最後の出張ウィーク。朝一でカイシャの会議があって、午後一に某役所で新しい仕事の顔合わせ。長い仕事になりそうだ。夕方から名古屋に行って、この前終わったシゴトの関係者と忘年会。翌日の午前はソレの残会議があって、午後から九州へ。夕方、別の仕事の会議があって、ヘタすると吊るし上げられるかも。恐怖!
で、水曜はソコで一日打ち合わせて夜は忘年会。でまた木曜日に会議があって、最終便で帰ってくる。金曜は用があればカイシャに行って、夜は注目の芝居を見る。
そこにたどり着くまでのなんと長~い道のり。

『カキフライと山芋』

2007-12-15 23:22:28 | 料理
ツマがいない土曜日。実家に看病に行ったもんだから、ムスコと晩メシをつくる。家庭科実習はそれなりに楽しい。
ワタシの担当はとろろいも。手が痒くならないように皮を少し残してむいておろす。そこに卵の黄身を1個入れて、瓶詰めの出し汁を少量たらしてかき回す。あとはネギを切って食べる直前に混ぜ合わせて、、それだけ。

いつもの料理と比べると簡単すぎて物足りないので少しウンチクをたれる。山芋と一言で言ってもいろいろあるようで、長薯(ながいも)、大薯(だいしょ)、自然薯(じねんじょ)等々。今日食べたのは長薯。大薯は南方系の山芋でゴロリとしたかたちをしている。自然薯は細長い根っこのような芋だ。どれもほかの芋と違って生で食べられることで、山芋とひとくくりにされている。自然薯以外は山芋じゃない、という考え方もあるが、ワタシャうまけりゃなんでもいい。

山芋の味わいの一番いいところは、ぬるぬるしていながらも時々歯に感じられるさくさくした食感。すりおろしてもそれは変わらない。だから脂っこい牛タンとの組み合わせもいいが、今日はカキフライと。ムスコが揚げた。
ヤツは若いのにミズナが好きで、トマトと合わせてキレイな一皿となった。

明日は何つくるかって聞いたら、カレーでいいんじゃ、ってことで、、多少の期待は生きていくのに欠かせない。

『豚すき』

2007-12-15 10:37:09 | 料理
すき焼とは世間では普通、牛肉でやるものだと知ったのはワタシが中学に入ってからで、それまでは豚肉のすき焼が我が家では「すき焼」だった。牛肉が高かったというだけかどうかは、今となってはわからないが、それでも豚肉のすき焼はご馳走だった。
マクドナルドの日本1号店ができたのが1971年。それから1972年に田中角栄が日本列島改造論を書いて、我が家のすき焼も牛肉に改造された。一億総中流のシンボルが牛肉で、政治屋と犯罪者の区別がつかなくなったのもこの頃からだ。たぶんダブダブの肥満が原因の心臓病と脳卒中が増え始めたのもコレからしばらくしてからで、、日本人の寿命は延び続けているが、それは病気でヨレヨレになっても生き延ばされているというだけのことだ。

で、初めて食べた牛肉のすき焼は、こういうものか、というような味。(意味不明!)乳臭いというのは後からの感想で、独特のにおいだけが記憶に残った。
赤身と脂が縞模様になっているのを芸能人がキャーっと言って叫ぶ陰で、なぜか安くて、それでうまい豚肉。というわけで、久しぶりに食べようということになった。

作り方は関東と関西での違いはあっても牛肉のすき焼と同じ。
鍋を熱し、脂をしいて、割したを入れ、肉を煮る。そこで卵につけて肉をまず食べる。
その後はぶつ切りのネギ、焼き豆腐、白滝、椎茸なんぞを入れて、肉と一緒に煮ながら食べる。野菜も適宜。今回はムスコのアイデアでモヤシとミズナを入れてみた。もやしは豚肉にぴったり。ミズナは口の中をさっぱりさせてくれる。
まあ、とにかくうまかった。

『カジキマグロのカレー』

2007-12-10 22:36:20 | 伽哩
昨日の晩ご飯。
部屋の隅っこに置いてあったセーターを今朝カバンに入れて、会社に行ってから着ようとしたら、玉ねぎとニンニクとココナッツミルクの混ざり合った複雑な匂いがした。ファブリーズ置き型が欲しい月曜日。とはいえ、久しぶりに好評。消化不良にもならなかったし。

ジブンの記憶力を鍛えるために作り方を書いておくか、と。(3~4人分)
①カジキマグロは焼き魚用の切り身を食べたい分だけ一口大に切って、レッドチリペッパー少々、ターメリック小さじ3/4、塩小さじ1/2をまぶしてしばらく放置。浸透圧で細胞膜の中に味がしみ込むのを待つ。
②玉ねぎ、中2個を薄切りに。
③ココナッツミルク3/4カップ、トマトピューレ1/4カップ、隣のオクサンFカップ、ウソ。ニンニク2かけをすりおろし、ししとう1個をみじん切り。クミン、コリアンダーの粉をそれぞれ小さじ1ずつ、レッドチリペッパーを小さじ1/4、塩小さじ1を用意。
④フライパンに油を大さじ3入れて、①のカジキマグロを軽く焼いたらいったん取り出す。
以上が下準備。このへんで炊飯器の急速スイッチON。

⑤鍋に油を大さじ3入れて玉ねぎを茶色になるまで炒める。やや強火。
⑥そこに③を全部入れて、水1カップを加えて混ぜ合わせる。
⑦煮立ってきたらそこに④のカジキマグロを入れて、鍋のふたをして10分煮込む。弱火。

煮込んでいる間に汚れた食器や包丁を洗って、テーブルの上をキレイにする。そうこうしているうちに完成。匂いに溺れそう。
ご飯はお皿に平たく敷きつめる感じで、こういう汁の多いカレーは別の皿に盛る。コリアンダーの葉っぱ(パクチー)とか振りかけても、それは好き好き。

以下、ジブン用メモ。
・ココナッツミルクは少し減らしてもいいか。その分トマトピューレを増やして。
・ご飯にもう少し芸が欲しい。

今年の映画、ベスト5

2007-12-09 08:12:03 | 映画
アサヒ新聞で毎年今ごろになると、文芸、美術、演劇などの年間回顧記事が載る。これまでは夕刊だったのが、今年は朝刊に載っている。小説は新しいものは読まないし、芝居はそれほど数を見てないし、美術館も最近はあまり行かない。ゲンブツのリアリティが益々感じられなくなってきたし。
じゃあ映画ならというわけで、その映画回顧が出る前にワタシのベスト5を書いておこうかと。もちろん評論家のようにたくさん見ているわけではないが、東京近辺に住んでいるからには見たいと思えばなんだって見れるし、そもそも見たいと思わないものは見ない、というところで多くがふるいにかけられている。
とはいえ好き嫌いはひとそれぞれ。ジブンの記憶のためだけのメモだ。

で、まず第5位は、『魔笛』
オペラ映画って単純に面白い。また流行って欲しい。

第4位は、最近見た『愛の予感』
見る人によっては信じられないくらい退屈な映画。そういうモノをつくって、それをまた上映する映画館もたいしたモン。わかりにくさも度が過ぎると気持ちよくなるという一例。

第3位は、『エディット・ピアフ』
見終わった後はぐったり疲れた。ゲイジュツ家はこれくらい激しくなければ本物じゃない、という気にさせる。ワガママし放題。まわりの迷惑など気にする必要もない。それでも誰かが助けてくれるという境地。

第2位は、やや趣味の域に入るが『今宵、フィッツジェラルド劇場で』
メリル・ストリーブの歌を聴けるだけでもサイコーな映画。目と口元で感情の全てを語る大女優。ストーリーはオカルト的でついていけないが、時代遅れになって消えていくものへの合席、いや、哀惜のキモチがひしひしと伝わってくる。

そしてダントツの第1位は、、、『ボルベール <帰郷>』
主演のベネロペ・クルスがしびれる。いい女だ。ギター抱えて主題歌歌う姿は平成の美空ヒバリか。話の奥深さ。最後にああ、そうだったのかと思わせて全体が納得できる作り方も気持ちいい。それに独特の映像。1年中吹き止まない風の音とか。
ペドロ・アルモドバル監督はしばらく注目。いままで見てこなかったことが悔やまれる。

DVDがいくら安くなっても映画は映画館で見なきゃ。というわけで、ことしはあと、コレ、と、コレなんぞを見るつもり。ワレながらかなり偏っている。

『必死の逃亡者』 ジュール・ヴェルヌ

2007-12-08 10:16:36 | 文学
これはヴェルヌの作品の中ではかなり異質なものだが、同時に最高傑作でもある。二重、三重の厚みのある複雑な話の展開。最後のどんでん返しで作品そのものの意味さえも、裏返しにひっくり返る。サイエンス・フィクションというような枠から大きくはみ出した、文字によって書き表されたゲイジュツの極限点である。
舞台は19世紀の中国。ヨーロッパから見た不思議の国の風景やら生活習慣やらを織り交ぜながら、ヴェルヌ独特の想像上の紀行小説になっている。

莫大な財産を持った若いエリートが、どこに生きる意味などあるかと思いながら空虚な日々を送っている。何一つ不自由ない。世の中のものは全部金で買える。一度は味わってみたい心境だ。
ところがある日、資産を預けているアメリカの銀行が倒産しそうだとの知らせが入る。金があふれていれば何のために生きているのかと思い、金がなくなればもう生きていられないと思う。そういうもんかもしれない。で、婚約者に金を残そうと自分の命に、今的にいえば何百億円もの保険を掛ける。それで友人の哲学者を保険金のいくらかの受取人にして、自分を殺すよう頼む。期限は2ヶ月くらい。ところが哲学者はなかなか自分を殺してくれなくて姿を消す。
そうこうしているうちに銀行が倒産しそうだという知らせがウソだとわかる。破産する心配がなくなって死ぬのをやめようとするが、殺すのを頼んだ哲学者はそのことを知らずに姿を消したままだ。保険会社も保険金が支払われることになったら大損だということで、金持ちの若者に二人の護衛をつけて哲学者を探す旅が始まる。

そこから先は北京から始まって、上海とか南京とか、最後には万里の長城を舞台にした「驚異の旅シリーズ」的名所案内が続く。自分が依頼したジブンを殺す殺人者を捜し求める奇妙な旅が、あるとき急展開して、ジブンが必死になって逃げることになる。
サツジンを頼んだ哲学者が死んだらしいということになって、その「権利」が悪党の手に渡ったと知らされる。悪党は金のために必死にその金持ちの若者を追い求める。保険会社の護衛も必死で若者を守る。そうこうしているうちに2ヶ月の期限が切れて、この辺がやや複雑だが、保険の期限は2ヶ月で切れたが、自分を殺してもらって金を払うのは、悪党に権利が渡った時点で期限がなくなっている。
金のために自分を守ってくれていた護衛は簡単に去っていく。すると残された金持ちの若者はすぐに悪党に捕まって目隠しをされてどこかに連れて行かれる。
で、目隠しを解かれたところで見たものは、、、。

このどんでん返しで物語は、ほかのヴェルヌの作品と同じようにハッピーエンドで終わる。全てが哲学者によって仕組まれた、この若者を生き返らすための芝居。世の中、保険会社の護衛のように金で人は動くが、金とは関係ないところで動くものに本当の価値がある。そんな教訓話しではあるが、そこに至るまでのはらはらどきどきが、今から150年も前に空想されたことに相変わらず驚く。
生命保険というニンゲンが考え出した奇妙な仕組みをヴェルヌらしく突っついている。自分が死ぬことで金が払われるのを当たり前のように思っていたことが不思議に思われる。自分の土台が揺すられるような感覚がする。死ねば水と炭酸ガスといくらかの炭素化合物に変化するだけだったことを時々忘れている。

石川湧訳。原題は「ある中国人の苦しみ」
東京創元社 創元SF文庫版、1972年刊。

『愛の予感』

2007-12-02 09:09:20 | 映画
昨日は映画の日。普段1,800円の映画を1,000円で見ることができる。なかなか気前のいい割引だ。似たようなのは飛行機の特割り切符。こっちもほぼ半額になるが、変更する場合はキャンセル料を払って新しい切符を買いなおさなければならないなど、買う側にリスクが求められる。映画の日も毎月1日だから、土日でもなければどんな重要な会議があっても会社休んで行くしかないわけで、首をかけて映画を見るかという、そういうリスクは同じようにある。
で、昨日見たのはチマタで話題のコレ。今年のロカルノ映画祭金豹賞(グランプリ)受賞だそうだが、ソレってドンダケーなもん。モノの本によると、掘り出し物的、実験的、カワリモノ的映画が過去のグランプリをとっている。見たらやっぱりその筋の作品ではあった。

14歳の少女同士で殺人があって、殺した側の、夫と別れて母子家庭の母親と、殺された側の、妻に先立たれて、今度は娘にも死なれた不幸な男の話。どちらも事件直後はマスコミの餌食になって、根掘り葉掘り生活をえぐり返される。内面を蹂躙されるって感じ。よくあることでそれだけでも映画になるが、ココではさらりと次に進む。
一方は会って謝りたいといい、一方は顔も見たくないといいながら、二人とも世間の監視から逃れて北海道の小さな町に移り住む。偶然、だと思われるが、男は製鉄工場で肉体労働に励み、女はそういう労働者が寝泊りする民宿で調理の仕事をしている。その辺の経緯はまったく説明的描写がなく、あり得ない偶然でそういう状況になっていて、そこでの毎日変わりのない日常が延々と繰り返し映される。この辺がカワリモノ映画のカワリモノたる所以で、セリフも一切なく、間違い探しの絵を見せられるように、毎日の光景が、変化していないようで、少しずつ変化しているように繰り返されるのだ。面白いといえば面白いが、かなり微妙。

ただ映画として表現されていることは実にストレートで、人間は愛なしでは生きていけない、というようなこと。究極の不信から出発した2人が、壮絶な孤独ジゴクの中でお互いに存在を認知しあう、くらいのところまで。その辺が「予感」なわけだ。
男のほうは女が娘を殺した相手の親だということを、多分、途中で気付いているが、女のほうがどうだったかは最後までわからない。すべて、見る側の想像にまかされている感じで、なんでもかんでも説明して、わかりやすいことだけがトリエの、、字幕に心理描写まで書かれてしまうのよりはありがたい。

女役は「殯の森」でグループホームの主任サン的な役をやっていた渡辺真起子。最初の、マスコミの餌食になりながらも突っ張っているのが、どうしてその後、延々と自閉的になってしまうのか、その辺を読み取らないと、作者の意図は理解できないんだろう。
監督・脚本・主演は小林政広。最後の歌はかなり説明的だった。

12/1、ポレポレ東中野にて。