名古屋の白ウサギ・1964年生・

別名、ウサギ仙人・・職業・会社員

「言葉は神なりき」・・・されど・・・

2017-06-17 | 宗教


初めに言葉があった。
言葉は神と共にあった。
言葉は神であった。

・・・・・
これは新約聖書・ヨハネによる福音書1章
聖書に記された聖書の言葉です。

宗教とはまさに「 言葉 」であると思います。

目に見えない世界を表現し、人に伝える為には
「 言葉 」を使って人に伝える以外に方法はない。

それゆえ、聖書や、仏典などの経典がが存在する。

また、聖書・仏典などの他にも、
言葉をもつ人類の歴史の中で、
多くの偉人や教祖を輩出し、
その思想(教義)を 【言葉】に変換して後世に伝えた。

そなかには、
その言葉に触れたものを
不幸にする邪悪な言葉(経典)もあれば、
幸福をもたらすものもある。

人を不幸にする邪悪な経典の代表格は
マルクスの記した資本論である。
(共産主義も宗教である。)

古今東西、星の数ほどの
多種多様な言葉が乱立する。

世のなかには多くの宗教団体が存在するが、
一部の邪悪な集団は別問題として、
多くの場合、その表現方法の相違こそあれ、
釈迦やキリストに通じる素晴らしい
言葉(教義)を発している、

全ての宗教はその根源に於いて
「 ひとつ 」である。

・・・・・・・・

ならば、崇高な理念を有する、教義 (神の言葉)
を信じ、語る人間は、
限りなく神に近い存在なのか?

それを知らない人間より、「 上等 」なのか?


私は思う・・・・

語る「言葉」と、その人の人格とは別問題


自称「 偉いひと 」の中には、

高等な言葉(教義)を人に語ったり、
しているにも関わらず、
私の眼から見て「 内面はお粗末・・・お気の毒・・ 」
と思える人が多く存在する。

それ即ち、
その人の語る「 言葉 」のみでは、
その人の本質や内面をはかり知ることは不可能ということだ。

ここに、宗教の落とし穴・宗教団体の
愚かさが存在すると思える。

このような落とし穴に嵌ってしまった人間とは、
ワクチンに対して、抗体を持った
インフルエンザウイルスと同じで、
捉えどころがなく、対応方法もない。

「 煮ても焼いても食えない 」
とはこのことだと思う。

可哀そうな人達であると思える・・・・

宗教は諸刃の剣であり、
多くの人を幸福にする代わりに、愚かなる
「自称・偉い人」 「自称・徳を積んだ人」
を多く輩出する。

このような人達に振り回されたり、
利用されて餌食にならないよう、
「 疑う心 」( 冷静な分析 )が必要であると思う。

その上で、
こういう輩に近付かないという知恵が
生きて行くうえで大切な事だと思う。

立派な教義を宣うが、
中身は空っぽで、貪欲・傲慢の人間より、

難しい理屈など語らないが、

  人として素直に・・
  人として正直に・・・
   人として慎ましく・・・
  人として謙虚に・・・・

こう云うごく普通な人の方が、遥かに偉大であり、
神に近い存在であると思える。

宗教屋さんの好きな言葉 
「 霊的なレベルが高い・低い 」
という奇怪な尺度を逆に使わせて頂くなら、

修行?した偉い人?
徳を積んだ偉い人?

こういった「 自称・徳が高い人 」よりも、
傲慢にならず、御立派な屁理屈を言わず・・
淡々と、謙虚に精一杯生きる、
ごく普通の人の方が遥かに
「 霊的レベルが高い 」と感じる。



だからと言って、
私は「 言葉 」(教義)を否定する積りはありません。

仏教の教えは偉大であり、
聖書の言葉は素晴らしい。

「 言葉 」が大切なことはたしかである。

ただし・・・・

「 言葉 」以前の問題として大切なことは、

 道  

であると思う。

「 道 」とは・・・
言葉や、音や、教義ではなく、

 素直な心 
 自己に内在する良心 

これを貫くことを「 道をつらぬく 」と云う。

【言葉】即ち・・【教義】とは、
「 道 」を補うための一つの手段であり、

厳密に言えば

初めに道あり・・・

ではなかろうか?

聖書の言葉は、心で読めば、
・・・・初めに言葉あり・・・とは、
「道」という意味も込めて記された
「言葉」であると思う。

「 道 をつらぬく 」とは、自分とは異なる考えの人間に対しても、
「 礼を尽くす 」事であり、
【 礼 】とは、「 礼儀 」を意味する。

この「 礼儀 」とは、

主義や主張の異なる相手が発する
【 言葉 】に対してではなく、
相手の内に宿る 「 神 」に対して

「 敬意を持つ 」

敬意は【礼】となり、

「 礼を尽くした上で、反撃する 」

これが「 道をつらぬく 」こと云うことだと思います。

これが出来ない人を、「 腐った宗教家 」と呼びます。



これは 面識はありませんが・・・・と
名乗る「言葉」(思想)は正しいが、「道」を踏み外した、
どこかのエライ人に申し上げたいことです。

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魔物のようなもの

2017-06-07 | 宗教

今まで、多くの人と接して来ました。

強運なひと・・ 

不運なひと・・・・

無気力なひと・・・

やる気はあるけど何をやっても
うまく行かない人・・・

心優しく思いやりがあるにもかかわらず、
徹底的に不運な人・・

謙虚さがなく、利己主義者なのになぜかすべてが
上手く行っている人・・・

ありとあらゆるタイプの人を見てきました。

これからも思ってもみなかったような、
驚くような摩訶不思議なパターンの人と
出会う事になるでしょう。

多くの人を観察、洞察してきたなかで感じる事は、
人間の運命や環境は、
ひとつの要素をもって、それを絶対的な要因として
大袈裟に語ることはあまりに単純すぎる
考え方だと感じます。

多種多様な
要素が複雑怪奇に螺旋状に
絡み合って形成されているということです。

人間の運命や未来は、
多くの要素が複雑に絡み合っていて、
一つの鉄則を基準にして、
すべてにそれを当てはめてしまうことは
横暴であると思います。

多くの事例に接すれば接するほど、

「 あなたのここが悪い・・ 」 

「 原因はすべてこれだ・・ 」

などと簡単に言い切ってしまう
事に対して疑念を深めるばかりです。

自称・「信仰深い偉いひと」「 宗教の偉い人 」は、
悩み、悶え苦しむ人に対して、
その人の心情や、背景、固有の因縁など
まったく分かっていないにも関わらず、
エンドレステープのように、
誰彼構わず
「 あなた・・それではダメです・・・」
「 こうしなければダメなんです・・・」
「 徳を積まなければダメなんです・・・」
「 先祖供養が足りないからダメなんです・・・」
と演説される。

そういうお前は何なんだ!!!

こういう輩を見ると虫唾が走る。

私の眼から見て、
そういう御立派なお言葉を吐く人よりも、
それを聞かされている人の方が、
その人たちの言う「 徳? 」とやらを基準にするなら、
聞かされている人の方がよほど
「徳が高いひと」と思える。



複雑に絡み合った要素( 原因 )を察知したうえで、
謙虚な気持ちで、誠意もって対応する事こそが、
宗教家に課せられた課題だと感じます。

これはある意味、「相手の魂との駆け引き」 です。

あるときはストレートパンチを出すフリをして、
肘打ちを繰り出したり・・

あるときは、スカンクのように猛烈な悪臭を発したあと、
寝技に持ち込んだり、
足固めをるフリをして腕十地固めに持ち込んだり・・・

なぜそのような奇怪な技を必要とするかというと、
その人が魂の蓋を開けようとすると、それを邪魔して来る
魔物のようなものが存在するからです。

それは、
蛇のような姿をしていたり、
ガマガエルのような姿であったり、
カメレオンみたいな姿であったりします。

その ‘ 魔物 ‘ とは、ほぼ100% 
そのひと本人の妄念が造り出した
蜃気楼のようなものです。

私には時々、この
「 魔物のようなもの 」見える事があります。

「 見えると 」とは、
「 映像が見える 」という意味ではありません。

姿形のない、目に見えない相手の「 意識 」というエネルギーが、
私の「 意識 」と云うフイルムを通して、
そのような映像を「 感じる 」ということです。

これは、「 科学 」のお話ではなく、「 文学 」です。

もし、ほんとうにその映像がリアルに見えてしまったら、
それは、心理学で言う、
「 意識の膨張 」
これは危険な状態です。
治療が必要になります。

お陰様で、何とか正気は保っています。

映像として観ることはできないけれど、
「 感じる 」

その「感じる」とは、
所詮、「 本来実在しなモノ 」であり、
魔物・悪霊など「 無い 」が真実です。

この、蜃気楼が巨大過ぎると、
マトモな技ではビクともしません。

単純明快な手法のみではどうにも太刀打ちできないと云う事です。

しかしながら、こう云った私の奇怪な 
運命アドバイザー という仕事を
( ‘偽‘善事業です、私の収入にはなりません )
行って来たなかで痛感した事は、
不運なひとに例外なく共通することがあるということです。


その 「 不幸になる為の絶対原則 」とは・・・

自分の不運や不遇を何かのせいにする
ということです。

親のせいで・・・ 
 兄弟のせいで・・・
学校のせいで・・・
会社のせいで・・・ 
 友達のせいで・・・・ 
 環境のせいで・・・・
社会のせいで・・・・・・ 
 容姿のせいで・・・ 

とにかく、「 〇〇のせいで、自分は・・・・ 」
と嘆くこと
信じること・・・・

これが  「 不幸の絶対原則 」

もし、仮に、
〇〇のせいで・・・・
 という言葉が、事実であったとしても、
そんなことは関係ない。

よくも悪くも、これが 絶対的な法則 なのです。

この 呪文を唱え続ける限り、絶対に現状は打破できない。
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おのれ自身をしれ・・・新渡戸稲造・・武士道

2017-06-06 | 宗教


新渡戸稲造著・奈良本辰也訳

・・・武士道・・・より抜粋

神道の教理には「 原罪 」
という教義が入り込む余地はまったくない。

それとは逆に、人間の魂の生来の
善性と神にも似た清浄性を信じ、
魂を、神の意志が宿る至聖のところとして
崇拝する。

神社の霊廟には礼拝の
対象物や器具がいちじるしくとぼしく、
本殿にかかげてある装飾のない、
一枚の鏡が神具の主たるものである。

この鏡の存在理由はたやすく
説明することができる。

つまり鏡は人間の心の表象である。

心が完全に落ち着き、清明であるとき、
そこには「 神 」の姿を見ることができる。

それゆえ参拝のために社殿の前にたつとき、
輝く鏡の面におのれ自身の姿を見るのである。

そして参拝という行為は、
かのいにしえのデルフィの神託
「 おのれ自身をしれ」
に通じるのである。

以上・・・・・・武士道・・・より抜粋

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