名古屋の白ウサギ・1964年生・

別名、ウサギ仙人・・職業・会社員

生き急ぐ

2016-03-27 | 思う事

無謀なことをして死んでしまったり、
自らの意思で死んでしまったり・・・
こういう行為を
「 死に急ぐ 」という。
こういう死に方をした人を何人か見てきた。

その逆もある、
勢いに乗って、無謀な前進をしたり、傲慢になったり・・
現実を無視した夢を描いたり・・
その結果、
最後はどん底まで突き落とされる。

これを「 生き急ぐ 」と云うのだろう・・

こういう人も多く見た・・・

「死に急ぐ」事は、最悪である。

「 生き急ぐ 」ことは、あくまでも結果論であり、
結果良ければ全て良し
とも思える。

ただし、生き急いで成功したとしても、
その課程と、それに至る心境がこそが肝心であると思う。

大前提として、
生きてるだけで有り難い
この世に生まれて来たことだけで大成功
この2つの悟りが無いなら、
仮に夢が実現したとしても、成功したとしても、
それは砂上の楼閣。
単なる虚像。
それは、自分が死んだ後に分かる。

現に、死んだ後、後悔している人(魂)を観た事がある。
( 意味不明かな?? 分かる人には判るお話です )

「 生きてるだけで有り難い 」
これを悟る者の未来には、
最善しか有り得ない
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バカにしか与えられない特権。

2016-03-21 | 宗教

受けた恩は死ぬまで忘れない。
与えた恩は、すぐに忘れる。


これが、運命の奴隷ではなく、
「運命の主人公」となり得る条件であると信じる。

こういう人こそ、
絶対的成功者だと信じる。

言葉を変えれば、最善の未来とは、
自分の善行を、
すぐに忘れてしまう事の出来る
バカにしか与えられない特権である。


その反対は・・・

受けた恩はすぐに忘れ、
与えた恩は、絶対に忘れない。

そういった心境で・・・
自分は天に貯金を積んだと信じ、
心ので優越感に浸る。
自分は、霊的な位が高いと思い込む。


お利口すぎて、不幸な人は多くいる。

急ぎすぎて、
順番を間違えているのではないだろうか?
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登呂遺跡

2016-03-17 | その他











  
現在の登呂遺跡










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善でも 悪でも ない。

2016-03-15 | 宗教

人間の感覚で捉える 善 悪 とは、
実に曖昧である。

悪業(あくごう)も、 本質的には存在しない。

善業 も、本質的には存在しない。

人間が感じることの出来る  
「 この世 」
の尺度で善悪を論じても本質は見えてこない。

もし、仮に他国が日本に上陸して来て、
自分の家に押し入って来たとする。

自分の目の前で子供が
殺されそうな状態となった・・・
なんとかせねばならない・・・

普通の親ならまず子供を守る。
同時に自分の身も守ろうとする。
子供を置いて逃げる訳にはゆかない。

「 攻めてきたら殺られればいいじゃないか、
そういう国もあったのだという事が歴史に残る。
でも、私は外国に逃げる 」
と抜かした、頻繁にテレビに出演する、
豚が泣いた様な顔をした著名人もいるが、
こういう立派な人間?は問題外として、

ここまで追い詰められれば、反撃する以外方法は無い。
即ち、殺すか殺されるかの状態である。

反撃した結果、相手を殺してしまったとする。
これは、「 あの世 」の尺度で見て、
罪なのか? 正当な行為なのか?
善なのか? 悪なのか?

私が思うに・・・
善でも 悪でも ない。

先に述べた「善も悪もない」とは、
こういう意味で言っている事です。

当然、秩序や道理が最優先であり、
決して、何をしても良いという意味ではありません。

でも、当事者は 罪の意識を感じるだろう。

自分と子供の身を守る為に反撃したのだが、
結果的に相手を殺してしまったと言う事実を
生涯背負わなければならない。

「 人を殺した 」という事実と、
「 罪の意識 」という十字架を、
生涯背負って生きてゆかなければならない。
これは、ある意味、
「 自分が自分に科した、天罰 」である。

でも・・・
戦いは嫌だ、争いは嫌だ と言って自分だけ逃げる人間と、
本能的に、自分の子供をかばう人間と比べるなら、
どちらが上等な人間なのであろうか?
どちらが「 自然な行為 」であろうか?

神様の尺度 仏様の尺度 、「 あの世 」の尺度
をもって見極めるしか方法が無い。

ならば、「あの世」の基準をどうやって知ればよいか?
残念ながら、神や仏は人間に直接言葉を語る事はない。
世の中には、神仏の声が聞こえると言う人もいる。

でも、その人が もし仮に 神仏声を聞くことが出来たとしても、
その神仏が 本当の神仏である保証は無い。

ひょっとすると悪霊の声かもしれない。
自分の 潜在意識 の声かもしれない。
神のメッセージを、もし聞き取る事が出来たとしても、
その真贋を見極めることは不可能である。

かつて、オ●ムは 仏教 の名のもとに
残虐な無差別テロを行った。

彼らにしてみれば それは 悪 ではく、
世の為、人のため と大真面目に信じ、
善行 のつもりでやった事である。
彼らは、オカシな教義を根拠に、 無差別テロ を行った。
 
このことが「 神の意思、仏の意思 」 
と信じていたのだろう。

宗教の最大の危険性とは。
神 仏を 持ち出せば どんな事も正当化されてしまう
と言う事ではなかろうか。
それ故、宗教は 諸刃の剣 であると感じる。

特に注意すべき事は、「 宗教団体の危険性 」
どんな人も、宗教団体に入信する時は、
あくまでも自分の判断と、意思によるものであるが、
入信したあとは、熱心になればなるほど、
自分自身の判断、 自分自身の意思、自分自身の価値観
を失ってしまう。

こうなってしまうと、
親方が「 右だ!!! 」と云えば、右を向き、
「 左だ!!! 」と云えば左を向く。

親方が「 左だ!!! 」と言った時、
素直にそれに従わないものは、
「 信仰が足りません 」という事にされる。

従順な、信仰深い人?のなかにも、
その事に多少の疑問をもつ人もいるだろうが、
「 せっかく、今までやってきたのだから・・・
ここで抜け出す訳にはゆかない 」
という意識が働く。

この心理は、マルチ商法に足を突っ込んだ人と同じような
構造であると思える。

宗教家や、信仰者は、無宗教の人間以上に、
自分の行為や考え方に対して、警戒心を持ったうえで、
宗教の危険性を十分認識し、常に自問自答し、
自分自身をを律し続ける義務があると思う。

私は自称・宗教家であり、 
神を信じ 仏を信じ、目に見えないモノの存在を信じる。

それ故、無神論者・無宗教者・唯物論者、以上に、
宗教に対する 疑念 を持ち、
警戒し続ける義務があると思っている。
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前世の記憶

2016-03-14 | 宗教

世のなかには、
「 前世を記憶する人 」・・・が存在します。
私も、実際にこういう方を何人か知っています。

前世は、武志だったとか・・
貴族だったとか・・・
なかには、具体的な人物名を言う方もおみえになります。

輪廻転生を、具体的な人物として捉えてた上での、
「 前世の記憶 」 とは、真実なのか?
脳内現象として起きる妄想なのか?

私としては、これに対する回答は、
「 永遠の謎 」が答えであると思っています。

このことは、天の摂理として、あえて、
答えを出す事が出来ないように仕組まれているのです。

ならば・・・
そういう主張をするひと、若しくはそう思っている人は、
ウソを言っているのか?
なかにはそういう人も少しはいるかもしれませんが・・・
決してウソを言っている訳ではない。

私が感じるに・・・
「 前世の記憶 」は、
その人の頭脳や、魂が記憶しているのではなく、
その人に強い影響を与えている「 霊 」が関与している。

「 記憶 」ではなく、「 霊的な外部からの情報 」
であると感じます。


ただし、その「 霊的な外部からの情報 」にも、
いろいろな次元があって、

念霊( 人間の想念が固まったエネルギー )
のような霊もあれば、
この世と、あの世の中間を
さまよう情緒不安定な霊であることもある。

「 自分の前世が知りたい」
という、強い願望を持ち続けた場合、
自分のが創り出した願望的な、妄想が浮かんでく位なら
さしたる問題は無いが・・・

場合によっては、自分には縁も所縁も無いない、
浮遊する霊がその「執着」に付け込んで、
寄って来たり、入り込んで来たりする危険性がある。

現に、そういう人を目の当たりにしたことがある。
こういうパターンは一筋縄は行かない、
私は恐くて逃げた。

「 前世 」については、
深追いしないほうが身の為であると感じる。

ただし・・
‘ 前世を記憶する人 ‘ のなかには、
霊的に観て位の高い人も存在する事は確かである。

こういう方には、
高級霊が何らかの目的を持って、関与している。

こういう特殊な人にとっての「 前世の記憶 」とは、
高い次元からの「 手段 」として、
その「 記憶 」が成立している。

高級な霊は、、特殊な使命を持って生まれて来た人間
に対し、「 前世の記憶 」を用意し、
その、ストーリや映像をその人に
「 感じさせている 」。

こういう高級霊が背後に存在している人に
共通していることは、
優しい・・・暖かい・・・慈悲深い・・・
愚痴を言わない、・・・慈愛に満ちている・・・
私利私欲に偏らない・・
多くの人から慕われている。
何事にも感謝の念を抱く。
些細なことでも心の底から喜ぶ。

現に、こういう素晴らしい方と最近お会いすることができた。

こういうお方は、
前世の記憶の真相など問題ではなく、
その人の存在そのものが素晴らしく、
偉大であり、敬意を抱く。
だだ、それに尽きる。

「 前世を記憶 」は、
潜在意識のイタズラである場合が大半であるとは思うが、
なかには、外部からの霊的な影響で、
「 前世の記憶 」を持っている人も存在する。

こういうパターンは、一つ間違うと、
危ない方向に行ってしまう。

「 前世の記憶 」の真偽は別として、
前世を知ろうとしたり、強い関心を持ったりする事は、
リスクが大きすぎる。

この手の話に深入りしない事が肝心であると感じる。
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夢ではなく蜃気楼

2016-03-13 | 思う事

M君は、ある大きな夢を持っていました。
それは、仕事に関係する事と、
未来の自分の生活に関することです。

M君は、その夢を、私に熱く語って来た・・・

彼は、今の状況と、自分の過去に不満を持っていました。

M君の話をよく聞いてみると、
彼は今まで多くの夢を抱いて、
目標をもって努力を積み重ねてきたのも関わらず、
その願いが叶う事はなかったらしい。

今まで、何をやっても満足する成果は得られなかった。

常に夢をもって生きてきたにも関わらず、
その夢が叶う事がなかったようだ。

彼は、そのことに悲しみと、憤りを待っているようだった。

この男・・・
何か見当違いをしているような気配を感じた。

彼の姿をジッと観た・・・

彼の発する「 風 」(雰囲気)を感じ取ったとき、
なるほど・・・と思った・・・

彼を暖かく見守る
目には見えない何かが、
彼のことを、深い愛念で見守り、
あえて「思い通りならない状況 」
を演出しているようだった。

彼に言ってやった、
「 あなた・・まずは夢など捨てなさい、それが一番の近道だ・・」

相手が女性なら少しは柔らかく言っただろうが、
彼に対しては容赦せず、直球を投げた。

あなた・・・自分が持っているものに気づいてない。
そして、自分に無いものばかりを追いかけている。

あなたは、過去においても、常に、このような状態であった・・
現在、過去、どの部分を切り取っても、
「現状に対する不満」のみであった。

今、こで流れを変えないと、これは未来にも連鎖する。

この状態から発露する「 夢・希望 」は、
無限の可能性を秘めた「夢」ではなく、

無いものねだり。
コンプレックスのカモフラージュ。

こんなのは、夢ではなく蜃気楼だ。

夢が実現する人間とは・・・
「 現状に満足する者 」
こういう人間は、どんな時も、自分の置かれた環境や、
自分を取り巻く人・物・場所が、
今の自分にとって必要な要素であることを悟り、
その状態なかで最善を尽くし、
無我夢中で前に進む、それがその時点では最善なのだ。

これ即ち、「 自分に与えられたモノを観る事ができた人 」

夢が実現しない人間とは・・・
自分に与えられているモノを数えず、
自分に無いものを数え続ける人。

これは、
キセル乗車で目的地まで行こうとするのと同じ。

運悪く、まぐれ当たりで夢が叶ったとしても、
そんな人間は、死ぬまで、不平と不満の毎日しか有り得ない。
そんな人間が「 成功者 」といえのか?


偉そうな事を言う自分に恥じらいを感じたが、
黙ってはおられなかった。
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私の成功哲学

2016-03-12 | 思う事

私は、仕事で毎日、車で街を走りまわっている。
毎日60キロくらいは走行する。

多くの飲食店が出来ては潰れ、出来ては潰れ・・・
そんな動向を常に目にしている。

これらの様子を観察して、私が感覚的に感じる事は、
たぶん・・・
個人で飲食店を始めた場合、商売が存続して、成功するのは、
10件のうち1~2件、

統計を取った訳ではないが、
廃業した空き店舗の多さ、入れ替わりの速さ、を見れば、
私の感覚は的外れではないように思える。

しかも、個人経営で存続している飲食店の半数は、
赤字ではないが、
ギリギリの線で存続しているだけのような状態
ではないだろうか。

若しくは、サラリーマンの2倍の時間働いて、
稼ぎは食べて行くのがやっとの状態であるかもしれない。
(これも感覚的に感じる事ですが)

そのような厳しい状況下で、
大成功して大きな財産を得たひとも多くいる。

カレーハウスCoCo壱番屋
日本のカレー専門店チェーン最大手

売上高
連結:440億1,400万円
単体:427億4,900万円
全店舗899億円
(2015年5月期)

・・ 支店舗数国内・・1,265店
海外:147店
(2015年10月31日現在)

創業者・・
宗次 徳二(むねつぐ とくじ)1948年生まれ。

宗次氏の生い立ち・・
3歳のときに養父母に引き取られる。
義父がギャンブル好きで、極貧生活。
義母蒸発。
米を買う金もなく、メリケン粉や、雑草を食べて暮らした。

このような子供時代を過ごした宗次氏であるが・・
自分は不幸だと思ったことは一度もないそうである。

宗次氏は、53歳で社長業を引退するまで、
まったく遊ぶ事をしなかった。

スナック、クラブに行ったことは一度もない。
社長時代は友人を一人もつくらはかったそうである。

経営に関しても、セミナーに行ったり、
コンサルタントに頼ることはしなかった。
「 目の前のことに一生懸命取り組む 」
宗次氏は、これに徹して、
ここまでの成功を手にした・・・・・

特効薬的な「 成功哲学 」もあるが、
それを信じて成功できなかった人も五万といる。

地味な哲学、保守的な哲学は、あまり語られたり、
目立ったりる事が無いだけであって、
実際に成功をこういう地味な考え方で、
大成功した経営者は多く存在する。

ダイソーの創業者も、同じような事を述べている・・・

「 成長期、別に大きな目標を持っていた訳ではありません。
今日よりも、明日、明日よりも、明後日・・・
と思い、一生懸命やっていたら、
気付いた時は大事業になっていました・・・」



私が知る限り、このようなタイプの人は、
もし、それが失敗しても、その課程のなかなら、
更に大きなモノを確実に獲得している。

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恐いお話・・・最終回・・

2016-03-10 | 宗教

彼に襲い掛かる数々の不運の原因は、
「 原因の、原因 」

「 フト思いつく、ふと感じる 」これが 
「 原因の原因 」なのです。

これ即ち、「 霊的因果 」である。

ただ・・・この要素は、仏教で説かれている、
「 因果報応 」とは、別物であり、
その辺をハッきり区別しないと、
落とし穴にはまる。

私はいままで、彼に限らず、この落とし穴に落ちた人を
多く見てきました。

 「 善人 」が、どうして、
落とし穴意に嵌ったり、不運に襲われ易いのか?

親鸞様のお言葉・・・
・・・・・・・・・・・・・
善人なほもて往生をとぐ、
いはんや悪人をや。

しかるを世の人つねにいはく、
「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。

この条、一旦そのいわれあるに似たれども、
本願他力の意趣に背けり。

・・・・・・・・・・・・・・

ここで、親鸞がいう、 善人・悪人 の定義
をハッきりさせておかねばなりません。

親鸞のいう、「 善人 」とは?

「 善行を重ねると、往生すると信じているひと 」
( 往生=死後安楽な清浄真実の 世界に生れること )

「 善行を重ねると仏に近づくことが出来ると信じているひと」

親鸞のいう「 悪人 」とは?
自分の善行に溺れていないひと。
自分の行った、一つ一つの善行に捉われていないひと。

ここで、親鸞の言いたかったことは、
「 善人より、悪人のほうが救われる。
悪人だから救われるのではなく、
悪人のほうが救われるにふさわしい
心の状態になりやすい 」

という事なのです。

そういう意味で、彼の不運、不幸は、
深い根があるのです。

即ち、彼は善人であるが故に、
素直な心境になる事が出来ない。

彼の意識のなかには、自分は善い行いを積み重ねているから、
それは必ず自分に戻ってくる・・
という強い信念が刻み込まれている。

これは、決して間違った信念ではありません。

これこそ、仏教の「 因果報応 」なのです。

この自覚は、人類レベルでは大きな意義のある真理です。
全ての人間がこのことを意識して行動するなら、
争いも、略奪も、暴力も根絶することが可能となるでしょう・・・

しかしながら、個人の運命を、これのみで説明する
事には無理があるのです。

皮肉な事に・・・
その信念の裏側には、「 傲慢 」という二文字が隠れている。

自分が善人であるという自覚は、言葉を変えれば、
「 自力の善に誇りを持っている 」という事。

これだけ善行を成したのだから、自分は救われる資格があるとか、
良い事が帰って来て当然であるという考えに偏り、
自分が成した、一善、一善を心のなかで、誇るようになる。

その、「 自信 」とは、
「 素直で、謙虚な心の姿勢 」と相反する性質をもつ。

善人の持つ特有の「 誇り 」と「 自信 」が、
謙虚さを失ってしまう大きな要因となってしまうのです。

彼の内面にある、「 善人の誇り 」が、
「 因果報応 」の絶対原則にフタをしている。

その結果、霊的因果に飲み込まれ、振り回され、
悪い連鎖を助長している。

形の上での‘ 善 ‘に捉われているうちは、
 本質を見ることはできない。

本質とは、人間のホントウの姿。
生命のホントウの姿。

全ての人間のは、神の分霊、仏の分身
人間は、神によって生かされている・・・
全ての人間の内に神・仏は存在する。

これこそが、「 ホントウの姿 」なのです。

この心境を音にしたのが、
南無阿弥陀仏
「 わたくしは(はかり しれない光明、はかりしれない寿命の)
阿弥陀仏に帰依いたします 」
( 帰依・キエ= 身をゆだねる )

キリスト教では、
アーメン
( ヘブライ語で 「 まことに、ほんとうに 」
という意味。)

・・・・・・・・・・・

彼の、悪い連鎖を止めるには、
彼の思い上がった意識に 
渇!!!を入れて差し上げる以外方法は無い。

ただ・・・この場合、私が彼に 渇!!!
を入れてあげる義理もない。

頼まれもしないのに、
際限なく他人の深い部分に入り込む事も愚かであると感じる。

今現在の彼に、
私の話に素直な気持ちで耳を傾ける事が出来る
余地は無いと感じられる・・

でも、いつか彼に大きな鉄槌が下る日が来る事を
密かに期待している・・・

恐いお話 ・・・終わり・・・
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恐いお話 ・・・総集編・・・

2016-03-09 | 宗教

先日、私の仕事上の関係者、
宮田さん(仮名)が、
「 見て欲しいと写真があるのですが・・・」
と言いながら、
スマートフォンを差し出してきた。

液晶画面を覗き込むと、6人の男が並んで写っている。

全員がニコヤカに笑い、思い思いにピースポーズをしたり、
隣の人と方を組んだり・・・
かなり盛り上がっている雰囲気。
どうやら、飲み会の集合写真のようだった。

ただ、この写真を見た瞬間、
その楽しそうな光景とは裏腹に、
何やら不穏で恐ろしい気配を感じた。

この時点では、スマフォ画面を一瞬見ただけで、
この写真の細部までは見てはいない。

一瞬、遠目で見る限り、
ごくありきたりの飲み会で撮った写真に過ぎない。

でも・・この時点で、宮田さんがどうして、
私にとって、
何の関係もない記念写真を見せてきたのかが解かった。

一瞬、私は寒気を感じた。

そして、内心で思った。
厄介な写真見せやがって・・・

この、宮田さん、
実は、以前にも厄介な事を言って来た事がある人物なのです。

以前、このブログに書いた、
「 白兎・開かずの間に潜入 」
という記事の登場した人物です。

この男、以前、怪しい宗教に引っ掛かり、
その宗教の霊能者と称する人物に
「 仏壇を焼き払わないと災いが起きる 」
と、そそのかされて、
自分の実家にある先祖代々の仏壇と、
神棚を焼き払ってしまった大バカ者です。

私は、いままで自分が関与したりアドバイスしたりした
人の事は、このブログには一切書かないようにして来ました。

たとえ、個人を特定できないように脚色したとしても、
私を信用して、秘密を話してくれた
人に対して罪悪感を感じるからです。

私の場合、本人の承諾を得ない限り、
徹底して「 体験談 」とか、 個人的な事例 」
を書かないようにしています。

ただ、宮田さんに限っては、例外です。
なぜなら、Mさんは、私にとって
「近付きたくない人間」だからです。

これには、色々な理由がありますが、
それはさて置き、
彼は、友達でもなければ、同僚でもありません。
仕事上、止むを得ず付き合っているだけの人物です。

この、宮田さんが、殺気を感じる写真を、
私に見せてきたのです。

彼は、毎度の如く、
暗い表情で、事情を語り出した・・・

数日前、中学時代の同窓会に出掛けた。

同窓会の後、仲の良い6人が一緒になって
二次会に繰り出した。

カラオケボックスに6人程が集まり、
懐かしさもあってかなり盛り上がった。

そのとき、参加者全員が集合して、記念写真を撮った・・

その後日、その中の一人、E君が、
この写真をフエィスブックで公開した。

この写真をアップしたところ、
写真を見た数人の人間から、
E君にメッセージが送られてきた・・・

「 宮田君の後ろに何かヘンなモノが写ってる・・・あれは何だ・・・ 」

恐~ィお話になってしまった・・・・

 あまり見たくなかったが、
彼が差し出したスマホに顔を近づけて
液晶画面に表示された画像を覗き込んだ・・・

ヤバイ・・・・と思った。
写真には、男6人が並んで写っていた。
彼は、中央、一番後ろの場所に立っている。

彼の肩の後ろから、
不気味な人間の腕が真上に向かって出ていた。

衣服を着けていない状態の、
肩から手のひらまでの人間の腕 だった。

その姿は鮮明だった。

頑丈そうな腕で、それは、どう見ても男の腕に思えた。

彼は、身体を正面に向けず、顔だけを正面に向けていた。

腰を少しばかり曲げるような格好で、
少し歪な体勢を取っていた。

そのような条件下で、
腕だけが彼の背後から不自然に突き出ていた。

その状況からして、
彼の後ろに人が隠れる事は不可能な様子であった。

普通、こういう写真は、例外を除いてほとんどの場合、
「心霊写真」ではない。

光の屈折や、反射、その他諸々の偶然が重なって
奇怪なモノが写りこんでいる場合がほとんどです。

ホントウの心霊写真など、千件に1件位のものです。

もし、あったとしても、
誰が見ても明白な、鮮明な姿で写真に写っている事は
まずありえません。

鮮明な写真ほど心霊写真の可能性は低い。

彼の差し出した写真には、人間の腕が、
誰が見ても明らかな形で写りこんでいる。

普通なら、笑い話で終わってしまうような写真ですが・・・

この写真は尋常ではなかった。
強烈な「 不気味な風 」を発していた。

トリック写真でも、光のイタズラでもない・・・
タダならぬ気配を感じた・・・

このような強烈な写真を目の当たりにしたのは初めてであった。

私が関わってしまうと危険であると本能的に感じた。

あまり、じっくり観ては危険だと思った。

ヘタに意見を述べたり解説したりして、
首を突っ込んでしまうと、
私に何らかの害が及ぶ可能性があると感じた。

じっくり観ているようなフリをして、
意図的にその部分を見ないようにした。

この写真を見た瞬間、一瞬感じた事は、

1・・ この写真に写る腕は、この場所に関係する霊のものではない。
2・・ この不気味な『人間の腕』は、宮田さんに関係する霊の腕であり、
・         他の仲間とは無関係である。
3・・ 宮田さんは多くの魔物・奇神・邪霊を寄せ付けている。

だだ・・
この事は彼には言わなかった。

私にどうする事もできない事を言っても
何の意味も無いと思えたからです。

 「 これは、近くにいた人の腕が、偶然、光の屈折で、
カメラのレンズに写りこんだだけだと思いますよ・・・ 」
と、彼に説明して誤魔化した。

宮田さんは、いろいろな
霊を寄せ付けやすい体質であった。

その背景には、多くの要素が複雑怪奇な形で絡みあう。

ただ、多種多様な複雑な要素( 因縁 )を一つずつ分析
して、そのカラクリを解明することは不可能。

どんな人間でも、何らかのマイナス要因 ( 悪因縁 )
を持っている。

ただ、それらの悪い要素の一つ一つを
潰して行こうと努力しても、何の解決にもならない。

それは、太平洋を手漕ぎボートで横断しようとするようなもの。

彼の 「 霊 」を寄せ付けやすい体質の背後には、
彼自身の 心のあり方 」「 気質 」
が大きく関与している。

「 悪因縁・悪業を払い除ける 」的な心構えで
「 闇 」を追い払おうとしても、
闇を消し去る事はできない。

「 闇 」を消し去る方法は唯一つ、
自分自身が「 光 」を放つ。

これ以外の方法は存在しない。
これは、他力に頼ってどうなるものでもない。

彼は、いつも暗い顔をしていた。

彼の発する言葉は、いつも、「 ひと言多い 」
彼は、いつも決まって、最後に
「引っかかる言葉」を付け加える。

彼は、常に丁寧な喋り方をした。
ただ、その丁寧な言葉は、
それをを聴かされた人に不快感を与えるものであった。

例えば・・・
仕事上の話で、
「 何々は、このように処理すればよかったですよね 」と、
彼に対して、再度、確認の意味で、念を押したとします。

そういう時、彼はこう答える。

「 はい、仰るとおりです・・だだ・・・・・
目上の方に対して大変失礼な申し上げ方ですが・・・
この事は昨日既に、お話した事であると思うのですが・・・ 」

彼の言葉は、常に丁寧だが、
常に引っかかるモノがある・・・

「 はい、そうです 」と、ひとこと言えば済むはずだが、
不自然な言葉で、大袈裟な回答をする。

彼自身は、こういう口の利き方が「 誠意ある応答 」
と信じているようで、
悪意がある訳では無い。

こういうのを、、「 慇懃無礼 」、、とうのだろう。
言葉は丁寧だが、丁寧さの裏に、
相手を、バカにしたような雰囲気を含んでいる。

こういう物言いをされると、
「 単純な言葉 」より、
遥かに大きな不快感を覚える。

捻くれ者の私としては、こう云う場合、

腹を立てても何の得にもならぬ・・・
無駄な時間とエネルギーを使いたくない・・・
相手になるだけバカらしい・・・

と思って、いつも聞き流すだけです。

しかしながら、
私のように捻くれていない正直な人間は、
彼に「慇懃無礼」な物言いをされると、カチンと来る。

それ故、彼は客先や、取引先でよくトラブルを起こす。

彼は、生真面目な性格だった。
責任感が強く、正義感もあり、
必要以上に些細な事に拘りを持つ性格だった。

義理堅い性格で、曲がった事が嫌い、
ズルイ事をして要領をカマしたりすることも無い。

老人を労わる心があり、
道で困っていそうな老人がいると、心配して、
仕事中で気忙しい状況でも、声を掛けたりする。

ホンの些細な不正も絶対に行わない。
真面目で、責任感が強くて、礼儀正しく、丁寧な言葉使い。

こういう 「 善人 」ほど、
落とし穴にはまってしまう危険性が高い。

穴に落ちてしまった場合、
穴の中から助け出す事は、不可能に近い。

このような人間は、一般論として、
非難されたり、問題を指摘されたりするような
対象にはなりにくい。

ここに落とし穴が存在する。

彼は幼い頃から、
一撃を浴びせられような経験をした事は
一度も無かったのだろう・・・

一度も修正さる事もなく、
歳だけとってしまったのだろう。

それらの「独善的な習性」は、
それを「水戸黄門の御印籠」にして来たのだろう。

彼は、善良な人間である。
でも、どこかが歪んでいる。

これが、「 善人が陥りやすい、落とし穴 」
こういう落とし穴にハマッた人間には、
独特の 「 暗い影 」が出来る。

この「 暗い影 」をもつ人間は、
邪霊・奇神・魔物を寄せ付け易い。

「 類は類を呼ぶ 」とは、まさしくこの事である。

彼のモノの見方、人との接し方、人生観は、行動は、
結果的に「 自虐 」であるような気がする。

「 自虐 」は、「 自己処罰 」を誘発する。
彼は、心の奥底で、自分で自分を処罰している。
その裏には、「 罪の意識 」が横たわる。

その、「罪の意識」の源は、
彼が先祖から遺伝的に受け継ぐ「 因縁 」に因るものである。

「 因縁 」とは、言葉を変えれば 「 課題 」である。
彼は、生まれてから、成長していく過程で、
家庭的な問題で「課題」が課せられていた。
(この辺の事情は書く事はできません・・)

彼の場合、この「課題」を、
ひがみ、嫉み、嫉妬、皮肉、暗さ、被害者意識、・・・
それらの「 暗い要素 」で隠蔽して来た。

その隠蔽を、更に・・・
「 生真面目 」「 不自然な礼儀ただしさ」
という鎧( ヨロイ )でガードした。

その事が、魂に‘ 隙 ‘(スキ)を作っている。

大きな‘ 隙‘ があるため、
怪神・魔物・浮遊霊が、簡単に入り込んでしまう。

彼は、今まで、何をしても常に不運の連続であった。

同時に、彼は頻繁に事故を起こした。
毎年、必ず1~2回は自動車で事故を起こす。

クルマ同士の接触事故・・・
自転車との接触事故・・・
畑の中に突っ込んだり・・・
追突されたり・・・
たて続けにパンクしたり・・・

あるときは、
走行中、突然マフラーが外れて、走行不能となったり・・
そんな信じられない事が起きた事もある。

何ゆえ、彼にこのような事が起きるか?

これは、彼のもつ
「 暗い心 」 
「 ひとを見下した傲慢で無礼な態度 」
「 思いあがった未熟さ 」
「 善良であるという誇り 」
が彼遺伝的な要素と絡み合い、
彼独特の「 下地 」( 雰囲気 )を形成させ、

これらの「 下地 」が、
それと性質を同じくする、 
「 邪霊 」や 「 奇神 」「 不成仏霊 」
を引き寄せるのです。

その結果・・・
彼が潜在的に持つ、マイナス要素 ( 悪因縁 )
が昇華されることなく、増大している。

彼の背後に映っていた気味の悪い腕の正体は、
彼が以前、関わった事のある人物の霊。
その人物は、交通事故で亡くなっている。

この人物は、彼にとって他人であり、
特別に深い付き合いがあった訳でもない、
ひょっとすると、
彼の記憶に無い程の付き合いだったかもしれない。

にも関わらず・・・何故か、彼の背後に出てきている。
こんな事は、まず有り得ない事である。

彼が怪しい霊能者にそそのかされて、
先祖代々の仏壇を焼き払ってしまった事も、
負の連鎖のなかの一部分であり、
そこれは、そういう怪しい人間を「 引き寄せた 」のであり、
突発的な原因で悪循環が始まった訳ではない。

これも、彼が自分に課した
「 自己処罰 」であり、
自分にとって不利な選択、不利な願望 、不利な言動、
を、無意識のうちに選択しているのである。

この連鎖のなかで、このような奇怪な事に
巻き込まれているのだと感じる。

こうなると、悪循環を止めることは至難の技となってしまう。

彼の歪な言動、不運や、怪奇現象・・・
それらの「 悪循環 」の源は、
「 自己処罰 」なのです。

 自己処罰???

サッパリ意味が解からない・・・・
と、思われるかもしれません。

アメリカの精神身体医学の大家、
カール・オーガスタス・メニンガー博士
(Karl Augustus Menninger、1893年 ~ 1990年)
の著書、「 おのれに背くもの 」。

この本には、興味深いことが書かれています。

メニンガー博士によると・・・

不運や、不測の事態、災難、などは、ほとんどの場合、
外部的要因によるものではなく、
自己の潜在意識が、
他人に自分を虐待するように仕向けている。

その結果として、自分に不運や逆境が引き寄せられる。

その苦しみに耐え忍ぶことによって、
自分を納得させている。

これ、即ち 「 自己処罰 」

メニンガー博士は、こういうパターンの人間を、
「 不運を嘆く一群 」と呼んでいる。

不運・不幸・災難 ・・・
これらを引き寄せる要因は、ほとんどの場合、
「 自分の深層意識 」が関与している。

天罰など有り得ない。

彼が、日常的に連発する、
「 丁寧すぎる失礼な言葉 」の背景には、

「 無意識 」の領域に横たわる、
自分にとって不利な状況を望む願望が糸を引いている。

その結果、善良で、真面目な生き方をしているにも関わらず。
不遇な立場に追い込まれる。

同時に、邪霊・・奇神・・悪霊・・不成仏霊を引き寄せ。
不可抗力の不運の連続。

彼は、まさに魔物の温床状態になっている。

彼は、多くの人の心に暗さを振りまき、
他人を不愉快にさせている。
同時に、自分自身も、常に不運や、災難の連続である。

なぜ、彼はこのような状況を自らが
引き寄せているのか?
それは、彼のなかには、
彼以外の、意識(先祖の霊)が同時進行していて、
その意識を昇華させる事が出来ていないからだ。

彼の、育った家庭環境には、込み入った事情があった。

更に、さかのぼれば、彼の先祖にも込み入った事情が多くあった。
人間の運命は、遺伝的な要素が大きい。

「 家系は繰り返す 」
彼の家系は、彼と似たようなパターンの人生を
歩んだ者が多く存在しているはずである。

肉体的な遺伝・・霊的な遺伝・・先祖の行動や思考の連鎖 、
これ、即ち、 「 原因 」。
それを再現させる事が 「 結果 」。

この2つの要素をひと言で言うと 「 因果 」
仏教で云う 「 因果報応 」とは、かなり意味が違う。

仏教示唆する「 因果報応 」の考え方は、
釈迦の説いた、偉大な教義であり。
宗教の根幹を成すものである。

ただ、そのなかには、
先祖からの連鎖(霊的要素)の真相が含まれていない。

その辺の、区別をハッきりさせないと、
いくら慈善を成しても、
いくら清く正しく生きても、
霊的要素に振り回される。

この事は、私が今まで多くの人を観察し、洞察した結果、
確信した事であり、机上の理論ではありません。

悪い霊的要素は、
それを他力で消し去る事はできない。

もし、霊能者がこれを怪力て追い払ったりしたとしても、
また、別の霊的要素が入り込んで来るだけである。

そうなったら、また、霊能者に追い払ってもらわなければならない。

結果、このひとは、霊能者にすべてを支配され、
運命の奴隷と化してしまうだろう。

霊能者、や、拝み屋さんは、
決して、悪意を持って、意図的にやっている訳ではないが、
結果として、自分に依存して来る人間を養成しているのです。
( なかには、悪意をもってやっている人もいる。
・      その最たる例がOーmの夜腹 )

人の持つ「 因縁 」は、複雑怪奇に絡み合っている。

それは、例えて言えば、
多くの細い糸を螺旋状に編み上げて造った、
太い紐のようなモノである。 

その一本一本を根元までたどる事は不可能である。
悪い因縁を打ち消す為に。

「 欠くあらねばならぬ 」 
「何々をしてはいけない 」
「 何々しなければいけない 」

と自分に言い聞かせる・・・
このような修練は、
バケツを使って、池の水を空にしようとするような行為ではなかろうか。
力めば力むほど、執着が強固なものになってしまう。

各論には有効だが、総論には通用しないと思える。
  
因縁(課題)を、超越す方法は、だだ一つ。
「 自己の生命は『神の分霊』である事を悟る事 」

これが出来た時、「 自己改造 」などという問題ではなくなる。
自然に、自分にとって最善の願望が湧き上がる。
最善の願望は、最善の行為を生み、
「最善の行為」は、、「最善の結果」を発芽させる。

この循環こそが真の意味での 
「 因果報応 」であるはずだ。

悪あがきはしません ・・・
この境地を音にすると、

南無阿弥陀仏 ・・
南無妙法蓮華経 ・・
アーメン ・・

となるのではないだろうか?

人間の内には『 神 』が存在する。
神は、外にいるのではない。

運の良い人、幸福な人生を歩む人、
これらの人に共通する絶対原則は、
「 自己の内なる神を知り、大切にしている。 」
これ、即ち、 「 ホントウの自分に背かない 」という意味。

ひとりの人間が、
この世に生を受けた事の目的は、唯一つ。 

「 自己の生命は『神の分霊』である事を悟る事 」である。


善良な人間であるにも関わらず・・・
彼の身体は、悪霊や、不成仏霊の温床になっていた・・・

彼の映った写真の、背後ある不気味な人間の腕は、
紛れもなく、
彼にすがって寄って来た不成仏霊そのものだった。

彼の身体には、これ以外にも2~3の霊が出たり
入ったりしているように感じる。

前にも述べましたが、
仏教で言うところの「 因果報応 」と
霊的な 「 因果 」を混同してはいけません。

彼は、決して悪い人間ではない。
むしろ 「 善人 」なのである。

真面目で、責任感が強く、正義感があり、
不正な行いは絶対にしない。

義理堅い性質で、世話好きで、親切。人情もある。

年寄りを労わる心が強く、
老人に対しては異常なまで親切心を持っている。

しかしながら、大きな欠点があった。

「 丁寧すぎる無礼な言葉 」を発するため、
接する人に不快感を与える。
( その要因は、自己処罰 )

「 暗い雰囲気 」を発して、まわりの空気をドンヨリさせる。

外見から見ると、この2点が彼の最大の欠点だった。

彼の行動を、仏教でいう「 因果報応 」と照らし合わせるならば、

1・・「 真面目で、責任感が強く、正義感がある。」
・        ↓  ↓
周囲から人望厚と信頼を集め、多くの人から慕われる。


2・・「 世話好きで、親切、 年寄りを労わる、 」 
・         ↓ ↓
 ひとに親切を与えると、それはやがて自分に戻って来て、
幸福となる。

となるはずだが・・・・

彼の場合、この2点、どちらも当てはまらない。

彼の現実は・・・

私生活での友達は一人もいない。
嫌われてはいないが、多くの人から敬遠される。
お金に恵まれていない。

仕事上、大きな失敗をよくする。
家庭問題が多く、夫婦仲、親戚仲がうまく行っていない。
子供のことで大きな問題を持っている。
頻繁に災難に襲われる。

毎年1回は、必ず自動車事故を起こす。
不運・不遇の連続

どうした事だろう・・・
「 因果報応 」は机上の空論なのか???

なぜ、因果の法則が機能しないのか?
この不可解な現象を説明しようとする時、
「 霊的因果 」
「 自己処罰 」

の言葉が出てくるのです。

彼の、性癖
「 悪意は無いが、無意識に、ひとを不愉快にさせる言葉を発する 」
を分析するなら、

嫌味のある言葉を吐いて人を不愉快にさせる。→ 原因
・      ↓
人から敬遠され、不当な評価を受ける。 → 結果


正当な評価をされないので、精神が不安定になる → 原因
 ・     ↓
大きなミスをしたり、交通事故を起こす。 → 結果

暗い心 → 原因
・   ↓
暗い環境・運命を引き寄せる →  結果 

彼の欠点を、因果の法則で説明するなら、
このようになるはずです。

ならば、なぜ・・・
短所にのみ因果の法則が機能するのに、
彼の長所のすべての部分に対しては、
「 因果報応 」が機能しないのか?

彼の性格に欠点があったとしても、
「 因果報応 」を大局的に当てはめるなら、


親切・善意・善行
・  ↓ ↓
幸運

トータルとして、彼は幸運な生活を送る事ができるはずです。

でも、現実はその反対です。
彼は不運の連続、

邪霊や、悪霊、浮遊霊に振り回されている・・・

なぜ、このような事になってしまうのか?

ここからが、「 霊的な因果 」

「 霊的因果 」とは、言葉を変えれば、
「 原因の‘ 原因 ‘ 」


1・・・彼は、怪しい霊能者の言葉を信じて、
先祖を祀る仏壇を捨ててしまった・・・

2・・・この「 原因 」の 「 結果、」として、
悪霊・邪霊・浮遊霊を寄せ付け易くなり、
不運の連鎖が始まった。

これがこの件に関する 「 因果関係 」

ならば、
何ゆえ ・1・のような「 愚かな気持ち」が湧いてきたのか?

これが、 「 原因の原因 」
人間の考える事、思う事、それは一見、
大脳による「 理論 」に因るもに見えますが、
実際は、そうではないのです。

「 フト、思いつく 」
「 フト、感じる 」

根本的には、
この ‘ フト ‘ が人間の感情や行動を支配していのです。

この、‘ フト ‘ がなければ恋愛などできません。
芸術も、文学も、音楽も感じ取ることはできませ。

この、 ‘ フト ‘がなければ、新しいモノなども生まれません。

「 フト思いつく、ふと感じる 」これが 
「 原因の原因 」なのです。
これこそが、「 霊的因果 」

即ち、彼の場合、
全ての出発点であるところの
「 霊的因果 」に、大きな問題があるのです。
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目には見えないモノを見る

2016-03-08 | 宗教


美貌・・容姿・・財産・・現金・・強靭な肉体
・・豪華な家・・車・・貴金属・・・
特権・・地位・・肩書き・・・名誉・・・

無いより、あったほうがよいに決まってる。

豊かな事は尊いことであり、
これらを否定したら、個人主義の上に立脚した、
文明は成り立たない。

ただし・・・
価値観と人間の意識が、
この次元で止まってしまう事で、これらの要素が毒となる。

富 ・・ 快楽 ・・ 豊かさ・・繁栄・・
これら、全ては、
「 目に見えるもの 」
即ち、実感としての現実である。

この、「 目に見えるもの 」を信じ、
これのみを妄信的に追い求める者は、
やがて、これらの ‘ 富 ‘の奴隷となり、
本来の自分を失ってしまう。

一番の不幸とは、自分を見失う事である。

絶好調なときも、ひと時は
あるかもしれないが、自分を見失うと、
最終的には、孤独・失望・未練・
落胆・不和・虚無感の暗闇に引きずり込まれる。

そういう不幸な人はたくさんいる。

宗教の真の目的とは、
「 目には見えないモノを見る 」事にある。

「 目に見えないモノを見る 」とは、
霊を見たり、神や仏の姿を映像として見るという意味ではない。

もし、神仏や霊を映像として見たなら、
それは、幻覚であり、自分の内部で起きている、
「 脳内現象 」であり、「 真実 」ではない。

先に述べた、「 見る 」とは、
「 観る 」 = 「 静観する 」という意味である。

「 静観 」とは、
事物の奥に隠された本質的なものを見極める
という意味。
「 静かに見る 」のではない、
目で見るのではなく、「 心で観る 」


たとえ、目の前が、辛酸な、惨憺たる状況であろうとも・・
栄華を極めた状態であろうとも・・・

その背後にある、「 見えないもの 」を見ることが出来ない人間は、
この世に生まれてきた最大の意義と、権利を放棄した事になる。

目に見えないものを観たとき、
自分にとって、、最高にして、最大の幸福を観る。

他者との比較ではない、「 自分が全て 」なのだ。

「目に見えるもの」 のみが全てと考えるなら、
全ての人間が平等ではない、
「 全てが不平等 」である。

生まれつき虚弱なひともいれば、強靭な人もいる。

生まれつき裕福な環境で育った人もいれば、
貧乏な環境で育ったひともいる。

五体満足で生まれた人もいれば、
障害を持って生まれた人もいる。


誰かが言うでしょう・・・

おれは善良に、真面目に生きている、
悪に憧れている訳でもない・・
なのに、なぜ!!不平等なんだ!!!
神も仏もあったものか

その気持ち、痛いほど分かります・・
だからこそ・・・
「 目に見えないもの 」が存在するのです。


誰かが言うでしょう・・・
この、ウサギオヤジ!!!屁理屈ばかり
言いやがって!!!詭弁をいうな

ご最もでございます・・
だから、宗教はバカにされるかもしれません・・
「目に見える世界」では確かに詭弁です
しかしながら・・
理論的な判断だけではどうにもならないのが、
‘ この世 ‘ なのです・・・
そこから一歩踏み出さない事には、
世のなか真っ暗闇で、人生が「 徒労 」となってしまう。

目に見える世界は不平等だが、
それは、その奥にある、
「 絶対的なものを観る為の道具として、現われる仮の姿 」
見えないもの とは

自分の内に宿る神
自分の生命の根源である‘神‘ 
自分の内に宿る生命の偉大さ
自分を見守る、親の心・先祖の想い

全ての人間は、神の分霊・仏の化身
全ての人間は根底で繋がっていて、一体である
生きてるだけで丸儲け

これを知らせる為に、釈迦が現われた。
これを知らせる為に、キリストは現われた。
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霊的‘毛穴パック‘論

2016-03-06 | 宗教

毛穴パック

15年くらい前だったか・・
この商品が話題になった事がある。

でも、今はコマーシャルなどで見ることはない。

当時、わたしも、妻に勧められて面白半分で、
使ってみたことがある。

絆創膏のようなシートを鼻の頭に貼り付け、
数分後、このシートゆっくり剥がす。

剥がしたシートの表面を見てビックリ。

シートの表面には角柱と呼ばれる、細い氷柱のような
ものが針山のような状態で、大量に付着している・・・

思わず感動していまった。
毛穴の中には、こんな汚れが詰まっているのか・・・
それは、快感とも思える衝撃だった。

これは凄いぞ・・・
鏡で自分の鼻の頭をよく見てみると、微小な大きさだが、
点点があることは以前から気付いていた。

でも、特に気にする事もなかった。
「これはこれで、こういうもの」
と思っただけで、忘れていた。

毛穴パックを使ってみて、
意識しなければ何でもない事に対し、
大きな発見をしたかのような気分になった。

だが・・・・
何でも疑う事が私の性癖・・・
そのあと冷静になって考えてみた・・・

しばらくして・・ハッとした・・・

「 ヤバイ・・これは危険だ・・・・ 」

冷静に考えればよく分かることだと思う・・・
そのとき、思った・・・・
ごく普通な事、生活をしていて、
自然な状態で蓄積する毛穴の不純物は、
毛穴という「 空間 」が存在するから、
皮脂などの油などが入り込んでしまう。
それは、当然のことで、自然なことだ・・・

この、自然な不純物を、
外部から物理的な吸着力を使て、
強行に引っ張り出したら、引っ張り出された後、
また他の不純物が入り込んで来るだけ。

いや、むしろ、入り込み易い環境を作ってしまうのでは・・・
その状態が、良いわけが無い・・・
ひっょっとしたら・・・かえって毛穴を大きくしてしまい、
見苦しい状態になるかも知れない・・・

それを隠す為に、
更に、このシートを使い続けなければならなくなり、
最後は、大きなダメージを受けて、
修復不能となるのでは・・・

空になった毛穴という空間にフタでもして、
塞いでしまうなら良いが、
そんなことをする訳ではない。

エステなどの専門家が行うなら、問題はないと思うが、
素人が行うと危険であるような気がした。

これは、一種の快楽商品だ・・・・

この私の仮説が正しのか間違っているかは
分からないが・・
この考え方は「 自己防衛 」を基本としている。
 
伝え聞くところによると、
これが原因で、鼻が赤くなり、濁点が出来て
イチゴのようなってしまった人もいるとのこと・・・
案の定・・・この商品のブームは、消え去った・・・


ここで私が申し上げたいことは・・・・

この事例は、「 霊的な事 」にも同じことが言える・・・
という事です。

人はそれぞれ、因縁を持っています。
因縁には・・・悪因縁、善い因縁、の両面があり、
必ずしも人間にとって不都合なものではありません。

善い因縁とは、言葉を変えれば、「 良い種 」
悪い因縁とは、「 悪い種 」

種は、やがて芽を出します。

悪い因縁は、芽が出たとしても、
自分の意思と、体験を通じて、
消し去るチャンスが与えられます。

芽が出る前に、この種を消し去る事は、
不可能な事ではありません。
良い水を与えれば良いのです。
「 良い水 」とは、
「 感謝・和解・自己の本性の自覚 」

でも、良い水を与えたからといって、
確実に「悪い種」が消える訳ではありません。

この事は、多種多様な要素が複雑且つ、
微妙なサジ加減で作用していて、
悪い種も、必要とあらば、容赦なく発芽します。

発芽してしまった「悪い芽」を、
どのように扱うかが問題なだけです。
不運や障害に対して、どのような対処をし、
その「現実と体験」のなかから、何を掴んだか?
が大切な事なのです。

これは、いま、生きている間にしか出来ないことであり、
死んだあとは、そのままの状態が「 固定 」されます。

死んだ後、それを自力で「 開放 」する事は、
ほぼ、不可能。
それ即ち・・・子孫や霊的な繋がりのある者に、
課題を残すことになるのです・・

死んだ後は「 体験 」が出来ません。
体験は、因縁を乗り越えるための必要条件なのです。


上を向いている者にとっては、
これは新たな流れを形成するためのチャンスなのです。

一番危ない事は、
「 霊的毛穴パック」を使うことです。

この場合、「 毛穴パック 」とは、
怪力を持つひとに依頼して、
その怪力者の力( 他力 )で強引に
悪い因縁( 種 )を吸出してしまうこと。

実は・・私も、このくらいのこと、
やろうと思えば出来るはずですが・・・
これは絶対にやってはいけないことだと思っています。

もし、やってしまったら、自分に対しても、
相手に対しても、最大の破壊行為となる
これはある意味、自爆テロです。


これは、その人の魂の中を無防備な状態にしてしまう事です。

その場は快感ですが、その後、依存症となり、
いつまでたっても因縁を乗り越えるチャンスはやって来ない・・
そして、
本来持っている自己に宿る
免疫力(霊的な力)が衰退させてしまう・・・


思わず・・・この禁じ手を使いたいという
衝動に駆られたことがあった、

でも・・・結局使わなかった。

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正真正銘の成功者

2016-03-05 | 宗教


  分をわきまえる 
これが肝心なことだと思う。

 ぶん とは・・・
立場をわきまえる ・ ・・分をわきまえる ・・
・ 立場を心得る ・ 身のほどを知る・・
・ 分別を働かせて ・ ・分相応に ・・

という意味のようである。

この言葉、極めて消極的な言葉に見える。
この言葉を単純に解釈すれば、
立身出世や、叩き上げ、の成功など有り得ないことになる。

でも、私は、そうは思わない

ぶんをわきまえる とは、
自分の過去。
自分に与えられた環境。
自分の存在。
自分を取り巻く全ての事物。

これら、全てに対して、
素直に受け入れることだ。

それらと和解することだ。
「和解」とは感謝するということだ。

これが出来たとき、限りなく謙虚になる。

だだ、「感謝してます」という意識のバリアと言葉で、
自分を隠蔽しまっている人も多いので、
ここが厄介である。

こういうタイプは、生半可に精神世界や、宗教をかじった人とか、
「偉い先生」になってしまった「傲慢な人」に多い。

「ぶんをわきまえる」ことをせずして、
次の段階に進もうとする事は、危っかしくて見ておられない。

「ぶんをわきまえない者」とは、
与えられた課題を力任せに、怪力を発揮して、
強行突破することであり、
それに伴う反動が帰って来ることが多い。

これよりもっと危険なのは、
他力に頼る事である。

神通力のような、特殊な能力や怪力を持つ人に依頼して、
自分の持つ因縁を強行突破を試みるものもいる。

これをしてしまうと、突破が成功したとしても、
その隙間にまた別の魔物みたいなものが入り込む。

夢は必ず実現する
という言葉を、浅いところで受け取っていたら、
思わぬ失望を呼ぶ。

浅い意味でのとは、
皮をめくると・・・

無いものねだり。
コンプレックスの反動。
他者との比較。世間体・・虚栄心。
である事が多い。

それ故、、もし、その夢が叶ったとしても、
そあとどうなるかは危なっかしい。

高学歴でイケメンで、
背の高いカッコイイ男と結婚する事を夢見て、
その願いが実現

これで、全ての幸運を手にしたかのような気分で喜んだが
その達成感のあとには・・・・
理想とはかけ離れた現実・・・
別れることが可能なら別れたい・・・
でも、それはできない・・・
心の中で密かに思うようになる・・・

「 いっそのこと・・彼がいま不慮の病気や、
不慮の事故でポックリ死んでくれたら・・・
誰にも迷惑をかけず、全てから開放される・・・」

私は、こうい潜在願望をもった女性を何人か見たことがある。


私の言う、
ぶんをわきまえた者とは?
「自分自身と、自分を取り巻く全ての事象と、和解し、
いま与えられた環境の中で
不平を言わず、今現在を全力で生きている者 」


こういう人は、必ずその人にとっての最善の未来がある。
気付いた時には、求めずしても幸運が押し寄せている
こういう人に限って、大きな事を言わない。
大言壮語せず、不平不満を言わず・・・
ただ、淡々と、黙々と、優しく朗らかに今を明るく、
慎ましく、精一杯に生きている。

実際に私は、このような人も多く知っている。

先日、こういうタイプの幸せ一杯の人とお会いできた・・・
この方の頭上では菩薩の姿をした天女が飛び交い、
妙なる楽曲を奏でていた
そのメロディは、バッハの「G線上のアリア」に似ていた。
感動して涙がでた・・・

思わず・・・貴女は正真正銘の成功者だ!!!!
と叫んでしまった・・・


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滅私奉公こそ、ホントウの貪欲

2016-03-05 | 思う事

人間の欲望には際限が無い。

金が欲しい。
地位と名誉が欲しい。
高級車を乗り回したい。
美味しいものを、食べたい時、好きなだけ食べたい。
モテモテになりたい。
栄光を手にしたい。

でも・・・それがほんとうに自分にとって
必要なものなのかは危ういところである。

富を夢見て、その願いが叶い、
大きなお金をてにしたとしても、
もし、大病を患えば、
「 健康を取り戻すことが出来れば、
必用以上の金などなくたっていい」・・と、
思うだろう。

富を得ることは悪いことではない。
裕福な生活が出来たなら素晴らしいことだ。

ただ、「獲得する」にも、2通りがある。

1・貪欲型
「 欲しい!!! 欲しい!!! 」と念じ続けて、結果的に
獲得したもの。

2・ 滅私型
「欲しい、得たい」という願望をも忘れてしまうほどに、
自分を信じ、
自分のできることをガムシャラにやり続け、
ふとフト気付いた時に獲得していたもの。

私が今まで多くの人を観察、分析して来て思ったことは、

1・・「貪欲型」の成功者は、
何かを得た代わりに、
何かを失っている場合が多い。
流れが変わったとき、奈落の底に落ちる事もある。

2・・「滅私型」の成功者は、
「自分にとってほんとうに必要なもの」のみを獲得し、
それを得たからと言って、トータルな意味で、
大きな損失を出さない。
どのような経緯のなかからも何かを得ている。
目立たないが安定的、確実、発展的。

たまに本屋を覗くと、
「 必ず願望が叶う方法 」「成功の為の虎の巻」
とかいった類の本が何種類も置かれている。

どの本を見ても、書いてあることはほとんど同じだ。

私も若い頃、(今から30年前)、
これらの本を片っ端から読み漁った。
100冊位は読んだと思う。

当時はそれらの本を読んで共感し、
得意満面になって人に語った・・・

でも、現在は、その手の本は一切読まない。

今現在、続々と新刊される本をみてみると、
画期的なことを書いてあるよう匂わせる構成だが、
大筋の定型があり、それを脚色しているに過ぎない。

私が見る限り、書いてあることは30年前とほとんど同じ。

「 絶対原則は普遍だから 」と言われるかもしれないが、
その原則とは、確かに普遍的なことだが、
あくまでも、「入り口」の案内板であるとしか思えない。

それをいつまでも繰り返していても、
出版社や、物書きが儲かるだけのことであり、
読むひと、信じる人にとって大きな
意義など無いと思うようになった。

入り口も必用だが、それを「最高の英知」みたいに言うのは、
虚しい気がする。

更に踏み込めば、
「 滅私奉公 」となるはずだ。
これがホントウの意味での「貪欲」であると思う。

貪欲は、有限。
滅私は、無限にして、自由自在。


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