中学生の頃はアトリエに通う紅顔の美少年♪なんちって。
中学時代の数年間、中馬込にある行動美術会の重鎮田中稔之先生のアトリエに毎週日曜日通っていたのだけど、先日会社も会員になっている芝法人会の会報の表紙でその先生の絵に突然遭遇!びっくりしたぁ。
日曜になると蒲田から「代田四丁目行」という西口の「緑屋」前から出てるバスに揺られて「学研前」まで行くわけだ、油絵の具の入ったカバンとイーゼルを肩に。それはもう毎週の事なのだけど、先生のアトリエでクロッキーをやったり静物画を描いたりでテレビン油の臭いに囲まれた日曜の午前中を過ごしたりするわけ。
もともと小学校の頃から絵画教室に通ってて絵を描くのは大好きだったけど、中学に入って一年の時の担任が生徒のそう言った才能・能力をとっても理解してくれる先生で知り合いの絵描きさんのつてで田中画伯を紹介してもらったんだけど、教え方の上手なちょっぴり「岸田森」似の素敵な先生だった。
考えてみればうちの親も何の足しにも成らない「絵」なんてぇものの教室やアトリエに通わせるというのも変な親だと思う。当時はその数年後には倒産してしまうような町工場の一職工にすぎなくて、母親だって内職やパートをしていた生活状態だったのにそろばん塾や学習塾でなく「画家のアトリエ」に通わせるというのは一体どういう考え方だったんだろう。
明らかに進学や生活を考えたら世間的には「いい加減に夢を見るのはやめなさい」って話だよね、なぜかうちの親は私に関しては進学について何の強制もしなかった、もちろんその後美術学校に行くようになった時も自由にして良いよ状態だった。
姉の方は小さい頃からずっと決めていた教師になるという目的の為に、自分でその通り生きていったわけだし、これに関しても自分の意志で自由にやっていた。
父親が言うには女は万が一嫁に行けなかったことを考えて資格を持たせたい、男は仕事さえ選ばなければ何したって生きていける、っていうことなので実際その通りだと思いつつあれほど自由にさせてもらっていたのはやっぱり普通じゃないと思う。
まぁ今は「仕事さえ選ばなければ」の結果、まぁそこそこの生活をしていられるわけだし、趣味の世界もたっぷり楽しんでいるわけだ。
結局、なんだかんだ言っても子供の性格や特質をかなりよく分かっていた両親と、どうしたらいいのかという時に方向やきっかけを提示してくれた教師とのおかげで豊かな経験を若いあのころに蓄えられたことは大変な財産なんだなぁと、懐かしい絵の表紙をみて思ったりしてみたわけ。
中学時代の数年間、中馬込にある行動美術会の重鎮田中稔之先生のアトリエに毎週日曜日通っていたのだけど、先日会社も会員になっている芝法人会の会報の表紙でその先生の絵に突然遭遇!びっくりしたぁ。
日曜になると蒲田から「代田四丁目行」という西口の「緑屋」前から出てるバスに揺られて「学研前」まで行くわけだ、油絵の具の入ったカバンとイーゼルを肩に。それはもう毎週の事なのだけど、先生のアトリエでクロッキーをやったり静物画を描いたりでテレビン油の臭いに囲まれた日曜の午前中を過ごしたりするわけ。
もともと小学校の頃から絵画教室に通ってて絵を描くのは大好きだったけど、中学に入って一年の時の担任が生徒のそう言った才能・能力をとっても理解してくれる先生で知り合いの絵描きさんのつてで田中画伯を紹介してもらったんだけど、教え方の上手なちょっぴり「岸田森」似の素敵な先生だった。
考えてみればうちの親も何の足しにも成らない「絵」なんてぇものの教室やアトリエに通わせるというのも変な親だと思う。当時はその数年後には倒産してしまうような町工場の一職工にすぎなくて、母親だって内職やパートをしていた生活状態だったのにそろばん塾や学習塾でなく「画家のアトリエ」に通わせるというのは一体どういう考え方だったんだろう。
明らかに進学や生活を考えたら世間的には「いい加減に夢を見るのはやめなさい」って話だよね、なぜかうちの親は私に関しては進学について何の強制もしなかった、もちろんその後美術学校に行くようになった時も自由にして良いよ状態だった。
姉の方は小さい頃からずっと決めていた教師になるという目的の為に、自分でその通り生きていったわけだし、これに関しても自分の意志で自由にやっていた。
父親が言うには女は万が一嫁に行けなかったことを考えて資格を持たせたい、男は仕事さえ選ばなければ何したって生きていける、っていうことなので実際その通りだと思いつつあれほど自由にさせてもらっていたのはやっぱり普通じゃないと思う。
まぁ今は「仕事さえ選ばなければ」の結果、まぁそこそこの生活をしていられるわけだし、趣味の世界もたっぷり楽しんでいるわけだ。
結局、なんだかんだ言っても子供の性格や特質をかなりよく分かっていた両親と、どうしたらいいのかという時に方向やきっかけを提示してくれた教師とのおかげで豊かな経験を若いあのころに蓄えられたことは大変な財産なんだなぁと、懐かしい絵の表紙をみて思ったりしてみたわけ。
兄が14群大丈夫って言われてたのが何を間違ったのか落ちちゃって、私が14群受けようとしたときに「お兄ちゃんが落ちたのにお前が受かるはずない!」とか言われちゃって。倍率から言っても私の方が確率が高かったので先生が説得してくれましたが。
高校時代に香港映画スターのファンクラブやったり、映画行きまくったり、ライブハウスに通ったりしても「連絡をする」「外泊はしない」だけの約束で自由にさせてくれて、結局その頃の経験が今までの人生を豊かにしてくれてます。
娘にも自分でやって欲しいと思うのですが、ダンナは全部レールを敷きたがって…。それで最近衝突がさらに多くなってます(ため息)。
それにしても「代田四丁目行き」なつかし~。今ないですよね。土曜日に「荏原町行き」っていうバスを初めて見ましたよ。「武蔵小杉行き」とか「日吉行き」もあったんだけどなあ。
そう考えてもうちの親の自由度は異常だったかも(^_^)v
高校時代はバンド、絵、写真、旅行、バイトだけの生活だったような♪
基本的に働くことが嫌でなくって、よく動き回ってるわりに大してはめも外さない奴だって事が解っていたからかな
浪人して受けてる人もいた、で、補欠で他の彫金科とかならOKだったんだけど、それじゃいやだって言うので東京タワー高校にしたんだけど、結果的には良かったかなぁ~。
印刷屋のフィニッシュマンやったときトレース屋さんがほとんど工芸デザイン科卒だったから、あれ?って思ったもの。
それと、おいらの裏やら表やらで弾いてたピアノの先生諸氏…生きてるかあ?
製版屋さんですら厳しいようですもの。
でも「昔できたことができないはずはない」っていう感じで無理難題言われること多いです。
そんなこと言ったって、ワードは外人(笑)だし~。