老後の練習

しのび寄るコドクな老後。オヂサンのひとり遊び。

横浜・泉平の海苔巻

2008-05-31 23:26:42 | 料理
一日中雨。映画にでも行こうかと思ったが明日にした。一日だから。で、関内あたりを散歩してコレ買って帰ってきた。

泉平は創業天保10年(1839年)。いなりずしで有名だが太巻き愛好家のワタシとしては、いなりと干瓢巻と太巻きがセットになったコレが定番。横浜スタジアムで野球を見るときは必ず買う。
馬車道の入口にあった厨房兼店は現在改築中。でもどこでも買える。すぐ近くに仮店舗があるし、関内駅の地下街や松坂屋の惣菜コーナーでも売っている。

太巻きは干瓢と卵焼きと胡瓜と、あと赤いの。極めてオーソドックス。この年になって干瓢とか、だんだん好きになってきた。
太巻きを食べると子どもの頃の正月を思い出す。大晦日に母親が大皿3つ分くらい大量生産して、紅白見ながらつまむ。正月の間もお雑煮やおせちの間につまむ。台所の暗いところにサランラップかけて置いておかれて3日でやっとなくなる。だから正月の味だ。

ところで明日はコレ見る。まだわからないことが世の中にはたくさんある。

茄子と挽肉のカレー

2008-05-25 23:13:42 | 伽哩
連夜のカレー。

教科書にはトマトピューレで作るように書いてあるんだが、アレ使うとイタリア風インド料理になってしまうので今日は生のトマトに替えてみた。結果はややパンチに欠けるが軽い味に仕上がった。悪い意味じゃなくて。

それにしても焦げる直前まで玉ねぎ炒めて、そこにトマトを入れてかき混ぜている間に立ち昇る甘酸っぱい香り。最近、やや鈍くなった神経細胞の動きが一気に変わるような。そこにまたコリアンダーやらクミンやらターメリックを入れて混ぜ合わせると、やっぱりこういうのを毎日嗅いでたら99×99もすんなり覚えられるだろうなと思わせるに十分な、脳の皺の奥のほうまで届く刺激のキモチよさ。
とは言っても中間試験直前のムスコは食べ過ぎてさっそく寝ちまったが。

日曜の夜っていやだ。毎週毎週、おんなしキモチ。特に明日は1時間も早くカイシャに行かなきゃならない。
とりあえず水曜の夕方まで針のムシロで、木曜もクレーム処理に福岡まで行って、金曜は休みたいがまた次の月、火が大阪出張だからどうなることやら。
そうこうしてるうちに6月。梅雨になって、この息苦しいのが楽になればいいんだが。

小エビのカレー

2008-05-24 22:36:31 | 伽哩
久々のカレー。

曜日の感覚がやっと戻ってきて、午前中に床屋へ。店主のおっさんにオバハン2人と、そのオバハン連に比べれば比較的若い、といってもピチピチは前世紀の遠い昔のオネーサンのいる店で、そのオネーサンに当たる確率は単純に1/4だからこの週末の、というか、次に床屋に行く1ヵ月後までの運勢を占うのにはいいオミクジみたいな。。

で、、今日は一番トシマのオバハンに当たって言わば大凶。暗い気持ちが表情に出ては、相手はハサミ持ってるんだからと思って平静を装っていたら髪切って、頭洗ったところで選手交代でそのオネーサンがヒゲ剃ってくれて、思わずヨロコビが表情に出てしまった。なにしろ唇の周りなんかやたら丁寧に剃ってくれて、、。
そしたら、肩もまれて気持ちよくて半分眠りかけてハッと眼を覚ましたら最後の仕上げでまたあのオババがハサミ持ってこっちの頭に覆いかぶさらん勢い。コワかった。アレは夢だったのかと思って唇のまわりを撫でた。

そのあとは横浜に行って3年ぶりにケータイを買い替え。カメラ機能のいいのにしようと思ってコレに決めていたんだが、シャッター押してから写真が取れるまでに、映画だったらつまらない回想シーンが割り込んでくるくらいの間があってとても使い物になりそうもないので別ので妥協。ダキョウ、って好きな言葉だ。

で、スーパーで小エビと玉ねぎとニンニクとショーガとトマトピューレ買って、ケイバ中継見ながら少し昼寝して、6時から作り始めて7時からサッカーニッポン代表見ながら食べた。
もう、ジブンで言うのもなんだが安心して食べられる、っていうか、眼、つむってても作れるくらい簡単。

)玉ねぎは2個を薄切りにして油大さじ2杯で薄茶色になるまで炒める。
)そこにターメリックとレッドペッパーと塩で味付けしたエビを入れて、
)ショーガとニンニクをすったのとコリアンダーとクミンの粉を小さじ1杯ずつ入れて、
)トマトピューレを1カップ入れてかき混ぜたら水を1カップ入れて、
)煮立ってきたら弱火で5分間煮込んで、
)最後にワタシの場合は乾燥コリアンダーの葉っぱを振りかけて完成っ。

そういうわけで、明日はオークス見ながら家でシゴト。来週は水曜に大仕事が待ってるから。

『楽観的な方のケース』 岡田利規

2008-05-17 18:04:18 | 文学
左手で睾丸の裏側をさわる。別に睾丸じゃなくてもいい。何でもいい。睾丸のない人だっているわけだし。たださわられていることを感じやすい部分のほうがいい。その時、左手が何か柔らかいモノをさわっていると感じるか、睾丸が何かにさわられていると感じるか。

誰か他人を殴るとか、相手の感じやすいところをいじるとかする場合は、相手がどう感じているかなんてどうひっくりかえってもわからないのだが、ワレワレは他人の痛みを感じろとか、わけのわからないことを言ったり、相手が感じているのを見てワガ事のように喜んだりする。こういうのは心理的な感覚である。つまり頭で考えて実際には感じてもいないことを感じたように思っているわけだ。
そうではなくて自分の睾丸をいじって何かさわられてると感じたり、同時に左手が何かさわっていると感じするのは、どっちがどうかなんて意識しない。感じるのは両方の総合的な感覚というか、こういう頭で考える以前の感覚を生理的感覚っていったらいいのか。

というのも、安部公房が心理的演技と生理的演技ってことを言っていて、心理的演技って言うのは、たとえば笑うという演技をするときに、セリフを読む瞬間に何かおかしいことを思い浮かべて、その結果、横隔膜が痙攣して笑うという行為が外見に表出する。そういう頭で考えた結果の演技が心理的演技で、生理的演技って言うのは、笑いというのは体の内側で起きることは横隔膜が痙攣することだから、それは訓練によっていくらでも痙攣させたいときに痙攣させることができるわけで、実際には息を吐き続けながらヘソの下あたりを震わせるようにすると痙攣したみたいになって、後は顔をそれなりのモノにすれば笑っているように外からは見える、そんなようなことだ。

で、岡田さんの文章は、何かストーリーがあって、次に何が起こるかどきどきしながら読む、っていうのとは全然違って、だから頭の中で本を読むということではなくて、文字が作り出す空間そのものを体験することが、人工的に横隔膜を震わせることと同じような、文字そのものが生理的に生み出す、つまり人間のセイシン神経系が作り出す空間ではない、循環器系というか泌尿器系というか、その辺の空間を体験しているような、そんな今までの文学とはまったく違うものだと思わなければ、なんか時間を無駄にしているとしかあとに残らない。文章そのものは計算されつくしているようにも思える。

この作品は、主人公のオンナがいて、そのオンナの家の近くにパン屋ができて、以前から誰かオトコと美味しいパンとコーヒーだけの朝食をとるのに憧れていたオンナはオトコを家に引っ張り込んでそういう生活を実際に始める。ところが世界的な小麦の高騰でパンを毎日買うのが大変になって、パン製造機を買って週の半分以上は家で自分でパンを作るようになる。
オンナはそれで満足するがオトコのほうは家のパンよりパン屋のパンのほうがよくて、オンナに黙ってコロッケパンを買って公園で食べていたらトンビにさらわれて、手に爪の傷ができて、傷がだんだん治ってきたかと思ったら話の最後で例によって書いている主体が入れ替わってそれまで語っていたオンナがドアの外で鍵を開けようとしているのをオトコが家の中で見ている。
そんな話。

新潮 2008年6月号

SCANDIA @横浜・海岸通り

2008-05-14 11:36:31 | 散歩
で、昨日は北風が吹く中をよりによって港のほうまで散歩。客船ターミナルにコノ船が初入港して、ピースボートの新しい船と並んで停まっているのを見るためだったんだが、海の風は烈しく寒く、早々とコノ店に。

1階はコーヒーショップ的な軽い雰囲気で、2階が荒っぽい木彫りで飾られた壁がド迫力のダイニングルームになっている。昼前のガラガラの状態で、外に教会が見える角の窓際に座ることができた。
店内はわずかな照明に飴色の壁が照らされて、曇った外からはケヤキの新緑がカーテンを染める。暗くていい雰囲気。こういう暗さはワガ家のリビングのほかにはあまりない。なんてったって、ワレワレニッポン人は電気がコウコウと点いているのを高級だと思っているから。京都の都ホテルが外国資本に買い取られて改修されたらロビーが暗くなってクレームが出たとか出ないとか。笑い話だ。

食べたのはランチコースで、トマト味に素材の甘みが微妙に絡まった桜海老のスープに始まって、メインは子牛のカツレツ。チーズがしつこくなくて、むしろさっぱりした食べ応え。ご飯は北欧っぽいピラフで、味はあまりないがもち米のような食感にピクルスかじりながら食べる。それにデザートとコーヒーがついて1800円くらい。もっと高いのもあったがこれで十分うまかった。

この店に行ったら1階より2階だ。1階は舗道を歩く観光客から動物園のコアラを見るみたいに覗かれる。まあそれでも料理はサイコーだから、ほかに入るくらいならコアラになってもここに入るかもしれないけど。

『夕坂童子』 唐組

2008-05-13 19:22:29 | 演劇
連休ぶっつぶしたシゴトが終わって今日は久しぶりの休み。とはいえ過労シするようなモーレツサラリーマンではないワタシ、この前の日曜の夜はテキトーに切り上げてこんなの見てきた。
隅田川の辺の足場鋼管の劇場で見て以来、唐組の芝居は3回目かな。いつも寒い。地べたにムシロしいてその上にベタ座りだから、見ている間にお腹が痛くなるんじゃないかと思った。

始まる前にプログラムのあらすじ読まなかったので、流れがつまめないまま、ヴィトンがとんびになったり、タワシがわたしになったり、そういう語呂合わせの中にそれなりに言葉の高揚感というか、どうやら夕陽が坂の上から射し込んでくるその瞬間に、そこに翳された手袋が金色に輝いて、、なんだかかんだかわけがわからないのだが、まあいつもこんな感じだ。
昭和40年頃の時代へのノスタルジーというか、隅田川のときはワタナベのジュースの素で緑魔子と石橋蓮司が盛り上がっていたかと思ったら、今回はビクターのお犬サマと蓄音機のラッパがそれぞれ焼き鳥屋の大将と朝顔になって、夕陽を反射してラッパが金色に光る、という仕掛け。

芝居の最後では役者がいつものように水に飛び込んで、舞台の後ろが取り除かれて花園神社の境内が舞台になる。とんでもないマンネリなんだが、それもわかった上で見に来ているわけで、ケッコウ、さわやかな芝居だったんじゃないかと。

作・演出 唐十郎
5/11、新宿・花園神社境内紅テントにて

『わたしたちに許された特別な時間の終わり』 岡田利規

2008-05-04 18:25:01 | 文学
連休??何それ?

この前アサヒの夕刊にこの人と五反田団の前田サンとが、今活躍中の若手演劇人みたいな感じで載っていて、流行に疎いワタシはそのとき二人を初めて知って、たまたま切符が安かった前田サンのほうだけ見たのだがいまひとつピンとこなかった。そしたらこの人がこの本で大江健三郎賞獲ってしまって、こんな人が出てくるのを待っていたみたいな感じで絶賛していたもんだからついつい読んでしまったのだが、読んでるうちに微妙な興奮が沸き起こって、電車の中で2回読んでも、その感覚はなかなか消えない。

話はふたつあって、イラク戦争開戦間近の頃に、それを遠まわしにテーマにしたパフォーマンスが六本木であって、そこで知り合った男女がそのまま渋谷のラブホテルに5日間コモって、そろそろ戦争が始まっているだろうなと思いながらテレビも見ずに5日間ヤリまくって、5日目に外に出たら世界が変わって見えたけれど、すぐにそれも元に戻った、みたいな「三月の5日間」が一つ目。
二つ目はオンナが朝起きたらバイトに行く気がしなくて、そのままベッドの中でゴロゴロしている間に、夫であるオトコが深夜のバイトが終わって、次のバイトに行くまでの間、ファミレスで居眠りをしていて、その光景を想像?しながら昔のことを思い出し?て、、、結局ベッドから出ずにいたらゴキブリが這ってきて、クロゼットの中に入っていった、みたいな「わたしの場所の複数」。

いったい何がテーマで、作者は何を言いたいんだろうみたいにまじめに読むとどちらもキワメテ難解な話で、しかも、独特な構成?で、「三月の5日間」のほうは書き手の一人称で話が進んでいくのに、急に突然書いてる人がオトコからオンナに変わったりして、ただそれが「三月の5日間」のほうは大きく改行されていたりしてまだわかりやすい。技巧的といえば技巧的で、文学部の小説科みたいなところで教えているような書き方だ。
一方、「わたしの場所の複数」では書き手はオンナで変わらないのだが、時間と場所が何の前触れもなくコロコロ変わって、過去に急に戻ったかと思ったら場所まで夫のいる場所にホントはいないはずのオンナの目で一人称で書かれたりして、そういうところのおもしろさで、話そのものは何かが起きて、誰かが死んだりするようなものではまったくない。

前田サンの芝居でも、同じ場所で急に時間が入れ替わって死んでるはずの人が出てきたりしていたが、そういうことを説明なしでして、それに気付いたときに時間を飛び越えたふんわりした感じを感じさせようとしているような。
ただそういう技巧的なことだけでもなさそうなのがこの人のスゴイところなんだろう。文体もいわゆるブログ体とでもいうか、一人でボケて突っ込んで、カッコ書きで隠れた心情がほとばしるみたいな、オマエの言いたいことはなんだ、みたいなコト言っても仕方ないような書き方。

本の帯には高橋源一郎サンが、かなりウガッタ言い方で、イラク戦争について書かれた最も優れた小説、みたいに絶賛しているのだが、ワタシとしてはあとの「わたしの場所の複数」のほうがおもしろかった。
これを書いているオンナの人はもう死んでいて、その魂がいろんなところや時間を浮遊しながら、人のアタマの中に入り込んだりしながら、犬が臭いかぎながらあっち行ったりこっち行ったりするように、意識が勝手に書いているんじゃないかと、それで最後は死んでいるジブンがゴキブリになって生きていた頃のジブンの目の前に現れる、みたいな、なんかアタマの中がおかしくなりそうだ。

それにしても30代前半でこんなすごいのを書いて、この人はいったいどこまで行くんだろう。50を目前にしてやっとひとつ書けたかと思ったら、次がなかなか書けない。やっぱり才能の差ってあるのね、って思っていたらコレを読んでというわけではないが2作目が見えてきた。
それはワタシの父親の、ある意味においては普通ではない死の記憶から始まって、あの時のサランラップに包まれた肉の感触を手の先に思い出しながら、それをジブンの、目の前に迫った老後の日々の終わりに重ねずにいられないオトコの物語になりそうなのだ。
いつか必ず死ぬというジカクだけを抱きしめて、休日つぶして働かされている。

2007年 新潮社刊