初孫なっちゃんが産まれたときだったからもう6年前になるわけだ。
当時私は富士山の五合目で、外国人登山客を相手に登山指導するというアルバイトをやっていた。山開きが7月だったので閉山の8月末までの2ヶ月間を、五合目の登山口で過ごした。下界は真夏日が続いても、五合目は長袖を着ないと寒いくらいで快適だった。
外国人登山客といっても様々で、南米や北欧、東南アジアからと人数は大したことは無かったが、世界中から集まってきて、当時私はあわててスペイン語、ドイツ語、フランス語などで簡単な挨拶の仕方を丸暗記したものだった。
ドイツ語は、大学の第二外国語で履修していたので、ローレライなどのドイツ語の歌を数曲歌うことができて、スイスやドイツからの登山客に披露して愛嬌を振りまいた。意外と一度覚えた言葉は忘れないものであるとわかった。
そのとき、県庁の職員が下山者に粗品のボールペンと一緒に何かを配っているのがきになった。「何をしているのか」と聞くと、「富士山に関する随筆のような作品を募集して、本を刊行する計画があるので、その募集だ」という返事だった。
実は私は粗品のボールペンが欲しかったので、「私にもその応募用紙をください」と言ってもらったのだった。
業務を終えてから、時間をもてあますことがあったので、原稿用紙に向って一気に書き上げ投稿したのが次の文で、なんと採用されて他の投稿作品と共に製本される運びのなったのだった。それは、富士山の業務を終えてひと月以上経った10月の頃だったと思う。
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『 北斎の冨嶽一景 』
これまで私にとって富士は、遥か遠くから眺める山であったのだが、今夏は標高二四〇〇メートルの五合目で毎日のように富士山を足元に感じ、登山客の安全指導をするという、なかなか得がたい経験をさせて頂いた。
東海道金谷ノ不二
富士山と聞いて、私がまず思い浮かべるのは、浮世絵の風景画である。中でも意表を突く構図で、見る者を魅了する冨嶽三十六景は、私の中で富士を表現した芸術品の代表作であっただけに、その富士山に自分が関わっていると思うと、身震いするほど感慨深かった。
尾州不二見原
葛飾北斎の冨嶽三十六景は、その爆発的な売行きのため、後に十景が追加出版されて合計四十六枚のシリーズとなった。そこに描かれている霊峰富士は、観光地の土産物店で見かける絵葉書の富士や、著名な写真家の写真集にある富士とは随分と趣が異なる。
それは、作りかけの丸い桶の向こうから垣間見る富士であったり、太鼓橋の橋げたの間からのぞく富士であったりする。どれも主体は富士ではなく、家業に精を出す庶民や旅人たちが前面に描かれている。中には、初秋の朝日に赤く染まる富士に大漁の吉兆である鰯雲を添えた作品もあるが、ほとんどは、遠景に小さな富士が左右にエレガントな稜線を広げてこぢんまりと存在しているだけである。
諸人登山
しかし、四十六景の中で、一枚だけは富士山独特の稜線が描かれていないことは、意外と知られていないのではないか。それは、追加された十景の中の「諸人登山」という作品で、恐らく当時の江戸で隆盛を極めた信仰集団である富士講の一行が、富士登山をする様子を描いたものであろう。
へばって腰を落として休む者や、金剛杖を支えにうなだれる者など当時の過酷な富士登山を如実に描いている。なだらかな稜線こそないが、行者達が踏みしめている足元は富士山そのものなのである。
遠方から眺めるだけでなく、登山者の様子を間近で見ることで富士を描くとは。北斎の奇抜な発想に改めて驚かされるのである。
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当時私は富士山の五合目で、外国人登山客を相手に登山指導するというアルバイトをやっていた。山開きが7月だったので閉山の8月末までの2ヶ月間を、五合目の登山口で過ごした。下界は真夏日が続いても、五合目は長袖を着ないと寒いくらいで快適だった。
外国人登山客といっても様々で、南米や北欧、東南アジアからと人数は大したことは無かったが、世界中から集まってきて、当時私はあわててスペイン語、ドイツ語、フランス語などで簡単な挨拶の仕方を丸暗記したものだった。
ドイツ語は、大学の第二外国語で履修していたので、ローレライなどのドイツ語の歌を数曲歌うことができて、スイスやドイツからの登山客に披露して愛嬌を振りまいた。意外と一度覚えた言葉は忘れないものであるとわかった。
そのとき、県庁の職員が下山者に粗品のボールペンと一緒に何かを配っているのがきになった。「何をしているのか」と聞くと、「富士山に関する随筆のような作品を募集して、本を刊行する計画があるので、その募集だ」という返事だった。
実は私は粗品のボールペンが欲しかったので、「私にもその応募用紙をください」と言ってもらったのだった。
業務を終えてから、時間をもてあますことがあったので、原稿用紙に向って一気に書き上げ投稿したのが次の文で、なんと採用されて他の投稿作品と共に製本される運びのなったのだった。それは、富士山の業務を終えてひと月以上経った10月の頃だったと思う。
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『 北斎の冨嶽一景 』
これまで私にとって富士は、遥か遠くから眺める山であったのだが、今夏は標高二四〇〇メートルの五合目で毎日のように富士山を足元に感じ、登山客の安全指導をするという、なかなか得がたい経験をさせて頂いた。
東海道金谷ノ不二
富士山と聞いて、私がまず思い浮かべるのは、浮世絵の風景画である。中でも意表を突く構図で、見る者を魅了する冨嶽三十六景は、私の中で富士を表現した芸術品の代表作であっただけに、その富士山に自分が関わっていると思うと、身震いするほど感慨深かった。
尾州不二見原
葛飾北斎の冨嶽三十六景は、その爆発的な売行きのため、後に十景が追加出版されて合計四十六枚のシリーズとなった。そこに描かれている霊峰富士は、観光地の土産物店で見かける絵葉書の富士や、著名な写真家の写真集にある富士とは随分と趣が異なる。
それは、作りかけの丸い桶の向こうから垣間見る富士であったり、太鼓橋の橋げたの間からのぞく富士であったりする。どれも主体は富士ではなく、家業に精を出す庶民や旅人たちが前面に描かれている。中には、初秋の朝日に赤く染まる富士に大漁の吉兆である鰯雲を添えた作品もあるが、ほとんどは、遠景に小さな富士が左右にエレガントな稜線を広げてこぢんまりと存在しているだけである。
諸人登山
しかし、四十六景の中で、一枚だけは富士山独特の稜線が描かれていないことは、意外と知られていないのではないか。それは、追加された十景の中の「諸人登山」という作品で、恐らく当時の江戸で隆盛を極めた信仰集団である富士講の一行が、富士登山をする様子を描いたものであろう。
へばって腰を落として休む者や、金剛杖を支えにうなだれる者など当時の過酷な富士登山を如実に描いている。なだらかな稜線こそないが、行者達が踏みしめている足元は富士山そのものなのである。
遠方から眺めるだけでなく、登山者の様子を間近で見ることで富士を描くとは。北斎の奇抜な発想に改めて驚かされるのである。
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