孫ふたり、還暦過ぎたら、五十肩

最近、妻や愚息たちから「もう、その話前に聞いたよ。」って言われる回数が増えてきました。ブログを始めようと思った動機です。

日坂・小夜の中山・夜泣石

2016年05月02日 | 趣味の世界


東海道広重美術館で観た浮世絵、「日坂」の中央下に描かれた石のことが気になり、ハイキングのつもりで現場を訪れてみることにした。

この絵は確かに急な坂道をデフォルメしているが、実際の坂も相当なもので、当時の旅人達を苦しめるのにも十分な難所であったことが判る。

絵の右側は方角でいうと西にあたり、西を向いて左手に富士山が描かれているこの浮世絵は明らかに矛盾しているわけだが、当時の名所絵は今で言う観光ガイドブックのようなものであったので、こういう矛盾は他にも結構存在するようである。

つまり、この辺りは急な坂があり、街道の真ん中に大きな石があり、富士山も見える場所ですよ、という情報を提供することに意義があったようだ。

ところで、この大きな石は「小夜の中山・夜泣石」として当時から有名であったらしい。地元に伝わる伝説が由来になっているようだが、話はあの『南総里見八犬伝』(1814 刊行)で有名な滝沢馬琴(曲亭馬琴)の『小夜中山復讐 石言遺響』(さよのなかやまふくしゅうせきげんいきょう)1804、が元になって広まったそうだ。



話を要約すると、こうなる・・・。


 『小夜の中山峠は、旧東海道の金谷宿と日坂宿の間にあり、急峻な坂のつづく難所であった。お石という身重の女が小夜の中山に住んでいた。ある日お石がふもとの菊川の里で仕事をして帰る途中、中山の丸石の松の根元で陣痛に見舞われ苦しんでいた。

右衛門という男がしばらく介抱していたのだが、お石が金を持っていることを知ると斬り殺して金を奪い逃げ去った。刀の先が石に当たって深手には至らなかったが、お石は絶命した。しかしその傷口から赤子が生まれた。

お石の霊は丸石に乗り移り夜毎に泣いた。その声を聞いた近くの久延寺の和尚が赤子を寺に引き取り音八と名付け、お乳の代わりに水飴を作って育てた。

音八は成長すると、大和の国の刀研師の弟子となり、すぐに評判の刀研師となった。

ある日、音八は訪れた客の持ってきた刀を見て「いい刀だが、刃こぼれしているのが実に残念だ」というと、その客は「去る十数年前、小夜の中山の丸石の附近で妊婦を切り捨てた時に石にあたったのだ」と言ったため、音八はこの客が母の仇と知り、名乗りをあげて見事恨みをはらしたのだった。』



越すに越されぬ大井川の東側は「島田宿」、そして反対側の西側は「金谷宿」、そして次が「日坂宿」、「掛川宿」と品川から始る東海道は京都まで続いた。

金谷の旧東海道の一部は数百メートルに渡って石畳が十数年前に再現されている。



その途中には「すべらず地蔵尊」という祠があり、横にはたくさんの祈祷絵馬がぶら下げられていた。「公立大学に合格できますように」とか「希望の高校に入学できますように!」などという神頼みの言葉が書かれている。



試験に「すべらないように」という祈願と、坂道を石畳で滑らないようにという洒落で地元の誰かが始めたのだろうが、事実は石畳の石が河原から持ち込んだらしく、みな丸みのある石のため、特に雨上がりなど濡れた枯葉や苔のため、ツルツル滑るのである。

冗談抜きで、登り口には「滑るから要注意!」という看板が必要だと思っている。特に高齢者や子供たちが滑って膝でも石にぶつければ、膝の皿を割るような事故になりかねない。賽銭箱の小銭や絵馬の売上げを得ようなどという主催者は実態を知るべきではないかと感じた。



金谷の石畳の坂を上りきって数分歩くと、今度は菊川市の石畳の下り坂が左手に続いている。金谷宿と日坂宿の中間に位置する菊川を過ぎると、浮世絵にあるような急峻な坂道が始る。ハイキングコースの中でもかなりきつい登り坂であった。



坂を登りきって少し歩くと、右手に真言宗・久延寺(きゅうえんじ)が見えてくる。赤ん坊を助けた和尚のいたお寺で、今でも「夜泣石」を祀った祠があるが、その石はゆかりある石ではなく、街道の人たちが街道沿いで見つけて、お寺に運び込んだ「偽物」らしい。

  久延寺の夜泣き石(偽物)・・・。

本物の「夜泣石」は、明治14年に見世物興行として東京に運ばれた後、焼津にほったらかしにされていたのを、地元の人たちが、国道1号小夜の中山トンネルの手前(東京側)の道路脇に運んだそうだ。

  

 伝説の夜泣石。

 夜泣き石、後ろから・・。

旧東海道沿いの久延寺に偽物といわれる夜泣石が。そして、そこから西に向って1.7 km
の道沿いに、夜泣石があった場所という石碑と、石にはめ込まれた広重の浮世絵の石碑がある。

 元来夜泣石あった場所、という石碑

 広重の浮世絵、「日坂」

本物、偽物入り混じってややこしいが、以前から見世物のネタとされていたようである。



私は偽物とは分かっていながら久延寺の夜泣石に手を合わせてから山門を出て、隣にある茶店を眺めていると、店のおばさんが親しげに「どこから来たのか・・」と話しかけてきた。

「いや隣町から歩いてきました。本物の夜泣石がある場所に行くにはどう行けばいいのでしょうか?」道順を尋ねると、店先でお茶を飲んでいた高齢の紳士然とした方が、「今来た道を1km 程戻って左折すればいい・・・」と教えてくれました。

「そうですか。ありがとうございます。」とお礼を言ったついでに、「小学生のとき、遠足で一度来た事があったのですが、由比の広重美術館で日坂の浮世絵を観て、急にもう一度見たくなったので・・・」と言うと。その紳士の表情が一変したのだった。

「由比の美術館には展示してない浮世絵がたくさんありますよ、私の方は・・・。」と言います。おばさんも話しに加わって、「先生の美術館を一度観られたら如何です?」と勧めるのだった。

私は、正直言って、どこにでもいる「郷土史研究家」類だな、きっと、と思ってあまり乗る気がしなかった。紳士はスッといなくなり、私も歩を進めようとすると、店のおばさんが、「一度観ても損はないと思いますよ。すぐとなりですから・・・。」と言う。

それじゃあ、とその美術館に立ち寄ることにした。



『夢灯(ゆめあかり)』と掘られた小さな木製の看板が入り口にあった。

その個人の浮世絵コレクションを展示した小さな美術館は、実はお宝の宝庫であった。ちょっと覗くだけのつもりが、話が弾んだため、1時間以上滞在することになったのだった。(続く)






コメントを投稿