老後の練習

しのび寄るコドクな老後。オヂサンのひとり遊び。

河口湖から見た富士山

2007-06-30 20:45:08 | 旅行
明日が7月1日で富士山は山開き。
開いてないときはどうなっているのかは知らないが、山小屋に明かりがついて、暑い季節の到来を知らせている。
湖面は鏡のように静かで、、この夏がいつまでも続けばいいのにと、今から思うのは気が早すぎるか。

出張自慢

2007-06-29 00:44:05 | 風景
ワレながらひどい生活だ、、とか言いながら出張自慢だったり。
今週もヘドロ臭い運河沿いの会社に行ったのは月、火のみ。火曜の夜に最終便で福岡に行って、水曜はゴーマンなクライアント相手にアドレナリン出っ放し。でもって、またまた最終便で名古屋に行って、木曜一日ミャーミャー相手に一仕事。一旦うちに帰って、明日(正確には今日)は朝から千葉のド田舎に行って、午後過ぎから山梨に直行。夜は湖のホトリで宴会で土曜もお仕事の胃から出血大サービス。カラダ、というより神経がもたない。キレそう。

で、気分を変えて、移動が多いと本を読む時間がとれるのでウレシイ。とはいえ、大岡昇平は読み終わって、次は何にしようかと思っていたら、昨日、ホテルのテレビで見た開高健がおもしろそうだと思った。
開高健のことば。

ワタシには自殺する勇気がないから、そのかわりに釣りをする。。

なかなか深い。
ワタシも同じようにジサツする勇気がないから出張する。山梨ではワイン飲みまくって、、山菜そば、とか、喰いまくる。
悲しいくらいタノシイ。

『あじろやのあなご寿し』@広島駅

2007-06-24 17:18:07 | 料理
今日は1日競馬。インターネットでお馬さんの切符を買えるようにして、あの熱にうなされたときの夢に出てきそうな場外馬券場に行かなくてよくなったのはワタシにとって大きな進歩。でも買いすぎちゃって、、今日は宝塚記念をのぞけばトントンではあったが。宝塚はいろんな人の注文受けて、闇馬券屋の元締めになったような気分。コレから集金に行かなきゃ。
ただ、場外馬券場は誰もが一度は行くべき場所だ。社会の底辺での娯楽の風景を見ることができる。年金生活の老婆が、ジベタに寝転んで鉛筆なめているような風景。あるいは建設労働者のおじさんが、頭にハチマキして窓口で怒鳴っていたり。

それはさておき、コレは先週の広島~博多ツアーで食べた駅弁。改札近くの立派な売り場で売ってただけあって、なんと1200円ナリ。もっと安いのも奥のほうにあったのだが、見つけたときには遅かった。
分厚いスチロール製の入れ物に笹の葉を敷いて、そのへんが高い理由かもしれないが、味のほうはソレナリのうまさ。瀬戸内名物と銘打っているからには、由緒ある瀬戸内海のあなごを使っているのだろう。脂が少なく、さっぱりしていた。

さて、明日からはまたジゴクの1週間。いったいいつシゴトが切れるのかと、もう何年も前から思っているが。。こっちの脳の血管がキレルのとどっちが先か、メイショウサムソンとアドマイヤムーンの一騎打ちのような競争だ。

『ミンドロ島ふたたび』 大岡昇平

2007-06-23 17:21:45 | 文学
今年になって集中的に読んだ大岡昇平作品も、今回のコレでひと区切り。読んでない作品はまだあるが、古本屋を探し歩いてまで読む暇はないし、この作品が区切りとしてはちょうどいいから。
作者の作品群の根本にある戦争体験の現場を、終戦後22年目に再び訪れたときの記録、感想、怨念、、などなど。現実の世界と戦場との間を行ったりきたり。あんなことをしたのだから消えるはずがないフィリピン人の憎しみを、相手が持っている以上に感じながら、ともに戦った人たちが死んでいった場所を歩きまわる。

テーマは死者との対話。死ぬと場所という概念がなくなるから基本的にはどこにいても対話できるのだが、風景というリアルなイメージを手がかりに、より強く霊魂を感じるためにその場所を訪れる。みずからも戦い、というか、大岡さんの場合は逃げ惑い、目の前で人が死んでいったその場所で、死んだ仲間に呼びかける。「レイテ戦記」を書き上げた作家としての言葉は、あの戦争の本質を見抜いているが、死ぬことがわかっていて送り込まれた戦争のバカバカしさって、1000ページを超える本を書いても描ききれなかったということだ。

大岡さんのこの旅行は第何次遺骨収集団とか、そういうことに触発されたものではあったが、それとはまったく違うものになっている。アレは参加する側の単なる自己満足で、国家とか、あの頃からムダ金を使い放題だったコウセイ省とかが戦争を正当化して美化するため宣伝でしかない。死んだのはココです、、とか言われて、見てもいない情景をイメージできるわけがない。動物の骨かなんか拾わされて、大事に包んで持ち帰ったりする。それでも参加者は勝手に肩の荷をおろして、ケジメをつけるわけだ。気楽だ。
大岡さんは自分を戦場に送り込んだ国家を怨んで、それに従ったことを後悔して戦後の何十年かを生きた。不倫小説とか書きながら。そのキモチが痛いほどわかる。一生おろせない重荷を少しでも軽くするためには、不倫ヒトヅマ姦通小説でも書かずにはいられなかったのだ。

一見まともで、正直でスナオで、ジミン党お抱えテレビのニュースなんかを真実だと思って見ている模範的コクミンのような人が、さっさと肩の荷をおろし、極右イシハラに投票して、憲法改変をすすめるアベシンゾーが、ボーナスの一部を返すなんてオチャラケに、たまにはいいことするじゃん、、とかいって感心したりしてしまう。気楽なクニだ。
だから、そのうちふたたび、敵がステーキ喰ってるのに、こっちは臭い飯にタクアンかじって、泥水の中をヒルに吸い付かれながら這い回って、敵に向かって自殺して突っ込んでいくことを強要されて、しまいには皮膚が焼けただれて頭の毛が抜けてみんな死んでいくような核爆弾落とされる、あの惨めな戦争をまた戦うことになるのだ。自分の子どもの時代に。それもまた、仕方のないことだが。

ヒロシマ 清掃工場に雨が降る

2007-06-17 17:34:56 | 旅行
旅行ということではないのだが、ある催しに参加して、ついでにいろいろな場所をまわった。広島は3回目。川が何列も海に向かって流れているデルタ地帯をバスに乗って。

まずは平和公園へ。梅雨の雨に濡れた樹木の緑が、さまざまな記念碑の幾何学的な形を際立たせていたなかで、このニッポンで最も芸術的に整備された公園にはいろんな国からの観光客があふれていた。アメリカ人の微妙な立場はよくわかる。ワタシもフィリピンで日本軍の悪行の数々を展示した博物館にいったことがあるから。アジア系の団体はワリとはしゃいでいた。原爆ドームの模型の前で記念写真なんか撮ったりして。散々痛めつけられたから、胸のすく思いがあるのは当然だ。
やはりこういう場所では民族意識が首をもたげる。それを客観的の見ながら、戦争没落家系に属するワタシとしては、原爆の悲惨さだけでなく、原爆が落とされるまでニッポンを追い詰めていった、天皇をはじめとする戦争犯罪人の罪を書き並べて欲しいと思った。

その後は個人的な趣味で清掃工場へ。この「広島市環境局中工場」には写真のようなガラス張りの空間があり、ゴミ処理プラントの入り組んだ構造を見ることができる。とはいえ、実際にゴミを燃やしてベルトコンベヤーで運ばれている様子が見えるわけでもなく、ただ機械があるだけ。造形的には完璧に美しいが、やや拍子抜け。こんなことにコレだけお金をつぎ込めるほど豊かになったということだ。
清掃工場の歴史を紐解けば、最初は人里離れた田舎に都会のゴミを運んで燃やしていた。それがトラック公害が問題になって、街中に作るようになっていったが、住民エゴで迷惑施設の代名詞に。そこで廃熱利用の温水プールなんかを併設して、外観もコギレイに飾るようにして、なんとか周辺住民をナダメすかして作るようになった。で、広島のコレは第3世代というか、キレイな工場として、まるでビール工場のように、みんなに見せる場所になっていった、というところ。リアリティーが消去されていくプロセス。実際は吐き気がするほど臭くキタナイのだろうが、そういう現実をみごとに覆い隠している。

夜は瀬戸内海に面した豪華ホテルへ。経営者が逮捕されてチェーンのホテルが次々と売却される中、ココはなんとか残ったようだが、高校生の運動部の団体と何かの営業関係の招待客ばかりが目に付いた。ビジネスホテルより安い値段でいつまで続くのか。

なーんかまとまらないが、スッキリしない街だ。名物がお好み焼きってのも。。
で、少し考えたらスッキリしない理由がわかってきた。清掃工場だけでなく、町全体がホントのところが隠されている、というか、リアルな感情が隠されているんじゃないかと。原爆反対といったところで反ジミンが市政を支配しているわけではない。結局は世界の核を支配するアメリカ追従の下での核反対だし、ニッポン的には核の平和利用は全然オッケーという国民的合意だってあるわけだ。それで世界遺産といってもねえ。。
お好み焼きってのはそういう矛盾を全部丸く包んで、まとめて喰っちまおう、みたいなところがあって、それはそれでおもしろい。

『今宵、フィッツジェラルド劇場で』

2007-06-16 08:17:57 | 映画
今週は出張ウィーク。月曜の午後に福岡に行って火曜の昼に帰ったと思ったら、水曜の夕方から広島に行って、木曜は1日広島で、金曜の午前中にまた福岡に移動して、夜には家に帰ってきた。唯一のんびりできたのが広島の夜で、東京で見逃したコレを楽ちんな体勢で堪能した。何しろ日本で一番座席がゆったりしていて、テーブルまでついたステキな映画館だったので。

原題は「A Preairie Home Companion」で、邦題はイマイチだ。この原題の深い意味が(きっとあるはずなのに、)伝わってこない。アメリカの一地方で30年間くらい続いたラヂオ番組の題名で、その番組の脚本家がこの映画の脚本を書いている。
映画そのものは時代遅れの放送局が買収されて、長い間、劇場で行われてきたラヂオの生放送番組が最終回になって、その番組の始まりから終わりまでの間にいろんなことが起きて、、結局は古くなったものは消えていく、というような単純な話なんだが、。
途中から得体の知れないチョー美人が出てきて、生放送の舞台の上を歩き回ったりして奇妙な空気が漂ってきたと思ったら、昔、車を運転しながらこの番組を聞いていて、笑わされた瞬間に事故って死んだ人の幽霊で、この世で生きている人を、あの世からお迎えにきた、みたいな展開になっていく。
かと言って宗教・オカルト系かというとそういうことでもなく、アメリカの素朴な人たちの人生観のようなものが投影された自然な映画になっている。

主演のメリル・ストリーブはいつもながら魅力的。『愛と悲しみの果て』(これも原題は「Out of Africa」だからダサい邦題。)以来、好きな女優は?といわれると、メリル・ストリーブと答えるようにしているのだが、ちょっと揺り動かしただけで感情が溢れてこぼれるような雰囲気はほかにない。歌もココロにしみこんできた。
全編、音楽と楽屋裏のおしゃべりで溢れていて、うるさいくらいの早口のしゃべりが、だんだん終わるのが惜しいキモチになっていく。

ロバート・アルトマン監督の遺作。
2006年 アメリカ映画。

『かつ丼』@福岡・天神 友楽

2007-06-11 06:39:34 | 料理
福岡・天神では昼にメニューひとつだけという店が何軒かある。鯖の焼いたのだけとか、鮭の、とか。ハヤシライスが名物の肉屋さん直営の店もある。1本勝負、という感じで、食べる側はメニューを選ぶ必要がないので楽ちんだ。

で、ここはつい最近まで寿司屋だったのが、いつのまにかかつ丼専門店になった。入口の自動販売機で食券買ったりするのは侘しいが、福岡県のブランド豚である糸島豚を使ったかつ丼は、豚そのものの肉の味がなかなかうまい。といってもほかの豚と区別できるわけではないが。。

こういうメニューだけだとほかと差別化するのが大変だろうと思うが、かつ丼だけの店というのもほかにないので、自然ときわだってくる。卵やご飯はどこどこ産、とか、余計な能書きがないのも好ましい。器も塗りものの椀で手になじむ。豚汁風の汁と漬け物がついて840円。消費税が40円というのもシンプルでわかりやすい。

でもホントに食券買うのはなんとかならないかなあ。千円札入れるとかつ丼ボタンが5個くらいいっせいについて、どれを押そうか一瞬迷う。

パタゴニア

2007-06-10 10:22:01 | 風景
パタゴニアは南米チリとアルゼンチンにまたがる広大な地域。ここを訪れたマゼランが、原住民の足が大きいことに驚いてパタゴン(大足族)と名づけたことから、この場所がパタゴニアと呼ばれるようになった。らしい。

これを会社名にして、アウトドアウエァの店を世界中に開いているのがイヴォン・シュイナード氏率いる「パタゴニア」で、昨日の朝日の土曜版に大きくインタビューが載っていた。
それを読むと実にユニーク(ヨーロッパ的な褒め言葉として)な会社で、利益追求のための事業拡大は行わず、余分に儲かった分はパタゴニアの土地を保全のため買い取ったり、環境関連のNGOに寄付したりしている。時間を有効に使って効率的に仕事をすることを社員に求める一方で、勤務時間はフレックスで、いい波がでた日にはまずはビーチに行ってサーフィンをするようなことを奨励している。

ま、それで儲かりゃいいじゃん、、という気にもなるし、建前だけは環境第一で、世界中に排気ガスを撒き散らす車を売りつけて、下請けを絞りに絞り上げた結果として、何兆円もの利益をあげているような大会社をはじめとして、そういううわべだけの環境優先企業はニッポンにはいくらでもある。パタゴニアがうわべだけなのかどうかはこの記事からは読み取れないが、かなり儲かっているところをみると、言ってることを100%鵜呑みにしていいとも思えない。
ただこのシェイナード氏のおもしろいところは、単に環境問題への関心が高いということでなく、環境問題については、そのうち手遅れだということがわかるだろう、というように実に悲観的に見ていることだ。まさに悲観的に考えて楽観的に行動している典型で、そのへんには共感を禁じえない。

天動説から地動説に変わっていった頃と同じように、今でもアメリカでは大統領も副大統領も地球温暖化を信じていないし、地球の歴史がまだ6000年しかないと思っている。あのサルのような国家元首なら仕方ないとも思えるが。
2,3日前に決まったサミット(スーパーマーケットじゃなくて)の、温室効果ガス50%削減目標も、簡単にはできない。エアコンは27度で、かりゆしルックでクールビズとか、、のん気なことを言ってる場合じゃない。
発電は今ある水力発電所以外は閉鎖で、風力も太陽光も機械をこれからつくるのは禁止。当然エアコンは禁止、テレビ・パソコンも新しくは作らない。電子レンジなんてありえなーい。自家用車は禁止、新しい建設は禁止、食べ物は自国で採れるものだけを配給制で売るだけ。というか、シゴトは道路や駐車場を掘り返して畑にするだけ。
それでももう始まっていることだが、平均気温が少しずつ上がって、北極の氷が溶けて海面が上昇し陸地の何%かが失われる。わずかな気温上昇にも追従できない生物から絶えていき、生命循環システムが崩れはじめ、そこから未知の病気や遺伝上の変化が広まっていく。ジェットコースターと同じで登りつめたらあとは落ちるのは速い。まあこれでも明るく描きすぎなところがあるかもしれないが。

思い返せば1992年のリオデジャネイロでの行動計画が間違っていた。持続可能な開発(Sustainable Development)なんてあり得ない。今じゃニセ環境優先企業のセールス文句にしかなっていない。ゼネコンとか設計屋とか。
たとえばエコロジーな車に乗ることは、見方によっては最悪な行動だ。環境のことを少しは考えているけれども、これ以上のことはしないと宣言しているようなものだから。

『イェラ』

2007-06-09 19:42:07 | 映画
去年『素粒子』を見たドイツ映画祭の今年一番の注目作。今や世界の映画をリードする「ベルリン派」の代表的監督、クリスティアン・ベツォルトの最新作とくれば見ないわけにいかない。で、見たカンソーはまったく難解ホークスな映画だった、、ってダジャレこいテてもしょうがない。

事業に失敗して一文無しになった夫のもとからさっさと逃げ出していく一人の女。夫のほうはメメしくストーカーのように女につきまとうが、女はやがて仕事を見つけ成功していく。と同時に、仕事のパートナーの男とうまいことデキテいく。よくある話だが、映画はそういう束縛から解放された女の自立のようなものを描いているわけではまったくない。
旅立ちの朝につきまとう元夫の車に乗り込んでしまった女。元夫が車を暴走させて一緒に橋から川に突っ込んでいく。そのあとで女が仕事で成功していく話が、奇妙な展開の中で続いていって、最後に映画的などんでん返しで終わる。そのへんの流れがまったく難解で一瞬あっけにとられる。

でも映画の後でプロデューサーの人との質疑応答があって、この映画はやっぱりドイツ的な時代背景ぬきには理解できないものだということがわかった。つまりコレは東西ドイツ統合直後の、旧東ドイツの側から見た文化の衝突のようなものがベースにあって、そこに東ドイツの人たちが感じた夢、のようなものが、結局は旧西ドイツの経済社会のなかで脆くも消えていったということを、一人の自由に旅立っていった女を通して象徴的に描いたものだということだ。
貧しい東側の世界から、豊かで自由な西側の世界に飛び込んでみたものの、人の命さえも消費していく西側経済社会の残酷さを見せ付けられたところで夢がさめる。それが車が川に突っ込んだ橋の手前と向こう側、というふうな、象徴的な風景を背景に展開される。
負け犬としてブザマに振舞う元夫を、心の底では捨てきれない女の心情が微妙に伝わってきて、世の中カネがすべてじゃないという、今さら元に戻れないコチラ側の世の中の病気のモトをチクリと見せ付けている。

主演のニーナ・ホスはこの作品でベルリン映画祭主演女優賞をとった。旧東側からやってきた未開人のような女を絶妙に演じている。とはいえ、関西と関東の文化的衝突などマンザイのネタほどの意味もないニッポン国の住人としては、完全に理解できる内容とは言い難い、深い作品であった。

2007年、ドイツ映画。
有楽町、朝日ホールにて

『魔法の万年筆』

2007-06-05 08:12:45 | 演劇
稲垣吾郎チャン主演で会場の9割は女性。オヂサンは10人もいなかったが、ワタシのめあては鈴木サンの作品そのもので、呼吸困難になるくらい笑い、また重たいものが心の中に残った。

1920年代のニューヨークがとりあえず舞台。それを持つと名作が次から次に書けるという魔法の万年筆をめぐって、富と名声を求める若者や偉大な父親の亡霊から逃れられない兄妹が偽りの人間関係でつながりあう。若い男は成功と引き換えに本当に愛する女性を捨てるが、最後にすべてを失ったときに、得たものの薄っぺらさと捨てたものの重さに気付く。。ってな話。
オトコは何のためにがんばるか、というようなことがテーマで、それはやっぱり誰かに褒めてもらいたいため、というのが話のスジになっている。父親とか、愛する女性とかに。だからそれを失ったとき、力尽きるわけだ。

で、鈴木作品の重たいところは、ワタシがまったく同世代ということもあるが、やっぱりジンセイの後半に差し掛かって、これまでいろんな悪いことをしてきたと後悔の気持ちが底のほうにあって、それを爆笑ネタで包みながらも終わってみるとその重たいものがずしりと感じられるところだ。
ワタシもジブンの成功につながると少しは考えて、一人のオンナの人を捨てたこともあるし、逆に自己満足のために利用されたこともある。いろんなことがあったとしみじみと考えてしまう。短いようで長い時間が過ぎたと。そういう深いところでつよく共感した作品だった。

吾郎チャンはなかなか存在感のある芝居をしていたと思う。捨てられたオンナ役の西牟田恵、父親の亡霊に怯えるダメな息子役の河原雅彦など、共演者もみんなよかった。

鈴木聡 脚本・演出
パルコ劇場にて