名古屋の白ウサギ・1964年生・

別名、ウサギ仙人・・職業・会社員

御利益宗教の終焉

2016-06-28 | 宗教

世の中に、苦しみや悩みど、
一切持っていない人など一人もいない。

はた目には、幸せ一杯で、
悩みなどまったく無いように見える人でも、
それを表面に出さないだけで、
人知れず戦っている。

同時に、世の中には、
八方塞がれ、受難や、苦悩の嵐に押しつぶされそう
になっているひともいる。

それでも、負けずに生きている。

一生の内に体験することは、

先祖 ⇒ 親 ⇒ 自分

という流れのなかで、そのひと個有の因縁がその人の
運命の半分以上を支配する。

これは、言葉を変えれば 「 そのひと固有の課題 」

これは、偶然とかという問題ではありません。

実体験(現象)から学ばなければならない
課題があるのです。

その事によって軌道が修正されるのです。

その課題を、他力に頼り、
不可解な技や呪いで追い払ったとしても、
課題をあと送りにしただけに過ぎない。

名古屋の白ウサギは、
いまだかつて一度たりとも、
他人の課題を力任せに排除したことはない。

それでも、奇跡は起きるのだ。

ただ、その人の、
「 真実の姿 」を覆い隠す、
包みを剥がす切っ掛けを作っているだけだ。

恐れるなかれ、

どこからでも掛かって来い!!!
と思うとき、
「 課題 」以上のモノはやって来ない。

逃げると追いかけて来る・・・

他力に頼ると、課題に利子が付く

自分の体験の中から感じ、
培ったものを、「 自分 」という枠組みから切り離し、
「 自分以外の人の為 」
に役立てたいと決意するとき、
「 絶対的な価値 」が現われる。

得たい、得たい・・・
という心を、一旦白紙にしない限りは前には進めない。

「 絶対的な価値 」とは、因縁などとは次元が違う。

「 絶対的価値 」を観た者の未来は、
「 最善 」
しか有り得ない。

これこそが、宗教の本質であり、

真の幸福の原理であり、
繁栄の原理ではなかろうか?

御利益を求める宗教は、
淘汰されてゆくだろう。

最近の若い者は賢い・・・

大きな流れとして感じることは、
いかにも高等そうな、難しい屁理屈を並べる
「 打出の小槌 」のような理論は、
客(?)に、愛想をつかされ始めている。

実態は、外見や名声のみでは推し量れない。

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椿大社にて、車のお祓い

2016-06-27 | 出来事
三重県鈴鹿市・椿大社


新車を買うと、必ずここでお祓いを受ける。
これは、18歳の時から、今に至るまでの33年間、
一度たりとも欠かしたことはない。

自動車運転歴は、33年になるが
いまだかつて一度も事故を起こしたことはない。

ここでお祓いを受けたから事故が起きない。
事故を起こさないから、ここでお祓いを受ける。

どちらが真実なのだろうか?

今回、フト頭を過った・・・・
「 どちらが先でも後でもない・・・
この2つの事実が同時進行している 」

これこそがが、「 あの世 」と 「 この世 」を繋ぐ
法則であり、同時に原則でもあると感じる。














今回は、名古屋のヨガ仙人様も同行してくださいました。

このお方は、名古屋ではカリスマ的存在の、
大物・女性、ヨガインストラクターです。

仙人様の名誉の為に申し上げますが・・・・
ヨガ千人様のヨガと、ウサギヨガとは無関係です、

ヨガ仙人様のパワーも頂き、ウサギパワーは絶好調。


万事好都合
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宗教が目指すべき道

2016-06-24 | 宗教

「 言葉は神なきり 」

聖書のヨハネ福音書の冒頭に記された、コトバです。

奥深く、そして、尊い真理である事は間違いありません。

理論的な思考と善意を基にした
「 言葉 」が、人類をを進化させてきたのだと思います。

私は、若い頃、
多くの思想家や、宗教家、の本を読み漁りました。

なるほど・・・と思えるような立派な事を言っている、
思想家や、文化人、宗教家も大勢いました。

よでも・・・よくよく調べてみると、

そういった人の中には、
反社会的な行為を行っていたり、
ペテン師のような手法で金儲けをしていたり、
過激な破壊的思想を持っていたり・・・

感動するお話、
理に叶ったお話、
心を打つお話、

どこまで、「 真実 」なのか?
どこからが 「 ハッタレ 」なのか?

「 言葉 」だけで判別するこは不可能に
近いことかもしれません。

私は、基本的には、どんな理論も、話も、
まずは疑います。

疑う事を知らない、純粋な人ほど、
マルチ商法のカモになったり、
カルト宗教の餌食になったりします。

「 あなたは、疑いの心を持っています。
でも、その 『疑いの心』 を疑わない限り、
一歩もまえに進む事はできません・・・ 」

「 疑いを持つ、自分を疑いなさい・・・ 」

これは、あるカルト集団の会員勧誘マニュアルに
記されている、セリフです。

実に、モットもらしい、
「悪意に満ちたセリフ」 です。

悪徳団体は、こういうセリフで、
ターゲットを洗脳してゆくのです。

でも、このセリフは、
間違った事を言っている訳では無いと思えます。

問題なのは、このコトバの前提が、
悪意なのか、善意なのかです。

すべての ヒト ・ モノ ・ コト に対して、
疑い、警戒し、冷笑し続けている人間は、
一見、利口そうに見えますが、

生涯ただ、それだけで終わってしまう寂しいヒトです。

こういう、一見、知的で、賢そうな人間に
新たな価値の創造も、発見も、
喜びもやって来るはずはありません。

悪意を持った宗教や、思想集団は、
そのへんの、正論を、悪用するのです。

「 疑っていては、一歩も前に進めない!!! 」

という言葉をターゲットに擦り込み、 
教義に疑いを持つことに、罪悪感を持たせ、
巧みに洗脳して、最後は心も、
財産もすべて支配してしまう。

もう、ここまで「悪意」の手法が進化(?)してしまうと、
「 言葉 」だけで、
ヒトや・思想の善悪を判別することは不可能となってしまう。

私が思うに・・・

宗教的な観点で、人生や運命を探求する時、、
理論には限界がある。
言葉にも限界がある。
瞑想は、一歩間違うと、廃人になる。

ならば・・・

宗教は何を目指すべきなのか?

私は思う・・・・
宗教が目指すべき方向は、

「 感謝の心 」を極める。

「 感謝の念 」と 「 喜ぶ心 」は同列。

「 喜び 」 「 感謝 」の念は、
やがて大きなエネルギーになる。

なぜなら、すべての人間は、魂の奥底で、
繋がっているからです。

個人の発する、「 感謝の念 」 「 喜びの念 」は、
家族、隣人に留まらず、大きくは全人類に連動する。

「 感謝の念 」は、言葉に変換すると、

「 ありがとうございます 」

ならば・・・・

「 ありがとうございます 」の反対語は?

「 当たりまえ 」

すべてが 「当たり前」 だと思ったとき、
これが一番危険な状態。

生きていることは、 当たり前 
優しくしてもらうことは、当たり前 
手足があるのは、 あたりまえ
ご飯を食べることができて、あたり前 
助けてもらって、あたり前
親がいて、 あたり前 
子供が生まれて、 あたり前 
健康で、  あたりまえ
平和があって当たり前

不幸な一生を送りたいヒトは、
何でも「 あたり前 」と思えばよいでしょう。

そして、自分に無いモノを数え続ければよい。

「 ありがたい 」 とは、
仏教用語で
 「 有り得ない 」という意味であると、
最近、日本を代表する名僧、
京都のO氏から教わりました・・・

いま、ここに生きていること自体が、

「 有り得ない 」こと、

即ち 「 ありがたい 」「 ありがとう 」

白ウサギ 頓首・合掌
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ウサギの嫌いな言葉・・・その2・・・

2016-06-17 | 思う事


・・・写真・・・
宇治市の食堂にて・・
スピリチュアルな美人シンガー
(神通力がある千手観音のような不思議な女性)と、
速読の達人O様との三人で食べたカツ丼
・・・・・・

オマエ!! そんなこと常識だろ
この言葉・・・・若い時、よく言われた言葉である。

学校を出て、就職して間もない駆け出しのころ、
仕事の内容はすべてが未知の世界、
全てが初体験・・・・

そんな状態では、 「 常識 」と言われても、
そのベースがわからない。

その当時、私は思った・・・

「 常識、常識と必要以上に連呼する人間は
尊敬できない、信用もできない 」

同時に、自分は、
「 常識だろ!!! 」
という言葉を使わないと心に決めた。

あれから、30年以上の月日が流れたのですが、
今現在も、その時と考えは変わっていない。

いや、むしろ、確信を深めている。

現在、二人の子供がいるが、
子供にたいして、「 常識だろ!!! 」
という言葉は、一度も吐いたことがない。

もちろん妻に対しても同様である。

ましてや、仕事関係の新人や、
若手の人間にそのような言葉を発することは、
最大の恥であると思っている。

今までの経験のなかで、
多くの「 自称・常識人 」と遭遇した。

自称・常識人の動向を観察して思った・・・
自称・常識人は、
他人の行為に対し、陰で、
「 あのひと常識ないよね・・・」
「 そんなこと常識なのにね・・・」
などという言葉を頻繁に発する。

こういう人に限って、自分が不利な立場になると、
自分本位の尺度で、自分の行為を正当化し、
太々しい態度を取る。



自分が知っていることが、常識であり、
それを知らない者は「 非常識 」と認識していいる。

知識や経験を、ひとに伝えたり、
教えたりする能力、言語力がない。
それを隠蔽する為の手段として、
「 常識だ 」という言葉を吐く。

それは同時に、自分の能力の無さに対する憤りを、
他者に対して転嫁しているとも思える。

大きな声で何の恥じらいもなく闇雲に
「 そんなことが分からないのか!!常識だろ!!! 」
という言葉を吐くのは、
古いタイプの人間(高齢者)に多い傾向。
若しくはそれに準ずる時代遅れの中堅。

最近の若い人は、優秀であると思っています。
これからの時代「 常識だ!!! 」という言葉を、
軽々しく使わないことが 「 常識 」となるだろう。


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公開処刑・・・集団リンチ

2016-06-15 | 思う事

舛添要一
最近の私の感関心事です。

舛添氏は、確かに都知事には不適切であると思います。

好きか?  嫌いか?
と問われれば、・・・

大嫌いです

しかしながら・・・
官民挙げての袋叩きを見ていると、
あまりに行き過ぎた公開処刑だと思えて来る。

テレビなどでコメントする芸人達の言葉を聞いていると、
世論に媚びた発言のように感じるは私だけだろうか?

つい最近、
地球5周分のガソリンのプリベートカードを
購入しいたことが発覚した
野党の議員がいました。

オマケに、ガソリンスタンドのゴミ箱に捨てられていた、
他人のレシートまでも、拾い集めていたとのこと・・・

漫画本、子供服如きの悪事と
比較にはならない悪質さだと思うのですが、

一時報道はされましたが、しばらくすると、
いつの間にか一切報道しなくなりました。

与党も追求する姿勢ではないようです。

その背後には「特殊な駆け引き」があったのでしょう・・・
よって、「 無罪放免 」??????

物事には、裏表があると云う事を前提に考えるなら、
全人格を否定するような徹底攻撃など出来ないはずです。

勿論、追求すべきことは筋道を立てて追求すべきですが。

大勢で寄って集って徹底に袋叩きをするような行為に
少し位は恥じらいを持っても
良いのではないだろうか??と思えてしまう・・・
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失敗しない唯一の方法

2016-06-12 | 宗教

他人の悪口を言ったり、
他人の批判ばかりをしている人、

こういうにかぎって何もしていない。

動かないのだから、
その分、ミスや失敗の回数も少なくなる。

失敗しない為の唯一の方法は、
行動しないことである。

動ば動いた分だけ、判断ミスや失敗の絶対量は増える。

ならば・・・
動かずに瞑想したり、経文を唱えたり、
祈ったり・・・

そういう人間は「 立派な人間 」なのだろうか?

立派な人間とは、

暖かい光を心に宿し、
他人の批判に黙々と耐える人だと思う。

そういう人を見ると、
胸がキュンとなる



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舛添叩きに思う・・・

2016-06-09 | 思う事

東京都の舛添要一知事
私の考えとしても、舛添氏は辞任すべきであると思う。

しかしながら・・・
一連の舛添叩きは、あまりに行きすぎであると感じる。

スイートルームでの宿泊等の高額の支出。
別荘の往復に公用車を使用。
政治資金の個人的流用。

これらの行為は、確かに不適切であり、
究明すべきことであると思う。


メディアは、
これらの行為を追及するのみに止まらず、
舛添氏の家庭問題など、私的な部分まで暴露し始めた。

彼の人格に対する、全面否定を誘導している
とも思える、憶測や暴露の数々。

政治資金で子供服を買ったとか・・・
クレオンしんちゃん、の漫画本を買ったとか・・・
ガーデニング用品を買っただとか・・・
ピザのレシピ本を買ったとか・・・
回転すしを食べたとか・・・

確かに不適切と思えるが、
買った本の題名や、
食べた料理の内容まで暴露しての袋叩き。

挙句の果てには、奥さんの私生活事までとやかく言いだした。

奥さんが友達と5千円のランチを食べていたとか・・・
政治資金で奥さんが友達とランチを食べていたら話は別だが、
これはあくまでもプライベートの話であって、
そこまで追い回す行為は、

「ちょっとお行儀が悪いのではないですか?」
と言いたくなる。

「 政治資金で漫画本を買った 」
「 政治資金で個人的飲食をした 」

に留めるべきではなかろうか?
何を食べたとか・・・
そこまで執拗に暴露することは、
チョット度が過ぎると思う。

それが、
大人のタシナミ 
武士の情け
と云うものだ・・・



確かに舛添氏はセコイと思う。
私としても、
彼に好感は持てない。

都知事には不適切だと思う。
潔く辞任して欲しいと思う。

だからと言って、
彼の人格を寄ってたかって全面否定するような
行為は、行き過ぎであると思う。

世の中には、善人ツラしして、
社会のため・・・平和のため・・・などと大衆受けする
綺麗ごと事を並べ、
その陰で、国家に対して金銭に換算できな程の
膨大な損失を与えている輩もいる。

簡単な尺度で、一人の人間の全てを否定するような行為は
品性に欠けると思う。

舛添氏にも子供がいる。
子供にとっては掛け替えのない父親なのだ。

「 重箱の隅をつつく 」という言葉があるが・・・
この場合、まさしくこれである。

世論を扇動して、
寄ってたかって、そこまでやることは如何なものか?

キリストさんは言った・・・

「 汝等のうち、罪無き者まず石を投げ打て 」
(聖書・ヨハネ伝第8章)

舛添問題に関しては、
彼の、立場上の責任・義務・資質に関しては、
追求されて然るべきべきと思うが、

それ以上の部分に踏み込んで、
人格の徹底否定を誘導するような言論や、報道は
慎むべきであると思う。



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親鸞は輪廻転生を信じる故に、それを語らなかった。

2016-06-07 | 宗教

現生不退 
( げんしょう・ふたい )
この言葉こそ、
親鸞聖人の説いた教義の極致であると思っています。

現生・・・・・死んだ後ではない、生きている時、

不退・・・・ 「 絶対に退いてはいけない。」
現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)の略・・

・・・・訳・・・・

死んでから完成するものなど無い。
生きているうちに完成させなさい。

親鸞がここで言いたかったことを、
私の言葉に変えさせて頂くなら、

「 制限時間あり、一本勝負 」
「 制限時間 」とは・・・
生まれてから死ぬまでの期間。

「 一本勝負」 とは・・・
「 必ず決着をつけなさい 」という意味。

死後に浄土に行って悟りを開く訳ではない。
前世や来世を意識するまでも無い。

死後に想いを寄せても何も得られない。
ましてや、過去など既に完結したことである。

生きているあいだに、
自分の内に宿る、仏を信じ、

‘今現在‘に、全精力を注ぎ、
現実のなかで切磋琢磨することこそ、
成仏する為の唯一の手段。

親鸞の言いたかったことは、
こういう事ではかかろうか・・・

私が思うに・・・

今生は、過去(前世?)の清算ではない。
死後( 霊界 )への待合室でもない。
ましてや、遠い未来( 来世 )の準備期間でもない。
今生こそ、すべて、
いつか必ず死が訪れる。
そのあと、霊界に行く。

人間が死ぬ時、問われる事は、
その人が、
「 何を持ったか 」ではない。

‘あの世‘ の価値基準は
 何を思ったか? 
 何をしてきたのか? 
そして、
そこから何を学んだか?である。

この、
何を思ったか?・・ ・何をしてきたのか?
・・・そな中から何を得たか? 

の3つの要素が、死ぬ瞬間に、確定される。

それは、何人たりとも誤魔化す事はできない。
絶対的な「 公平 ・ 平等 」

人間に与えらた最大の平等とは、
「 死を前にしての平等 」

この平等により確定された ‘ 事実‘は、 
霊界に行ってしまってからでは、
変えるはできない。
‘ あの世 ‘では修正不能。
努力する事も、克服する事もできない。

悪い要素を修正したり・・・
良い要素を更に生かしたり・・・
これらは、生きている間のみ有効な、
「 特権 」なのである。

生きている時の「 体験 」とは、
必ずしもイイ事ばかりではない、
いや、
苦しみのほうが多いのかも知れない。

だが、この体験こそが、
死んでから成仏する為の必須課題なのである。

もちろん、人間は、
死んでから成仏する為に生きている訳ではない。

生きている時の心の状態 = 死んでから状態
であるから、
どちらも、対等という意味です。

迫り来る運命の波に、どのように向き合い、
そのように対処したのか?
そして、そのなかから、「 何を見つけたか?」
これこそが、課題である。

人間は、自分が死んだあと「 成仏する義務 」がある

ひとには、それぞれの課題がある、乗り越えるべき試練がある。

これは、「生きている」ときしか解決することができない。

死んだあと、自分の霊魂は固定した状態になってしまう。

そして、自分が、死んだ時の意識の
状態がそのまま、子孫や、血縁者に反映する。

自分が成仏することは、
後に続く、自分の一族に対しての最大の誠意なのです。
・・・・・・
肉体を持っているあいだは、「 体験 」ができる。
今生こそ、逃してはならないビックチャンスなのだ。

霊界に行ってからは体験は出来ない。

肉体を失ってしまうと、霊魂は
そのレベルに見合ったそれ相応の環境に吸い寄せられる。

苦悩・苦難・病苦・経済苦・
これらの障害物は、
 霊魂運用マシーン ( 肉体 )
に乗って、「 神を観る 」為の燃料なのである。

死後の自分にも責任を持つ事こそ、
霊魂は、永遠滅である事に対する肯定なのだ。

あの世に行ったあと、自分が笑えば、自分の子孫が笑う。
自分の子孫が笑えば、自分も更に嬉しくなる・・・

これこそが、「 幸福の原理 」

私は思う・・・

今の生命を全身全力で、極限まで、力の限り、
「 生きる 」「 生かす 」「 生き通す 」「 大切にする 」
「 いのちの尊厳を守る 」
これこそが人間の使命であり、
これが出来た時、初めて、「 自己の内に宿る神・仏 」を
感じる事が出来る。

すべての人間は、
阿弥陀如来の分身であり、
天照大神の分身なのである。

その自覚が成立した時、
「 勝負あり!!! 」なのだ、

親鸞は、何ゆえ輪廻転生を語らなかったか???

親鸞様が囁いているような気がします・・・

「 前世・来世を行動の拠り所にしたり、
過去や未来を、価値観の基準にしていては、照準が狂う。
タイムリミット( 死 )は刻々と迫っている。
時間は限定されている。
そんな事考える以前に、
動け!!  進め!!!  明るく悩め!!! 
考えろ!!  体験せよ!!! 無駄な事など何も無い!!! 」

ウサギが呟いた・・・・

得よう、得よう、と力めば力む程、
鎧兜が身を締め付ける。

執着は自らを焼き尽くし、
あの世に行ってもリピートする。

何より肝心なことは、
自分の内に宿る神と出会う事。

人間は仏の分身。
神の分霊。

これを知ることが全てを知ることである。

この自覚なくして、真実を見ることは不可能。

この自覚こそが、
必要な事物を、望まずしても引き寄せる。

如何なる分野も、如何なる宗教も、
目指すところは唯一つ、
「 生命の尊厳 」の自覚に他ならず。

勝たねばならぬ・・・・・

 
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無心で徳を貫く

2016-06-04 | 宗教

ウサギの財布が呟いた・・・

善い人ほど、「 欠く、あらねばならない・・・」

「 善い行いをすれば、それが必ず自分に帰って来る 」

と強く思い、それに縛られている。

間違った事ではない。
紛れも無く、真理である。
マトモな人間なら、誰がどう見ても正しい考え方である。
これが判らない人間は・・ハッキリいえませんが・・・ 
「 極めて特殊なひと 」です。

だが・・・ここからが肝心である。
この、「 紛れもない真実 」には、その裏側に、
「 欠く、あらねばならない・・・」
という言葉を宿す。

潜在意識は、「これをしないとダメだ」
という意味に認識する。

「善い行いをすれば、それが必ず自分に帰って来る」とは・・・

「善行を積まなければダメだ」という否定的な意味を含む。

この、「 ダメだ 」が人間を不幸に陥れる大きな要素。

この「 ダメだ 」は、自己の深層部に対してのみ
否定的エネルギーを発するわけではない。

他者の良くない行いに対しても、
「 アイツはダメだ 」
「 あの人のような心がけはダメだ 」と囁く。

他者に対して発する想念(エネルギー)は、そのまま、
自分に跳ね返ってくる。

それ故、善い人、心優しいひと、
正義感の強い人、真面目な人、ほど、不幸になりやすい。

自分の内から発する、「ダメだ」という意識(念)を、
取り除かない事には、

いくら、善行を成そうとも・・
いくら慈善を成そうとも・・・
いくら徳を積もうとも・・
いくらお経を読もうとも・・
いくら、神仏に手を合わせようとも・・・

「ダメだ・ダメだ」の念を、更に強固なものにするだけ。

「 善行に意味など無い!!!」 
と思って執着を断ち切らないことには堂々巡りするだけ。

「 無心で徳を貫く 」事こそが、
神が人間に与えた自然な姿である。

「 完全武装 」された「 執着 」の奴隷になることが
一番恐い。

こういうタイプは、
生半可に宗教をかじり、不幸にも、「偉い先生」
になってしまった人に多く存在する。

こういう人間がバラ撒く弊害は甚大である。

それ故、宗教は、諸刃の剣なのだ。

自然な形で、バカになって、自分の内から湧き上がる
良心の声のみを聞くとき、
おのずと「善い行い」が湧き上がる。
おのずと「善い芽が実を結ぶ」

善良で、真面目な人が、懸命に精進しても、
これでもか!!! これでもか!!
と言わんばかりの受難の数々・・・

真面目に、懸命に精進する者が必ずしも、
その呪縛から開放される訳ではない。

マトモな事をしてもこの始末・・・

それがだめなら、バカになるしかない。

人間誰しも、自分の行為に対し、その意味や、意義を考える。

慈愛に満ちた行為も、その行いに対して、
「 意味 ( 因 )」や、「 報酬 ( 果 )」
を意識する。

だが、そこで足踏みしていては前に進めない。

 意味を求めない 
このとき、
初めて 「ダメだ」から開放されるのです。

この状態になったとき、何も考えなくても、何も求めなくても、
必然的に、最善なかたちで、
「 絶対因果 」の法則が機能するのです。
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「 霊的バリア 」 とは?

2016-06-02 | 宗教

ひとは、体験を通してのみ、
楽しさ、辛さ、喜び、苦しみ、
を知ることができる。

これ即ち・・・

「 ひとの苦しみ、悲しみが、判るはずがない。」
という事です。

その人にしか判らない苦しみ、悲しみが
あるのです。

ひとの苦しみ、悲しみを、判ったかのように、
「 ご最もな事 」ことを得意満面になって
高いところから見下ろすように、
演説して、優越感に浸るひともいます。

こう云うのを、「 傲慢 」というのでしょう。

いま思い返せば、私も若いころはそうでした。

「 傲慢になるな!!! 」と、
常に自分に言い聞かせてはいるけど、

重大な問題や、苦しみ悲しみを持つ人と接するとき、
その思い(念)が通じない事もある。

こういう場合、相手の周りにバリアが
張られている事が多い。

「 バリア 」とは、「 念の塊り」
のようなものですが、
悪霊や、妖怪、のような
魔物の姿となって見えることもあります。

だだし・・・それは、私の意識のなかで
作り出された映像であり、
「 実在しないモノ 」なのです。
これ即ち、「文学の世界」

「 感謝します 」
「 赦します 」
「 愛と平和を祈ります 」
これは、絶対的な真理であり、
至高の境地であることは確かです。

厄介なことに・・・
ここにも落とし穴が存在する。

強固なバリアを張った人間は、
その言葉を、「 呪文 」にしてしまっている。

魂の底から湧き上がる言葉ではなく、
「 完全武装 」という意味での呪文にしてしまっている。

この呪文は、「 免罪符 」となり、自己矛盾を隠蔽する。

これは、孤独感を埋める、「 代償 」としてであったり。

自分にだけ都合が良い
ドラマのシナリオであったり、演出であったりする。

これが厄介で、一番手ごわい魔物である

こういうパターンは、
御利益のみを強く意識して、宗教をかじつている人や、

宗教をかじる、
「 権威主義の貪欲な野心家 」であることも多い。

こういう人が指導的立場に立ってしまうと、
その弊害は甚大である。

この部分が、「 宗教の最大の危険性 」であると思う


その魔物 ( 霊的な側面での、エネルギーのようなモノ )
を私の手で、剥ぎ取ってやろうと思うなら、、
ある程度出来るかもしれない。

しかしながら、
それを強引に剥ぎ取る事は、「 反則技 」である。

例えて云えば・・・
毛穴パックで、毛穴の中の不純物を強引に
引き抜いてしまうようなものです。

空いた空間に、更なる厄介な不純物が入り込む。

これをしたら、相手ばかりではなく、
自分の生命力( 霊的な )まで、
弱らせてしまう事になるのです。

こういう世界に足を突っ込むと、自分もダメになるし、
相手も「 依存症 」という厄介な状態に追い込んでしまう。

だから、力任せに剥ぎ取る様な事はしません。


善良な人であるにも関わらず、
強力なバリア張る人に遭遇したとき、

悲痛な想いになる・・・
何とかして差し上げたい・・・

こういう時は、
夜中にうなされて、奇声をあげたりする・・・
瞼がピクピク痙攣することもある・・・

これは、まだ自分が未熟な証拠だが、
その言葉の裏にも、落とし穴があるので
それ以上は考えない。

こういうときには、バカになる以外方法は無い、
バカボンのパパをイメージして、
「 これでイイのだ・・・」
と、心の中で呟く。

苦しみ、悲しみを分かち合う事は不可能だが・・・

「 喜び 」を分かち合う事は可能である。

不幸や苦悩の連続で、苦しみ悶える人に対し、
決して同情はしない。

分かるはずの無い、
その人の苦しみを分かったかのよな
自己暗示をするようなこともしない。

唯一、出来る事は、
喜びを分かち合うこと

これこそが、相手にに対する、
極限の誠意
であると信じる。

今現在、その人が苦しみ、悶えていても、
その奥に、
「 完全で円満な本性 」が存在する。
それこそが「 人間のホントウの姿 」

不運、不完全、不調和とは、
本性を覆い隠す‘ 幻 ‘(まぼろし)なのです。

‘ まぼろし‘ を消す、唯一の方法は、
相手に対し「 ホントウの姿 」を見ること。

相手の内に宿る、ホントウの姿を喜ぶこと。

これを、霊的な視点で、
「 喜びを分かち合う 」と云う。

私が今まで起こした、奇跡の種明かしをすると・・・

同情するのではなく、
その人の「 ホントウの姿を喜ぶ 」

その私の熱い想い(念)が、相手の魂に共鳴したとき、
奇跡が起きる

これは、理屈や、言葉ではない。
これをウサギ講では、 「 風 」と呼ぶ。

‘ ホントウの姿 ‘ とは、
全ての人間は、神の分霊であり、仏の化身
であると言う意味である。

それ即ち、魂の底から、
彼に宿る‘ 神 ‘を信じることです。

「 信じる 」 とは、 「 感じる 」こと。


いのちは一つ
「 私の‘いのち‘ 」は、「 彼の‘いのち‘ 」と繋がっている。
だから、私の信念は、相手にも伝わるのです。

これをウサギ講では、
「 意識の共鳴 」若しくは、「 生命の共鳴 」と呼ぶ。

一寸先は、光です!!!
コメント
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