名古屋の白ウサギ・1964年生・

別名、ウサギ仙人・・職業・会社員

確率統計論 

2016-02-28 | 宗教

量子力学 とは
極微の世界 原子や電子を記述する理論

1915年 アインシュタインは   相対性理論  を確立た。

ニュートン力学は地球上の現象をうまく説明し
相対性理論 は高速で移動するモノや 
宇宙空間 で起きる現象を数学的に説明した。

それに対し 量子力学 は
極微 の世界を記述する理論。

原子、電子、 に  量子状態 
 という概念当をあてはめる。

量子状態 は 確率的な計算で説明する。

アインシュタインの相対性理論は、 
科学の基礎である 
ニュートン力学 の延長線上にある。

量子力学が用いる 確率統計論 
などといった曖昧な論理とはまったく
融合できない。

ニュートン力学 と 量子力学 は
水と油
・・・・神は サイコロ を振らない ・・・・・
アインシュタインは こう言って量子論を 皮肉った。

アインシュタインは 量子論 を否定し、
真っ向から反撃した・・・・・・・

それから100年経った現在、
量子力学 は物理学の世界では、
定説として認められている。

アインシュタイン は負けた、
天才 アインシュタイン 
にも理解できない世界が存在した事になる。

量子力学 なくして現在の科学技術は成り立たない
ニュートン力学   相対性理論   量子力学・・
それぞれが 科学 数学 
を基本にしているにも関わらず、
水と 油のように溶け合うことができない・・・・

絶対的  普遍的 
原理・原則 は 一つ でしかあり得ない。

でも どれかが間違っているというわけでもない。

どの理論も それなしでは、
現代の科学技術は成り立たない。

科学も宗教か ? ・・・・・・と思えてしまう。
私が思うにこれからの キーワードは量子力学。

量子力学 は 「 この世 」 と 「 あの世 」
が混在することを、
理論的 数学的に 記述することが出来る。

宗教においても、絶対的  普遍的 
原理・原則 は 一つ でしかあり得ない。

だが、その一つでしか有り得ないものが、
多種多様で、奇怪な現象となって現われる。

それらを「 神は サイコロ を振らない 」
という言葉で片付ける事は無理がある。

量子力学でいう、「 確率統計論 」的な思考をもって、
宗教を見ないことには、
一歩も前に進む事は出来ないと感じる。

ただし、仏教にはその答えが既に語られている。
そのダイジェストが、
般若心経 であると思う。

だが・・・それと同時に、般若心経には、
呪文・呪術のような霊力が込められているような気がします。

接し方に注意が必要だと感じます。

私は、自称・宗教家ですが、めったな事では、
お経を唱えなることはありません・・・
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一歩踏み出す。

2016-02-23 | 宗教

デビット・ジョセフ・ボーム
1917 ~ 1992年
米国ペンシルベニア州生まれ。
理論物理学者・哲学者・思想家
ロンドン大学バークベック校教授 1961年 ~ 1987年(後に名誉教授)

ボームさんは 85歳で死去 量子物理学の世界で多くの業績を残した
偉大な科学者である

アインシュタインと同時期に活躍した学者であるが、
アインシュタインほどの知名度はなく、お気の毒に思える。

ボームの唱えた物理学理論は限りなく、
仏教思想に近い理論である。

ボームは言った・・・・・・・・・・・・・・
宇宙は2重構造になっている。
目に見える物質的な世界と、目に見えない世界
が同時に存在している

ボームは、
目に見える物質的な世界を 明在系 (メイザイケイ)
目に見えない世界を  暗在系 (アンザイケイ)
と名づけた


明在系と暗在系は同時に存在する。

明在系と暗在系は全ての物質、精神、時間、
などを1つに集約していて、分離が出来ない。

ボームの言葉は 仏教思想 にそのまま当てはまる

般若心経に記された有名な言葉

色即是空
色 =  明在系 (この世)
空 =  暗在系  (あの世)

この世 即ち あの世

物理学も究極的には、 色即是空の世界たどり着く

しきふいくう
色不異空  (形あるものは実体がないことと同じ)

くうふいしき
空不異色  (実体がないから形あるものとして存在する)

しきそくぜくう
色即是空  (形あるものは実体がない)
             
くうそくぜしき
空即是色  (実体がないから形あるものとなる)

ボームの理論は 時間 も無いと言っている。

ぜしょほうくうそう
是諸法空想  (この世の中のあらゆる存在や現象には、実体がない)

ふしょうふめつ
不生不滅  (もともと、生じたということもなく、滅したこともない)

現世と死後の世界・来世・ は同時に進行しているのではなかろうか・・・
あの世 とは人間が死んでから行く世界ではなく

‘ この世  ‘  と ‘ あの世は ‘ 表裏一体であり分離不能。

分離不能であるから、分けて考える必要はない・・・・・


近代物理学は仏教の理論に近づき続けている。

キリスト様も偉大であるが、最先端科学 から観ると
釈迦の仏教は更に奥が深い。

釈迦は人類が求める究極の「 科学的真理  」を
遥か数千年の昔にすでに悟っていた。

仏教の教義は物理学や科学のように、
数式や実験、論証によって組み立てられている訳ではない

人間の理性や英知を超えた
霊感 によって作られた理論・(教義)としか思えない


時間 も無い?
それはオカシイぞ!!!!
もし、時間も無ければ、
原因・因果の法則  は間違いと言う事になってしまう。

原因があるから 結果がある。

良い因縁があれば良い事が起き、
悪い因縁があれば 悪い事が起きる

これは 
 過去 ⇒ 現在 ⇒ 未来

という 時間 のなかで成立する 概念 であるはず。

本来、時間がなければ、この教義は成り立たない・・・・・


量子物理学は、
近い未来、 時間という概念を否定する決定的な
理論と確証を勝ち取るはずだ。

因縁 ・  業  ・ 前世  ・  来世

を万人に納得させてくれる日が来るはずだ。

けれども・・・

現代を生きる者の課題は
遠い未来に期待を寄せ夢を見る事ではない。

それでは、単なる 理想主義者 となってしまう。

今出来ることを一歩踏み出さない事には、
生まれてきた価値がない

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過去を変える・2・

2016-02-22 | 宗教

ならば・・・
過去を変える方法は??

今現在、の自分の生命は、
「今現在」があるだけではなく、
「過去」も「未来も」同時に進行している。

これは、一般的な時間の概念では説明できないことですが、
「人間の魂」に対して、
量子力学的な、時間の概念を当てはめれば、
何の矛盾もない事なのです。

即ち、今の自分の魂は、
過去も、未来も全てが「畳み込まれている。」
過去・現在・未来は、霊的レベルで見れば、
同時に存在している。

これ即ち数学で云う 「 同値 」

ここからは、頭脳では理解できない表現をしますが・・
分かる方には分かって頂けると思います。
????なら、「 お前アホか!! 」と思ってください。

過去、現在、未来・・・
全てを最善に導く方法とは、
自分自身と和解する事に他ならず。

今の自分と和解することは、過去をも書き変える。
未来をも書き変える。

自分が死んだ後の自分をも書き換える。
これ、即ち、
自分で自分の死後の霊魂を供養している事になる。
自分と、祖先は「 同値 」であるから、
祖先を供養している事にもなる。

「 いま 」という一瞬は、
個人レベルの霊魂において、全宇宙なのだ、
「今、ここに生きている自分の生命」は、
あの世の祖先も、死後の自分も、
同時進行している。


「 今、自分の目の前にあることを懸命に行う、」
「 生きてるだけで丸儲けだと悟る 」
「 全てに感謝する 」
「 困難と戯れる 」
「 自分が神の分身であることを自覚する 」
これが出来た時、
過去も、未来も、「 最善 」に書き換えられる。

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過去を変える

2016-02-21 | 宗教

「 過去も未来も変えることが出来る 」
と申しましたが・・・

常識的なひとは思うでしょ・・・
過去を変える? バカばかしい・・
そういう荒唐無稽な事を抜かすから、
宗教屋さんはバカにされるんだ・・・

ご最もでございます

だだし・・・
一般にいう「 過去 」と私が申し上げる
「 過去 」は定義が違います。

一般に言う「 過去 」とは、
過ぎ去った時。経歴・前歴を意味します。

私が云う、「過去」とは、
自分が起こした、行為・行動ではなく。

それによって発生させた、エネルギー( 種 )
を意味します。

どんな人間でも、判断を間違う事は必ずあります。
一度も失敗を犯さない人間など存在しません。

判断ミスや、失敗を犯したこと自体は、
その事により内在する、悪い因縁が「 形に現われて消えた 」
とも解釈できますが、

その「現象」が創り出したエネルギー
これ即ち ‘ 業 ‘ は発生します。

この‘ 業 ‘(種)こそが、
その後の運命を左右し、未来に連鎖するのです。

大学に入ったが、何となくイヤになって中退した。(経歴)

安定した会社に就職できなかった。(経歴)

職を転々とした。(経歴)

大学を卒業した同期の人間と比較すると、
生涯年収は半分だった。
経済的に貧しい状態となった。
毎日が辛く惨めである・・(現在)

この場合、「意味もなく大学を中退した」
という過去(前歴・行為)は変えることが出来ません。

でただし・・・私の云う「過去」とは、
現象的な行為、現象的な事実ではありません。

過去の行為によって創り出された、
・・業・・因縁・・種・・と、
それを引き寄せた眼に見えない背景を意味します。

この 「過去」(業)こそが、
現在→未来 を形成している要素であり、
この「過去」(業)が運命を支配しているのです。

この部分を「 変える 」事が、
真の意味での 「 過去を変える 」ことなのです。

自動車を運転していて、
誤って人を跳ね、重大な怪我を負わせてしまった・・
この事実(現象)は書き換える事が出来ません。

だだ、その 「 原因 」が創り出す 「 悪因縁 」
は、書き換える事ができる。

「それを忘れしまえ」という意味ではありません。
仮に、忘れてしまっても、‘ 悪業‘は消えません。
あくまでも、過去を変えなければならない。
「 因縁 」を最善な状態に書き変えたらならば、
それ、即ち、
「 原因・(行為)」をも書き換えたという事になるのです。

量子物理学の観点では、
「 時間は絶対的なものではない 」
という事を先に申し上げましたが、

物理的な法則の奥に、その次元とは異なる、
「 霊的な法則 」があり、
それこそが肝心であるという事を説明するための「 糸口 」
として申し上げました。

「過去の行為・現象」の奥にある。
「 霊的次元での、過去 」は、
変えることが出来る。

量子物理学が更に進歩したとしても、
タイムマシーンで、過去に帰り、
過去の「行為」を消してしまう事はできません。

「 量子力学 」とは、、極微の世界の記述です。
極微とは、原子スケールの微視的対象を意味します。

現在の先端テクノロジーは量子力学の理論なくして成立しません。
半導体を利用する電子機器の設計など、
極微の領域に関するテクノロジー
は量子力学を基礎としています。

電子工学や超伝導も、量子力学の基礎に上に成立しています。
これは、科学技術、工業技術に留まる事ではありません。

極微の世界を解明することにより。
眼に見えない「 あの世 」を理解するための
手がかりが隠されているのです。

因縁を超越するという事は、
言葉を変えれば、 
「 過去を変える 」という事なのです。
過去を変えなければ、原因→結果の因果は、
永遠に連鎖し続けるのです。
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過去も、未来も、変えることができる

2016-02-20 | 宗教

過去は変えることができない。
未来に何が起きるかは、
そのときになって見なければ解からない。
現在は、今、確実に展開している。

これ、当たり前の事ですが・・・

これは、人間の持つ 「 感覚 」が、
それを、そう捉えるのであり、
その「感覚で感じる事」が、「 現象 」の真相を
完全に説明している訳ではない。

このような「絶対的時間の概念」は、
現代の最新物理学・「量子力学」では存在しない。

数学と、物理学は、その「眼に見えない本質」を、
究明確な表現を用いて、論証する、唯一の言語である。

過去の流れをみると・・
ニュートンさんは、「 時間とは絶対的なもの 」と考えた。
1秒は、どんな場所でも、どんな位置でも、どんな状況でも、
「1秒」であり、
それは「絶対的」であると考えた。

それに、一石を投じたのが、アインシュタイン博士。

アインシュタインは、「絶対的な時間」 を否定した。
1秒が、如何なる状況下でも、同じ1秒である訳ではないと云う前提で
理論を展開した。

時速250キロで走る新幹線に乗っている人の時間と、
駅のホームで、新幹線の到着を待って座っている人との時間の進み方は違う。
その違いとは、
1億分の0.02秒(0.2ナノ秒)

ごく普通の人なら、思うでしょう・・・
それが何だ?  そんな微量の違いなら、
我々が生きて行くうえで、何の影響も、関係もないだろ・・・

たしかに・・ご最もな御言葉・・・

ただ、こういう一見、何の役にも立たないように思えることを、
先人たちが、長い月日をかけて、地道に解明してきた結果が、
近代文明の土台となり、
人類に大きな恩恵ををもたらしているのです。

アインシュタインは、
「過去・現在・未来は、等しく実在している」
と考えたのです。
アインシュタインの相対性理論を要約すると・・
 
経過時間は重力によって変化する。
時間経過は、観測者の違いで、変化する曖昧な‘ 単位‘である 

相対性理論では時間と空間は、混じり合いながら座標変換される
という理論でであるが、
これは、あくまで、ニーユートン物理学を基礎に、
組み立てられた理論であった。

このアインシュタインの理論を更に覆す理論がでてきた。
これが、
量子力学
量子力学は、
「不確定性原理」という帰結を前提にしている。

時間は、ネルギーの大小と、バランスで決まり、不確定性を有する
ということらし。

「不確定」というのは「はっきり決まらない」という意味。

アインシュタインの残した言葉・・・
「 神様は決してサイコロを振らない 」

量子力学とは、アインシュタイン博士も
怒ってしまうような結論を導き出した。

近代の最先端物理学は、やがて、
運命の本質、人生の本質、宗教の本質を
数学的言語で説明する日がやってくるだろう・・・

ここからが・・・宗教臭くない宗教の出番。
人類は、時間の流れを、
過去→現在→未来
と考えているが、
過去を決めているのも、「 今 」
未来を決めているのも 「 今 」


今現在の自分の 「 心 」 「 行為 」は、
未来を変えるだけではなく、
過去をも変えるのです。
「過去とは」、自分が過去に於いて行った行為
が発生させたエネルギー(業)の蓄積を意味する。

同時に、先祖の存在を意味する。

現在の自分は、先祖霊と、自分という霊魂が同時進行している。

祖霊、自分との関係は、
数学的に表現すれば「 同値 」という事になる。


因縁・因果を超越する方法とは・・・
今、目の前にあることを淡々とこなし、
今、自分に与えられた人、物、事に十分な満足と感謝する。

過去も、未来も、変えることができる。
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美味しい食べ物が嫌いな男。

2016-02-18 | 思う事
20年位前のお話ですが・・・私がまだ独身の頃、
当時、私の勤めていた会社にD君という男がいた。

D君は写真が趣味で、休みになると車で野山に
出かけるのが趣味だった。

彼は、私のことが気に入っていたと見えて、
毎回、私を誘ってくる。

私としては、あまり乗り気ではないのだが、
あまりにしつこく誘ってくるので、
断りきれず、ときどき彼の車に便乗して、遠くに出かけた。

その場合、私としては、せっかく遠出したのだから、
その土地の名物とか食べたり、
評判の店で美味しいものを食べたりしたい。

「 あの店は美味しいらしいよ、あそこで昼飯たべようよ 」

と私が言うと、D君は、絶対にハイとは言わない。

いつも決まって、不愉快そうな顔をする。
彼と一緒に遠出したのは、6~8回くらいだったと記憶しているが、
毎回、昼ご飯はコンビニのお握りと菓子パンだった。

彼は、何故か、外泊を嫌がった。
観光地などに遠出したとしても、彼は絶対に外泊を拒んだ。

どんなに帰りが遅くなっても、必ず
日帰りの旅行でなければならなかった。

地元に帰ってきて、解散する前に、
「何か食べてから帰りましょうか?」
と提案しても、不愉快そうな顔をした。

結局、一度も旅先で「美味しいもの」を食べる事はできなかった。

D君は、信じられない男であった。

なんと・・・D君は「 美味しい食べ物が嫌いな人間 」だった。

彼はいつも豪語した・・
「 俺は美味しい食べ物が大嫌いなんだ・・・ 」

彼は、美味しいものを出されると不愉快な顔をする。

彼の場合、お金のことを考えて、「 美味しいモノは嫌いだ 」
と言っている訳ではなかった。

彼は裕福な家庭に育ち、何一つ不自由することなく
過ごして来た人間であった。

そうした環境の中で、趣味や、遊びに対しては、
かなり羽振りが良く、優雅な生活をしていた。

当時、毎年一回、会社の慰安旅行があった。
費用は、全額会社の負担。

北陸とか、南紀とか・・・
温泉地などに招待された。

風光明媚な観光地の豪華な旅館で宿泊して、
飲み食いする事ができた。

旅行先の旅館では、夕食時、豪華な御膳が出された。

刺身、天麩羅、蟹、ブランド牛肉、アワビ、牡蠣・・・
年に一度だけの大イベントだった・・・

この時ばかりは、従業員全員が、
普段の生活では有り得ない、
非日常の豪華な料理を楽しんだ。

しかしながら・・・
こういう場合もD君は、終始、不愉快そうな顔をしていて、
不満を漏らす。

「 俺は、こんなモノより、アンパンか、
お握りのほうがよっぽど嬉しい・・」
と、呟いた。

彼と一緒に出かけたとき、一度だけ例外的に
レストランで食事をしたことがあった。

レストランといっても、田舎の国道沿いにある
老朽化したドライブインの食堂である。

彼は、珍しく「 ここでウドンを食べよう 」と言い出した。

たぶん、この食堂を見た瞬間、彼の経験的直観力が、
自分の願望を満たしてくれる気配を察知したのだろう・・・

案の定、どう考えても美味しいとは言い難いウドンであった。

スーパーで1玉50円前後で販売されている
「白玉うどん」と呼ばれるウドンに、
市販の濃縮ダシ汁をお湯で薄めただけの汁を
かけたような「素ウドン」だった。

これこそは彼の理想とするグルメである。

彼は、上機嫌でウドンを食べた。
この時ばかりは、いつになく彼の眼は輝いていた

私としては、これが普段の日常の食事なら、
何ら不満はないが、
わざわざ遠路、観光地までやってきて、
あえて、ここで、これを食べたいといいう気にはなれない。

私は思った・・・ 
彼は可哀想な男だ・・・・
彼の未来は●●だ・・・・

残念ながら・・・その数年後・・私の予感は的中した・・・
(事が重大なので、詳しくは書けません)

私が思うに・・・
どんな状況下であっても、
どんな制約下であっtも、
‘ その時 ‘ 与えられた情況に対して、
「 楽しむ 」「 喜ぶ 」ことが肝心なことであり、
それが出来な人間は不幸としかいえない。

それは未来にむかって連鎖を続ける。


私は、鳥の唐揚が大好物で、できることなら毎日でも食べたい。
でも、何事も節度が必要。

鳥の唐揚を食べるのは、基本的には、週に1回と決めている。

先日、ある人から、フグの唐揚を御馳走になった。
美味しい!!!
鳥の唐揚が大大好物の私も、
「フグの唐揚と、鳥の唐揚、どちらが美味しいと思う?」
と、問われれば、
正直なところ、フグの唐揚に決まっている。

ただ、フグの唐揚げは高価すぎて普段食べたい時に、
欲しいだけ食べる事ができる訳ではない。

この制約のなかで、「 喜び 」「 楽しむ 」為には、
切り替えスイッチが必用である。

切り替えスイッチとは、
A級モード
B級モード
の2通りの切り替え機能である。

私の場合、
普段は、B級モードにしているが、
状況によって、一瞬にして、モードを切り替えることが出来る。

「 切り替えスイッチ」 がない人は、残念ながら・・・
未来は暗い・・・

B級モード時、これが最高の幸せ。


A級モード時、これが最高の幸せ。



どちらも、最高なのだ・・・
どちらも、その場その場で、同じように嬉しく、有り難い。
これが、竹輪の唐揚であったとしても、事は同じ。
嬉しくて涙が出るほどである・・・


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私は宗教臭い宗教が大嫌いな、自称・宗教家です。

2016-02-17 | 宗教

・・誰かが問うた・・

神仏を信じ、信仰深い人は病気にならないか?

・・白ウサギ答えて曰く・・
神仏を信じていても、信じていなくても、病気になります。

・・問・・
神仏を信じ、信仰深い人は事故に遭わないか?
・・答えて・・
神仏を信じていても、信じていなくても、事故に遭います。

・・問・・・
神仏に願えば、難関な試験に合格するか?

・・答えて・・
素質と、努力の成果が合否を決めます。
合否は、願掛けとは無関係です。

・・問・・
神仏を信じ、信仰深い人が事業をはじめた場合、必ず成功するか?

・・答えて・・
信じていても、潰れるときは潰れます。
ハッキリ申し上げて、これは事実です。

・・問・・・
ならば???
「 神仏を信じようが信じまいが、結果は同じ 」
という事では?・・・・

・・答えて・・・
はい、仰る通りです。
人間、死ぬ時は死にます。
病気になるときは病気になります。
交通事故に遭うこともあります。
家庭不和に悩む事もあります。
対人関係に悩むこともあります。
事業に失敗することもあります。

ただ・・ここからが肝心です。
「既に起きたこと」「これから起きそうなこと」
をどのように捉え、
どのように感じ、
どのように対処するか、
そして、そこから何を学び、何を掴み取るか?
これこそが、宗教の存在意義なのです。

・・問・・・
そんな事なら・・
神仏を信じ、信仰したりする必要など無いと言う事に
なってしまうんじゃないですか???

・・答えて・・・
はい、仰る通りです。
別に神様を信仰する必要などありません。
ただし、「謙虚な心」と「畏敬の念」、「その姿勢」
だけは捨ててはいけません。

・・問・・・
アンタそれでも宗教家ですか???

・・答えて・・・
はい、私は宗教臭い宗教が大嫌いな、自称・宗教家です。

私が思うに・・・
信仰深さと、人格との因果関係は、ほとんどありません。
現に、約座屋さんの事務所には、
立派過ぎるほど立派な神棚が必ずあります。

約座屋さんは、一流?であればあるほど、
正月、節分、その他の神事などの、
作法を徹底しています。

「信心深い人は、みな立派な人だ」
というなら、
約座屋さんは、
徳の高い高貴な方々であるという事になります。

これは、宗教団体の信仰深い活動家や、
‘偉い先生‘に対しても同じことが言えます。

「自分は徳を積んで、他人より高い位にいる」
などと思いあがっている傲慢で、
腐った信仰者や、指導者より、

特に信仰を持たない、謙虚な一般人のほうが霊的にみて、
立派であり、遥かに勝ります。

肝心なのは、

その人が、何を持つかではなく
「 何であるか 」ただそれだけです。

何を行い
何を考え
苦しみから何を学んだか
喜びから何を創造したか

ただそれだけです。

神様は、別にお願いされなくても、
全てを知っているのです。
神様は、言われるまでもなく、それを基準にして、
粋な計らいをしてださるのです
一寸先は光です






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不断煩悩得涅槃

2016-02-16 | 宗教

人間は、神の自己実現
全知全能の神が創った「 神の分霊 」「 仏の分身 」
‘ 神‘ と云うも、‘ 仏 ‘ と云うも、根源は同じ。

これ、即ち人間は、
神そのもの、仏そのもの。

神は全知全能にして、完全無欠なる存在である。

ならば・・・どうして・・・
完全なる存在であるにも関わらず、
何ゆえ・・・それがそのまま「 現実の人間」 の姿に
なって現われないのか?

誰かが言う・・・

「 神が、全知全能と言うなら、
もったいぶらないで、
はじめからその分身である、
人間も完全無欠に創ればいいじゃないか!!!」

更に誰かが言う・・・

「 神が創ったはずの人間が、
どうして罪を犯す?
どうして争を起こす?
どうして病気で苦しむ?
憎み、憎悪、嫉妬、孤独、・・・
どうしてこんな状況に追い込まれるのだ!!!
ふざけたこと抜かすな!!!
神も仏も信じられるか!!!」

鳥は空気の抵抗が無ければ飛ぶ事ができません。
魚は水の抵抗が無ければ泳ぐ事が出来ません。

人間の心のが作り出す、煩悩や執着や憎悪 とは、
一見無駄なもののように思われますが、
無駄なものではないのです。

これは、自分の内に宿る、完全なる 「 霊 」

を ‘この世‘( 目に見える世界 )
で運用するための、障害物 なのです。

同時に、‘ 因縁 ‘ (課題 )
を克服するための障害物なのです。

この「課題」とは、半分以上は、その人の先祖から受け継ぐものです。
  
鳥にとっては、空気抵抗 ( 障害物 )が必要なのです。
魚にとっては、水の抵抗 ( 障害物 )が必要なのです。

苦しみや、悲しみ、苦悩、煩悩、執着、
これら、すべては、人間が作り出した妄想なのですが、

鳥が空気抵抗を必要とするように、
個別の人間にとって、

あの世 ( 目に見えない霊魂 )を、
この世 ( 目に見える 現象世界 )で、 
運用 する為には、
煩悩 も必要なのです。

これを 私は、「 運命 」と呼ぶ。
運命即ち 運用 なり、
それ故、神は、本来、完全な人間に、
「 自由意志 」を与えた。

この「自由意志」こそが、神が人間に与えた、
無限の可能性である。

ここからは、 本人の自由

鳥が、空気抵抗を憎み、
「空気なんてなくなってしまえば良い。」
と、思ったら、それは本末転倒。

その願いがもし実現したら、鳥は空を飛ぶ事が出来ない。

自己に宿る、完全なる 「神の生命」を、
自分に与えられた 「 選択の自由 」で、
もっとも有効な形で 「 運用 」 する。

これが人間の使命。

白紙の画用紙( この世 )に、
「 神 」 を目に見える 形 に表すために、 
‘ 心 ‘ と言う 筆を使い、可能な限り綺麗な絵を描く。
これが、 今生 ( 現世 )
これを人生という。 


だから、煩悩を断ち切ろうと思えば思うほど、
空気抵抗、水の抵抗 に翻弄されるのです。

障害や、煩悩と共存しながら、乗り越えていく事において、
始めて「今生」が存在する。
  
自分の霊魂にとって一番損失を与える行為とは?
自殺
これは、「 内なる神 」を 、この世に実現させる
為の使命を途中で放棄すること、

せっかく与えられたチャンスを放棄すると、
その時点で霊魂は永遠に「 固まったまま 」になる。

生きよ!!! 進め!!! 固まるな!!!

すべての人間は神の分身であり、仏の化身
一寸先は光です!!!
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ギリギリの線で試してくる。

2016-02-15 | 宗教

概して、優しい人間は「弱い」
優しい人間ほど、自虐意識、という
マイナス要因を内在し、それによる弊害も多い。。

強い人間は横暴になりやすい。
努力してきた人間、負けてはならぬと闘争心を持った人間、
強い責任感と、危機感を持った人間。

そういう人ほど、思いやりや優しさに欠ける。
「優しさ」には裏側があるし、
「強さ」にも裏側がある。

優しい事は良い事。
強い事も良い事。
それは、人それぞれのもって生まれた天性。

でも、「優しい」「強い」「 良い 」「 悪い 」という、
表面をみて一喜一憂しては、
それだけで今生が終わってしまう。

優しさの奥に、強さの奥にある、
「本質」を見ようとはせず、猛進するは、
月を追いかけて走る子供の如し。

走っても、走っても・・・捕まえる事はできない。

現実問題、奇麗事だけで済まされない。

憎悪、不信、疑念、落胆、怒り、失望、
その他さまざまな苦しみが襲い掛かる。

苦悩、不安、迷い・・・

天の節理は、自分が
潰れてしまうほどのギリギリの線で試してくる。

魂は硬い強固な塊である。

それを磨くにためにダイアモンドのような、
硬い強固な物質(現象)がぶつかって来る。

その課題は、人によって違う、
「課題」とは、千差万別なのだ、

ある人は、不美人であるが故、
多くの迫害を受け辛い思いをした。
この苦しみは、本人にしか分からない。

かと思えば、ある人は、
美人であるが故に嫉妬を買い、多くの迫害を受けた。

この苦しみも本人わからない。

金持ちと、貧乏、もこれと同様。

金持ちには金持ちの苦しみがあり、
貧乏には貧乏の苦しみがある。

いままでこういう相反する課題を抱えた人を多く見てきた。

ひとはそれぞれ、異なった「課題」があるということだ。

ある貧しいひとは・・・
金持ちになりたい・・・・と願った。

その願いが叶って金持ちになった・・・
その結果、最終的に、この人は不安や苦しみから解放され、
極楽浄土の生活を送る事ができたか?

残念ながら・・・苦悩や不安がなくなることはなかった・・・

こんな分かりきった答えが分からない人が多くいる。

人間の本質、家族の本質、
夫婦の本質、親子の本質、一族の本質、
この部分に意識を集中していないと、
打ち砕かれてしまう。

ならば、「本質」とはなにか?

人間の本質は‘ 神 ‘ であり、
神そのものである。

人間は神の分霊であり、仏の分身。
全ての人間が、偉大であり、神聖である。

これを知り、これを自覚することこそが、
「 悟 」ではなかろうか?
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愛! 愛!!と叫んで逃げ回る輩。

2016-02-13 | 宗教


私は「 愛 」という言葉はめっなことでは使いません。

このブログでも、「 愛 」という単語は一度も
使った事はありません。

 愛情 ・ 愛念 ・ 愛国 ・ 博愛 など・・・・
二字の言葉はよく使います。

この場合、愛という言葉に具体性があるからです。

「 愛 」 という言葉は日本人には
理解できない単語であると思っています。

現に、私の父も、母も、祖母も、「 愛 」と云う言葉は一度も
発した事がありません。

私の知る限り 
昭和初期に生まれ育った人間は、
軽はずみに「 愛 」と云う言葉を使わない。
その背景には、日本人個有の美意識があると思っています。

成人した大人で、
「 愛してる 」などという言葉を
何の抵抗も無く大きな声で発することのできる人は、

宗教界関係者、
芸能界関係者、
 音楽関係
芸術家系、
ヒッピー系、
新左翼 (緑系)

・・・など

特殊な分野の方たちだけだと思います。

私は、「 愛 」という言葉は、
めったな事では使わない代わりに、
「 慈悲 」「 慈愛 」 
と云う言葉は何の抵抗もなく発します。

芸能人や有名人が結婚する時、
彼女を愛しています
彼を愛してます
愛し合っています 
愛を誓います 
などと得意満面になっての給われます。

でも、そのほとんどが、2~3年で離婚。
もっと極端な場合、半年も経たないうちに破局と云った
ことも珍しくありません。

更に、それに留まらず、骨肉の争いを始めるといった醜態。

こういうときの、彼らの決まり文句。

もう彼女を愛せなくなりました・・ 

愛がなくなりました・・・ 

???

意味不明な言葉と感じます。

こういうのを
茶番劇というのではないでしょうか・・・

この人はどういう意味で、
「 愛 」という言葉を使っているのか?

好奇心? 冒険意欲?  独占意識? 
優越感?  性欲?  支配欲? 
 顕示欲?   格好つけ?

即ち、こういう方々にとつて「 愛 」とは、
「 衝動的情念 」 「 ファッション 」のように思えてなりません。
    
「 愛 」という言葉は、こういう使われ方をされ続けたことに
よって、本来の意味を離れ、
怪しい言葉 の雰囲気を持ってしまっているように思えます。
そういう意味では 「 愛 」という単語は、
被害者かもしれません
  
「 私は鳥の唐揚をこよなく愛してます 」とか、
「 私はドイツワインを愛しています 」など、
軽い意味で使うなら違和感を感じません。

宗教では、「 神の愛 」という言葉を使いますが。
この場合は、深い意味を感じます。

なぜなら、ここで使う「愛」とは、
永遠、普遍、 不滅、絶対、を意味しているからです。

それなりの決意と、覚悟と、をもって、
「 愛 」という言葉を発している人も多くいることは確かです。
 
もし、自分の子供や、親兄弟に対して、
「 愛する 」と云う言葉を使ったとしたなら、
その内面において、何の違和感もありません。
(私は使いませんが)

親子の情 (愛?)は、それを継続するにあたり、
何の努力も必要としません。
 
普遍にして永遠だからです。

でも、元は赤の他人である結婚相手に対して、
「 愛する 」などという
言葉を使う事に、私は大きな抵抗と恥じらいを感じます。

ただし、
「 愛 」という言を使わなくても、
心の中に、妻に対して、
大切に思う気持ち、失いたくない気持ち、
労わる気持ち、心配する気持ち、は持っています。

これらの想いを、西洋の言葉で
「 愛 」と言うのかもしれませんが、

私は妻に対して
「愛してる」などと言ったことは一度もありません。

世間を見渡すと、軽薄な、漠然とした、
「 愛 」という言葉だけが
独り歩きしているような気がしてなりません。

異性(結婚相手)に対して
「 愛 」? を抱き、その結果、結婚したからには、
それを死ぬまで貫かなければならない
責任が発生すると思います。

何があっても、一緒に歩んでゆく責務がある。

相手の運命にも責任を持たなくてはいけない。

これは、特に男のほうに強い責任がある。

これは、相手に対して、
好きだとか、嫌いだとかの問題ではなく、
「 責任 」であると思うのです。

相手を「好き」であり続けるためには
努力が必要です。

動物的衝動だけに身を任せるなら、
結婚制度など必要がなくなってしまう。

「 責任を持つ 」
これこそが、人間の人間たる所以であると思うのです。

「 愛だ!!! 愛こそ全てだ!!! 死ぬまで愛す!!!」
などというドラマのセリフを吐く以前に、
「 黙って責任を感じ、責任を果す 」
これこそが、もっと肝心なことではないだろうか?

表面に現われた、長所、短所に一喜一憂していては、
何も見えては来ない。

表面に現われた、「 現象 」の奥にある真実を見ることが、
使命であり、修行である。

相手の内に宿る
「いのちの尊厳」「 生命のホントウの姿 」を見つめる事こそが
最重要課題。
  
だからといって、
「離婚は絶対に許されない」
などと言った原理主義的な考え方には、無理があります。

その人にしか分からない、複雑な事情があって、
止むを得ない理由で離婚に至るケースもある事も確かです。
そこまで、否定する気はありません。

個人の事情は、千差万別であり、それを「ひと言」で斬るような
考え方は「傲慢」であると思います。

    
この事に限らず、 深い考えや信念もなく、
軽々しく日本人が
「 愛 」という言葉を使うことは、
言葉が、ひとり歩きしてしまうことになます。
  
現に、私が知る新左翼(緑)の活動家のある人は、
愛だ!!!
ハートだ!!!
感謝だ!!!
自然との共生だ!!!
と、体育会系のノリで叫んでおみえになるのですが・・・

伝え聞くところによると、
その人の実際の行いは、自分の地位とと名誉のために、
画策、陰謀、智謀、恩のある人に対する裏切り、
工作、嫉妬・・・

あまりにもミットモナイ・・・

こういう人は、愛という言葉に酔っているのでしょう。

若しくは、この言葉さえ唱えていれば
自分を美化、正当化できると思っているのでしょう。
 
「 愛 」という言葉を呪文にして、
自分の愚かさをも、美化している。
  
この免罪符を使うことによって、誰からも非難される事なく、
自分自身を欺き続ける・・・
御気の毒としか申し上げようがございません

こういう人が、結果的に多くの人を不幸にしてしまうのです。
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運命・宿命・・・その根源

2016-02-13 | 宗教


私の父親、は大腸癌で亡くなった
66歳の若さであった
あれから15年の歳月が流れた

私の父親は13歳のとき、父親を疫病(チフス)で亡くしている。

それ以来、4人兄弟の長男として学校にもほとんど通わず、
勉強など一切せず
ガムシャラになって働き一家を支え、
最終的にはマアマアの財産を築いた

父親の母親はのん気でお気楽な気質、
あまり働かない。
            
父は13歳にして実質的には、一家の大黒柱とならざるを得なかった

そんな人生を歩んできたが故
父は物凄く金に細かく、ケチであった
幼い頃、父親に玩具など一度も買ってもらった事はない。

何か買ってと言うと物凄い形相で睨み付けられた
父と母はいつも ‘金‘の事で喧嘩していた

父は私の話には一切、耳を傾けず
何を言っても睨み付けるだけだった。

私は、物心ついた頃から、
父親を冷たい視線で見るようになっていた
父の ‘ ケチ ‘ な気質と
ひとりよがりな所が大キライであった
勿論、尊敬する部分もあったが
腹の立つことの方が多かった

いつしか、あんな人間にはなりたくない・・・・
と思うようになっていた

父を亡くして15年の歳月がながれ
私は、いま 二児の父親になっている

今になって思う・・・・・・

私の目から観た 父親の長所、短所、は
私に科せられた課題である。

私と父親は親子と言えども別人格
私は親のコピーではない

しかしながら、 ‘私‘ と言う人間の根底には
親から遺伝的に受け継いだ‘ある方向性‘というものが存在する

‘ある方向性‘
とは短気だとか、神経質だとか、真面目だとか、
気難しいとか・・・
優しいとか、朗らかだとか・・・

そう言った表面に現われた、具体的な性質ではなく、
精神や魂の根底の部分、例えて言えば
コンピューターの「 フォーマット 」
ハードデスクやメモリーに文字や数字を記憶させるとき
ハードデスクやメモリーはそれを受け入れる為の 
‘下地‘ を必要とする。

もともと、ハードデスクやメモリーは空っぽの状態であるが
そこに、下地を覚えさせてやらないと、
データーを書き込む事はできない。

その下地の事をフォーマットという

フォーマットはデーターそのものではないが
データーを受け入れる土台である。

下地はイロイロな種類がある

Aのフォーマットで書かれた文字やデーターは、
Aのフォーマットの媒体にしか
読み取る事が出来ない

Aのフォーマットで作られたデーターは
Bのフォーマットに読み取らせる事は不可能

私の持つ人格や考え方と
父親の持つ人格や考え方は

まったく別物ではあるけど
そのデーターが乗っかっている土台 (フォーマット)はまったく
同じものである。

父親もフォーマットを、その両親から受け継いでいる
血統とはそういうものではなかろうか
  
昭和初期、出口仁王三郎 という宗教家がいた
このお方、幼い頃から神通力があり
神童と言われていた
回りから 「八つ耳」(直感力や理解力に優れた人間という意味)
と呼ばれる程であった
後に、宗教団体を創設し、カリスマ的教祖となった

最近知った事だが、
出口仁王三郎の孫Wさん、
ある有名進学塾の講師をしているらしい
このお孫さん、進学塾講師の世界では、
‘カリスマ講師‘ と呼ばれているらしい
仁王三郎さんの作った宗教とは無縁で
あくまでも講師という土俵で活躍しているのだが、
その世界で仁王三郎さんと同じように
‘カリスマ‘
になっている
やはり、出口家の血統のなかには
カリスマを輩出するフォーマットがあるのだろう
Wさんの子供もそれを受け継ぎ
また別の世界で‘カリスマ‘となるだろう・・・・

よくよく、調べてみると
この手の話はいくらでもある

私の目に映る親の姿は、
客観的に見ているつもりでも
限りなく客観的ではない
実は、自分の意識を通して親を見ている

自分の意識=自分の根底( フォーマット )
=親の根底( フォーマット )

即ち、 私の目に映る親の姿は 
「自分、個有の意識」とい色眼鏡を通して、
‘自分自身の本性‘ をを見ていることになる。

もし私が親の事を心の底から憎んだり、
怨んだりしたなら、これは、
完全な自己破壊を意味する

親と自分は同じフォーマット、
親の人格、を否定してしまう事は
自分の根源 ( フォーマット )を否定する事になってしまう


もっと突き詰めて考えれば

私の持つ 、親への思いは
「私自身の姿」 なのだ

親を見ているようで、そうでない

実は、自分を見ている事に他ならない。

更に、もっと先を見つめるなら、
親 → 先祖 → 神
    
個人レベルでを語るなら、
神はその人の先祖をパイプラインにして、
という形で姿を現す。

親への恩、
先祖に対する意識、
この2つの要素を否定したり、放棄したりする者は、
どんなに徳を積もうとも、
「 敗北者 」としかなり得ない。

どんなに高い地位の人であろうと、
社会的成功者であろうと、
これが理解出来ていない人間のいう事を聞いてはいけない

親の人格を否定したり嫌ったりしている限りは、
自分が潜在的に持つ ・  要因 ・ ( 宗教では‘因縁‘と呼ぶ)
から永久に抜け出すかとは出来ない

もちろん、親といえども、現象的側面で見る限りに於いては、
不完全な部分は多い、

ただ、その不完全な現象の奥にある、「 真実 」
を見ることこそが、修行であり、課題なのだ。
  
その「 真実 」とは、
言葉を変えれば、「 ホントウの姿 」
これ即ち、人間の本質は、 ‘ 神の分霊 ‘であり、
‘ 神そのもの ‘ ということである。

これを知ることを、「 悟り 」と呼ぶ。
    
自分の意識が受け取る、親の短所、嫌いな面は自分の課題であり
真摯に受け止め、自分がそれを打破していかなければならない宿命をもつ

血統はいくらあがいても変えることの出来ない宿命

だからと言ってそれを悲観的に考えてはいけない
現に今、ここに自分が存在すると言う事は
存続するに値する血統であるからである
これは、私に限らずどんな人間にもいえる事である

ダーウィンの進化論的に ‘自然淘汰‘の観点で人間に血統を
検証すれば、
存続する意義のない血統はとっくの昔に滅びていたはず

でも、現に今ここに存在する人間に関しては
淘汰されずに先祖から血脈を受け継いでいる

如何なる人も
今、現に、生きているだけで、素晴らしい事であり、
奇跡的なことなのです
 
ならば、子供がいなかったり、親族すべて死に絶えた人、
そこで、血統が途絶えてしまうヒトは
存続意義がないので‘淘汰‘されという意味なのか?

それは違う

どんな血統も、いつかリセットしなければならない時期が
必ずやって来る
その時期に偶然生まれて来ただけの事

その場合、こういう人は、
血統維持の使命がない代わりに

普通の人とは違う、別の大きな使命がある

ある意味、重要な人間である

聖徳太子は偉大なる聖者であるにも関わらず
敵対勢力の陰謀で一族全てが殺され
完全にその血統を絶たれた

しかしながら、聖徳太子の人徳と功績は、現代の日本に
今なお大きな恩恵をもたらしている

親との、確執を乗り越える事は

先祖から受け継いできた課題を清算し、
新たなる飛躍を遂げる為の チャンスである

まさしく

神が、人間に与えたチャンスと受け止めるべきではないだろうか・・・
でも、確執が嫌悪で終わったら悲しい

親を怨む事は、自分を怨む事
自分で自分を怨めば、自分は破壊される

無意識に自分に不利な行動や選択をする結果
悪い運命を呼び寄せる

親を否定してしまったら、もう自浄作用はなくなり
自己の破滅へと向かうのです・・・・

このことは、長年、多くの人間観察や分析をして来た私の結論、

理屈ではない無条件の感謝

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十分条件とは?

2016-02-11 | 宗教

人格と、運命に絶対的な因果関係は存在するのだろうか?

残念ながら・・・世のなか見渡してみると、
必ずしも、高人格=幸運 とは言いがたい。

優しく、親切で、慈愛深い、決して曲がった事をしない
善い人が、一生を通して、不運の連続であったり、

また、その逆で、我が強く、利己主義な人が、
幸運の連続で、生涯安泰であったり・・・

どうしてこんな事がおきるのだろう?

説明しようと思えばいくらでも説明が出来る、
「 前世から持ってきた課題 」
「 来世のための準備 」
「 科せられた試練 」
「 愛だ・・感謝だ・・・」
「 徳積だ・・・」
「 みんなのために祈るのだ・・・ 」

こういった言葉は、
インターネットでも、コピー貼り付けされたように、
溢れかえっている。

間違ったことは言っていない・・・

だだ・・・言葉がひとり歩きして、
「 これさえ言っていれば安全だ 」
という「 呪文 」になってしまっているように思える。

「 呪文 」は、自分のコンプレックスを覆い隠す、「 バリア 」
となって、そのひとの弱い部分を隠蔽し、
強固なものにしてしまう。

この厄介な落とし穴に嵌ってしまった、
「 自称・善人 」は、
なかなか這い上がる事ができない。

皮肉な事に、こういうタイプの人間が、
「 お偉い先生 」のなかに多くいる。

宗教団体の危険性とは、、
このような「救いようの無いお偉い先生」
を多く排出することにあると思う。

  
善行をいくら積み重ねても、
多くの慈善をなしても、
血のにじむ努力をしても、

この7項目が出来ていない人間はすべてが空回りするだけで終わってしまう。
 
1  すべてのモノに感謝する。
2  神仏に対する、畏敬の念もつ。
3  神仏に対して、謙虚になる。
4  祖先を想い、崇拝する心を持つ。
5  何事にも「喜ぶ」。
6  他者の喜びを自分の喜びとする。
7  自分の魂の声に耳を傾け、決意したなら、
 それに対してバカを極める。

善良で、親切で、思いやりがある人間であるにも関わらず、
なぜか、不幸の連続、受難の連続・・・
こいう人は多くいる。
  
どうしてこうなるか?

数学的な手法でこれを説明します。、

善行 = 必要条件

感謝の念 = 必要条件

祖霊崇拝 = 必要条件

喜ぶ習慣 = 必要条件

いのちの尊厳の自覚 = 必要十分条件

(いのちの尊厳とは、人間は神の分霊・仏の化身いう真実)
  
人間の本質(いのちの尊厳)を自覚したとき、
その他の必要条件は、自分を変えようと努力したり、
必死になったりするまでもなく、
適切な想いが湧き上がってくる。
必然的に、自然なかたちで、
自分の成すべき事がわかって来る。

必要条件とは?  十分条件とは?

例えて言えば・・・
名古屋から、特急電車に乗って、京都へ向かったとします。

まず、乗車券が必要 ( 必要条件 )
特急電車で行く為には特急券も必要 ( 必要条件 )

乗車券 + 特急券 = 十分条件

この2つが揃って初めて特急電車に乗って、
京都へ行く事が可能となる。

必要条件は1つであるとは限らない、
同時に、十分条件も1つであるとは限らない。

もし仮に、
乗車券 + 特急券 の他に、座席指定券が無ければ
その電車に乗る事が出来なかったとしたら、

「 乗車券 + 特急券 + 座席指定券 = 十分条件 」
となる。

ならば、「 必要十分条件 」とは?
必要条件であると同時に、「十分条件」 でもあるという意味。

これを数学では 「 同値 」 と呼ぶ。

もし、仮に私が国会議員だとして
「 議員特権の乗車証 」を持っていたとする。
これは京都行きの特急電車に乗る為の
「 必要十分条件 」となる。

「 xが ‘ 3‘ で割り切れる 」 というのは、 
「  xが ‘ 6 ‘ で割り切れる 」 ための 必要条件

「 xが‘ 6 ‘ で割り切れる 」のは、
「 xが ‘ 3 ‘で割り切れる 」ための 十分条件

xは奇数であると云う事は、「x2乗は奇数である」というための
「 必要十分条件 」となり、この2つの命題は 「 同値 」と云うことになる。

これと同じカラクリで、
「因果の法則」 と 「人間の本質の自覚」・・・・
それ以外の要素(霊的要素・遺伝的要素)が
微妙なバランスを形成して、人の運命を決定付ける。
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本質を言葉にすると、肯定と否定が見えて来る。

2016-02-10 | 宗教
街を歩いていて、意味深い張り紙を見つけた。

誰も見ていません。良心、痛みます。
  
「 誰が見ているかは問題ではない。
自分の行は、自分の良心が知っている。 」

この原則こそが、個人レベルでの 『 善・悪 』
の基準であると感じる。

  
事の深層を語ろうとする時、
「 肯定 」と 「 否定 」との両面が存在します。

先の言葉を 「 肯定 」で語るなら。
誰も見ていません。良心が喜んでいます。
  

自分の良心の声のみを恐れ、それに従う生き方こそが、
「否定」も、「肯定」も超えた、
「 自分にとっての真実 」
この「 自分にとっての真実 」こそが、
自分にとっての 「 最善 」を意味するのではないでしょうか?

「 偉い人 」とは、
ホントウに偉い人と、
「 呆れてしまう偉い人 」との2通りがある。

「 呆れてしまう偉い人 」は、
モットもらしい言葉を何の恥じらいもなく
連呼し、それをバリアににて、
「 自分は高い境地にいる 」
などといった、訳の分からない事を思い込んでいる。

「呆れてしまうエライ人」とは、

‘ ワクチンに対する抗体を持ってしまった
インフルエンザウイルス‘

のようなものであると思える。
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白ウサギ・三島遠征

2016-02-09 | 静岡遠征
白ウサギ、特殊任務のため、静岡県・三島遠征。


特殊任務の前日、
三島のAさんが柿田川を案内してくださいました。


彼女と私は、親子ほど年が離れていますが、
誕生日が同じで、8月●▲日生まれ。

だから何だ・・・
と言われれば・・みもフタもありませんが・・・
これには深い訳があるのです。

科学と、魂の世界の話は別問題、
日頃から、疑似科学を批判するウサギとしては、
非科学的なお話になってしまうので多くを
語ることは出来ません。

もし、これを表現しようとするなら、
それは「 文学 」なのかも知れません。

三島市・柿田川












富士山の湧き水で、ウサギヨガの修行。

ウサギパワー全開・・・
送風機の出力、更にアップの実感あり。
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