自分の身に降りかかる大きな変化といって予想していたのはガンになるかとか、ウツ病になるかとかの病気系か、会社がツブれて住宅ローンが返せなくなって自己破産して路上生活みたいな自己破滅系かのどちらかだったので、来年に起こる変化は想定外だった。東南アジアの某所に単身不妊、じゃなくて赴任して現地人雇って会社を経営して、、儲かれば年収1憶くらいもらって、プール付きの豪邸買って、運転手とメードを雇って、、みたいな。途中からは妄想。
だから芝居もナマではあまり見れなくなるのでテレビでがまんしなければならないのだが、芝居をテレビで見るとナマミのニンゲンが目の前で演じることによってのみ生み出される、超現実ドラマ的なものが同時進行的に表れては消える、そういう直接体験的なおもしろさが味わえなくて本当に芝居を見た気になることはほとんどなくて、この前NHKでやっていたコレなんかも、アサヒの劇評で今年のNo1とか書かれていたのに全然おもしろいとは思えなかった。セリフをしゃべっている役者しか映さないカメラがなんとももどかしくて。もちろん感じ方はヒトそれぞれだからそれがその作品の価値を下げることにはならないのだが。
で、コレも先週NHKで放送されてDVDにとってあって、昨日ひまだったので見てみようかということでやっと見たら珍しくおもしろいと思った。劇団阿佐ヶ谷スパイダースを率いる長塚圭史サンの2006年の作品。本人は9月からロンドンに留学中だそうで、彼も単身不妊かと。。
作品のほうは東京で大地震が起こった後の無法地帯みたいな状況の中で、地震で瓦礫に埋もれた、すでに死んでいるであろう父親に、配給される毎日のわずかな食べ物を穴から地面の中に下ろしていく女を中心に進んでいく。その兄の編集者かなんかをやっていたであろう男は、心を病んだ妹を気遣いながら死んでいる父親の埋まった場所から出て行かずに、余震が起こればすぐに崩れてしまうような半壊状態の家に住みながら妹の回復を待つ。そこにエロ小説を愛読する妹に恋した警官とか、編集者であった男が世話した文章の書けない小説家があらわれて日常の人間のイトナミが繰り広げられる。
そこにボランティアの仕切り役、みたいな、今の世の中のどこにでもいそうな外見はいい人ふうで、実際はウサン臭い女が登場して妹にシゴトを紹介する。それははっきりとは言われないがオトコに体を売るような商売でそれによって食べ物や、兄やダメな小説家がほしがっている酒やたばこが手に入る。ココロを病んでいた女は同時にその大地震後の混乱の中で苦しんでいたチュウゴク人かカンコク人かの男に出会いそれによって回復していくが、、自由になって出て行った外の世界で女はたぶん殺されてしまう。話はそれでおしまいで何かがどうかなってメデタシメデタシみたいな結末っぽいものはない。殺されたのも、たぶん、って感じで、女の商売のことなんかも含めて話が具体的に表現されないことがこの芝居のリアリティを高めている。
舞台は普通の舞台の後ろ側にも観客が座って真ん中に道が通っている。その奥のほうは暗くなっていて、そこに自由な世界、というか、外の混沌とした社会が広がっているかのように思わせる。大地震の後の混乱した世の中を舞台にしてはいるが、問題にしているのは、一度壊れたニンゲンの精神が回復していくきっかけみたいなものがこんなところにあるのかどうか、そういうのをなにか控え目に示している。最後に、女が種をまいて水をやっていた瓦礫の山の中から緑の葉っぱが芽を出す。作者はいろんなことを暗示しようとしている。
妹役の富田靖子と兄役の近藤芳正がじつにいい組み合わせで、そこに割り込んできた感じのダメ小説家役が演出家でもある岩松了。テレビでも見れるのは場面がシンプルでカメラがあっちに行ったりこっちに行ったりしなかったからからか?
2006年、新国立劇場での作品。
だから芝居もナマではあまり見れなくなるのでテレビでがまんしなければならないのだが、芝居をテレビで見るとナマミのニンゲンが目の前で演じることによってのみ生み出される、超現実ドラマ的なものが同時進行的に表れては消える、そういう直接体験的なおもしろさが味わえなくて本当に芝居を見た気になることはほとんどなくて、この前NHKでやっていたコレなんかも、アサヒの劇評で今年のNo1とか書かれていたのに全然おもしろいとは思えなかった。セリフをしゃべっている役者しか映さないカメラがなんとももどかしくて。もちろん感じ方はヒトそれぞれだからそれがその作品の価値を下げることにはならないのだが。
で、コレも先週NHKで放送されてDVDにとってあって、昨日ひまだったので見てみようかということでやっと見たら珍しくおもしろいと思った。劇団阿佐ヶ谷スパイダースを率いる長塚圭史サンの2006年の作品。本人は9月からロンドンに留学中だそうで、彼も単身不妊かと。。
作品のほうは東京で大地震が起こった後の無法地帯みたいな状況の中で、地震で瓦礫に埋もれた、すでに死んでいるであろう父親に、配給される毎日のわずかな食べ物を穴から地面の中に下ろしていく女を中心に進んでいく。その兄の編集者かなんかをやっていたであろう男は、心を病んだ妹を気遣いながら死んでいる父親の埋まった場所から出て行かずに、余震が起こればすぐに崩れてしまうような半壊状態の家に住みながら妹の回復を待つ。そこにエロ小説を愛読する妹に恋した警官とか、編集者であった男が世話した文章の書けない小説家があらわれて日常の人間のイトナミが繰り広げられる。
そこにボランティアの仕切り役、みたいな、今の世の中のどこにでもいそうな外見はいい人ふうで、実際はウサン臭い女が登場して妹にシゴトを紹介する。それははっきりとは言われないがオトコに体を売るような商売でそれによって食べ物や、兄やダメな小説家がほしがっている酒やたばこが手に入る。ココロを病んでいた女は同時にその大地震後の混乱の中で苦しんでいたチュウゴク人かカンコク人かの男に出会いそれによって回復していくが、、自由になって出て行った外の世界で女はたぶん殺されてしまう。話はそれでおしまいで何かがどうかなってメデタシメデタシみたいな結末っぽいものはない。殺されたのも、たぶん、って感じで、女の商売のことなんかも含めて話が具体的に表現されないことがこの芝居のリアリティを高めている。
舞台は普通の舞台の後ろ側にも観客が座って真ん中に道が通っている。その奥のほうは暗くなっていて、そこに自由な世界、というか、外の混沌とした社会が広がっているかのように思わせる。大地震の後の混乱した世の中を舞台にしてはいるが、問題にしているのは、一度壊れたニンゲンの精神が回復していくきっかけみたいなものがこんなところにあるのかどうか、そういうのをなにか控え目に示している。最後に、女が種をまいて水をやっていた瓦礫の山の中から緑の葉っぱが芽を出す。作者はいろんなことを暗示しようとしている。
妹役の富田靖子と兄役の近藤芳正がじつにいい組み合わせで、そこに割り込んできた感じのダメ小説家役が演出家でもある岩松了。テレビでも見れるのは場面がシンプルでカメラがあっちに行ったりこっちに行ったりしなかったからからか?
2006年、新国立劇場での作品。