彼に襲い掛かる数々の不運の原因は、
「 原因の、原因 」
「 フト思いつく、ふと感じる 」これが
「 原因の原因 」なのです。
これ即ち、「 霊的因果 」である。
ただ・・・この要素は、仏教で説かれている、
「 因果報応 」とは、別物であり、
その辺をハッきり区別しないと、
落とし穴にはまる。
私はいままで、彼に限らず、この落とし穴に落ちた人を
多く見てきました。
「 善人 」が、どうして、
落とし穴意に嵌ったり、不運に襲われ易いのか?
親鸞様のお言葉・・・
・・・・・・・・・・・・・
善人なほもて往生をとぐ、
いはんや悪人をや。
しかるを世の人つねにいはく、
「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。
この条、一旦そのいわれあるに似たれども、
本願他力の意趣に背けり。
・・・・・・・・・・・・・・
ここで、親鸞がいう、 善人・悪人 の定義
をハッきりさせておかねばなりません。
親鸞のいう、「 善人 」とは?
「 善行を重ねると、往生すると信じているひと 」
( 往生=死後安楽な清浄真実の 世界に生れること )
「 善行を重ねると仏に近づくことが出来ると信じているひと」
親鸞のいう「 悪人 」とは?
自分の善行に溺れていないひと。
自分の行った、一つ一つの善行に捉われていないひと。
ここで、親鸞の言いたかったことは、
「 善人より、悪人のほうが救われる。
悪人だから救われるのではなく、
悪人のほうが救われるにふさわしい
心の状態になりやすい 」
という事なのです。
そういう意味で、彼の不運、不幸は、
深い根があるのです。
即ち、彼は善人であるが故に、
素直な心境になる事が出来ない。
彼の意識のなかには、自分は善い行いを積み重ねているから、
それは必ず自分に戻ってくる・・
という強い信念が刻み込まれている。
これは、決して間違った信念ではありません。
これこそ、仏教の「 因果報応 」なのです。
この自覚は、人類レベルでは大きな意義のある真理です。
全ての人間がこのことを意識して行動するなら、
争いも、略奪も、暴力も根絶することが可能となるでしょう・・・
しかしながら、個人の運命を、これのみで説明する
事には無理があるのです。
皮肉な事に・・・
その信念の裏側には、「 傲慢 」という二文字が隠れている。
自分が善人であるという自覚は、言葉を変えれば、
「 自力の善に誇りを持っている 」という事。
これだけ善行を成したのだから、自分は救われる資格があるとか、
良い事が帰って来て当然であるという考えに偏り、
自分が成した、一善、一善を心のなかで、誇るようになる。
その、「 自信 」とは、
「 素直で、謙虚な心の姿勢 」と相反する性質をもつ。
善人の持つ特有の「 誇り 」と「 自信 」が、
謙虚さを失ってしまう大きな要因となってしまうのです。
彼の内面にある、「 善人の誇り 」が、
「 因果報応 」の絶対原則にフタをしている。
その結果、霊的因果に飲み込まれ、振り回され、
悪い連鎖を助長している。
形の上での‘ 善 ‘に捉われているうちは、
本質を見ることはできない。
本質とは、人間のホントウの姿。
生命のホントウの姿。
全ての人間のは、神の分霊、仏の分身
人間は、神によって生かされている・・・
全ての人間の内に神・仏は存在する。
これこそが、「 ホントウの姿 」なのです。
この心境を音にしたのが、
南無阿弥陀仏
「 わたくしは(はかり しれない光明、はかりしれない寿命の)
阿弥陀仏に帰依いたします 」
( 帰依・キエ= 身をゆだねる )
キリスト教では、
アーメン
( ヘブライ語で 「 まことに、ほんとうに 」
という意味。)
・・・・・・・・・・・
彼の、悪い連鎖を止めるには、
彼の思い上がった意識に
渇!!!を入れて差し上げる以外方法は無い。
ただ・・・この場合、私が彼に 渇!!!
を入れてあげる義理もない。
頼まれもしないのに、
際限なく他人の深い部分に入り込む事も愚かであると感じる。
今現在の彼に、
私の話に素直な気持ちで耳を傾ける事が出来る
余地は無いと感じられる・・
でも、いつか彼に大きな鉄槌が下る日が来る事を
密かに期待している・・・
恐いお話 ・・・終わり・・・
「 原因の、原因 」
「 フト思いつく、ふと感じる 」これが
「 原因の原因 」なのです。
これ即ち、「 霊的因果 」である。
ただ・・・この要素は、仏教で説かれている、
「 因果報応 」とは、別物であり、
その辺をハッきり区別しないと、
落とし穴にはまる。
私はいままで、彼に限らず、この落とし穴に落ちた人を
多く見てきました。
「 善人 」が、どうして、
落とし穴意に嵌ったり、不運に襲われ易いのか?
親鸞様のお言葉・・・
・・・・・・・・・・・・・
善人なほもて往生をとぐ、
いはんや悪人をや。
しかるを世の人つねにいはく、
「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。
この条、一旦そのいわれあるに似たれども、
本願他力の意趣に背けり。
・・・・・・・・・・・・・・
ここで、親鸞がいう、 善人・悪人 の定義
をハッきりさせておかねばなりません。
親鸞のいう、「 善人 」とは?
「 善行を重ねると、往生すると信じているひと 」
( 往生=死後安楽な清浄真実の 世界に生れること )
「 善行を重ねると仏に近づくことが出来ると信じているひと」
親鸞のいう「 悪人 」とは?
自分の善行に溺れていないひと。
自分の行った、一つ一つの善行に捉われていないひと。
ここで、親鸞の言いたかったことは、
「 善人より、悪人のほうが救われる。
悪人だから救われるのではなく、
悪人のほうが救われるにふさわしい
心の状態になりやすい 」
という事なのです。
そういう意味で、彼の不運、不幸は、
深い根があるのです。
即ち、彼は善人であるが故に、
素直な心境になる事が出来ない。
彼の意識のなかには、自分は善い行いを積み重ねているから、
それは必ず自分に戻ってくる・・
という強い信念が刻み込まれている。
これは、決して間違った信念ではありません。
これこそ、仏教の「 因果報応 」なのです。
この自覚は、人類レベルでは大きな意義のある真理です。
全ての人間がこのことを意識して行動するなら、
争いも、略奪も、暴力も根絶することが可能となるでしょう・・・
しかしながら、個人の運命を、これのみで説明する
事には無理があるのです。
皮肉な事に・・・
その信念の裏側には、「 傲慢 」という二文字が隠れている。
自分が善人であるという自覚は、言葉を変えれば、
「 自力の善に誇りを持っている 」という事。
これだけ善行を成したのだから、自分は救われる資格があるとか、
良い事が帰って来て当然であるという考えに偏り、
自分が成した、一善、一善を心のなかで、誇るようになる。
その、「 自信 」とは、
「 素直で、謙虚な心の姿勢 」と相反する性質をもつ。
善人の持つ特有の「 誇り 」と「 自信 」が、
謙虚さを失ってしまう大きな要因となってしまうのです。
彼の内面にある、「 善人の誇り 」が、
「 因果報応 」の絶対原則にフタをしている。
その結果、霊的因果に飲み込まれ、振り回され、
悪い連鎖を助長している。
形の上での‘ 善 ‘に捉われているうちは、
本質を見ることはできない。
本質とは、人間のホントウの姿。
生命のホントウの姿。
全ての人間のは、神の分霊、仏の分身
人間は、神によって生かされている・・・
全ての人間の内に神・仏は存在する。
これこそが、「 ホントウの姿 」なのです。
この心境を音にしたのが、
南無阿弥陀仏
「 わたくしは(はかり しれない光明、はかりしれない寿命の)
阿弥陀仏に帰依いたします 」
( 帰依・キエ= 身をゆだねる )
キリスト教では、
アーメン
( ヘブライ語で 「 まことに、ほんとうに 」
という意味。)
・・・・・・・・・・・
彼の、悪い連鎖を止めるには、
彼の思い上がった意識に
渇!!!を入れて差し上げる以外方法は無い。
ただ・・・この場合、私が彼に 渇!!!
を入れてあげる義理もない。
頼まれもしないのに、
際限なく他人の深い部分に入り込む事も愚かであると感じる。
今現在の彼に、
私の話に素直な気持ちで耳を傾ける事が出来る
余地は無いと感じられる・・
でも、いつか彼に大きな鉄槌が下る日が来る事を
密かに期待している・・・
恐いお話 ・・・終わり・・・