先週末にニッポンに帰ってきて早6日目。もうすぐ正月休みもおしまいだ。エラい悲観的。
でもって、コレはきのう見た芝居。きのうで終わりなのでコレを読んで今から行こうと思っても行けない。芝居はその場限りの夢のようなモノ。ビデオが出たとして、巨大画面のビデオで見てもその面白さは絶対に伝わらない。ソレくらい、その場限り的に面白かった。
この芝居の底のほうにあるのはニンゲンには限界なんてなくてコレからも進化するに違いない、という作者の信念のようなモノ。ニンゲン個人個人も、人類としても。
人類としては、むかしはニンゲンの寿命が今よりずうっと短かったわけで、30歳くらいでみんな死んでいたはずで、そこから今のように80歳以上まで生きられるようになるコトはその頃は想像もできなかっただろうと。その過程ではいろんな病気が見つかったり、それを直す方法が見つかったり、そして年をとると足腰が痛くなったり、今問題になっているような痴呆とか、この過程の中でソレを乗り越える上でのシレンのようなものとしていろんなコトがあらわれ出てくる。
個人個人も今言った痴呆とか、若者の引きこもりとか、そういうモノは何かの準備のためのモノで、それを乗り越えてニンゲンは進化していくんだと。そういう、なんというか、かなり強い楽観的な主張が感じられる。
話はある神経症的で引きこもり的な若者が、家族から見放されて介護施設でチイチイぱっぱみたいなことをさせられていて、ある日そこから外に出て行方不明になった老婆をジブンの家に引き入れて、一緒に生活をするところから始まる。その若者は数学が天才的に得意で家族から理科系に行くと期待されていたがそういう方向には進まず、ティッシュを配って生活している。だがヒトとのコミュニケーションができなくて、どんどん自分のカラに閉じこもっていく。
老婆は3歩歩くとモノを忘れるくらいで自分のウンコを食べたりする。そういうことを舞台を囲む緑色の壁や床にチョークで字や絵を書くことで表現していて実際に食べたりはしない。
周囲のヒトは、若者が老婆との生活に逃避していくのを見て、ソレを誘拐だとかギャクタイだとか言って、その若者を非難して、老婆と暮らすことをやめさせようとする。でも、若者はその痴呆で、若者のコトも実際にはまったくわかっていない老婆との、細々とした交流の中に微かな生きる道のようなものを見つけ出す。
老婆の痴呆も進化の過程であり、若者の引きこもりもおんなじ。そういうモノを日常的なありふれた、カイシャの上司の新人OL に対するセクハラとか、学校のセンセが生徒とやって子どもができた、とか、ニッポン語で話ができない若者とか、無垢な若者の過剰防衛とか、、あと、何度もバスに乗りたいのにバスが止まってくれないオンナとか、そういうアキラカに全体の話の流れに乗っからないモノの中に浮かべるように話が進む。
あるとき老婆は一人で若者の家から出て行って施設に戻る。残された若者は苦しみながらも立ち上がって服を着替える。その若者のまわりでは、全体の話には関係がないとしか思えない登場人物が全員で輪になって、ニンゲンの進化の表現としてボレロを踊る。その輪の外にいた、何度もバスに乗りたいのに乗れないオンナが最後にはカラダを張ってバスを止めると、そのバスのなかには登場人物がみんなで乗っていて、オンナはやっとそのバスに乗り込んでひとびとの中にはいる。言いたいことがややアカラサマにわかる。若者は必死になってバスに乗ろうとするがなかなか乗れない。でも何度かやって最後に乗れる。そして、みんなで歌う歌の中に入っておしまい。
作・演出はノゾエ征爾サン。2010.12.29、はえぎわ、こまばアゴラ劇場での公演。
でもって、コレはきのう見た芝居。きのうで終わりなのでコレを読んで今から行こうと思っても行けない。芝居はその場限りの夢のようなモノ。ビデオが出たとして、巨大画面のビデオで見てもその面白さは絶対に伝わらない。ソレくらい、その場限り的に面白かった。
この芝居の底のほうにあるのはニンゲンには限界なんてなくてコレからも進化するに違いない、という作者の信念のようなモノ。ニンゲン個人個人も、人類としても。
人類としては、むかしはニンゲンの寿命が今よりずうっと短かったわけで、30歳くらいでみんな死んでいたはずで、そこから今のように80歳以上まで生きられるようになるコトはその頃は想像もできなかっただろうと。その過程ではいろんな病気が見つかったり、それを直す方法が見つかったり、そして年をとると足腰が痛くなったり、今問題になっているような痴呆とか、この過程の中でソレを乗り越える上でのシレンのようなものとしていろんなコトがあらわれ出てくる。
個人個人も今言った痴呆とか、若者の引きこもりとか、そういうモノは何かの準備のためのモノで、それを乗り越えてニンゲンは進化していくんだと。そういう、なんというか、かなり強い楽観的な主張が感じられる。
話はある神経症的で引きこもり的な若者が、家族から見放されて介護施設でチイチイぱっぱみたいなことをさせられていて、ある日そこから外に出て行方不明になった老婆をジブンの家に引き入れて、一緒に生活をするところから始まる。その若者は数学が天才的に得意で家族から理科系に行くと期待されていたがそういう方向には進まず、ティッシュを配って生活している。だがヒトとのコミュニケーションができなくて、どんどん自分のカラに閉じこもっていく。
老婆は3歩歩くとモノを忘れるくらいで自分のウンコを食べたりする。そういうことを舞台を囲む緑色の壁や床にチョークで字や絵を書くことで表現していて実際に食べたりはしない。
周囲のヒトは、若者が老婆との生活に逃避していくのを見て、ソレを誘拐だとかギャクタイだとか言って、その若者を非難して、老婆と暮らすことをやめさせようとする。でも、若者はその痴呆で、若者のコトも実際にはまったくわかっていない老婆との、細々とした交流の中に微かな生きる道のようなものを見つけ出す。
老婆の痴呆も進化の過程であり、若者の引きこもりもおんなじ。そういうモノを日常的なありふれた、カイシャの上司の新人OL に対するセクハラとか、学校のセンセが生徒とやって子どもができた、とか、ニッポン語で話ができない若者とか、無垢な若者の過剰防衛とか、、あと、何度もバスに乗りたいのにバスが止まってくれないオンナとか、そういうアキラカに全体の話の流れに乗っからないモノの中に浮かべるように話が進む。
あるとき老婆は一人で若者の家から出て行って施設に戻る。残された若者は苦しみながらも立ち上がって服を着替える。その若者のまわりでは、全体の話には関係がないとしか思えない登場人物が全員で輪になって、ニンゲンの進化の表現としてボレロを踊る。その輪の外にいた、何度もバスに乗りたいのに乗れないオンナが最後にはカラダを張ってバスを止めると、そのバスのなかには登場人物がみんなで乗っていて、オンナはやっとそのバスに乗り込んでひとびとの中にはいる。言いたいことがややアカラサマにわかる。若者は必死になってバスに乗ろうとするがなかなか乗れない。でも何度かやって最後に乗れる。そして、みんなで歌う歌の中に入っておしまい。
作・演出はノゾエ征爾サン。2010.12.29、はえぎわ、こまばアゴラ劇場での公演。