孫ふたり、還暦過ぎたら、五十肩

最近、妻や愚息たちから「もう、その話前に聞いたよ。」って言われる回数が増えてきました。ブログを始めようと思った動機です。

歴史は消すもの、造るもの。

2015年10月18日 | 日記
台湾の二二八事件は中華民国・国民党にとっては実に都合が悪い事件であったため、長いこと市民が話題にすることは出来なかった。実際、あの事件は「台湾大虐殺」と呼ばれることもあるそうだ。

今、台北市民の憩いの場であり、早朝、市民が太極拳や体操をする広大な二二八和平公園は、1996年2月28日、当時の陳水扁台北市長(後に中華民国総統)が二・二八事件で犠牲となった台湾住民を追悼する二二八和平紀念碑を建立し、公園の名称を二二八和平紀念公園に改めたのだった。

そして、日本人ですら26年前の天安門事件と言ってもよく知らない若者がいるだろうが、支那ではこの言葉はご法度であって、インターネットでこの言葉を検索すると、すぐにネットが繋がらなくなるというのは周知の事実である。



天安門に集まった10万人の学生中心のデモ隊の約数千人が軍隊に殺害されたと言われるが、詳細は藪の中である。戦車の前に立つ青年の映像はかなり衝撃的だった。



支那がユネスコの世界記憶遺産に「南京事件」を申請して、登録されたというニュースが大きく報道されたが、西欧の宣教師が当時の南京市の人口を調べて、20万人だったという記録がありながら、日本軍は30万人を虐殺したと主張している。

終戦後、南京の人口は25万人に増えているが、20-30=25という矛盾は、実に支那っぽい笑い話である。

南京事件の前に起きた「通州事件」を日本人は詳しく知っておくべきだ。これこそ、ニュース解説の達人、池上彰先生に分かりやすい解説を週末のゴールデンタイムにお願いしたい。



通州事件を見ると、支那人の猟奇的な残虐性がよくわかる。当時の新聞記事や写真などの一次資料も数多く残っている。





為政者がコロコロ変わるたびに、歴史を書き換え、都合のいいように塗り替えてきたという人たちだからとは言え、我々とは違いすぎて、理解の度合いを過ぎている。





あの学生デモ隊の資金源は?

2015年10月18日 | 日記
「この戦争法案が成立したら、国会周辺は大変なことになる・・」とリーダー各の学生さんが豪語していたが、何の混乱も無く政権支持率も横ばいだったようである。



それでも、マスゴミや野党政治家さんたちは、学生さんたちが大勢デモをやってくれたことを盛んに高評価して、これからも更なる過激な行動をと期待している。

そんな彼らが、捏造記事で有名なあの全国紙に意見広告を出したというではないか。実際に実物を見たわけではないので、どのくらいの意見広告だったのかは知らないが、ネットに出ていた画像を見ると、結構な大きさであるようだ。



全国紙に意見広告を出すとなると、かなりの料金を払うことになるのだろうが、その金は何処から出ていたのか気になるところだ。因みに、その新聞社の広告料金はネットで確認できる。



小さくても300万円以上するのだから、デモ参加の学生さんのカンパで集めたとしたら、随分皆さんお金持ちなんだろう。

ところで、彼らは政治団体として届出をしてあるのだろうか?

政治団体とは何かというと・・・

『政治資金規正法においては、下記の活動を本来の目的とする団体及び下記の活動を主たる活動として組織的かつ継続的に行う団体を政治団体としています。
 (1) 政治上の主義若しくは施策を推進し、支持し、又はこれに反対すること
 (2) 特定の公職の候補者を推薦し、支持し、又はこれに反対すること

政治団体は、その組織の日又は政治団体となった日から7日以内に、郵便によることなく文書で、組織等された旨、当該政治団体の目的、名称、主たる事務所の所在地及び主としてその活動を行う区域、代表者・会計責任者・会計責任者の職務代行者の氏名、住所、生年月日及び選任年月日等について、下記のとおり、都道府県の選挙管理委員会又は総務大臣に届け出なければなりません。』

政治団体ならば、責任者・会計責任者を選挙管理委員会または総務大臣に届出ているはずだが、そうであれば意見広告の資金の出所も明確になるはずだ。

どこかのテレビでも週刊誌でもいい。ニュース解説の達人・池上彰先生でもいい。



子供だけでなく高齢者にも分かるように、分かりやすい解説をしてくれ!

辻谷氏、逝く。

2015年10月17日 | 日記
「世界一の砲丸職人」が先月20日に他界していたことを知ったのは、昨日の朝刊のコラムを読んだときだった。

アトランタ五輪からシドニー、アテネ、と三大会連続で、金銀銅メダルの受賞者全員が埼玉県富士見市の町工場で、手動の汎用旋盤で削った、辻谷政久さんの砲丸を選んで投げていた。



鋳物の玉を通常は、数値制御のNC旋盤を使って球体に削っていくのだが、完璧な球体に削れても、重心は中心となるとは限らない。

辻谷さんはそれを勘を頼りに削っていき、ピタリと中心に重心を合わせるのだそうだ。実際にその砲丸を投げると、他の砲丸の記録より1~2mは遠くに飛ぶのだそうだ。

その辻谷さんを一躍有名にしたのは、北京五輪のときに砲丸の提供を固辞したからであった。その理由は、平気で粗悪な偽造品を作る支那の姿勢が許せなかったこと。

そして支那で開催されたサッカー、アジアカップの際の支那人たちの卑劣なブーイングや彼らのマナー無視の暴挙が我慢ならなかったからだという。

北京五輪では、辻谷製ではない日本製が出回って、選手達の信用を無くした事に、心を痛めていたそうだ。

朝刊のコラムは、辻谷さんを悲しませる東洋ゴムや旭化成建材の不正が続き、「日本のものづくり」は大丈夫か、と締めくくっていた。

ガバナンスだの、コンプライアンスだの、5Sだのと言うことは立派だが、精神が歪んでいてはこういう不正は決して無くならないものであろう。

辻谷さんの場合は、精神にまったく歪みがなかったから、重心と中心がピタリと合う砲丸になったに違いない。

見た目は同じようでも。

2015年10月17日 | 旅行
台湾旅行のとき、観光地で遭遇する一団が、聞えてくる話し声から明らかに日本人ではないとわかるが、果たして彼らの国籍は?と、一瞬首を傾げることが何度かあった。

故宮博物院では、その大声から迷うことなく支那大陸からやってきた迷惑この上ない観光団だと分かったが、猫空でゴンドラに乗るときに遭遇した数十名の高齢者の一団など、一瞬では分からなかった。

しばらく観察すると、列に並ぶ姿やその話し振りから、「ああ、これは台湾人だな。」と分かるのだった。

台北市内の総統府の裏手でバスから降りてきた一団は、支那人達だと瞬時に判別できた。なぜならくわえタバコを街路樹の根元にポイと捨てるわ、唾を吐き捨てるわ、民度の低さをこれでもかと見せ付けてくれたからだった。

帰路に着くとき、台北の桃園国際空港でも多くの団体がいたが、これは手にしたパスポートを見る事で判別できる。

 支那人のパスポート

 台湾人のパスポート

先月の台北旅行中には、二度ほど経験したが、私はパブロフの犬のように、あの言葉を聞いた瞬間にサッと鳥肌が立つようになるので、すぐにその場から離れるようにしている。南朝鮮自治区の言葉である。

最初は、タイペイアイで京劇観劇をしたときだった。今回は真ん中あたりで観ようと席を決めたら、後ろの方からあの嫌な言葉が聞えてきた。

すぐに右翼席に席替えして、デイパックを置いて席を確保し、トイレに行って戻ってきたら、何と先ほどの南朝鮮自治区の連中が右翼席の後ろの方に移動しているではないか。

私は、すぐに荷物を手にして、今度はまったく逆の左翼席に移動したのだった。

二度目は、最後の日の早朝、龍山寺にお参りに行った時だった。参拝して門を出ようとしたら、10名ほどの集団がガイド風の男性に導かれて境内に入ってきた。

中には入らず、ガイドがあの耳障りな言葉で何か説明しているようだった。それが終わると、ガイドはカメラで集団の記念撮影をして帰っていった。

「ハナ、ドゥル、セッ!」(イチ、ニィ、サン)と言ってシャッターを切るとすぐに帰って行ったところを見ると、多分「どうせ、中に入っても大した事無いですから、ここは写真をとるだけにしておきましょう。」とでも言って、立ち去ったのだろう。

以前、タモリが、何かの番組で「海外に行って、関西弁を聞くとムカつくね。『えらい、暑いなあ・・』とかさ。」と言って笑わせていたが、私はそれを聞いて、痛く同感したものだった。

ただ、それが私の場合、いまでは関西弁ではなく、南朝鮮自治区の言葉に変わったと言えるが。


のらくろ去って、豚来たる。(終章)

2015年10月17日 | 日記
1945年(昭和20年)10月25日、台湾は中華民国の領土になった。戦勝国の米英中によるカイロ宣言(1943年のカイロ会談に基く)での合意結果だということになっている。



実際には、香港の帰属問題で、イギリスのチャーチルはこのカイロ宣言には署名していなかったという事実が判明しているようだが、いずれにしろ日本の敗戦と同時に、支那本土から、台湾行政長官として、陳儀という男が送り込まれてきて、台湾の悲劇が始ったわけであった。

その切っ掛けが、1947年2月末に起きた二二八事件で、台湾の民衆の決起は台北のラジオ局から発せられた情報を得て、台湾全土に広がっていったのだった。

行政長官の陳儀は表では、民衆の代表たちとの話し合いで、彼らの要求を受け入れる素振りを見せながら、その実、裏では支那本土の国民党本部に電報を打ち、「台中の嘉儀市は民衆の手に奪われた・・・」とかいった嘘の報告をしていた。

それを鵜呑みにした中正こと蒋介石は、憲兵隊一団を援軍として基隆に派遣した。

陳儀は、これでは援軍として不足であると、「一団では足りない、一師団、あるいは少なくとも一旅団あれば、短期間で騒動を鎮圧できる、と更なる要請をしたのだった。

一旅団とは、2,000~5,000人ほど、一師団とは、1~2万人の規模だという。

そして3月初め、北部基隆と南部高雄に併せて二個師団が上陸した。武器など持たない台湾人たちを悲鳴の渦に突き落とす惨劇が各地に広がっていったのだった。





支那人や朝鮮人による拷問や処刑の仕方はいろいろ共通点があるが、日本人はまずそういうやり方はしない、という実に残虐なものが多いという。日本人の極悪ぶりを蝋人形などで展示した戦争記念館などに行くと、ひと目でこれは嘘だと見抜けるそうである。

つまり、自分たちがやるんだから日本兵だってやっただろうという思いから、デタラメにありもしない展示をしてあるらしい。

日本にもかつて酷い拷問はあっただろうが、妊婦の腹を切り開いて、赤子を取り出し、空中に投げて銃剣で突き刺すなどという卑劣なやり方をしたなどというのは、どこを探しても出てこない。

二二八事件の際の支那人の狂喜に満ちた残虐な処刑の仕方に、横に並ばせた人の手のひらとふくらはぎを「五番線」というストローくらいの太さの針金を突き通してつなぎ、次々と撃ち殺していって海に落とす、というものがあった。

これには、奇跡的に助かった方がいて、その傷と顔写真が記念館に展示されていた。

 手には針金が・・・

この事件での犠牲者には、政治家や地方の指導的な知識階級のインテリ層の方が多く、その総数は明確には分かっていないが、3万人程度ではないかという。

支那本土では、蒋介石の国民党が毛沢東率いる共産党と内戦を戦い、それに敗れた蒋介石は、1949年12月、台湾に「疎開」してきた。台北が中華民国の臨時首都となったのである。

外省人の支配する台湾と共産党の支配する支那本土からなる「二つの中国」という歴史が幕を開けたのだが、台湾は依然として戒厳令が敷かれていて、暗黒時代はさらに続くのだった。



現在の台湾総統、馬英九氏は香港生まれの外省人で、国民党の政治家だが任期は来年春までだが、支那共産党よりの政治姿勢が強く、反日親中の総統として君臨した。

そして、時期の総統として期待されているのが、先月来日した民進党、蔡英文氏である。



日本との強いパイプをアピールする上で、来日が意味するところは大きく、公式にではないが、安倍総理とも会談していたようである。ただ、支那のことだから有力な次期総統候補者に何をしでかすか分かったものではないため、日本での行動はかなりナーバスなものであったようだ。

国民党の総統候補者は、やはり女性の洪秀柱氏だが、発言が過激で支持率は低迷しているため、どうも朱立倫氏(現国民党主席)に交代するようだ。



中国の統一を明言するようでは、今の台湾では支持は得られないとみた支那共産党の力が当然働いた結果の候補者交代であろう。



世論調査の結果は、民進党候補が48%、国民党候補が28%ほどで、大差が着いているがまだまだどう展開するか分からない。

ただ、国民党政権が続くようなら、ますます台湾らしさが薄らいでいき、支那っぽくなっていくことは確かだろう。

二二八祈念館で展示物を見ていたとき話しかけてきたボランティアの方は、そのことを言うと、ニコニコして「どうか、よろしくお願いします。」と流暢な日本語で言って、チョコンとお辞儀していた。

 親日ぶり

 反日ぶり

南朝鮮自治区のうんざりする反日姿勢と親日の台湾は、どうしてこうも違ってしまったのだろうか。私の疑問は晴れない旅であった。


嘘つくな、マネするな。

2015年10月12日 | 日記
この時期、ノーベル賞の発表があって、日本人が受賞されると、「日本人の受賞者はこれまで合計何人ですか?」と決って質問される、と産経新聞のソウル駐在員がコラムで伝えていた。

質問した人は必ず、その後ため息をついて、何故日本人はたくさん受賞するのかと不思議がるそうだ。

数学者の藤原正彦氏が、ノーベル賞を取る国と取れない国の違いは、美しい自然に囲まれ美的感受性を育むことができる環境が歩かないか、そして自然を崇拝する精神性を重んじるという風土が存在するかどうかである、といったことをどこかのコラムか何かに書いていたと思う。

確かに、私はシンガポールに1年弱住んでみて、これを痛感させられた。いくら世界でトップクラスの教育を施しても、人工的な緑や土に育つ農作物などまったく目にすることも出来ない風土、雨季と乾季すら明確でない、一年中ただ暑いだけの気候では、美的感受性など育まれるはずがないのだ。

私は、ノーベル賞自体、特に平和賞や文学賞などは選考する人が、何か作為を持って選んだ結果のようで、過去の受賞例を見てもどこか胡散臭さが漂っていて、さほど関心を抱かないのだが、自然科学の分野では結果が明白でその功績は理解しやすい。

今回の受賞騒ぎも、マスゴミが大騒ぎすればするほど、私は引いてしまったのだが、ただ一つ、山梨の大村氏の娘さんのインタビューを見たときの一言が気に入ったのだった。



それは、大村さんが長女の育代さんによく言っていた言葉のことを話したときだった。「父は、いつも『嘘はつくな』と言っていました。」

さらに、大村氏は記者会見の席で、「マネをしてはだめだ。」とも言っていたのを聞いた。

この二点で、私は大村ファンになってしまった。

これらは日本人の伝統的な美徳でもあり、最近、日本人というか、日本人モドキというか、この国に住む人から次第に溶け出すように失われつつある日本人の構成要素だと思う。

特に近隣に住む十数億がこの真逆が服を着たような人種だから、迷惑この上ない。

どうせマネをするなら、大村氏の生き方を真似してみたらどうだ、と言いたいところだが、言うだけ無駄か・・・。

富士山、予想通りのお粗末さ・・

2015年10月12日 | 日記
2年前の6月だったか、富士山が日本人の大好きな世界遺産に登録させてもらえなくて、それでは芸術と信仰の対象という名目で、世界文化遺産として登録できれば、「世界遺産の富士山」として十分キャッチコピーになり得るのではないか・・・。

厳しい規準で観光客の減少を嫌がる山梨の強欲な観光関連業者たちを、こう説得して文化遺産の数ある構成資産のひとつに富士山を滑り込ませ、登録にこぎつけたわけだった。

ところが、富士山が抱える課題をたくさん提示される「条件付登録」だった。しかも、2016年2月までに回答しなければならないという「期限付き宿題」だったのだが、その宿題の「保全状況報告書」の原案が完成したと、ローカルニュースは伝えていた。

ネットで確認すると、『有識者会議の遠山敦子委員長(元文部科学相)は報告書の原案について「ユネスコに提出できる状況まで整えることができた。富士山は壮大なので保全管理に終わりはない。今後とも世界の宝として存続できるように協力していきたい」と強調した。』と出ていたので、「何とか間に合ったのか」と思ったら、これがとんでもない早とちりだった。

土産物屋や山小屋経営者などの観光関連業者が最も気にする、「来訪者管理戦略」に関しては、まったくまとまってはいず、GPS機器を登山者に配布したり、登山者に聞き取り調査などをして、それらを分析して、1日当たりの登山者数を平成30年までに設定するという、体の良い「回答先送り」となったわけだ。

(どうせ、行き着く先は、登山シーズンの最盛期の数日間だけを規制対象として、他の期間はユルユルの規制で、観光業者を説得する魂胆なのだろう。)

富士山の景観維持や自然環境保護というより、富士山に群がる観光客を一人でも減らしたくは無いと願う観光関連業者の方をおもんばかった、きわめて小役人的な対応で、知った途端苦笑いしてしまった。

忘れてはならない。かつて富士山は「糞の山」と呼ばれていたことを。登山客が残した排泄物は富士山の山肌に定期的にドサーッと垂れ流していたのである。麓から見て白い筋状の何かが見える。「はて?雪かしらん?」と思ったら、何と排泄物に混じったトイレットペーパーだったのだ。



ピーク時には、こういう状況で富士登山を満喫する登山愛好家が落としていくお金は膨大なもので、良い悪いは別にして、これは今に始ったことではなく、「富士講」がさかんだった江戸時代から連綿と続いてきた利権資産であると私はみている。



富士山を訪れる登山者たちの中に、マナーなどまったく気にしない連中がどのくらいいるか恐らくシーズン中にそういう輩と関わった事のない方は想像できないだろう。それは、国籍や人種を問わない。自然愛好家のような風体の登山者にもたくさんいた。



そういうのも土産を買ったり、食事をしたりして、「銭」を落として行ってくれる大事な「お客様」なのだから、ワシらは歓迎するんじゃ、と言うならそうはっきりと言えばよい。

「だいたい、マイカー規制などするのがおかしい。」と有識者会議の席上で文句を言っている観光関連の代表者らしき方がテレビのニュースに映っていたが、本音のかけらが出てしまったのだろう。



借金の返済期限が近づいたので、あらためて「返済計画を提出」してお茶を濁せばいいだろうという対応は、「納期厳守」を誇る日本人としては極めて恥ずかしいことではなかろうか。

「ユネスコ様」の応対が見ものである。





企業の不正行為と消費者意識。

2015年10月11日 | 日記
マニラは人口が増え続け、今や1300万人近くになったという。LRTという鉄道もあるが、市民の足は何といっても「ジプニー(jeepney)」と呼ばれる、簡易バス、というか乗り合いトラックである。



米軍払い下げのジープを改造して、派手なアクセサリーを装備し乗り合いバスのように製作したのが始りだそうで、マニラ市内には無数のジプニーが走っている。

後部から飛び乗ると、中は両端にベンチ状の客席があり、料金は30円ほどで、客の手渡しで運転手にまで届けるというシステムである。各車ごとに走る路線は決っているのだが、その表示を読み取って、目的地にたどり着けるようになれば、もはやあなたは立派な「マニラ市民」担ったと言えるだろう。



私も何度か乗ったことはあるが、とても外国人が一人で利用できるものではないと感じた。

この車はディーゼル車で、騒音もひどいが、それ以上に真っ黒な排気ガスを吐き出しながら走るため、マニラの町の大気汚染は目も当てられない。

30分も街を歩いてから、ティッシュで鼻の中をグリグリっとするとティッシュは真っ黒になった。あんな空気を吸って、体にいいわけがない。

先月3日の北京での「どっちらけ軍事パレード」のときの北京市の澄み切った青空は、1週間前から市内の1927の向上の操業を停止させた成果であり、あれから2週間ちょっと経ってから開催された北京マラソンのときは、北京のPM2.5濃度は417μg/立方メートルだった。



日本の環境基準の12倍の数値で、まさに異常な「最悪レベル」。 (日本の基準は35μg/立方メートルが健康を維持する基準)

しかし、主催者側は大会を決行。 約3万人のランナーが参加したということです。

ディーゼル車が大気汚染の元凶であるため、自動車メーカー各社は、EUの排ガス規制の動きを何とか食い止めようと熱心に工作を繰り返してきたが、なかでもフォルクスワーゲン社は熱心であったという。

そのVW社が排ガス規制の緩いアジア諸国の中でも支那でやりたい放題にやって売上げを伸ばしてきたことは、今考えると当然の帰結だったと言える。

支那での販売台数が年間400万台以上だったのに比べて、人口の差こそあれ米国では数5~60万台レベルだった。

「今や Made in Germany は、『欺き(あざむき)』を意味する」

ドイツ語で「鏡」を意味する有力ニュース週刊誌シュピーゲルはこう嘆いて、VW社の2015年決算が赤字に転落する見通しだと伝えている。

EUはCSRに非常に熱心に取り組んできたことで知られ、それが世界的な標準になり、他の国もそれにならってきた傾向があった。

「CSR(Corporate Social Responsibility)=企業の社会的責任」とは、企業が活動の基盤とする社会との関わりにおいて負う責任を意味する。

今回のVW社のしでかした不正は、これを根底から覆すものだ。

9月18日、アメリカ環境保護局(EPA)は、フォルクスワーゲン(VW)社のディーゼル車で、排ガス試験の時だけ排ガス量を減らす違法なソフトウエアが使われていたと発表した。

これは要するに排ガス規制に準じているかの試験のときに設定される走行モード、つまりエンジンをかけてから何秒後に時速何キロでスタートして、何分走ったら時速をこうしてああしてと細かに決められた試験用の走行プログラムであることを、車に搭載されたコンピュータが感知して、その場合は排ガス低減装置を働かせ、規制に即した排ガスになるようにする。

しかし、試験ではない通常の走行だとコンピュータが判断すれば、排ガス低減装置を切り、燃費重視の走行にして、規制をはるかに超える排ガスを垂れ流すと言うものだった。

アメリカ環境保護局(EPA)の発表では、不正対象車が実際に走行した時の窒素酸化物(NOx)の排出量は、基準値の10~40倍にも達したそうだ。しかも、これを指摘するとVW社の技術者は、何度も言い訳をしてきて、その都度新たな指摘を繰り返し、「とうとう言い逃れできなくなって」不正を認めるに至ったとのことだった。

従業員や下請け企業には厳しい品質や改善を要求し、社会に向ってはCSR活動をアピールしながら、影では平然と法律を無視して、不正を働く・・・と言う構図は、何もVW社だけとは限らないだろう。

グローバルスタンダードだの、コンプライアンスだの、コーポレートガバナンスだのと掛け声は立派でも、不正は繰り返されている。

VW社の不正事件は、決して『対岸の火事』として見過ごすことがあってはならない。

消費者の対応もこれには大きな責任を伴う、と感ずる不正事件だ。

20年ぶりのボウリング。

2015年10月10日 | 孫ネタ
今日は以前から初孫なっちゃんに誘われていたボウリングに行ってきた。

オリンピックの種目選考からは外れたが、私が高校生の頃などは、私の住む人口2万足らずの田舎町にもボウリング場ができて、週末などは待ち時間1時間などということは、珍しくなく大変なブームであった。

多分私が最後にボウリングをしたのは、愚息たちが小学生だったから、20年ほど前になると思う。大学生の頃はブームがすっかり下火になって、1ゲーム50円くらいにダンピングされたボウリング場で、1日10ゲームも投げた事もあった。

テレビのスポットCMなどでボウリングの宣伝をやっているのを見たりして、何となくブームの再来を感じてはいたが、なっちゃんに誘われなければ、行く気にはならなかったと思う。

午前10時前に、なっちゃん一家はやってきた。なっちゃんは、この前の台湾旅行のお土産で私が買ってきた「キティちゃんデイパック」に、着替えやUNOなどのおもちゃを詰めた「お泊りセット」を背負っていた。



着くなり、なっちゃんは、「おじいちゃん、キティちゃんのリュック、ありがとう」とお母さんに教えられた通りのセリフをゆっくりと言ってくれた。

何となく、なっちゃんには子供用のリュックをお土産に買おうと考えていたが、この『ハローキティ』というキャラクターは、台湾で絶大な人気があるようで、夜市のバッグ専門店や台北市内の雑貨店には、キティちゃんグッズしか並んでいなかった状況だった。



そういえば、台湾のエバー航空といえば、キティちゃん一色で有名だ。機内はキティちゃんファンにはたまらない、トイレットペーパーから紙コップまでキティちゃんだらけだそうだ。

なっちゃんが、アンパンマンや機関車トーマスがお気に入りな事は知っていたが、果たしてキティちゃんを気に入ってくれるか心配だったが、まずはそこそこ気に入っているようで安心した。

そういえば、どこの店でも、私が子供用のバッグの並んだ棚の前で商品を手にしたりして見始めると、店員のお嬢さんが駆け寄ってきて、何か台湾語で熱心に話しかけてきたものだった。

私は、英語で「申し訳ない。私は中国語を話さないので、あなたの仰っていることが分かりません。」と言うと、店員は必ず照れ笑いをしながら、「あら、すみません。ここの棚は子供用ですよ、と言いたかったんですよ。」と言うのだった。

「実は孫娘へのお土産を探しているんです。」と言うと、「お孫さんは何歳ですか?」とか、「これは人気No1ですよ。」とか親切に対応してくれた。


五歳の女の子にボールが投げられるのだろうか少し疑問だったが、始るとすぐにその仕掛けが分かった。

通常、レーンの両側にある、英語で言う 「gutter (ガター)」という「溝」の端から、高さ30cmほどの落下防止の柵が出ている。そして、「ボール・スライダー」という名の滑り台のような補助具からボールを滑らせてピンを倒すのである。



なっちゃんは、すでに何度も経験済みのようで、自分でボール・スライダーを運んでいき、位置を決めて「エイッ!」とボールを転がり落とすのだった。



まだるっこしいほどゆっくりと、ボールはゴロゴロと転がっていきピンをスローモーションのように倒したり倒さなかったり・・・



なっちゃんが投げるたびに一喜一憂するのを見て、私とカミさんは、始めてみる光景に腹を抱えて笑ったものである。

二投目のスペアを狙うために、ボール・スライダーの位置を真剣な表情で微妙に変えるしぐさが、可愛らしくて何度見ても飽きなかった。

昔は、スコアを各自が鉛筆で記録したものだったが、今ではその「手間」は解消されてすべて自動的にスクリーンに表示される。

スコアは散々だった。転倒して醜態をさらすまいと、それだけに集中してスコアどころではなく、かろうじてなっちゃんのスコアより少し良かった程度だった。



土曜日の昼近くで場内には数人の客しか見えなかったので、これではとても「ブーム再来」とは言えないね、と帰りの車内で笑った。

「お昼はどこかで食べていこうか。」という事になり、途中の回転寿司店に寄った。昼時とあって、店内は混みあい、待ち時間が20分だった。



回転寿司も久しぶりで、形式が随分洗練され、便利になり、食べ終えた皿を積み上げるスタイルから、備え付けの皿投入口に放り込んでいくスタイルになっていた。自動的に皿の数がカウントされ、備え付けの液晶画面に表示される。

しかも、投入数が5枚ごとに、あたりはずれの出るくじの動画が始り、当たるとプラスチックのボール状の入れ物に入ったおもちゃが出てくる仕掛けだ。

なっちゃんは、そのくじが楽しみでジッと画面を見ていると、何度目かに当たって、賞品のおもちゃが出てきた。

賞品のおもちゃは、なんと小さなキティちゃんのアクセサリーだった。その回転寿司のオリジナル賞品だそうで、「じゃあ、なっちゃん、レア物でよかったじゃない。」とカミさんが言うと、「レアモノって何?」とすぐに聞き返すなっちゃんだった。




今朝の朝刊から・・

2015年10月10日 | 日記
休みだというのに早めに目が覚めてしまうのは、歳のせいだと思うが、朝刊が届くのを待つようでは、我ながら目覚めが早すぎないかと、苦笑いせずにはいられない。

インスタントコーヒーを口にしながら朝刊を広げると、目に飛び込んできた見出しは、『 「南京大虐殺」記憶遺産へ 』

その記事の横には、シリーズ「歴史戦」のコラムで、見出しが『日本、ユネスコ拠出金 凍結も』とある。

記事を読まなくても、大体どういう内容かは理解できる。

ユネスコ記憶遺産に支那が申請していた「南京大虐殺文書」がどうも登録される見通しとなった。日本の政府筋は、これに対して「断固たる措置を取る」と述べ、ユネスコの分担金拠出などの一時凍結を検討する構えを見せている、という内容。

今更ながら、のんびりした対応にうんざりする。

何度も言うように、日本人はユネスコだの世界遺産だのと騒ぎ過ぎ、はしゃぎすぎである。支那や南朝鮮自治区はそういう日本人の姿勢を観察して、効果的だと判断し、これを利用してくるわけだ。

先般、沖縄の売国知事の爺長が、国連の人権理事会で嘘八百を並べ立てる演説をしたことも支那と密通している沖縄極左マスコミとの共同作戦の一環であることは明白だ。

研究成果が偉大であることはまったく否定しないが、ノーベル賞を受賞したといっては、無邪気にはしゃぎまくるマスコミにも、冷静さを求めたい。

自然科学は万人が認める結果が伴うのでまだ理解できるが、平和賞などは欧米がスウェーデンと結託して政治利用していることは火を見るより明らかで、金大中が、カーターが、オバマが、アウンサン・スーチーが平和賞を受賞したのは、その典型である。

何度でも繰り返すが、ユネスコだの、ミシュランだの、アカデミー賞だの、手放しではしゃぎまくって、ヒョットコ踊りをしだすような煽り方をするマスゴミには、冷や水をぶっ掛けたくなる。

それになんだ、あのお花畑作家がノーベル賞を逸したといっては毎年毎年大騒ぎして、日本人なら残念がれ、とでも言いたげなあのマスゴミの姿勢は。

新聞のローカルのページには、地元の赤字空港が1つだった支那路線を8ヶ月間で14路線に「爆増」・・・という見出しがトップに出ていた。ただし・・・と記事は続く。

需要が減少する冬は、3路線は運休予定だという。需要が少ないと見れば潮が引くように、一方的に減便・運休するような支那路線に依存しすぎている現状に警鐘を鳴らすのは、この新聞くらいなものだろう。 

今の県知事が赤字空港を造ったわけではないが、あのしょぼい空港にイスラム教徒を呼び込むためにイスラム教の礼拝施設を造るだの、モスリム向けの食堂施設を造るなどという構想は、「おもてなし」を取り違えたた安直な愚策だと思う。

一面に戻って、一通り記事を見直すと、『米軍艦船、近く南シナ海内 航行か』という見出しがあった。

オバマ大統領が、支那の南沙諸島近くに軍艦を航行させる可能性があると伝え、これに支那の報道官は反発している、という記事だった。

「支那の余命はあと半年」と宣言する評論家もいる。支那の観光客の爆買いぶりも一時の勢いはなかったようだ。

尖閣あたりにちょっかいを出してくる可能性が大きくなってきているような気がする。

視点を高めに置いて、マスゴミの煽りには動ぜず、冷静に動きを見守りたいものだ。





のらくろ去って、豚来たる。(第3章)

2015年10月10日 | 日記
1947年2月27日、夕刻。

林江邁 当時40歳過ぎの寡婦は、生活のために違法とは知りつつ、生きるために闇タバコを路上で売って得たわずかな収入で生き延びていた。

その日も専売局の密売取締官と外省人官警が、取り締まりに現れた。

逃げ遅れた老婆を捕まえ、売上金とタバコを没収しようとする役人に彼女はすがりつき、売上金だけでも返して欲しいと泣き叫んで懇願した。

 タバコ露天商の取締り

そんな彼女を払いのけ、事もあろうに彼らは銃床で彼女の頭部を叩きつけた。老婆は頭から血を流し、その場に倒れこんだ。

一部始終を見ていた多くの通行人たちが続々と集まってきて、官警たちを取り囲んでその暴行を非難し始めた。

日頃から役人や官警たちの差別や横暴に苦しめられていた市民は次々に群がってきたため、それに恐怖を感じた官警の一人が、こともあろうか群集に向ってピストルを発射して、青年を撃ち殺した。

これが、二二八事件の発端だった。

 犠牲者の林さん

台北市民の怒りはこのことで頂点に達した。

群集は逃げる官警たちを追いかけ、かろうじて彼らが逃げ込んだ警察建物を取り囲んで、警察当局に当事者の引渡しを求めたが、当局はそれに応ずるどころか彼らをかくまった。

群集は一晩中その場を離れず、事件の一部始終は一夜にして台湾全島に広まっていった。

翌、2月28日。

群集は益々膨れ上がり、銅鑼を鳴らしながら「犯人に厳しい処罰を! 殺人は命で償え!」と書かれたのぼりを掲げながら、市民に抗議行動への参加を呼びかけた。

早朝、一部の市民は台湾放送局に進入し、決起の放送をするよう要求した。その放送局こそが今の台北二二八記念館である。



ラジオ局は彼らの言い分を制止することは出来ないと判断し、放送をしたため事件の詳細が瞬く間に台湾の隅々にまで拡散した。こうなると、自制のきかない市民たちが外省人たちを襲うような小競り合いも発生し始めた。

デモ隊は、「専売局局長の辞任」「台湾行政長官、陳儀の辞任」を要求してデモを続けた。

そして、午前10時。専売局の倉庫に集まった群集は、保管してあった専売品の酒、タバコ、マッチなどを道路に放り出し、燃やしてしまいました。炎は群集の怒りと共に天を突き激しく燃え、見物人も次々に集まってきた。

行政長官の陳儀は、その日の午後になって台北市に戒厳令を敷き、憲兵を集めて武力でもってデモ隊の鎮圧を試みた。しかし、群集が収まる気配は無かった。



憲兵隊はついに機銃掃射でもって群集を威嚇し始めた。この機銃掃射で十数名が死亡し、群集の怒りは頂点に達した。

台湾放送局を占拠した市民は、ラジオ放送で、「軍艦マーチ」や「君が代行進曲」などを流し、日本語で決起を指示し続けた。

台北市の議員たちは緊急会議を開き、「戒厳令の即時解除」「法に基く犯人の厳正な処分」「死傷者に対する補償金」「調査委員会の即時設置」などの要求事項を携えて役所に陳情に向った。

行政長官の陳儀は、秩序が回復するのを待って戒厳令は解除し、逮捕した市民は即時釈放することに同意をした。(戒厳令は実際には、1987年まで40年間続いた)

この二二八事件が収束した後も、台湾全土で本省人と外省人の対立が続き、それは今日まで尾を引いている。



赤色テロに対して、為政者や権力者が行うテロを「白色テロ」と呼ぶが、この事件以降台湾各地で白色テロの犠牲者が続出することとなる。そして、その正確な犠牲者数は3万人とも5万人とも言われ、未だに不明な点が多い。



しかも白色テロの対象は、市民だけでなく弁護士、医師、学者など多くの知識人や、政治家になることは、あのおぞましいカンボジアのポルポトによる大量虐殺を彷彿とさせる。



台湾に出発する際に待合室でみた支那人らしからぬ、静かだった連中が皆台湾に戻ろうとする台湾からの観光客だったと知って、私はこの違いは何なのだろうかと感じたが、そこには「日本による台湾統治時代」がかなり大きく影響していたんんだなあと、台湾を訪れるごとに実感する。

日本統治時代に、台湾人の民度は本土の支那人のそれとは比較にならないほど大きな差を生んだのだと思う。

時々日本人の時間厳守や、規律を重んじる姿勢が窮屈に感ずることがあるが、台湾には、その「日本精神」こそを大きな財産で、誇りにすら感じている方が多い。


以下、終章へつづく・・


のらくろ去って、豚来たる。(第2章)

2015年10月08日 | 日記
二二八和平公園の一角にある「台北二二八記念館」とは別に、歴史博物館とは呼べない「国立歴史博物館」のすぐ近くに、「二二八国家記念館」という資料館がある。



訪れたときも観客は私だけだったが、展示資料が少なく説明も漢字だけで英語の説明文もほとんどなかった。

どういう経緯で似たような資料館が二つも市内に存在するのかは分からないが、どちらかというと、あの虐殺事件で無くなった方々の情報を中心に展示してあるようだった。

とにかく、人間として扱われなく無残に殺された台湾人が多くて、おまけに事件そのものを歴史から消し去ろうという魂胆があったため、資料そのものが少ないようである。

さて、日本は大東亜戦争に敗北した。1945年8月15日に天皇の玉音放送と共に
台湾映画「非情城市」は始る。

その年の10月24日、国民党主席蒋介石の命を受けて、陳儀が台湾行政長官として赴任してきた。後に数万人の台湾人を虐殺することになる張本人である。

当時は日本にいた台湾出身者たちも、「引き揚げ兵」として次々と祖国に帰ってきていた。日本人として戦った戦争が終わって、中華民国に接収された祖国台湾に復帰すれば戦勝国の一員になれるというほのかな期待もあったようだ。

しかし、祖国に着くや否やその希望は音を立てて崩れ去り、台湾から日本に引き揚げる日本兵に混じって日本へ戻ってしまう台湾出身者も多かったそうだ。

そのあたりの様子は、当時18歳の帝国陸軍兵だった蔡コンタン氏の名著「台湾人と日本精神」に詳しいので、少し引用させていただく。



『1945年10月17日、アメリカの軍艦で運ばれてきた約1万2千名の中華民国軍先遣隊が台湾北部の基隆港に上陸し、台北を目指して進軍を始めた。ところが、その行軍を目の当たりにした人々は、言い知れぬ不安に包まれたのである。・・・

・・それまでの台湾人にとって、軍隊のイメージは、威風堂々と行進する日本軍の姿だった。一兵たりとも着衣に乱れが許されなかったそんな日本軍に比べ、台湾民衆が迎えた”祖国”の軍隊は、天秤棒に鍋釜を下げ、みすぼらしいボロボロの綿入り服に身を包み、ダラダラと歩くわらじ履きの兵士達であった。・・・

・・沿道の民衆は、その光景に絶句し、打ち振られる旗の波は止み、歓声は次第に静まり返っていったのである。・・・

・・それはまた、台湾の「悲劇」のはじまりだった。』

一夜にして、公用語は日本語から北京語に変わり、それだけで台湾の市民生活は大きな混乱を招くことになった。

大陸からやってきた警官や兵士たちは、日本語を使うことを許さず北京語を強要して、日本語を話したといっては逮捕をくりかえし、犯罪をでっち上げては保釈金をネコババするなど、風紀は乱れに乱れ、台湾はこうした中国人たちの食い物にされていった。

どんなことがあっても賄賂は受け取らなかった日本人の警官と違い、賄賂を強要する景観の横行で台湾社会は腐敗が進み、台湾社会は不正がはびこり、秩序も道徳も大陸からやってきた中国人たちに破壊され続けていた。

(蔡氏は故郷の台中の駅前の路上で、白昼堂々と排泄している国民党軍の兵士の姿をみて、愕然として深いため息をつき、台湾の未来に暗雲が立ち込めていることを強く悟ったそうだ。)

言葉の壁もあり、生活の糧をうしなった本省人たちは、闇タバコや酒のの露天商などをしてその日暮らしをするはめになっていた。

しかし、外省人官警たちはそれも許さず、没収してはそれを売りさばいて懐に入れてしまう有様だった。

そんな矢先の1947年2月27日、生活のためタバコの露天商をしていた老婆が官警につかまった。



それが発端だった。



つづく・・・




のらくろ去って、豚来たる。(1章)

2015年10月07日 | 日記
5月に台北旅行をして、職場にお土産を買っていったところ、古手のご夫人がお土産のお菓子の礼を言いに来て、「台湾に行ってきたんですか?私も以前ツアーで行きましたよ。」と話しかけてきてくれた。

「何って言ったっけ?キュウフン?あそこに行ったけど、人が多くて、食べ物屋がたくさんあったけど、臭いが強くてネエ・・・。」

 ※ キュウフン(九とニンベンに分という字)

日本人に人気の「九分(キュウフン)」に連れて行かれたのだろうが、坂ばっかりで大変だった・・とか、あまりいい印象は残っていなかった様子で、「何でまたあんなとこに行ってきたの?」とでも言いたげだった。



「京劇を観に行ったんですよ。」とこたえたら、「京劇??」と、ますます不思議そうな顔になったので可笑しかった。

台北市の東の海沿いに位置する九分(キュウフン)という小さな街は、何と言ってもあの「千と千尋のナントカ」というマンガ映画の雰囲気に似ているので、ここをイメージして作られたのではないかと、観光業者が売り込みのネタにしたことで、今では台湾ツアーには必ずといっていいほど組み込まれる観光スポットとなった。



しかし、私はそれが理由で行く気が失せたので、前回も今回も行こうとも考えなかった。あのマンガ映画に限らず、一連の彼の作品には、どうも胡散臭いストーリーで良からぬ思想操作をしようとする意図が見えてくるので私は特に若い子供には観ることを勧めない。



ガチガチの反日・共産主義者のいわく付きの観光地など誰が行くものか、という気分だった。


しかし、今回の台北旅行の後半になって、「二二八祈念館」などに行って台湾の歴史を徐々に知っていくうちに、キュウフンという小さな街が話題に出てきたのだった。

手元のガイドブックを読み返すと、確かに人気となった所以が書かれていた。いわく・・

『台湾で大ヒットした映画「非情城市」の舞台になったことで観光客が訪れるようになり、台湾人が自身のアイデンティティを見直そうとする動きの中で、人気の観光地となっている。』

宿に戻る途中に、前回の台北滞在中に「KANO」という台湾映画(と言っても全編ほとんど日本語だが)のDVDを購入した専門店に立ち寄って、『非情城市』というDVDを探してみた。しかし、見当たらなかったので、帰国したらレンタル店で借りて観ることにした。



この台湾映画、25年ほど前に公開された2時間半の大作で、あの黒澤明の「羅生門」が1951年にグランプリを受賞したイタリアのヴェネチア国際映画祭で、1989年に見事グランプリを受賞している。

ウィキペディアによると、『日本統治時代の終わりから、中華民国が台北に遷都するまでの台湾社会が描かれている。公開当時は台湾の戒厳令解除から僅か2年後であり、台湾内で二・二八事件が公に語られることは多くはなかった。舞台となった九份は、この作品の成功によって台湾でも屈指の観光名所となった。』と、二二八事件のことも触れていた。

どうも、支那共産党やその手先の外省人の圧力で「二二八事件」のことを語ることはタブー視されてきたようだと分かる。

先週末に早速近くのDVDレンタル店に、「非情城市」を借りようと出向いた。実に久しぶりの店で、店内は子供づれの客で賑わっていたが、私は人気(ひとけ)のない「アジア」の作品があるはずの一角に向った。

驚いたことに、いまだに「韓流」作品が棚3列くらいを占領していた。あんなものを観ようとする人がいるのだろうか、と不思議な気分にさせられた。

実際、他は賑わっているのに「韓流」コーナーには、いかにも有閑マダム然とした中年の御夫人が、ひとり悠々と品選びをしていただけだった。

肝心の「非情城市」を必死で探したが見当たらない。入り口に検索機があったのを思い出し、タイトルを入力してみたら、「取り扱っていない」と表示された。

ヴェネチア国際映画祭でグランプリを受賞した作品をそろえていないというのは、どうも釈然としないが、しかたなく店を出て、もう一軒のレンタル店にいってみたが、結果は同じだった。

家に戻って、図書館のホームページにアクセスし検索してみたが、「在庫には無い」という結果だった。アマゾンで買うのも手だな、と思い調べてみると、これが途方も無く高価で二の足を踏んでしまった。

Youtube に全編アップされているが、字幕がないのでとても理解できそうもない。

支那共産党が歴史から抹殺してしまいたい二二八事件を扱った作品である。「レンタル業界から締め出されている作品では・・・」と勘ぐりたくなるほど不可解な気分だ。

おりしも、台湾の総統選挙が来年行われる関係で、候補者の台湾の野党、民主進歩党の蔡英文主席が6日、来日した。

現在の総統は国民党の馬英及という支那共産党の傀儡といわれているきわめて反日色の強い「外省人」である。

世論調査では来年の総統選挙では国民党から民主進歩党に政権が変わりそうだが、結果が気になるところである。

そういえば、ロボットのような動きの衛兵の交代を見させるために、観光業者が日本人観光客を連れて行く「中正祈念堂」という観光スポットが台北市内にある。

「中正」とは、蒋介石の本名である。そして、台北市民たちは、彼こそが二二八事件の張本人であることを承知している。現在の国民党政権に変わる前は、「台湾民主祈念館」と呼ばれていた。馬政権になった途端、「中正祈念堂」という呼び名に変えられたという。

こういう詳しい背景はよく理解していなかったが、私は前回も今回もここには行く気になれなかった。衛兵の交代式などどうでもよかったし、何より蒋介石を祈念している場所など行きたくも無かったからである。

さて、話が大分横道にそれて行くようだが、敗戦後の1947年2月28日。

一体何が起きたのであろうか・・・。

つづく・・・


のらくろ去って、豚来たる。(序章)

2015年10月06日 | 日記
今思い返すと、私がまだ若かりし頃、当時の韓国(現在の南朝鮮自治区)や台湾に出張した時は、偶然だろうがどちらも戒厳令下にあった。

当時の私は社会人に成りたてで、歴史などにはまったく関心が無く、上司に言われるままに動いていただけだった。

戒厳令といえば、治安を守り暴動を防ぐために軍隊が国を権力化に置くことである。

台湾は1949年から1987年にレーガン政権の圧力で解除されるまで、何と38年間もの間戒厳令が施行されていた。そして、その後李登輝が総統になってから急速に民主化が進んだのだった。

1945年、日本の敗戦までの50年間は日本が台湾を統治していた。一口で植民地時代というのは簡単だが、イギリス、フランスやオランダが東南アジアで搾取の限りを尽くした植民地支配とはまるで異なるので、この言葉の使用は適切ではないと思う。

愚民化と分割統治でズタズタにする当時の西欧支配システムとはあまりにも異なるからである。例えば、50年間の台湾統治で台湾の就学率は92%に達した。オランダが400年統治したインドネシアの就学率はわずか3%だったのと比べればその違いは歴然であろう。

さて、日本の敗戦で50年におよぶ日本統治が終了し、日本がGHQによる占領下に置かれている頃、台湾はどういう状況だったのだろうか。

そもそも、台湾人とはどういう人達なのだろうか。なぜ、似たような経緯を経ている南朝鮮自治区の連中は日本を嫌い、台湾の人達の多くは日本に好意を抱いてくれるのだろうか。

2011年の東日本大震災のとき、アメリカの人口の10分の1に過ぎない、しかも平均年収が200万円以下の台湾がアメリカ以上の、世界で一番多額の義捐金を寄せてくれたのだろうか。

いろいろ思いをめぐらせるうちに、元気に歩き回れるときに現地に行ってみようと思い立ったわけだった。

そこで、前回5月に行ったわけだが、その時最終日に訪れようと出向いた「二二八祈念館」が、なんと休館日だったので、今回こそと思って再訪した。



それは、二二八和平祈念公園の中にある小さな建物だった。そもそもそこは、「台湾ラジオ放送局」のあったところで、このラジオ放送局から電波を通じて二二八事件の情報が台湾全土に広まっていったという象徴的な建物だった。



それでは、日本人にはあまりなじみの無い「二二八事件」とは一体どういう事件だったのだろうか。これを知る上での基礎知識として、まず「本省人」と「外省人」という言葉の意味を知っておく必要がある。

台湾には古くから住み着いている原住民が存在し、その数は20部族ほどあったといわれている。もちろん今でもその末裔は多数存在する。彼らとは別に昔から支那本土から渡ってきて住みついた、いわゆる「漢人」がいてこの人達を「本省人」と呼ぶ。

それに対して、戦後に支那大陸から移って来た人達を「外省人」と呼んで区別する。この割合は、「本省人」86%、「外省人」12%、「原住民」2%となるそうだ。

日本統治が日本の敗戦で終了し、支那本土から戦勝国の中華民国の進駐軍が台湾に来ると知って、祖国に復帰できると期待する本省人は当時多かったそうだ。

それまで日本語の教育が徹底されていて、母国語の中国語は上手に話せなくなっていた当時の台湾人の子供たちは、本土からやってくる進駐軍を出迎えるために、中国語の歌を意味も理解せず、大急ぎで覚えさせられたという。

そして、出迎えの時間に駅に行くと、待てど暮らせど現れない。午後になるということで、一旦学校に戻って出直したがやはり現れない。待って待ってようやく着いたのは、夕刻だったそうだ。

当時の日本人と同じ教育を受けた台湾人にしてみれば、時間を守るという感覚は身に染み付いていた。それだけに、出鼻をくじかれた感じだったろう。

さらに、現れた国民党軍たちを見て、出迎えの子供たちだけでなく、そこに集まった大人たちの口からも、「えぇ~!」という落胆のため息が聞えたそうだ。

日本の軍人との違いがあまりにも大きく、足は裸足で、着ている軍服などボロ切れ同然。肩に傘を差して、手には鍋や釜をぶら下げているという、まるで乞食同然の格好だった。

以上、当時の様子を描いた、台湾人・楊素秋(ようそしゅう)さんの著書にある情景だが、これは戦後30年経って1974年にフィリピン・ルパング島のジャングルから帰還した際の日本軍人・小野田寛郎さんの凛々しい姿勢を思い出せば、容易に当時の台湾人の心情は理解できるだろう。



祖国への復帰を期待した本省人たちも、支那本土から来た国民党政府の役人たちの横暴と圧制に直面すると、その期待がいかにはかない物であったかということを痛感するのだった。

国民政府は、まず50年間に渡って台湾人に染み付いた日本文化を徹底して排除することにしたのだった。しかし、役人の腐敗はひどく、軍や警察の規律は乱れに乱れ、台湾社会は疲弊のどん底に陥っていった。

「狗去猪来」とは、当時の台湾人たちが揶揄した言葉で、「犬が去ったら、豚が来た」という意味だそうだ。





「豚」の横暴にも我慢の限度があった。そして、その沸点に達したのが、敗戦2年後の1947年2月末だったのである。

つづく・・。

歴史は分からない、「歴史博物館」

2015年10月06日 | 旅行
三日目は博物館めぐりに費やした。

右足にできたマメも水ぶくれになり、やがてはじけて皮がブヨブヨになった感覚が歩きながらでもよく分かった。それでも、ひたすら地図を片手に歩いた。

「どうしたい。足ぃ、引きずって・・・」
「おぅ、足にマメができちまって。」
「ナニ、足にマメができた?ナンダ、そんなモン。つぶせ!」
「そんな邪険なこと言うなよ・・。つぶしゃぁ、マメはなくならぁ。」
「後から、新豆が出てくらぁ!」
「足ぃ、新豆こさいてどうすんだぃ・・・。」

お馴染み、三遊亭園生の『三人旅』の一節を、頭の中で園生のモノマネで楽しみながら「国立歴史博物館」を目指した。

大きな植物園の中を通り過ぎれば通り沿いにあるはずだった。



植物園に着いた頃、霧雨が降り出した。本当ならのんびり植物園の中を散歩したかったが、少し雨宿りをして先へ進んだ。



土曜日なので、カメラを手にした高齢者夫婦や学校の運動部らしき若者たちで園内は賑わってきた。



大きな蓮の池があってその反対側に博物館らしき建物が見えた。見えたがそこへ行く道が無い。ウロウロ探し回っても見つからなかったので、道行く人に聞いた。最初に聞いた女性は、初めて来たので分からない・・・と言っている様子だった。

森の中に「INFORMATION」と書かれた建物があったので、中に入って地図を見せながら指をさして「ここに行きたい」と日本語で行ってみた。

すると、70歳くらいのお爺さんは、にっこり笑って、簡単な地図を書いてくれた。蓮の池沿いに建物の後ろまで行くと、小さな看板と細いわき道があって、博物館の前に出ることができる・・・と説明してくれたのだと思う。

言葉は分からなかったが、以心伝心でよく理解できた。



無事、「国立歴史博物館」に入れた。ここにくれば、台湾の歴史がよく分かるだろうと思って中にはいり最上階までエレベーターで上がった。順番に降りてきながら観覧するつもりだった。

しかし、博物館というよりギャラリーという感じで、絵画や書画が展示されていて、台湾の歴史の説明などはまったく無かった。かろうじて、「唐三彩」の珍しい宝物が展示されていたが、「唐」とは、支那大陸である。唐の時代の芸術品は見事だったが、台湾の国立歴史博物館の展示物としては、期待はずれもいいとこであった。

1階では台湾の芸術家による作品展示をやっていたが、「モダンアート」とやらで、私はまったく関心が湧かなかった。

早々に切り上げて、次の目的地で今回の最大のお楽しみ「二二八祈念館」に向った。

つづく・・・