高松地方は低気圧や前線の影響で曇り、雨の降っている所があった。気温は9.5度から12.0度、湿度は98%から86%、風は1mから2mの西の風が冷たかった。明日の24日の香川県は、前線の影響で曇り、昼前は雨の降る所がある見込みらしい。
86/48/80 36.3c-98% 66.8Kg 1002hPa,6c,86% 体調に変化はない。体重が微減しているが問題外。
今日の朝食もこんなもの。水分を減らすために牛乳も削減されている。徹底的に水分を省略せよとの厳命である。
今日のお作法は「ハート」だが、白っぽいマーガリンなんぞでハートの暖かさがまるで出ない。これもリベンジが必要だな。
今日は9時半から「透析」の試験段階。これで体調の変化を調べるらしい。今回は毒素の排除はせず、あくまで「除水」のみ。いくら、体重が落とせるのか、いくら水分を除去できるかの実験である。
朝の9時半から4時間コース。最初の1時間は睡眠不足を補うように爆睡。でも、それだけで睡眠不足が解消したのか、まるで寝られない。3時間を過ぎたら足のふくらはぎが「攣(つ)る」ようで激しい痛みが発生。職員さんがマッサージしてくれて解消。その後は漢方薬で対処。体重は4.5Kgもの減少らしいが実感はない。
私には元々遺伝による「先天性心筋症」という病があって、20歳あたりから不整脈が発生していたが、さほど問題にもならず、支障もなかった。30歳ごろからはNTT高松病院で投薬を受けていたが、さほど問題になることもなかった。ところが、50歳代あたりから「心機能」が低下し、平常人の60点、(約三分の二ほど)ほどしか心臓が機能しなくなっていた。これが「慢性心不全」と呼ばれるものだった。これによって、身体に水が溜まるだとか、疲労しやすくなるなどの支障が目立ち始めた。
60歳代に入ると肺炎が相次ぎ、それをきかっけとしてか、「急性心不全」が発生し救急搬送されることが二年ほど続いた。このことから県立病院での治療が行われるようになり、カテーテルや焼き付け処理なども行われてきた。ところが、それらの治療でもどうにもならず、ついに2018年には心臓の開胸手術が行われ、僧帽弁、三尖弁の交換手術が行われてきたところである。これが「心臓弁膜症」と呼ばれるもので、さらには、ペースメーカーも植え込むことなって手術が行われた。
その術後、心膜炎が発生した。心膜炎というのは、心臓は筋肉で出来ているが、その筋肉は表面に付着した臓側心膜と呼ばれる薄い膜で覆われている。その膜は大血管の起始部で折り返されて厚い壁側心膜となり、これら2枚の心膜が心臓を2重に包んでいる。この2枚の心膜の間(心膜腔)にはこの膜から作られる少量の液体(心膜液)があり、心臓が動く時の摩擦を軽減する潤滑油の働きをしている。心膜炎とはこの膜に炎症が起こる病気であり、炎症により心膜腔に通常よりも多い心膜液が貯留することが特徴である。
心膜炎の原因と分類については、急速に炎症反応を引き起こす場合は急性心膜炎という。慢性に経過(通常6ヶ月を超えて持続)する場合を慢性心膜炎といい、急性心膜炎は、感染、外傷、自己免疫疾患、甲状腺機能低下症、薬物、尿毒症などが原因となって生じる。感染による場合が最も多く、その原因のほとんどがウイルスである。
原因がわからない場合も多く、その場合は特発性心膜炎といっている。慢性心膜炎は急性心膜炎が完全に治癒せずに移行する他、結核、腫瘍、放射線治療後、心臓手術後に起こることが多い。現在では結核性心膜炎はほとんどみられなくなったが、慢性炎症によって心膜の線維化、肥厚が起こり、固くなることがある。これにより心臓の拡張が制限され、足のむくみや腹部の膨満感などが起こることを収縮性心膜炎という。私の場合、薬だけでは限界があって、このたび、除水を行うために「透析」が必要になる。
CRT:心臓再同期療法とは、現在、薬の治療によって症状の改善しない重症心不全に対しては心臓移植といった治療手段もあるが、臓器提供者の慢性的な不足等により進んでいないのが現状である。
このような状況下で重症心不全症状を改善する治療として心臓再同期療法 (CRT=Cardiac Resynchronization Therapy) がある。この治療は、(右心房と)右心室に加え、全身に血液を送り出す左心室にも、ほぼ同時に電気刺激を与えて心臓の機能を高めることで、①心不全の予防や改善、②生命予後の改善、③生活の質(QOL)の改善を目的としており、7割くらいの方で心機能の改善がみられる。そのために、2月上旬にはMRIによる検査が行われる予定である。
今日の掲示板はこれ。「過去のどうにもならないことを悩むより 現在、自分が置かれているところから 将来に向かって人生を切り拓いていこう」という新井正明さんのことばから。住友生命の社長・会長を務められた新井正明氏のはなしである。兵役にあった新井さんはノモンハン事変に参戦して被弾、右足を付け根から切断した。二十六歳だった。 帰還した新井さんを会社はあたたかく迎えてくれたが、若くして隻脚(せっきゃく)の身となった苦悩は限りなく深かった。その最中(さなか)、新井氏は安岡 正篤師の『経世瑣言(けいせいさげん)』で一つの言葉…「いかに忘れるか、何を忘れるかの修養は非常に好ましいものだ」に出会い、翻然(ほんぜん)とす る。「自分の身体はもう元には戻らない。ならば過去のどうにもならないことを悩むより、現在、自分が置かれているところから将来に向って人生を切り拓いて いこう」この瞬間から新井氏は真の人生を歩み始めた。
じゃぁ、また、明日、会えたら、いいね。