孫ふたり、還暦過ぎたら、五十肩

最近、妻や愚息たちから「もう、その話前に聞いたよ。」って言われる回数が増えてきました。ブログを始めようと思った動機です。

越中・五箇山から時空を飛ぶ

2016年11月19日 | 旅行
今月初めに塩硝(硝石)の製造基地として名高い、「陸の孤島」富山県五箇山の合掌造りのを見るため、衝動的に早朝家を出発して、高速道路を飛ばしたのは良かった。

  白川郷と同じ合掌造りの里の世界文化遺産登録



しかし、先月秋祭りのおでん係で、600人分のおでんを作ったときに痛めたと思われる腰が、長時間ドライブのために悪化して、いまだに体調最悪である。

五箇山の帰りの車中で、私の頭の中は時空を飛び越え470年前の種子島に飛んでいた。

『一語読み(イチゴヨミ)自分で作った種子島』と暗記した、1543年の出来事、『種子島に鉄砲伝来』の年号の覚え方は、今でも忘れずにいる。


 屋久島の東にある「種子島」


五箇山がなぜ種子島に結びつくか。それは、種子島からスタートした鉄砲の歴史に五箇山が大きく関与するからであった。

  鉄砲は戦(いくさ)を変えた

1543年に種子島の島主・種子島時堯(ときたか)がポルトガルの商人から2丁の火縄銃を購入し、翌年にはすでに国産化に成功し、全国に広まっていった。

2丁の火縄銃から始まった鉄砲が、わずか57年後の関が原の戦いでは、その数4万丁とも5万丁ともいわれるほど、大量に使用されることとなる。

  鉄砲使用の戦術は独特だった

しかし、火縄銃には火薬と弾が必要で、さらに黒色火薬は硫黄と木炭と塩硝(硝石)を調合して作る。硫黄と木炭は国内で調達できるが、硝石は国内にはなかった。

自前で調達できなければ、当初は輸入に頼るしかなかった。

  硝石の輸入ルート

戦国時代、鉄砲の需要の拡大と共に、塩硝の自前での生産は重要課題であったわけだ。そこに、一向宗(浄土真宗)や織田信長が絡んできて、越中五箇山・塩硝の生産基地という状況に収束していったようだ。

五箇山の「塩硝の館」では、切符切り兼解説員のおばさんが、五箇山の農家の方々が独自に塩硝作りを考えたんです・・などと解説していたが、調べてみると、すでに種子島の時点で、火薬の調合の仕方や塩硝の情報などはかなり入手していたようだ。

当然といえば当然で、当時は種子島とて戦闘体制下にあったため、新型兵器としての火縄銃は、格好の武器になりうると判断されたのは必然のことだっただろう。

このあたりの歴史を調べ始めると、1543年、鉄砲伝来などと簡単に通りすぎるわけにはいかない。

「1492年、コロンブスが新大陸を発見」などと丸暗記しただけだった社会科の授業だったが、その頃の状況を掘り下げると、目からウロコがボロボロ落ちたように、日本の16世紀後半の当時も、いや、実に興味深い事実が満載である。

続きは、今後綴っていくことにする。


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