まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

喪のハガキまだやってくるもう二十日

2020年12月19日 | 自然ありのままに

 さぬき市地方は寒気や湿った空気の影響で概ね曇っていた。気温は7.5度から9.0度、湿度は74%から60%、風は3mから5mの西北西の風が幾分か冷たかった。明日の20日のさぬき市地方は、引き続き冬型の気圧配置となるため、概ね曇る見込みらしい。

 

 110/52/86 36.8c-97% 63.4Kg 8.5c-61%-1023hPa 体調に変化はない。

 

 昨年の今日は、県立病院でこのような食事を食べていたらしい。あれから、もう、一年になってしまったのか・・。おなかが張る。足がむくんで歩けない。右目が白内障で全く見えない。体重が77Kgもあったという状態での緊急入院だった。

 

 朝の間、ポータルサイトの更新をやっておいた。来年用のカレンダーである。

 

 来年の予定はルーティーンのお仕事くらいで、さほど大きなお仕事は予定していない。もう、講演会も法話会もおことわり状態。あとは気楽に生きてゆくばかりである。

 

 1月、2月の予定表もできているが、これという行事やイベントはない。来年の最大のイベントと言えば11月の金婚式だが、お祝いはあるんだろうか。

 

 さて、朝方に奥方が、「今日は一階に掃除機を掛けておいてくれるとうれしいな。」と言って出掛けて行った。一階は奥方の掃除範囲なんだが、最近はお疲れなのか寝てばかりいる。

 

 仕方がないので、リビングやキッチンなんぞに掃除機をかけておいた。

 

 ま、形ばかりのお掃除である。子どもや孫が居るわけではないので、そんなに汚れがあるわけではないので、一通り掃除機を流せば、それでおしまいである。

 

 で、肌寒いものだから囲炉裏に火をおこしてみた。火を熾して何をするというのでもない。ただ、囲炉裏の火が恋しかっただけのことである。

 

 若い頃には、こういうものを作るのが好きだったのだが、最近は何をするのもおっくうになってきた。面倒くさいのである。そういう気力も体力もなくなってきた。

 

 で、お昼からはさぬき市の広報ほかを8軒分配ってきた。しかしのかかし、土曜日だというのに、8戸ともに誰もいない。働きに行っているものかお買い物に出ているものか、物音ひとつしない集落である。

 

 さぬき市地方の天気予報はこんなだったが、お昼過ぎからは雨になった。

 

 大慌てで洗濯物を片付けたりして、一階の掃除はリビングだけになってしまった。ということで、掃除スイッチは入らずじまいになってしまった。

 

  今日の掲示板はこれ。「蓋ある水に月はやどらじ」という蓮如上人のことばからである。あるとき、一休禅師は蓮如上人の書かれた御文章を何度も読んで、蓮如上人の教えの中に矛盾と思われる点を見つけ、今度こそはと一首の歌を蓮如上人に送ったという。その歌とは次のような内容だった。
 「阿弥陀には まことの慈悲はなかりけり たのむ衆生をのみぞ助すくる」
 「阿弥陀仏は、あらゆる衆生を浄土に救うといいながら、まことの慈悲なんてないのではないか。たのむ衆生は救うが、たのまない衆生は助けないではないか。これでは不平等であり、本当の慈悲がある仏とは思えない。」ということであった。これに対して、蓮如上人は「一休のような者でも阿弥陀仏の救いは分らんとみえる。」と返歌を作られ、一休禅師に送ったのである。そこには、阿弥陀仏の本願の真髄が見事に表現されていた。
 「阿弥陀には 隔つる心はなけれども 蓋ある水に月は宿らじ」
 「阿弥陀さまのお慈悲は、まるで月の光のように、誰の上にも分け隔てなく平等に注がれている。綺麗な水にも汚れた水にも広い海の水にも、狭い池の水にも静かな水にも激しく流れる水にも隔てなく月の光を注いで下さっている。問題は阿弥陀仏の側にあるのではなく、光を頂く衆生の側にある。必ず救う、我にまかせよというお慈悲の光も、心に蓋をしていたのでは、映るものも映らない、宿るものも宿らない。」という意味であった。自力仏教の禅宗の一休禅師には、他力仏教の信心の神髄が見えていなかったのかも知れない。

 

じゃぁ、また、明日、逢えたら、いいね。


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