「 原因の、原因 」
「 フト思いつく、ふと感じる 」これが
「 原因の原因 」なのです。
これ即ち、「 霊的因果 」である。
ただ・・・この要素は、仏教で説かれている、
「 因果報応 」とは、別物であり、
その辺をハッきり区別しないと、
落とし穴にはまる。
この落とし穴に落ちた人を
多く見てきました。
この落とし穴にはまる人には、共通することがあります。
1・・真面目。
2・・正義感が強い。
3・・責任感が強い。
4・・親切心が強い。
5・・弱者に対して優しい。
6・・老人を労わる。
7・・愛情深く人情もろい。
8・・自動車事故をよく起こす。
9・・腰が弱い。(腰痛)
10・・食べ物に好き嫌いが多い。
11・・マルチ商法に狙われやすい。
(綺麗事を並べ、顧客の連鎖的な拡大を図る商売)
12・・騙されることが多い。
この12項目のうち、当てはまる項目が多い人ほど、
「 落とし穴」に嵌り易い。
この12項目のなかで、
8~12は別として、
1~7 の項目を満たす者は、
一般論で言う、 「 善人 」であるといえる。
にも関わらず、必ずしも幸運とはいえない。
このような人でも生涯、不運の連続という事もよくある。
このような人間は、 善行を積む、「 善人 」であるはずです。
どうして
落とし穴意に嵌ったり、不運に襲われ易いのか?
ここで、再び親鸞様のお言葉・・・
善人なほもて往生をとぐ、
いはんや悪人をや。
しかるを世の人つねにいはく、
「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。
この条、一旦そのいわれあるに似たれども、
本願他力の意趣に背けり。
・・・・・・・・・・・・・・
親鸞がいう、 善人・悪人 の定義
をハッきりさせておかねばなりません。
親鸞のいう、「 善人 」とは?
「 善行を重ねると、往生すると信じているひと 」
( 往生=死後安楽な清浄真実の 世界に生れること )
「 善行を重ねると仏に近づくことが出来ると信じているひと」
親鸞のいう「 悪人 」とは?
自分の善行に溺れていないひと。
自分の行った、一つ一つの善行に捉われていないひと。
ここで、親鸞の言いたかったことは、
「 善人より、悪人のほうが救われる。
悪人だから救われるのではなく、
悪人のほうが救われるにふさわしい
心の状態になりやすい 」
という事なのです。
そういう意味で「良い人」の不幸は、
深い根があるのです。
即ち、善人であるが故に、
素直な心境になる事が出来ない。
自称・善人の意識のなかには、
強い信念が刻み込まれている。
「自分は善い行いを積み重ねているから、
それは必ず自分に戻ってくる・・」
これは、決して間違った信念ではありません。
これこそ、仏教の「 因果報応 」なのです。
この自覚は、人類レベルでは大きな意義のある真理です。
全ての人間がこのことを意識して行動するなら、
争いも、略奪も、暴力も根絶することが可能となるでしょう・・・
しかしながら、個人の運命を、これのみで説明する
事には無理があるのです。
皮肉な事に・・・
その信念の裏側には、「 傲慢 」という二文字が隠れている。
自分が善人であるという自覚は、言葉を変えれば、
「 自力の善に誇りを持っている 」という事。
これだけ善行を成したのだから、自分は救われる資格があるとか、
良い事が帰って来て当然であるという考えに偏り、
自分が成した、一善、一善を心のなかで、誇るようになる。
その、「 自信 」とは、
「 素直で、謙虚な心の姿勢 」と相反する性質をもつ。
善人の持つ特有の「 誇り 」と「 自信 」が、
謙虚さを失ってしまう大きな要因となってしまうのです。
彼の内面にある、「 善人の誇り 」が、
「 因果報応 」の絶対原則にフタをしている。
その結果、霊的因果に飲み込まれ、振り回され、
悪い連鎖を助長している。
形の上での‘ 善 ‘に捉われているうちは、
本質を見ることはできない。
本質とは、人間のホントウの姿。
生命のホントウの姿。
全ての人間のは、神の分霊、仏の分身
人間は、神によって生かされている・・・
全ての人間の内に神・仏は存在する。
これこそが、「 ホントウの姿 」なのです。
この心境を音にしたのが、
南無阿弥陀仏
「 わたくしは(はかり しれない光明、はかりしれない寿命の)
阿弥陀仏に帰依いたします 」
( 帰依・キエ= 身をゆだねる )
キリスト教では、
アーメン
( ヘブライ語で 「 まことに、ほんとうに 」
という意味。)