名古屋の白ウサギ・1964年生・

別名、ウサギ仙人・・職業・会社員

美人女性シンガーとの出会い

2016-01-27 | 出来事

最近、あるご縁で、美人女性シンガーTさんと
知り合いになった。

Tさんは、多芸多才、
あるときはボーカリスト
あるときはフラダンス行者
あるときは日本舞踊
またあるときは歌曲の作詞家。

慈善家で、多くの人の幸福を願い、
採算を度外視したイベントなどを多岐
に渡り主催されている。

Tさんはそれ以外にも、不思議な側面を持っている。

Tさんは、強い霊感の持ち主で、さすがの私も
唖然としてしまう。

正直いって、特殊能力に関しては、
私には理解出来ない部分もある。

いや、「深く踏み込んではいけない」
という意識が働いているといったほうが
正確かも知れない。

そのことは事は別問題として、
Tさんを見ていると、それより
もっと大切なことを強く感じる。

Tさんは明るく、暖かく・強く・優しい。
自らが光となって周囲を照らす。

愚痴や不平を言わず、ひたすら感謝の念を発している。

理解できない部分があることは確かであるが、
目指す頂上は同じであると感じる。

登る道が違っても、向いている方向は同じだ、
登る道が違えば、見える景色が違うのも当然のことであり、
そんなこと、たいした問題ではないと思える。

こういう縁を大切にしたい。
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鳥の唐揚の霊言

2016-01-17 | 宗教

私の大好物は鳥の唐揚です。
鳥の唐揚が食べたい・・・・
ありがたいことに、
その気になれば何時でも食べることが出来ます。

だからといって、毎日食べている訳ではありません。
何事もほどほどにせねばなりません。

節制して、週に1回程度に留めています。

もし仮に・・・
私が、食料不足で食べ物が無い状態になったとします。

空腹状態で、
鳥の唐揚を食べたい!!!
鳥の唐揚が食べたい!!!
毎日その事ばかりを思い続けたとします。

そして、ついに餓死してしまったとします。

このとき私が「強く発した想い 」は、
言葉を変えれば 「 念 」です。

「 念 」とは、私の心が発したエネルギーですが、
「 私自身 」ではない。
即ち、私からはなれた部分でエネルギーとして残留する。

これを「 念霊 」と呼びます。

世のなかには、死者の霊魂と対話することができる
特殊な能力を持った霊能者と呼ばれる人がいますが、

こういうお方のほとんどは、
特定の死者の本体の霊の声を聴いている訳ではなく、
死んだ人が残した、「 念霊 」の声を聴いているのです。

霊能者と呼ばれるひとは、私の残した「念霊」の声を聴き取り、
「 鳥の唐揚・・・鳥の唐揚・・・」
と霊言?を連呼するでしょう。

でも、これは私の「霊魂本体」が言っていることではなく、
私が生きているときに創り出した、
「 念霊 」が発している情報にすぎません。

これ即ち「虚像」なのです。
実在しないが、実在するように見えているだけの情報です。
在るかの如くみえているだけで、実は「 無い 」のです。

「鳥の唐揚食べたい・・・」という念霊なら、
たいした問題はありませんが、

悔しい・・・ 苦しい・・・ 恨めしい・・・
無念じゃ・・・  許せん・・・・
などと云った念霊は大きな問題がある。

この、有るかのように見えるけど、
実は無い「念霊」を打ち消す方法は?
‘灯かり‘を点ける事です
念霊( 闇 )を打ち消す方法は、
闇と戦う事ではありません。
光を発することです。

ならば、‘ 光 ‘とは?
感謝の念。
明るい心。
優しい心。
素直な心


感謝の念とは具体的に何に感謝するの?

何でも良いですが・・・
まず一番の基本は、
「 今、自分が生きていること」
今自分がこのに生きていることは、奇跡なのです。

「 念霊 」とは、人間が発した、
苦しみの念、悲しみの念、怨みの念、執着・・・
などが、蓄積され、
それが凝縮されたエネルギーの塊みたいなものなのです。
    
だから、必ずしも、死んだ人から発生しているとは限りません。

生きている人間も「 念霊 」を発生させているのです。

それ故、
ひとから強い恨みを買うような事はしてはいけないのです。
生きている人間が創り出した「 念霊 」は、
死者の「念霊」より数倍恐ろしい。

もっと危ないのは、
「 念霊 」の発する情報(声)を、
神様の声だと勘違いしてしまう事です。

ホントウの神様の声を聴くことは不可能です。
普通の人間には絶対に聞き取ることはできない。

ただし、例外的にそれを聞き取る(感じる)事ができた
人間も存在しました。
その代表格が、釈迦、キリスト、でなのです。
  
こういった特別なお方を除いて、
神の声が聞える事などありえません。
もし、聞えたとしても、それは神の声ではなく、
「念霊」の声なのです。

「念霊」を「 神 」と信じ込むと、
大きな間違いを犯すことになるのです。


そういう意味で、宗教は諸刃の剣なのです。
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不運な人とは?

2016-01-16 | 思う事


長距離バスに乗ったとき、私は必ずシートベルトを締めます。
  
まわりの乗客を観察してみると、
絞めていない人のほうが多いことに気付きます。

不思議でなりません、これは強要されなくても、
自分の意思で行う事だと思います。
「自分の身は自分で守る」
自分の身も守れない人間が自分以外の人間を守る事は出来ません。
(肉体的障害など、事情がある場合は別問題)
これが‘この世‘の原則だと思います。

飛行機乗った時、も同様、
要請がある無しに関わらず、座席に座ったと同時にベルトを着用し、
離陸あと、着陸するまでは絶対に外しません。

他の乗客を観察すると、離着陸の警告が終わると、
外しているみたいです。
不思議な光景です。
    
シートベルトを絞めずに自動車を運転していたとします。
激しい衝突すれば外に投げ出されるか、
フロントガラスで頭部を強打します。
この人が、「交通安全のお守り」を持っていたとしても、
この物理的法則を捻じ曲げることはできません。
  
もし、仮に「交通安全のお守り」を持っていなくても、
シートベルトをしていれば、外に投げ出されることもなければ、
頭を打ち付ける事も起こりようがありません。

神様、先祖霊は常に自分を守ってくださっています
にも関わらず・・・
危険予知、リスク管理、危機に対する備え、防備、などの
‘この世で生きて行く上で必要な自己責任‘を怠るなら、
それは、「自分の運命選択」てあり、
神や仏は、それに対して、
強引な関与はできない仕組みになってないのです。
 
もし、仮に過去に失敗があったとしても、
そのなから、反省・学習し、行動や考え方を改めるチャンスが
あるのです。
この繰り返しのなかで、祖先は神代から受け継ぐDNAを
絶やすことなく、守り伝えてきたのです。
その慈悲と知恵の結晶が現在、地球上に生きている人間なのです。
既に起こしてしまった失敗は進化の為に必要な要素
これから未来に発生する失敗は「それを回避する責任」がある

自己防衛意識を持たず、無謀なことを繰り返している人が、
もし、奇跡的に何の支障や事故もなく過ごして来たなら、
逆説的に考えて、
この人は「運が良いひと」とは言えない。
「 最高に不運な人 」と言わざるを得ません。
   
「修正のチャンス」がない・・・
こういう人が最終的に取り返しの付かない
大きな災害を引き起こしたり、巻き込まれたりするのです。

若くして大成した成金様や特殊能力者の末路は、
ほとんどの場合悲惨です。

仕事・人間関係・交友関係・・・・
全ての事象に当てはまることだと思います。

イチかバチかで切り抜け、「得をした」と思ったら大間違い、
高利貸しで借金をしたようなものなのです。
最終的には高利が上乗せされて、請求されます。


「霊的な意味に於いての進化」
に対しても同じことが言えるように思います。



ウサギヨガの修行の積もりが、
受身の練習になってしまった・・・
これも、転んだとき怪我をしないための訓練と、
自分に言い聞かせた・・
   
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親鸞の発した最も過激な言葉。

2016-01-06 | 宗教


親鸞と唯円の恐るべき問答

・・親鸞・・
唯円房は私の言うことを信じるか。

・・唯円・・
はい、信じます。

・・親鸞・・
それでは私の言いつけにそむかないね。

・・唯円・・
はい、謹んで。

・・親鸞・・
では言うが、人を千人殺してみないか、
そうすれば往生(現世を去って仏の浄土に生まれること。)
は決定するだろう。

・・唯円・・
仰せではございますが、この身のはたらきでは、
1人でも殺せません。

・・親鸞・・
さては、どうして、親鸞の言う事にそむくまいと言ったのか。
何事も意のままに行えるならば、
往生のために千人殺せと言ったら、すぐ殺すだろう。

しかし、1人でも殺す前世の因縁がないから殺さないのだ。

自分の心が善くて殺さないのではない。
また、殺すまいと思っても千人殺す事もあるだろう。

・・・歎異抄・第13章より・・・
    
親鸞らしからぬ過激な荒々しい例え話である・・・

唯円はこの親鸞の過激な言葉に対して解説している。
      
「 人々は、自分の心が善いのを善いと思って、
往生できると考え、また悪いのを自己判断で
悪いと断定している 」
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悪夢にうなされた・・・

2016-01-05 | 思う事

元旦の夜から4日間、毎晩悪い夢ばかり見ました。

夢の内容のほとんどは忘れてしまいましたが、
半分位は覚えてます。

悪夢ばかりでした。

良い初夢を見ると縁起が良いとされていますが、
私はそうは思っていません。

私のいままでの経験では、
悪い夢を見たときほど良い事が起きる。

逆に、良い夢を見たときほど、
好ましくない事が起きる。

これは、私だけに言える事なのかもしれません。

ひょっとしたら、大多数の人は、
良い夢を見た後、良い事が起きるのかもしれません。

その辺は、データーを集めて統計的な分析をしない事には
真偽は断定できないと思えます。

是非ともやってみたいのですが、
最近は仕事が多忙なうえに
特殊任務が多くて、そんなことしている暇はありません。

よくよく考えてみれば・・・
もし、仮に白黒ハッキリさせたとしても
何の意味も無いように思えます。
      
良い夢を見たら、気を引き締め、
油断せず慎重に行動する。
    
悪い夢を見たら、
「これで悪いエネルギーが消えた」
と思えば良い。

    
これさえ守れば、毎日が大安吉日
生きている限り、毎日が良い事ばかりという
事は有り得ません。

良い事もあれば、悪い事も起きます。

そんな目先の現象に一喜一憂していては、
「木を見て森を見ず」状態。
良い夢を見たら拍手喝采。
悪い夢を見たら、万歳三唱。
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平成28年1月3日 熱田神宮

2016-01-03 | 宗教
平成28年1月3日 14時・・熱田神宮 

すごい数の参拝者、
神道の神様は、国民の心の中に生きている。

それは、教義や理論以前に内在する国民共通の
「原意識」ではないでしょうか。

「目に見えない大いなる力」
に対する畏敬の念こそが
人間としての原点であり、同時に終着点であるような気がします。

理屈を並べる以前に、「明るく謙虚な心」
のほうが遥かに大切であると感じます。





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信ずべきもの

2016-01-01 | 宗教

神様はどこにいるのか?
神様といっても、色々な次元の神様がいます。
喜怒哀楽を有する次元の神様もいます。
このような神様は、
呪文を唱えたり、願いを強く訴えれば、
怪力でその願いを叶えてくれることもあります。

ただ・・・厳密に言えば、このような性質の神様は、
根源的な神様ではなく、
限りなく人間の持つ情念に近い性質を有する神様です。

それ故、欲深い個人的、利己的な願いをも
強く願えば叶えてくれることもあります。

それと同時に、その反動があることも確かです。

間違って、ご機嫌を損ねると、
思わぬしっぺ返をされてしまうこともあるのです。

最高神は特定の人をエコヒイキしたり、
呪文を唱える者に便宜を計ったりはしません。

もちろん、機嫌を損ねた場合、怒りだすこともありません。

全ての人間に対しして、あくまで公平なのです。

ならば・・なぜ、不幸・不運・不調和が人間を苦しめるのか?
その原因は何なのか?

その正体は、
自分自身の心のなかにあるのです。

最高神は、遠い天上に存在していのではありません。
ごく身近に生きておられます。

「ごく身近」とは?
自分の内です。
最高神は生きている人間のなかにおられるのです。
即ち、全ての人間は、最高神の「分霊」なのです。

  
もし、天罰なるものが存在するなら、
それは、神が人間に下した審判ではなく、

自分(ホントウの自分)が
自分(偽者の自分)に課した
自己処罰なのです。
悪因悪果のカラクリも、
そのほとんどがこの自己処罰なのです。

人間誰しも、生きているからには、必ず罪を犯します。
人を傷つけたり、生き物を殺したり・・・

罪を犯さずに生きて行くことは不可能です。
それ故、人間は無意識のうちに自己処罰を始めるのです。

因果のメカニズムを突き詰めれば、
このカラクリを発動させているのは、
神でもなく、仏でもなく、
自分自身(内在する神の心)なのです。

だから、心の優しい人、純粋な人、正義感が強い人程、
不幸や苦悩に襲われ易いのです。

心の優しさ、純粋さは尊いことです。

にもかかわらず、その反動があることも確かです。
この理不尽な、
矛盾する二つの要素を克服する方法は一つしかありません。
「自分の内に宿る神を信じる」
これ以外の方法はないのです。

自分の想念や、行為に対する反省は必要です。

ただし、その「反省」の前提が肝心なのです。
前提とは、「自分の内に最高神が宿る」という自覚です。

これに反する、「想い」を植えつける宗教は
結果的に、人を不幸にしてしますのです。

自己に宿る神の自覚こそが、自分以外の全ての人間、
全ての生命に神が宿ることを知る絶対条件なのです。

人間の本質は神であり、自己に宿る最高神を信じる事こそが、
「真の信仰」であり、
自分の外のみに神を追い求める者は、
永遠に神に近づく事はできません。

人間が生きて行くなかで起きる悲しみ、困難、苦悩、
病苦、離苦・・・・
それらあらゆる苦しみは、「自己の内に宿る神」
を自覚させる為に、人間に与えられた課題であり、
そういう意味では、これらも決して無駄な事では
ないのです。

人それぞれに、経路は違っていても、
行き着くところは神の分霊・神の分身としての自覚
であり、この自覚こそが、
因縁を超越し、悪業を消し去り、闇を消し去る。

外界に神を追い求める時代はもう終わりました。

これは、人類に霊的進化が始まり、
次の段階に入った言う意味です。
  

それ故、これからの時代は、「妄信的集団」の時代は終わり、
真の意味での「責任ある個人」の時代で
あると感じます。

自己に宿る神を信じる事が出来ない人に、
自分以外の、他者に宿る神を見ることは不可能です。

この話を更に拡大させるなら・・・
国家間の戦争も「自己処罰」です。

自分の生まれ育った国を愛せない者が、
他の国に対して敬意を持つ事は不可能です。
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