孫ふたり、還暦過ぎたら、五十肩

最近、妻や愚息たちから「もう、その話前に聞いたよ。」って言われる回数が増えてきました。ブログを始めようと思った動機です。

教義は違えど、祈りは同じ

2015年04月18日 | 日記
シンガポールに赴任中、休日にはよくフラッと街に出て、寺院巡りをしたものだ。MRTという電車を利用すると簡単にどこへでも移動できる程度の狭い島なので、混雑する駅構内や電車内を我慢すれば、非常に便利だった。

寺院といっても、イスラム教のモスク、ヒンドゥー教寺院、仏教寺院が街中に混在していて、短時間でいくつも見て廻れるので、寺院オタクにはたまらない街だろう。私は、特に寺院オタクではないのだが、今思い出すと、何度も何度も同じ寺院を訪れていた。

何がそうさせたのかはよく分からないのだが、多分そこに行くと居心地が良くて、気分を和ませてくれたからだと思う。中でもいつ行っても参拝者が絶えない仏教寺院と、ヒンドゥー教寺院は多分、滞在中にのべ30回は訪れていると思う。

中に入って、特に何をするわけでもなく、私はいつも参拝者を眺めているだけだった。彼らのお祈りする姿を見ているのが好きだった。お祈りするときの姿は、宗教宗派に関係なく皆真剣で、その瞬間に精神を集中させている。一心不乱に何をお祈りしているのだろう、などと勝手な想像をしながら眺めていると、あっという間に時間が過ぎてゆく。

何かで読んだことだが、お寺をお参りしたときは、「○○しますように・・・」とかいった祈願を心の中で唱えるのが普通だが、神社の場合は、そうではなく、「○○します」とか、「○○をがんばります」とか言う具合に、心の中で誓いを立てるものだそうだ。

ああ、そういうものかと知って自分はどうだったかと思い返すと、私は墓参りの時も、神社を参拝した時も、お寺をお参りした時も、いつで「家族一同健康で暮らせますように」とか、「宝くじが大当たりしますように」とか、まさに我欲丸出しの、虫のいいことばかり呟いていた。

私が小学生の頃、隣家のお母さんは、息子の高校受験に際して、近くにあったお地蔵尊を祀る社にお百度を踏んだと、近所で評判になった事がある。祈願成就して、息子さんは希望の高校に合格した。私は「お百度を踏む」とはどんなことをするものなのか、よく理解できてはいなかったが、多分大変な苦行をしたのだろう位は分かっていた。

何の変哲もない地蔵尊なのだが、そのご利益を期待して、今でも遠方から訪れる人は多いと聞く。祈る力が希望を叶えてくれると考えるのだろうが、町の広報で、その地蔵尊ができた経緯が載っていて、社の中には近くの川の上流で見つかった大きな石が祀られていると知って、少し興覚めしたものだった。



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