昨日の夜、仕事をテキトーに切り上げて吉祥寺まで中央線に乗って見てきた芝居。見たときは若干難解で、意味不明な芝居だったが、よーく考えてみると意外に単純な話だったりして。
作者はミラン・クンデラという人で、「存在の耐えられない軽さ」を書いた人といえば、ああなるほど、という感じ。
といってもコレを見ようと思ったのは、去年、荻野目慶子サマ主演で三軒茶屋まで新玉川線に乗って見に行った「ヒステリア」に続く、串田和美・白井晃コンビによる3年連続3芝居の2本目だったから。内田有紀が出ているといっても、慶子サマほど惹かれたわけではない。
芝居は電気がついたままいきなり始まって、主演の白井晃サンが客席のほうにはみ出しながら芝居したりする一方、舞台の上には小さな小屋みたいなのがあって、カーテンがあいたり閉じたりしながら、中で別の芝居が繰り広げられる。ストーリーは貴族役の白井サンと串田サン演じるそれに付き従う家来のジャックが旅をしながら昔の思い出話を語り合うという単純なもの。
舞台の中の舞台で、思い出ばなしが入れ子の中で演じられるわけだが、内田有紀が3人の女役を演じてるとわかったときには時には、もう、話の細かいところはよくわからなくなっていた。3人の女を演じていても、それらがみんな同じような生き方で、ジャックとその主人も同じような昔ばなしを語っている、というあたりがミソで、しかもそういうのが全てあらかじめ誰かに書かれた物語にすぎない、というようなことが土台になっている。
で、こういう難解なのを見ると芝居ってそもそも何?ってなことを考えたくなるものだが、ちょうど昨日のアサヒの朝刊に加藤典洋サンの文芸時評が載っていて、文学とは生の1回性の感覚だ、ということを書いていて、なるほどと思ったシダイ。生の1回性というのはワタシの一生は他人のものとは取り替えることのできないワタシだけの一度限りのもの、ということ。だからこそ空想の中で空想の人物にあらぬコトをさせてしまったりする文学というモノが成り立つ、ということかどうかはわからないが、音楽や絵画にはそういう感覚がないのは確か。
ちょっと脱線するが生の1回性が文学なら、死んだら次はマントヒヒに生まれ変わるみたいなことを信じさせられる宗教は文学と対極のものということ。文学の反対語は宗教ということだ。だからインチキ宗教が出してる本なんか本屋に置くべきではない。
この一生は1回限り。それもあらかじめ誰かに書かれたものであるなら、この金欠・パワハラ・花粉地獄にどうあがいても結論はもう決まっている。ただその結末がわからないだけ。だからこの世は受け身。こっちから切り開いていくなんて、錯覚もいいとこだ。
串田、白井両氏はセリフを噛みっぱなしで、それも演劇の常識をくつがえす演出だったりして。内田有紀は声がよかった。
串田和美 演出・主演
08.2.27 吉祥寺シアターにて
作者はミラン・クンデラという人で、「存在の耐えられない軽さ」を書いた人といえば、ああなるほど、という感じ。
といってもコレを見ようと思ったのは、去年、荻野目慶子サマ主演で三軒茶屋まで新玉川線に乗って見に行った「ヒステリア」に続く、串田和美・白井晃コンビによる3年連続3芝居の2本目だったから。内田有紀が出ているといっても、慶子サマほど惹かれたわけではない。
芝居は電気がついたままいきなり始まって、主演の白井晃サンが客席のほうにはみ出しながら芝居したりする一方、舞台の上には小さな小屋みたいなのがあって、カーテンがあいたり閉じたりしながら、中で別の芝居が繰り広げられる。ストーリーは貴族役の白井サンと串田サン演じるそれに付き従う家来のジャックが旅をしながら昔の思い出話を語り合うという単純なもの。
舞台の中の舞台で、思い出ばなしが入れ子の中で演じられるわけだが、内田有紀が3人の女役を演じてるとわかったときには時には、もう、話の細かいところはよくわからなくなっていた。3人の女を演じていても、それらがみんな同じような生き方で、ジャックとその主人も同じような昔ばなしを語っている、というあたりがミソで、しかもそういうのが全てあらかじめ誰かに書かれた物語にすぎない、というようなことが土台になっている。
で、こういう難解なのを見ると芝居ってそもそも何?ってなことを考えたくなるものだが、ちょうど昨日のアサヒの朝刊に加藤典洋サンの文芸時評が載っていて、文学とは生の1回性の感覚だ、ということを書いていて、なるほどと思ったシダイ。生の1回性というのはワタシの一生は他人のものとは取り替えることのできないワタシだけの一度限りのもの、ということ。だからこそ空想の中で空想の人物にあらぬコトをさせてしまったりする文学というモノが成り立つ、ということかどうかはわからないが、音楽や絵画にはそういう感覚がないのは確か。
ちょっと脱線するが生の1回性が文学なら、死んだら次はマントヒヒに生まれ変わるみたいなことを信じさせられる宗教は文学と対極のものということ。文学の反対語は宗教ということだ。だからインチキ宗教が出してる本なんか本屋に置くべきではない。
この一生は1回限り。それもあらかじめ誰かに書かれたものであるなら、この金欠・パワハラ・花粉地獄にどうあがいても結論はもう決まっている。ただその結末がわからないだけ。だからこの世は受け身。こっちから切り開いていくなんて、錯覚もいいとこだ。
串田、白井両氏はセリフを噛みっぱなしで、それも演劇の常識をくつがえす演出だったりして。内田有紀は声がよかった。
串田和美 演出・主演
08.2.27 吉祥寺シアターにて