孫ふたり、還暦過ぎたら、五十肩

最近、妻や愚息たちから「もう、その話前に聞いたよ。」って言われる回数が増えてきました。ブログを始めようと思った動機です。

のらくろ去って、豚来たる。(第2章)

2015年10月08日 | 日記
二二八和平公園の一角にある「台北二二八記念館」とは別に、歴史博物館とは呼べない「国立歴史博物館」のすぐ近くに、「二二八国家記念館」という資料館がある。



訪れたときも観客は私だけだったが、展示資料が少なく説明も漢字だけで英語の説明文もほとんどなかった。

どういう経緯で似たような資料館が二つも市内に存在するのかは分からないが、どちらかというと、あの虐殺事件で無くなった方々の情報を中心に展示してあるようだった。

とにかく、人間として扱われなく無残に殺された台湾人が多くて、おまけに事件そのものを歴史から消し去ろうという魂胆があったため、資料そのものが少ないようである。

さて、日本は大東亜戦争に敗北した。1945年8月15日に天皇の玉音放送と共に
台湾映画「非情城市」は始る。

その年の10月24日、国民党主席蒋介石の命を受けて、陳儀が台湾行政長官として赴任してきた。後に数万人の台湾人を虐殺することになる張本人である。

当時は日本にいた台湾出身者たちも、「引き揚げ兵」として次々と祖国に帰ってきていた。日本人として戦った戦争が終わって、中華民国に接収された祖国台湾に復帰すれば戦勝国の一員になれるというほのかな期待もあったようだ。

しかし、祖国に着くや否やその希望は音を立てて崩れ去り、台湾から日本に引き揚げる日本兵に混じって日本へ戻ってしまう台湾出身者も多かったそうだ。

そのあたりの様子は、当時18歳の帝国陸軍兵だった蔡コンタン氏の名著「台湾人と日本精神」に詳しいので、少し引用させていただく。



『1945年10月17日、アメリカの軍艦で運ばれてきた約1万2千名の中華民国軍先遣隊が台湾北部の基隆港に上陸し、台北を目指して進軍を始めた。ところが、その行軍を目の当たりにした人々は、言い知れぬ不安に包まれたのである。・・・

・・それまでの台湾人にとって、軍隊のイメージは、威風堂々と行進する日本軍の姿だった。一兵たりとも着衣に乱れが許されなかったそんな日本軍に比べ、台湾民衆が迎えた”祖国”の軍隊は、天秤棒に鍋釜を下げ、みすぼらしいボロボロの綿入り服に身を包み、ダラダラと歩くわらじ履きの兵士達であった。・・・

・・沿道の民衆は、その光景に絶句し、打ち振られる旗の波は止み、歓声は次第に静まり返っていったのである。・・・

・・それはまた、台湾の「悲劇」のはじまりだった。』

一夜にして、公用語は日本語から北京語に変わり、それだけで台湾の市民生活は大きな混乱を招くことになった。

大陸からやってきた警官や兵士たちは、日本語を使うことを許さず北京語を強要して、日本語を話したといっては逮捕をくりかえし、犯罪をでっち上げては保釈金をネコババするなど、風紀は乱れに乱れ、台湾はこうした中国人たちの食い物にされていった。

どんなことがあっても賄賂は受け取らなかった日本人の警官と違い、賄賂を強要する景観の横行で台湾社会は腐敗が進み、台湾社会は不正がはびこり、秩序も道徳も大陸からやってきた中国人たちに破壊され続けていた。

(蔡氏は故郷の台中の駅前の路上で、白昼堂々と排泄している国民党軍の兵士の姿をみて、愕然として深いため息をつき、台湾の未来に暗雲が立ち込めていることを強く悟ったそうだ。)

言葉の壁もあり、生活の糧をうしなった本省人たちは、闇タバコや酒のの露天商などをしてその日暮らしをするはめになっていた。

しかし、外省人官警たちはそれも許さず、没収してはそれを売りさばいて懐に入れてしまう有様だった。

そんな矢先の1947年2月27日、生活のためタバコの露天商をしていた老婆が官警につかまった。



それが発端だった。



つづく・・・





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