老後の練習

しのび寄るコドクな老後。オヂサンのひとり遊び。

『水死』 大江健三郎

2010-01-28 00:20:21 | 文学
パソコンが壊れていくつかのデータを失いいくらかのお金が消えた。バックアップした3日後だったのでたいした被害ではなかったのだが、メールの記録とカレンダーの予定は全部消えてなくなって、それはそれで概念としては一瞬自由になった気もした。実際はぜんぜんそんなことはないのもわかった上で。真っ白の予定表なんてこんなことでもないとめったに見れない。
新しいソフトをダウンロードしている長々とした時間にこの前ニッポンで題名に惹かれて買ってきて最初の10ページだけ読んで積んだままにしていたこの本をパラパラめくっていたらジッサイに面白そうな気がしたのでグイグイ読んだ。父親の死をテーマにした小説というか、実際ジブンとジブンの家族の話であるのは明らかで、どこまでが現実でどこからがつくり話なのかまったくわからない。家族は大変な迷惑をしているだろうけど。

以前、同じようなネタでジブンも小説を書こうとしたことがあった。読んでいくうちに大江さんも同じようなキモチからコレを書き始めたんじゃないかと、それは父親とムスコという、オンナには絶対にわからないビミョーなニンゲン関係のなかで、父親と同じような死に方で自分も死ぬだろうという予感にある日襲われる。それでその死の瞬間はいったいどういうものだったのか、それを知りたいと思って、それでもそれはどうやってもわからないことだと知ってつくり話をでっちあげる。そしてその死に向かって一日一日近づいていく。そんなキモチ。ただ実際はそれを書くのを断念した話。

もう時代遅れになってしまったと自覚している老年の作家が、自分の精神の衰えが進み作家としての死が迫ってきて、コレを最後の仕事として、ジブンの父親の、終戦の翌日の水死について書こうとする。そこに脳に障害を持った息子、息子といっても40代の見るからにオッサンになったムスコと難しい関係が生まれはじめる。その関係に割り込んでくるようにジブンの田舎の家を借りて芝居を作っている劇団の、その中でなかなか語られない複雑な過去を持った若い役者のオンナが漱石の「こころ」を題材にした「死んだ犬を投げる」芝居を作り上げていく。コレだけ書くとまったく意味がわからないが。

ひとつには父とムスコの話で、ムスコを残して先に死ぬことへの怖れというか、大江さんの場合はそれは想像を超えるものがあると思うが、それを終戦の翌日に息子=ジブンに手伝わせて大水の川に小船で出て行き、そして川の底で浮きつ沈みつしながら死んだ父親の記憶に重ね合わせることでその怖れから逃れようとしているのか。それ以上に、母親の冗談がもとで大学生のときに始めた作家としての生活に終わりが来たことがわかって、ムスコのこともあるしツマも病気で入院するしジブンも地面がひっくり返るようなめまいに何度も襲われて何重もの苦しみの中でもうどうにでもなれ的なキブンで「死んだ犬を投げる」芝居でまさに死んだ犬を投げつけられる役をジブンの書く文章の中で自分に与えたのか。

もうひとつは「死んだ犬を投げる」芝居を続けることでジブンの過去を、森の中の村でかつて起こったオンナによる一揆を指揮し、その結果死んでいったひとりの女に重ね合わせようとする若い役者のオンナの話。これによる結末がワタシには理解できない部分があった。唐突で期待をあえてハズしたような内容。
全体として父とムスコの関係とか、ジブンを誰かに重ね合わせる、のり移る、みたいなことが隠れた主題としてある。

ノーベル賞作家とはいえニッポンの中では反体制を貫いて、戦争責任者である天皇からの勲章も拒否したし、広島、沖縄をめぐる言論では極右勢力を向こうにまわして裁判で勝ったりもした。何度も死んだ犬を投げつけられて、受賞後の一時期はすっかり物分りのいい爺さん風になってはいたが今また、ワタシが中学の頃に熱中して、それがすべての原因とは言わないがこういう世間となれ合うことのできない難しいニンゲンができあがって、今はこうして東南アジアの片隅で生きている、その原因となった毒のような小説に戻ったような。
いつものようにほかの創作者の一節を引いて、そういう引用をひとまとめにしてこんな切れっぱしと呼びながら、
「こんな切れっぱしでわたしはわたしの崩壊を支えてきた」という、それもまたエリオットからの引用が記憶に残った。

2009年、講談社刊。

『散歩する侵略者』 前川知大

2009-06-13 09:43:56 | 文学
ニッポンに帰ってきた日に梅雨入りしたがきのう今日といい天気。テキトーな時間に会社に行って、ワタシを管理するヒトも日常の一部となるようなジブンの席もないのでパソコンを持ち歩いてあちこち流浪して、たまにオンナの子の席に行っておやぢギャグの切れ味を確かめたりしてケッコウ忙しく一日が終わる。
行き帰りの電車の中ではアカの他人との密着感に違和感を覚えつつ本なんぞを読む。こういうグレーな時間は久し振り。
向こうでアマゾンに注文してコッチについたらもう届いていた本が2冊あって、どちらも劇作家の書いた小説で、岡田サンにしても前田サンにしても最近は演劇のほうに文学の主流があるようで、この流れをキワメテ大雑把に言えば、想像力の差がハッキリついちゃってるというような感じ。

で、コレはこの前もナマで見て大変カンメイを受けたイキウメの前川さんの最初の小説とのことで、内容的には芝居と同じようにSF的というかオカルト的というか、日常のすぐ隣に当然あるであろうフシギな世界を時々背筋が寒くなるようなリアリティーで描いていて、電車の中で思わずコーフン。
話のスジは戦争が今にも起こりそうな海に面したいなかの町で、あるオトコが3日間行方不明になったのちに人格が変わったようにして妻の前に戻ってくる。記憶喪失か若年性アルツハイマーかと病院に行ったりしているうちにもうひと組、同じように人格が変わってその人のまわりで次から次におかしなことが起き続ける人たちが現れる。
その人たちは妻とか、通りがかりの人をガイドにつけて毎日ひたすら町に出てシゴトを続ける。カレらのシゴトはイッパン人と接触してその相手からある概念を吸い取って集めることで、それを吸い取られた人はジブンの中からその概念を失うことになる。妻の妹が家族という概念を吸い取られてジブンの下着を洗濯する父親を変態呼ばわりしたりとか、、そんな感じ。

後半に行って話はどんどん盛り上がって実際にどこかの国が侵略してくる状況と、一方でカレらがイッパン人から概念を奪って、その奪われた人たちはその一つを奪われただけで別人のようになって精神的に死んでいく、そういう目に見えない何かに内面的なモノが侵略されていく状況が並行して語られていく。すげーウマい。
それでもって最後はそのカレら、自分でジブン達は宇宙人だというのだが、作者はそのように決めつけないような書き方で進んでいくカレらが追い詰められて、もうやめようということになったとき、人間にとって一番大事なモノが妻から奪われる。それを奪い取ったオトコ=宇宙人=元夫、はソレが、その概念を持つことによって初めて人間にとって一番大事なものであることを理解できる、そういう概念であることを知り、人間に戻ったかのようにそのことを悲しむ。はたしてその概念とは、、みたいな。

詳しくは実際読んでみないと。
メディア・ファクトリー刊。

『ダブル・ファンタジー』 村山由佳

2009-02-13 22:15:49 | 文学
海外出張に行くときはいつも成田空港の本屋さんで何か買っていくのだが、今回は今話題のコレを買って、ケッコウのめりこんで読んでたのだが、、、ハノイからホーチミンへ行く飛行機が1時間以上遅れて、空港で待っている人がいることに気を取られて、飛行機の中で読んでいたコレを座席の前のポケットに入れたまま忘れてきてしまったという悲しい悲劇。やっぱり何かある。

わりとオジョーちゃん系で売ってきた女性作家が「道端でスッ裸」になった気分で書いたという、いわゆるそのぉー、ひとつのぉー官能小説と申しましょうかぁー、みたいな。オンナのひとの目で書いたせっくス、というか、オトコと女のマジワリというか、おんなじことだが、、。
感じ方のシステムというかメカニズムが違うからオンナに男の会館は、いや、快感は絶対に理解できないし、オトコにも女の會舘、いや、快感は、シツコイ、絶対わかりっこないはずで、それは考えてみれば当たり前のことなのだが、うふ~んんとか、あはぁ~んとか言われると、ああ、これでいいんだ、みたいにオトコは思ってしまうモノで、そのへんのアサハカなところにいまさらながら気付かされるというか、やっぱりオンナというのはオトコとは違う生き物なのだということがよくわかる小説でありマシタ。って、途中でなくしちゃったわけだが。

話は売れっ子の女性脚本家がホームヘルパー、じゃなくていわゆるぅーそのぉー、派遣のホすトさんを家に呼んで、アレをいたしてみたところ少しも良くなかった、みたいな場面から始まって、そのよくないと思ったのが、そのホすトさんがいざ本番っ!っていうときに部屋の電気を消してローソクに火をつけたのがシラケタ、みたいなことで、ああ、そういうことしちゃシラケルんだって、そのへんはワタシにだってわかる。
で、そういう満たされないキモチの中でそれまで自分を支配していたダンナにも愛想がつきて、尊敬する劇作家に悩めるココロを打ち明けている間にその劇作家とヤッてしまうことになる。その劇作家のモデルはあの野田フデキサンであるのがあきらかで、ちょっと想像しながら読んだがいまひとつしっくりいかない。まあそのオッサンとの場面の描写は女性ならではなのか、別に女性を代表して書いているわけではないだろうけど、、奥のほうでカタチを感じる、みたいな表現がタイヘン新鮮でした。

主人公の設定は普通のヒトよりアッチの方の欲求が強すぎるオンナで、逆にダンナのほうはその欲求の強さにおそれおののいて力で支配しようとする。そこになんでもかなえてくれるスゴイ男が現れて、、、その先は、本をなくしちゃったのでわからない。もう一冊買うのも高いし、、図書館で借りるのははじめからアタマにないし。
結論的には、オトコの感じ方ってホントに表面的というか、ウスイというか、アサイというか、そういうことを実感いたしマシタ。話のたぶんもっと深い部分には理解しがたいところもある。

2009年 文藝春秋社刊

『百寺巡礼 第一巻 奈良』 五木寛之

2008-09-21 17:42:55 | 文学
金曜の夜、台風で飛行機が遅れて、時間つぶしで入った空港の本屋でこんなジジ臭い本、買ってしまった。ジジぃがジジ臭い本買うのは当然といえば当然だが、ジブンの頭の中はまだせいぜい30代半ばなので、レジに差し出すときに違和感があった。
まあ、そんなことはどうでもいいが、中を開いたら前書きにインドのはなしがあって、同じことが翌日の朝刊の別の単行本の広告にも載っていて、五木寛之はこれで今売ってるのかと思ったわけで。

それは、インドでは人間の一生を4つに分けて、0~25歳までを学生(がくしょう)期、25~50歳を家住(かじゅう)期、50~75歳を林住(りんじゅう)期、75~100歳を遊行(ゆぎょう)期と呼んでいたというはなし。それはつまり、勉強して、家庭を築いて、林の中で人生を振り返って、そして最後に家を離れて放浪する、そういうふうに人間は生きていくものだというインド人のものの考え方で、五木サンの場合はこれまでこの4つの時期をごちゃ混ぜにして生きてきたが、もうそろそろ遊行期らしく、好きなようにいろんなところを旅して、そして最後はどこかの駅の待合室あたりで静かに死にたい、と思っているかはわからないが、なるほどというか、まあ、ワタシの場合はいよいよ臨終期、いや、林住期だから、林の中に入ってみようかという気分になってきた。

本のほうは歴史の話はキチンと押さえておいて、あとは五木サンが個人的にはこんな風に感じました、というようなやさしい内容で、テレビでやってたときの中里雅子アナのナレーションを頭の中に流しながら一気に読める。
とはいっても台風の雲に果敢に突っ込んでいった飛行機は上下左右にハゲしく揺れて、さかんにCAが座席ポケットの袋を使ってくださいってアナウスするもんだから、あと少しのところでギブアップするところまで追い詰められた。林住期なんだから、こんな苦しみはできれば味わわずに生きてイキたい、もっと静かな生活。。。

『瓶詰めのナポレオン』 野田秀樹

2008-06-29 15:19:34 | 文学
昨日は飲みすぎた。関内で見つけたイタリア食材屋で赤白ワインを1本ずつ買って、ミラノサラミなる直径6cmくらいの燻製肉の薄切りをつまみに夕方から飲み始めて、気が付いたら1本飲み終わってそのあとはよく覚えていない。でなんとなくドアのインタホンがなったような気がして、出たらムスコが帰ってきたようなのでまた寝込んで、気が付いたらムスコが作った晩メシができていて、メンチカツ3個食べたと思ったらまた寝込んで、またまた気が付いたらツマが帰ってきて、ちゃんと寝なさいと言われて布団に入って寝たような。今朝起きたら8時半でツマとムスコはもう出かけていた。全部マボロシかもしれないが。
そんなに飲んで何かツライことでもあるのかと聞かれればそりゃああるに決まっている。ありすぎて書く気にもならないくらい。でも飲むと気持ち悪くなるのが一番ツライ。

ここしばらく本を読む気がなかなか起きなくて、そういうのも日頃のストレスと関係があるはずで、逆に本を読むのも現実逃避で少しは楽になるかもしれないと思って読んだのがコレ。
野田秀樹サンを最初に知ったのは学生の頃、深夜ラジオでチッタカタッターチッタカタッタータカタカタッターッターーーって自分でファンファーレ歌いながら出てきて他にどんなことしゃべったかは覚えていないが朗読コーナーみたいなのがあってボルヘスだかマルケスだかの一節を読んだのを今でも覚えている。
子どもの頃に狼にさらわれた男が大人になって家に戻ってきて、家に戻った瞬間に何かが記憶の底から浮かび上がってきて、家の隅のほうで何か物を探し始めたと思ったら子どもの頃に隠しておいたナニかが出てきて、、その記憶が蘇った瞬間にその男の中で何が起きたのか、ワタシは知りたいみたいな話。映画のラストエンペラーでも同じようなシーンがあったような。王の座から追われた男が夜中に宮殿に忍び込んで王の椅子のウラのほうに隠しておいたナニかを探し出してニタっと笑う。ちょっとニュアンスは違うが。

そういう時間と空間のズレの中を飛び回るようにあっちに行ったりこっちに行ったりするような感覚はなんとなく快感に近いものがあって、コノ戯曲にも水がビンの中で化けて酒になるそういう時間の中をHGウェルズ、ハードゲイウェルズじゃなくて、、がでてきたり、仁吉とお菊がでてきたりして、トツキ10日で子どもが出てくるあたりのことを漂わせながら、、、、ハッキリ言って話の筋はようわからん。まったくわからん。劇場で見れば勢いでわかるんだろうが。

とはいえ最近の野田サンはどんな感じかよく知らないのでコレを見たいような気もするが英語だってゆうのが。どんどん難しくなっていくような。。釜の中から伊藤蘭がでてきて快刀乱麻、かイトウランま、か伊藤蘭ま、、みたいなわかりやすさが今となっては懐かしい。

新潮文庫版、1988年刊。

『楽観的な方のケース』 岡田利規

2008-05-17 18:04:18 | 文学
左手で睾丸の裏側をさわる。別に睾丸じゃなくてもいい。何でもいい。睾丸のない人だっているわけだし。たださわられていることを感じやすい部分のほうがいい。その時、左手が何か柔らかいモノをさわっていると感じるか、睾丸が何かにさわられていると感じるか。

誰か他人を殴るとか、相手の感じやすいところをいじるとかする場合は、相手がどう感じているかなんてどうひっくりかえってもわからないのだが、ワレワレは他人の痛みを感じろとか、わけのわからないことを言ったり、相手が感じているのを見てワガ事のように喜んだりする。こういうのは心理的な感覚である。つまり頭で考えて実際には感じてもいないことを感じたように思っているわけだ。
そうではなくて自分の睾丸をいじって何かさわられてると感じたり、同時に左手が何かさわっていると感じするのは、どっちがどうかなんて意識しない。感じるのは両方の総合的な感覚というか、こういう頭で考える以前の感覚を生理的感覚っていったらいいのか。

というのも、安部公房が心理的演技と生理的演技ってことを言っていて、心理的演技って言うのは、たとえば笑うという演技をするときに、セリフを読む瞬間に何かおかしいことを思い浮かべて、その結果、横隔膜が痙攣して笑うという行為が外見に表出する。そういう頭で考えた結果の演技が心理的演技で、生理的演技って言うのは、笑いというのは体の内側で起きることは横隔膜が痙攣することだから、それは訓練によっていくらでも痙攣させたいときに痙攣させることができるわけで、実際には息を吐き続けながらヘソの下あたりを震わせるようにすると痙攣したみたいになって、後は顔をそれなりのモノにすれば笑っているように外からは見える、そんなようなことだ。

で、岡田さんの文章は、何かストーリーがあって、次に何が起こるかどきどきしながら読む、っていうのとは全然違って、だから頭の中で本を読むということではなくて、文字が作り出す空間そのものを体験することが、人工的に横隔膜を震わせることと同じような、文字そのものが生理的に生み出す、つまり人間のセイシン神経系が作り出す空間ではない、循環器系というか泌尿器系というか、その辺の空間を体験しているような、そんな今までの文学とはまったく違うものだと思わなければ、なんか時間を無駄にしているとしかあとに残らない。文章そのものは計算されつくしているようにも思える。

この作品は、主人公のオンナがいて、そのオンナの家の近くにパン屋ができて、以前から誰かオトコと美味しいパンとコーヒーだけの朝食をとるのに憧れていたオンナはオトコを家に引っ張り込んでそういう生活を実際に始める。ところが世界的な小麦の高騰でパンを毎日買うのが大変になって、パン製造機を買って週の半分以上は家で自分でパンを作るようになる。
オンナはそれで満足するがオトコのほうは家のパンよりパン屋のパンのほうがよくて、オンナに黙ってコロッケパンを買って公園で食べていたらトンビにさらわれて、手に爪の傷ができて、傷がだんだん治ってきたかと思ったら話の最後で例によって書いている主体が入れ替わってそれまで語っていたオンナがドアの外で鍵を開けようとしているのをオトコが家の中で見ている。
そんな話。

新潮 2008年6月号

『わたしたちに許された特別な時間の終わり』 岡田利規

2008-05-04 18:25:01 | 文学
連休??何それ?

この前アサヒの夕刊にこの人と五反田団の前田サンとが、今活躍中の若手演劇人みたいな感じで載っていて、流行に疎いワタシはそのとき二人を初めて知って、たまたま切符が安かった前田サンのほうだけ見たのだがいまひとつピンとこなかった。そしたらこの人がこの本で大江健三郎賞獲ってしまって、こんな人が出てくるのを待っていたみたいな感じで絶賛していたもんだからついつい読んでしまったのだが、読んでるうちに微妙な興奮が沸き起こって、電車の中で2回読んでも、その感覚はなかなか消えない。

話はふたつあって、イラク戦争開戦間近の頃に、それを遠まわしにテーマにしたパフォーマンスが六本木であって、そこで知り合った男女がそのまま渋谷のラブホテルに5日間コモって、そろそろ戦争が始まっているだろうなと思いながらテレビも見ずに5日間ヤリまくって、5日目に外に出たら世界が変わって見えたけれど、すぐにそれも元に戻った、みたいな「三月の5日間」が一つ目。
二つ目はオンナが朝起きたらバイトに行く気がしなくて、そのままベッドの中でゴロゴロしている間に、夫であるオトコが深夜のバイトが終わって、次のバイトに行くまでの間、ファミレスで居眠りをしていて、その光景を想像?しながら昔のことを思い出し?て、、、結局ベッドから出ずにいたらゴキブリが這ってきて、クロゼットの中に入っていった、みたいな「わたしの場所の複数」。

いったい何がテーマで、作者は何を言いたいんだろうみたいにまじめに読むとどちらもキワメテ難解な話で、しかも、独特な構成?で、「三月の5日間」のほうは書き手の一人称で話が進んでいくのに、急に突然書いてる人がオトコからオンナに変わったりして、ただそれが「三月の5日間」のほうは大きく改行されていたりしてまだわかりやすい。技巧的といえば技巧的で、文学部の小説科みたいなところで教えているような書き方だ。
一方、「わたしの場所の複数」では書き手はオンナで変わらないのだが、時間と場所が何の前触れもなくコロコロ変わって、過去に急に戻ったかと思ったら場所まで夫のいる場所にホントはいないはずのオンナの目で一人称で書かれたりして、そういうところのおもしろさで、話そのものは何かが起きて、誰かが死んだりするようなものではまったくない。

前田サンの芝居でも、同じ場所で急に時間が入れ替わって死んでるはずの人が出てきたりしていたが、そういうことを説明なしでして、それに気付いたときに時間を飛び越えたふんわりした感じを感じさせようとしているような。
ただそういう技巧的なことだけでもなさそうなのがこの人のスゴイところなんだろう。文体もいわゆるブログ体とでもいうか、一人でボケて突っ込んで、カッコ書きで隠れた心情がほとばしるみたいな、オマエの言いたいことはなんだ、みたいなコト言っても仕方ないような書き方。

本の帯には高橋源一郎サンが、かなりウガッタ言い方で、イラク戦争について書かれた最も優れた小説、みたいに絶賛しているのだが、ワタシとしてはあとの「わたしの場所の複数」のほうがおもしろかった。
これを書いているオンナの人はもう死んでいて、その魂がいろんなところや時間を浮遊しながら、人のアタマの中に入り込んだりしながら、犬が臭いかぎながらあっち行ったりこっち行ったりするように、意識が勝手に書いているんじゃないかと、それで最後は死んでいるジブンがゴキブリになって生きていた頃のジブンの目の前に現れる、みたいな、なんかアタマの中がおかしくなりそうだ。

それにしても30代前半でこんなすごいのを書いて、この人はいったいどこまで行くんだろう。50を目前にしてやっとひとつ書けたかと思ったら、次がなかなか書けない。やっぱり才能の差ってあるのね、って思っていたらコレを読んでというわけではないが2作目が見えてきた。
それはワタシの父親の、ある意味においては普通ではない死の記憶から始まって、あの時のサランラップに包まれた肉の感触を手の先に思い出しながら、それをジブンの、目の前に迫った老後の日々の終わりに重ねずにいられないオトコの物語になりそうなのだ。
いつか必ず死ぬというジカクだけを抱きしめて、休日つぶして働かされている。

2007年 新潮社刊

『怪しい来客簿』 色川武大

2008-04-20 17:08:31 | 文学
世の中が白く霞んで見える。手足がしびれて指がまともに動かない。最悪の状態がこの前、東中野で映画を見た頃からずっと続いていて、昨日ついに医者に行った。待っている間にも気が遠くなりかけて、倒れこむように診察室に入って医者の一言。タイシタコトナイヨ、って。顔色も悪くないし、少なくとも脳には異常はない。しびれなんて気のせいだ、、って。じゃあ何、今のこのワタシ。

とりあえず今すぐに死ぬわけでもなさそうなので、この人の2冊目について。
小説というよりはジブンが出会った変な人たちに関するへんな話、というか、そういう話を通じて、ジブンの立ち位置というか、ジブンのものの考え方を表明しているような短編集になっている。
たとえば相撲のどうしようもなく奇っ怪な体型をした力士がいいところまで出世した後に落ちぶれていって、それでも相撲以外に生きていく場所がなくて、最後は見せ物の怪物のような状態にまでなって、やっとのことでまわりからやめさせられる。そういう力士のことを書いて、自分もどこか似たようなところがあって、そういう悲惨な落ちぶれ方に同情している。そうやって生きていくしかない不自由な身の上を、苦しい共感として書き出している。

なんかワタシの今のこの苦しい状態には毒のような、おそらく精神的な重圧というか、あの誰かのパワハラからきている、このアンバランスな状態には、けっしてそれを緩和する方向のものでないことは確か。それでも読まずにいられない。この、世の中をあきらめ切ったところから、どうしようもないものとして世間を平和な眼差しで見つめる、そういう視線に限りない共感を感じずにいられない。

聖火ランナーとか、そういうどうでもいいことに膨大なエネルギーを注いでいるこのくだらない世の中に、本当にもうあきらめるしかないような絶望的な気持ちを持ちながら、言葉が生み出す空間の無限の広がりみたいなものにこの人は希望を感じていたんだな、と。
この前、1コ小説を書き終わって、次を書こうとしてなかなか書けない。もっと絶望的なものを書こうと思っていたのに、カラダがブレーキをかけているみたいで、それがこのしびれの原因なのかとも。
とりあえずまだ生きているし、むしろジブンの一部を壊すくらいのことをしないと、新しいモノは見えてこないわけで、それくらいのことは誰だってわかるだろうけど。

文春文庫版 1989年刊。

『狂人日記』 色川武大

2008-03-29 12:00:00 | 文学
NHK教育テレビは不毛な砂漠の中のオアシスのような存在だ。バカを競い合うフジやら日テレのオチャラケ番組のハザマで、ときどき、たまに、偶然、オモシロいものをやっている。で、今週やってたのは柳美里が聞き手役で色川夫人にインタビューする番組。ちょうどコレを読んでいたのでおもしろく見た。

夫人の話では色川さんはバカがつくような善人で、頼まれると断れなくて、いつも家の中に他人の誰かが上がりこんで一緒にマージャンやってたような人で、遊びに来る人にはいい人かもしれないが、夫婦として一緒にいるのはホントにジゴクのような相手だったらしい。
あの、ややアブナゲな風貌やら、別の名前で書いてたマージャン本やらに引っ張られて、コレまで色川さんの本を避けてきたワタシとしては急にシタシミを感じた。一緒にいてジゴク、とは。見習いたいもんだ。

で、コノ本はまさに色川さんの自伝的な、神経の病気に苦しみながら、自分のことを気にしてくれる女のヒトとの出会いと、だんだんそういうヒモのようなものに落ちぶれていく感覚に耐えられなくなって、最後はまたボロボロになっていく救いようのない話で、読み終わったらこっちのビョーキまでひどくなった。
とは言ってもやっぱりこのヒトは天才だ。とんでもない表現が次から次へとひねり出されていて。例えばこんな感じ。

・・もうそのときには、足先にも、腿にも、背中にも、身体の随所に、痒いような痛いような感触が産まれて居る。誰かの歯が自分の身体の表面を少しずつ削り取るように、ゆっくり味わうように、触れてきている。大群で、手の動きがまにあわない。自分は七転八倒した。敵の姿がこちらの眼にも見えてくる。タラバ蟹のお化けの大群だ。人間の子どもくらいのから大人の大きさのまで居る。むろん、言葉にする余裕はもうない。自分は蟹に喰いつかれて火だるまのようになり、あぶれた蟹たちが他の人間を襲いに行くのを、何とか皆に知らせようとして――。

あぶれた蟹、ってところがシビレル。前回の小栗さんの映画もそうだが、幻影の描出こそが文学だって思えてくる。色川さんは本ができあがったときに、「狂人より」って書いて夫人に贈って、その半年後に心臓発作で亡くなった。

さりげない日常のなかに投影される等身大のワタシのヨロコビ、かなしみ、、みたいなのとか、運命的な出会いの後に不治の病で余命半年の悲劇のコイビトたち、、みたいなのとか、、嘘っぽいつくり話は捨てられて拾われて、そのうちブックオフの本棚を埋め尽くすだけ。
だから色川さんの本は新刊本屋さんで買うしかない。高い。これもなんと1300円。それがツライ。

講談社文芸文庫版、2004年刊

『対岸の彼女』 角田光代

2008-03-08 18:59:52 | 文学
いろいろワケがあって、珍しく、人気作家の作品なんぞを読んでみた。
2つの話が並行して進んでいって最後で一つになる、教科書に書いてあるような手法で書かれている。

主人公は30台半ばの女で、子育てやら姑との付き合いやらに疲れて、旦那の反対をよそに仕事を始める。小さな会社でつまらぬ人間関係など気にすることもないと思っていたのに、だんだん、砂場の母たちと同じような、どろどろしたものが漂い始める。で、勤めた会社の女社長の女子高生時代からの話が並行して進んでいって、女学校でのいじめ問題みたいな中で、その女社長も複雑な生き方をしてきたことが語られる。
主人公の女は、複雑な生き方をしてきた女社長と一時は対立しながら、最後でお互いを理解し合い、つまらぬ人間関係とは無縁の生きかたを始めようとする。そんな感じでオシマイ。

途中まではいわゆる女性の視点で書かれた同世代の女性の等身大の物語、、みたいな、、砂場デビューに失敗して、あちこちさまよい回る、どこにでもいそうな女がしつこいくらいに描かれていて、やれやれってところもあったが、後半にかけて、われわれは何のために年をとるのか、みたいな深い話に進んでいって、まあ、なるほど、と思わせるものはあった。
この人はこの人のテリトリーの中で、人間の奥深い部分を書いてるということで、実は、はじめにワケがあって、と書いたのは、今ワタシも小説を書いていて、どこかの懸賞に応募しようと思っていたら、この人が審査員をやっている賞がいいかなあ、と思ったもんだから。

ただ、この作品の終わり方なんてかなり前向きというか、困難を乗り越えて、人間が自立していく感動的な終わり方で、ちょっとワタシ向きではないと思ったところ。ワタシが書いてるのはホントにもっとネガティブ、というか、一人の人間が複雑な現代社会の中でもまれていって、最後には崩壊していくものなので。自伝的といえばその通りなのだが。
それはさておき、小説って、書く側から見るとなんでこんなどうでもいいことをだらだら書き連ねるんだろかと思うことばっかり。単なるページ合わせか、それとも隠し味的に、全体の中では欠かせないものということなのか。
どちらにしても、ここまでだらだら書くのには抵抗を感じたので、ほかの賞を目指すことに決めた。

第132回直木賞受賞作
文春文庫版、2007年刊。