名古屋の白ウサギ・1964年生・

別名、ウサギ仙人・・職業・会社員

奇怪な人生の出発点

2014-06-29 | 出来事


倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)の墓

別名 ・ 箸墓古墳


奈良県  櫻井市巻向 三輪山の山麓に

全長約280メートル、後円部の高さ約30メートルの

巨大な 前方後円墳 があります。

この古墳は3世紀半 に造られた古墳で

最古の前方後円墳といわれています。



今から35年前、私が14歳のとき、はじめてこの地を訪れました。


箸墓古墳の前に立って、三輪山を眺めたとき、

私の魂に電撃が走った。



そのときの感触は、

脳天に 雷 が落ちて、その電流が、私の体内を螺旋状に流れ

最後は地面に抜けていったような感触だった。


このことが、

私の 奇怪な人生の出発点だった・・・


この地は、大和朝廷発祥の地とされています。

大和朝廷 とは 天皇家の前身とも言うべき存在

日本國の出発点は、この地にあると確信しています。
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尊重すべきもの

2014-06-28 | 宗教

基本的人権の尊重

これは重要な考え方だと思います。

ただ・・・・皮肉なことに・・・・


この言葉には、「 天国 と 地獄 」 両方が
同時に表現されている。


「 基本的人権 」 の 

‘ 基本 ‘  とは何か?


この定義次第で、

この言葉が人間を不幸にしてしまう。


「 基本  」 を、 目に見える人間( 物質 )と定義した場合、
多くの人を不幸にします。

この考えかたは、物質としての人間の尊重であり、 
その奥に宿る、生命( 霊 )に対する尊重がありません。

こういう考えかたは、真実に反します。

それ故、不幸 ・ 不調和 ・ 不完全 を実現します。

 

「 基本 」 を、 肉体の奥に宿る、目に見えない人間 ( 霊 ) 
と定義した場合、 多くの人に 幸福をもたらします。


人間の最も尊重すべきものは、
 人間の内に宿る 生命 ( 霊 )なのです。


このことを悟ったとき、始めて
「 個人としての人間 」 に対する 尊重 が実現するのです。


この事を、全人類に向かって、発することが宗教の使命。

これが出来ない宗教は、

豆腐が入っていない豆腐汁
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因果の法則で止まってしまったら・・・

2014-06-23 | 思う事

良い事をすれば、それはやがて自分に帰って来る・・・

悪い事をすれば、それはやがて自分に帰って来る・・・


人間の一生は、すべてが因果の法則で成り立っている。

これを 因果の法則 と言います。

これは 事実  です。

でも、私はこれが 真実 ではないと思っています。


「 因果の法則 」 ここで止まってしまったら・・・もう、未来はない・・・・


仮に ある人が、遠い昔に人を殺してしまったとする・・・

その人は、後悔し、反省し、自分を責め続ける・・・

でも・・・

この人は、因果の法則 から言えば、

必ずその報いを必ず受ける日がやって来る。


また、 ある人は・・・

多くの人の 生命を救った・・・・


因果の法則 からいえば・・・

この人は、必ず良い事が訪れるはずだ・・・・

ならば・・・

過去に、 悪い行い、 悪い行動 、 悪い感情、 ・・・・

という ‘ 種 ‘ を作ってしまった人は、いくら反省しようとも、
良い行いを重ねようとも、

それ相応の試練を当然の事として背負い続けねばらぬ・・・・


これが釈迦の言いたかったことなのか?????


世の中には、 徹底的に不運な人も存在する。

こういう人は、 生涯にわたり、

不運の連続・・・苦労の連続・・・苦悩の連続・・・・

これでもか!! これでもか!!! と言わんばかりに、痛めつけられる。


 因果の法則が、「 絶対的な法則 」 と言うなら・・・

こういう人は、過去に犯した 

「 罪の報い 」 

を受けているという事になってしまう・・・

不幸や苦悩は、神が人間に課した、精算の為の処罰 なのか ?


そんな事、あるものか!!!!


「 強運 ・ 不運 と 人格との因果関係ほとんどない 」

「 運命と人格には、決定的な因果関係はない 」

これは、私が今まで、多くの人を観察して来て実感したことです。


皮肉なことに、現実は、

心が純粋な人間ほど 不幸になる事が多い。

心が 図太く図々しい人ほど、強運 。

真面目な人間より、少しイイ加減な人間のほうが強運 。

利己主義な人間でも、幸福な生涯を送る事がよくある。

奉仕の精神を持つ人が、不幸の連続であることもよくある。

善良な人に奇跡が起きず、 下品で、悪質な人間に奇跡が起きる事もよくある。


こう言ったことは、世の中をよく知っている人なら、誰でも気付いている事だ、


この矛盾に対して、 宗教は、

「 後出しジャンケン 」 のような事を言う・・・

今生は、前世の影響もあるんですよ・・・・

今生がダメでも、来生がありますよ・・・・

今生が不幸でも、死後の世界がありますよ・・・

彼方は、高級な魂の持ち主です、それ故、試練があるのです・・・

霊的背景があるんです・・・


多くの人間は、こういう手法に対して不信感を持っている。

それ故、宗教はバカにされる。


輪廻転生 の真偽は、つまる所、 

信じるか ・ 信じないか ・だけの問題であり、真相は誰にも分からない。

正直いって、 わたしも、 輪廻転生を信じたい。

輪廻転生があって欲しい・・・・

これは、この世の理不尽に対する慰めとして、万人が持つ潜在願望

なのかも知れない。
 

仮に、前世があったと仮定して、

自分が過去に犯してきた 過ち・ 罪 に焦点を当てれば、

今生、前生、を含めれば、そのなかで自分が犯した 罪 は膨大なものになる。


全ての人間は、生きて行く上で、必ず多くの罪を犯している。


意図して犯した罪に留まらない・・・・知らずに犯した罪も計り知れない・・・・・


罪の償い ・ 遠い過去の清算 ・ としての一生を
 
「 これが私の人生だった・・・・ 」 と言って死んで行かねばならぬ。

こういう考え方がもし、

「 神の意思 」 「 仏の本意 」 であるなら・・・・・


神も仏も あったもんじゃない!!!!

神様とは裁判官なのか?

仏とは監察官なのか?

 

私が思うに・・・・・


ここまでは 宗教とは呼べない。

自然の摂理 から来る 「 個人の運命選択 」 に過ぎない。

神・仏 を持ち出すまでもなく、精神科学、心理学の領域で十分説明できる範囲内である。

同時に、このことに関して、神も 仏も 直接の関与はしていない。

現生、 過去生、 を基準にした、 因果の法則  
ここで止まってしまう事に、宗教の功罪が存在するように思えてならない。


因果の法則に端を発する 善果 ・ 悪果  は
神が人間に課する  「 処罰 」 でも、「 褒美 」でもない。


自分自身 が作り出す、結果でしかない。

「 罪の清算 」 を意識した 善行をいくら重ねても、

自分が持つ 「 罪の意識 」 は絶対に消える事はない。


とはいえ、「 善行 」 と言うからには、それがムダな事とはいえない。

良い事をするに越した事はない。


私が言いたい事は、この事が、自分の背後にある 
「 悪い要素 」を打ち消すものではないと言う事なのです。

借金を返すような感覚で、善行を行う事は、

個人レベルで考えれば、単なる気休めでしかない。

 
仮に、自分の、意識の奥にある 罪の意識に対する自覚がなかったとしても、

自分の魂の奥底にある 無意識 がそれを覚えている。

それ故、因果の法則 が働き続ける。


神は人を裁かない。


人間に襲い掛かる、不幸、不調和、不完全 ・・・

その正体は・・・・

自己処罰

裁いているのは、 実は「 自分自身  」 なんだ。


これが、 「 自分の内に宿る、自然の摂理、」 

これを私は、個人レベルでの  因果の法則  と呼ぶ。


因果の法則 とは 、 その奥にある真実 
神の国  仏の浄土を知るための 「 前置き 」 でしかない。


もし、因果の法則 で足を止めてしまったら・・・・

自分の人生は 「 過去に犯した罪の償い 」 となってしまう。

突き詰めて考えれば、考えるほど・・・

空しくなる・・・

それ故、私はいつも自分に対して言い聞かせる・・・


「 良い事をしたからって、何も返っては来ない・・・ 」

私にとって、良い行いとは、単なる自己満足です。それ以上でも、以下でもありません。



「 何も返って来なくても良い。 駆け引きはしない、自分の良心の声のみを恐れ、それに従う 」

人が喜べば、自分も嬉しい・・・それ以上でも、それ以下でもありません。


ならば・・・・


釈迦が説いた究極の  真理

キリストが説いた究極の  真理 

神道 が示唆する 究極 の真理

とは ???・・・・・・・・・

「 因果を超越する事 」 にあり。

全ての人間は、神であり、仏である。
 人間は神の自己実現 であって、完全・円満 なる存在。
命の本源は 神にあり、 仏にあり。

これを悟る事を目的に、人間は生まれて来た。
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寅さん

2014-06-22 | 思う事
ふうてんの寅さん。

いつも笑えて泣ける話だった。

でも・・・・

もし仮に・・・同じ職場で、こういう人と一緒に仕事をしたとしたら・・・

常にイラつかされる状況となってしまうだろうと思われる。


マイペース  な人というのは、営利の追求と、効率を重視する実社会に於いては、

迷惑千万であると感じます。

にも関わらず・・・・・

寅さんの人気は絶大でした。

なぜだろう・・・・

私が思うに、 寅さんの イイカゲンな 行動、言動 、の裏側に、

誰もが内に秘めている

「 情 」 が存在している。

寅さんシリーズは、毎回マドンナ役の美人女優が出演する。

寅さんは、毎回このマドンナに恋をする。

でも、必ず片想いで幕を閉じる。

それにもめげず、また恋をする・・・・・

要するに・・・ 寅さん、 多情 という事です。


寅さん の脳の中には、特定の人間に対する執着 を通り越して、

「 集合体 としての女性像 」

「 集合体としての男性像 」 

「 集合体としての人間像 」


が構築されているのではないだろうか・・・・


 



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三島由紀夫いわく・・・

2014-06-16 | その他


三島由紀夫 は言った・・・・・・


未来を信じる奴は、みんな一つの考えに陥る。

未来のためなら現在の成熟は犠牲にしたっていい、

いや、むしろそれが正義だ、という考えだ・・・・・


未来を信じない奴こそが今日の仕事をするんだよ。

現在ただいましかないというのが、 ‘ 文化 ‘ の本当の形で、

そこにしか ‘ 文化‘ の最終的な形はないと思う。

三島のいうことには未来のイメージがないなんていわれる。

バカいえ、

未来はオレに関係なくつくられてゆくのさ、

オレは未来のために生きているんじゃねェ、

オレのために生き、

オレの誇りのために生きている。


( 教文社刊 ・ 若きサムライのために  より抜粋 ) 





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火葬場での対決

2014-06-15 | その他
私の父親は、幼いときから、ガキ大将として名の知れた人物でした。

体型は小柄ですが、幼い頃から百姓で鍛え上げられていたので、

筋肉質で柔軟、

ケンカが強く、度胸があり、恐いもの知らず。

私が子供の頃、
私の父親の事を幼い頃からよく知っている人間は、
クチをを揃えてこう言った、

「 君の父親は、恐いもの知らずのガキ大将だった・・ 」

どんな悪ガキも震え上がるほどの
無敵のガキ大将だったらしい。

こんな父親ではありますが・・・・

あるとき、私に、告白した。

「   自分は、子供の頃、恐いものなど何もなかった・・
 どんなケンカも負け知らず、どこからでも掛かって来い!!! 
受けて立とう!!と豪語していた。
でも・・・一度だけ負けた事がある・・・   」

私の父親にケンカで勝てるような男は、よほどの怪力の持ち主か、
知能犯であるに違いない・・・

私は父親に尋ねた・・・

「 それは、どんな相手だっのか? 」  

父親答えて、

「 いや、そんな怪力も、悪知恵もない男だ、誰がどう見ても、弱そうな男だった 」

私の父親にケンカで勝った悪ガキ ・・・

どんな勝負を挑んできたのか興味が湧きあがって来た・・


父親は語りだした・・・・


 ある日、隣の集落に住む、ガキ大将が、俺にケンカを売ってきた・・・


 『 よし、受けて立とう!! 』と答えた、


すると、その悪ガキ、はこう言った

『 お前の度胸を試してやる、お前にもし、勇気があるなら・・
今日の夜中の11時に、村のはずれにある、墓場の中の 
         火葬場まで一人で出て来い。そこで、決着をつけてやる。
どうだ?  恐いか?・・・・ 』


( 今はあまり見かけませんが、昔は、墓地の中にレンガ造りで、
観音開きの鉄の扉が付いた小さな火葬場があった)


父親は即答した 『 望むところだ!! お前!! 怖気付いて逃げるなよ!!! 』


勇気を振り絞って、約束の時間に、夜中の墓場に向かった・・・

指定された、火葬場の前で悪ガキが来るのを待った・・・

約束の時間になっても、悪ガキは現われない・・・

恐いもの知らずの父親といえども、さすがに深夜の墓場は薄気味悪く、恐くなって来た・・・


『 あの野郎・・・怖気付いたな・・・俺の勝ちだ・・・ 』


そう思って、引き返そうと思った。

そのとき、

信じられない事が起きた・・・・

レンガ造りの、火葬場の死者を焼く炉の中から 
焼却炉の入り口を塞ぐ鉄の扉を叩く音がする・・・・

父親は、恐ろしくて、一瞬硬直した・・・・


すると、 その瞬間、


火葬場の 死体を焼く焼却炉 の鉄製扉が、内側から物凄い勢いで開いた、


と同時に焼却炉の中から、人が飛び出してきたのだ・・・・


そのとき、父親は、

あまりの恐怖ゆえ、ひっくり返ってしまった、

完全に腰を抜かした状態で、立ち上がる事もできなかった・・・


なんと・・・・


この悪ガキ、 父親が墓場に到着する以前に、すでに現地に来ていて、

火葬場の鉄扉を開け、中に入って、父親が来るのを待っていたのだ・・・


夜中の墓場と云うだけでも恐怖のはずだが、

この悪ガキは、火葬場の死者が焼かれる 火葬炉 の中で、

死体と同じ状況で仰向けに寝た状態で、横になって、

更に、鉄扉閉め、 真っ暗な状態で、

私の父親の来るのを待ち伏せていたのだ・・・・・


信じられない 根性の持ち主だ、 人間離れしている・・・・


さすがの父親も、このときばかりは 

『 まいった・・・・ 』

と、素直に負けを認めた。



私は思いました・・・・・


この事は、悪ガキ同士の他愛もない決闘のお話ですが・・・


この悪ガキ位の 根性と 信念と勇気 と 度胸がなければ、

いくら、偉そうな事を言っても、たいしたことは出来ない・・・・


もし、何らかの必要に迫られた時、

果たして・・・私に、この悪ガキと同じことが出来るのだろうか?

「 命を懸ける思いで、何かをする 」 

と思ったとしても、

「 じゃあ・・・ あの悪ガキと同じことが出来るか? 」

と問われたら、

「 んん・・・・・・・ 」 と思ってしまう。

私に所詮、そんな度胸はない・・・


色々な人と接してゆく中で、

他者に対して 『 あの 意気地なし!!! 』 と思ったとき、

いつも、この話を思い出して、

自分に言い聞かせる。

「 自分も弱虫だろ !!! 」 









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フタを開けたら、際限がない。

2014-06-14 | その他
最近、24時過ぎた頃、無性にラーメンが食べたくなる事がよくあります。

しかしながら、ここでラーメンを食べると、チャーハンが食べたくなります。

更に・・・大好物の 鳥の唐揚げ まで食べたくなります。


腹が出すぎている私としては、カロリーオーバーは自己虐待です。

私は94歳まで生きる予定でいます。

そのためには、健康を維持しなければなりません。

食べなきゃ食べないで済んでしまうことですが、
一度 フタ を開けてしまったら、止まらなくなってしまいます。


こういうときは、 白ワインを飲みます。

アルコールも  「 底なし」 なら、問題がありますが、

ワインなら、0.7合位の量を飲めば、無理なくそこでストップする事ができます。


少々酔っ払って寝てしまったほうが身のためだと思えるからです。



人間の持つ、らあゆる欲望とは、こんなものかも知れません。
一度フタを開けてしまったら、際限なく欲望が込み上げてくる・・・

欲望を抑えるより、不要な欲望に対しては、

「 フタを開けない為の 工夫をする  」

この事が一番の保身なのかも知れません。
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宗教病

2014-06-13 | 宗教

人に良い事だと教えられ、 人助けの為、何かの善行を行ったとします。

でも・・・この背後には大きな落とし穴が隠れているような気がします。


人に良い事だと教えられ、それを信じ、

妄信的に行った行為は、

その人の、無知 から来る行為に思えてならないからです。


無知から来る 慈善  は多くの場合、大きな害悪を垂れ流します。


‘ 慈悲 ‘  と  ‘ 同情 ‘ を混同すると、結果として、人を不幸にしてしまう。 

私は思います・・・

他人から教えられる ‘ 善い行い ‘ とは、 「 自分の良心 」 ではありません。

単なる  行動の提起 ・ 価値観決定の入り口 、 です。


自分の心の中から湧き上がってくる想い。
これこそが 「 自分の良心 」であり、 「 真実 」 


入り口のところで何も考えず、単純な自己満足と愉悦感におぼれていると、
それに 依存する習慣 が身に付いてしまいう。
こういう人は、
単なる「 おめでたい人 」 で終わってしまう。

「 おめでたい人 」 は自分の状況を客観的に観る事が出来ず、

利用され、騙される事の連続。 

もっとも・・・

たとえ、他人から教えられた事であったとしても、その、
すべてが間違っている訳ではありません。

正しい事も多くあります。

そのために、教育という制度もあります。

当然の事ながら、教育のすべてが正しい訳ではありません。

その人が最終的に信じる事は、
教わった事が  正しい ・ 正しくない  という事と、
別の次元で語らなければいけないと思います。

その人にとっての「 真実 」 とは、 
「 信じる ・ 信じない 」 とは別問題です。


真実 対して、「 信じる為の努力をする 」必要があるのでしょうか?



ここに、宗教の ‘ 恐ろしさ‘  ‘ 愚かさ‘ が存在していると感じます。


あるときは、宗教教団の親方が、「 ●●は、●である。 」

という教義を述べる。


親方を信じる信者は、それに従います。

自分の信念で有るかのごとく 「 ●●は、●である!! 」 と大真面目な顔をして力説する。


でも、時を経て、親方が交代の時期が来る。

次の親方が、

「 それは過去のお話、 ●●は、●ではありません。 」

と言い出す、

すると、それに従う信者は、 あれほど真剣な顔をして主張していた

「 ●●は、●である。」 という主張を簡単に忘れてしまう。


仮に、そうでなくても、 忘れるように努力する。


営利活動をする企業なら、この行為は当然な行為です。
時と場所によって臨機応変に、プライドなど投げ捨てて、
シタタカな商売して行かねばならない。

でも、心の世界、 魂の世界、 神の世界、 を探求する

宗教が行う行為とは思えません。  


どうしてこんな現象が起きるのか?


私が思うに・・・・

その人たちは、 「 人から教えられた事 」 のみを信じる癖が付いていて、

自分の魂の声を聞こうとはしない。

「 何かを信じる 」 それ以前に重要な事は、 

「 自分の魂の底 から湧き上がる 良心 」 

「 自分の魂の底 から込み上げる 信念 」

「 自分の魂の底 から込み上げる 慈悲 」



「 おめでたい人 」 は、それらが欠如してるとしか考えられません。


真実 とは
自分の内で起きる 内面での体験 でしか語る事が出来ない。



「 内面の体験 」 なき、「 信じる心 」 これこそが、
無知と傲慢に端を発する、宗教病 に思えてなりません。



 

 



 

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事実 と 真実 ・・・ 1

2014-06-08 | 思う事


事実 と 真実 

この2つの違いを、ハッキリ区別しないことには、
いつか行き詰まるときがやって来る。


事実 と 真実 は別物である。


事実 ・ 真実 といっても、それには色々な単位がある。

個人レベル での 真実

家系レベル での 真実

国家レベル での 真実

人類レベル での 真実


私がまだ幼い頃・・・

私が高校に入学した時の事だった・・・


母方の祖母が、「 入学祝いだよ 」 と言って、

私に、一万円くらいのお金を与えてくれた。


私は当時、ラジカセがどうしても欲しかった・・・


父親に 「 このお金でラジカセ買って良いですか? 」


と尋ねた。

このとき、父親は言った。

「  このお金は、親戚同士の付き合いで貰えたお金だ、
   普段、我が家も先方に祝い金など贈っているから貰えるお金だ、
      だから、そのお金はお前のモノじゃない、
     それを、お前の金にしたいと言うなら、
              それは 泥棒 だ  !! 」

このとき、私は、幼いながらに思った・・・

「 理屈は分かる・・・ でも・・・泥棒 はないだろう!!!
           共産主義みたいだ・・・最低な発想だ!!! 」

私は、強い怒りを覚えた、そして父親を強く軽蔑した。

でも・・・

自分が大人になり、年を重ねるごとに、その気持ちは変わって行った・・・

「 泥棒だ !!! 」 

と父親が言ったことは 事実

このこ言葉は今になっても、絶対にオカシイと思える。


でも・・・その事実だけに焦点を当てている限り、

父親の 真実 は見えてこない。

そう思うようになったのです。


自分が生まれて来られたのは、親がいたからです。

自分が今生きているのは親がいたからです。

親なくしては、自分は存在しない。

その親を根底から否定することは、即ち、自分自身の存在を否定している事になる。


親の苦労なくしては、無一物の赤ちゃんが、育ってゆくことは出来ない。

自分の存在は、全て親の恩恵である。


これは、個人レベルにおいて、

紛れも無い 親の真実 ( 本当の姿 )

その 真実 を見ずに、

表面に現われた 親の事実 ( 仮の姿 )

を、重箱の隅を突くように・・・・あれやこれやと論評し、

批判し続ける限り、 真実は永遠に姿を現さない。


親の 真実 を見たとき・・・・

自分の 真実 が初めて見えてくる。

自分の 「 真実 」 を見ない者は、死ぬまで自分で自分を 
処罰 し続ける。

私は、いままで、
そんなそんな ‘ どうでも良い事 ‘ に呪縛され、
その結果、
自分の一生を暗黒化した人間を多く見てきた。


目に見える 現象 ( 事実 )など、
笑い飛ばす程度のことに過ぎない。



で、納まることだ・・・・





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ヨハネ伝 に記された真実

2014-06-07 | 宗教
新約聖書 ヨハネ伝



ここに記されている事は、

一見すれば、非科学的な事ばかり。

だからと言って、その内容が 荒唐無稽なお話とは言えません。



・・・・・・・・・・・・ヨハネ伝 第1章1~15 節に記されたお話・・・・・・・・・・・

イエス・キリストの前に、5千人もの大勢の人が集まった。

彼らは、なかなかそこを立ち去ろうとはしない。

そのうち、その人々はお腹がすいて来た。

キリスト弟子が、パン売りの子供を見つけ出した。

でも、その パン売り はパンを5個しか持っていない。

そのとき、キリストは言った・・・

「 その5千人をそこに座らせなさい 」

キリストは5個のパンを取り、感謝の思いを捧げた。

そなあと、キリストは座っている人々全員にそのパンを分け与えた。

彼らが十分、食べたあと、

余ったパン集めた、

人々が食べたあと、パンは、まだ残っていた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

????? どうやって5個のパンを 5千人の人に分け与えたの ?????

????? 5個のパンを5千人で分けたあと、パンは余っていた ?????

こんなお話、支離滅裂すぎる・・・非科学的だ・・・・

だから・・事実ではない・・・


そんなふうに解釈したら、身もフタもありません。


このお話は、「 事実 」 を書いたものではなく、

「 真実 」 書いたお話なのです。



問い・・・ 「 事実 と 真実   ・・・ どう違う ??? 」

問い・・・・・  「 事実 = 真実 じゃないか!!! 」


事実  と 真実 は別物です・・・


事実 とは 目に見える世界 ( 現象 ・ 科学 )

真実 とは 目に見えない本質 ( 本当の姿 ・ 本質 )



科学的に観たら、こんなお話はあり得ません。

でも、このお話の背後にには、

真実 が秘められているのです。


事実 と 真実 を混同すると、いつかは限界がやって来ます。


これが、 科学の限界 と言うのでしょう・・・・


この世の中 ( 現象世界 ) には ‘ 事実 ‘ だけで語る事が出来ない

大きな背景 ‘ 真実 ‘( 目には見えない、本当の世界 ) があるからです。



ヨハネ伝 の物語は、 霊感 で書かれた記述です。


ここで、キリスト様が言いたかった 「 真実 」 とは・・・・

「 与えれば与えるほど、 増える 」 と云うことだと思います。

与えると、‘ 返って来る ‘   ‘ 集まって来る ‘  のではありません。

 「  増える  」 のです。


日本仏教の言葉に、

無一物中無尽蔵 
むいち もつ ちゅう むじんぞう 

という善語があります。


無一物 ・・・・ 何も持っていない ( 事実 )
 
無尽蔵 ・・・・ 富を無限に蓄えている。( 真実 )


無尽蔵 ( むじんぞう ) とは、
「 既に、持っている・・・内在している・・ 」 というニュアンスがあります。

‘ 返って来る ‘ のではなく、

既に持っているモノが 増える のです。




キリスト様が仰る事も、

大乗仏教が教える教義も、


「 真実の世界を語る 」 という意味に於いて、

目指す頂上は同じです。


  









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幸運を呼び込む意外な方法。

2014-06-06 | その他
いままで私が多くの人間を観察して来て気付いたこと。
耳の穴が汚い人は、頭の回転が悪い。
耳の穴が汚い人は、運が悪い
仕事中、ボーっとしている人・・・
反応が鈍が鈍い人・・・
頭の回転が鈍い人・・・
約束をすぐに忘れてしまう人・・・
マイペースで、まわりのペースを乱す人・・・・
やる気がなく全く役に立たない人・・・
機転が利かない人・・・・
極端に貧乏な人・・・・
時間にルーズな人・・・
いつも時計を持っていない人・・・・
何をやっても運が悪い人・・・

これらの人に共通する事、

耳の穴が汚い

私は、若い頃、多くの人の耳の穴を観察しました。

耳の穴に埃や、垢が付いている人は、かなりの高い確率で、
職場や集団のなかで、主力メンバーではない。

なぜかと言うと、
こういう人は、反応が鈍く、頭の回転が鈍い。

これは、私が数え切れない程の 人間 を観察し、
分析して来た経験から結論付けた事です。

どうして、こうなるのか?

私の仮説 ・ 1

自分の耳の穴も掃除できない人は、何をやってもダラシナイ。
その結果として、何をやらせても 
 鈍い ・ ドジ ・  いい加減  ・という性質になってしまう。


私の仮説・ 2

耳は脳に一番近い器官である。
その部分が汚いと、脳に何らかの悪影響を与える。


私の仮説 ・ 3

‘ 耳 ‘ は人間の体の中で、唯一 「 横 」に付いている。
これは 「 あらゆる方面から、多くを吸収しなさい 」 という
‘ 天の摂理 ‘ の具象化。
この重要な器官が穢れていると、その人の内面に悪影響を及ぼす。

私は、20年前、

これらの事象と仮説から、教訓を得ることができました。

常に 耳 を綺麗に保つべし。

風呂に入れない時も、耳だけは 洗え。

共同浴場で回りの人をよく観察すると、普通、誰しも、風呂に入れば顔は洗う。
でも、肝心な耳を洗う人はめったにいない。

このことに気付いて以来、
私は、風呂に入ると、かならず耳を徹底的に洗うよう習慣付ました。

シャワーを浴びる時、耳全体に石鹸をつけて洗います。

これを行うようになってから、私の脳味噌は、それ以前よりも性能がアップしました。
同時に、仕事の成績もアップし始めました。

こういうことがあって、

「 どうも最近ツイてないなぁ・・・ 」 

と言う人がいたら、

「 耳を洗いなさい 」 と言うようにしています。

不思議なことに・・・・

これを行うと、 頭が冴えて、気が上昇します。




















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太鼓仙人

2014-06-01 | 出来事


今日は、チョッとした訳があり、

●●公園 にやって来ました。


園内を歩いていると、どこからともなく心地よい太鼓の音色が、風にに乗って運ばれて来る。

心地よい音色に誘われて、音のする方向に歩いてゆくと

5人くらいの人が、テラスのような休憩所のベンチで太鼓の練習をしている御様子。



少し離れたところから、その様子を眺めていると、
太鼓軍団の中の、1人の男性と目が合った、

「 心地よい音色に誘われてやってきました・少し練習を見学させていただけますか ? 」

「  どうぞ・・どうぞ・・・ 」

いかにも好青年そうなイケメンのお兄さんが爽やかな笑顔で歓迎してくれた。

メンバーはイケメンのお兄さん1名

年配の男性1名、

若い女性 3名 、

どういう訳か、若い女性全員が美人だった・・・



このメンバーの中でも、リーダー格の年長の男性、何やら後光が射している・・・

ひょっとしたら、太鼓仙人では・・・・



メンバーのお姉さんが教えてくれた、やはり、このお方が、太鼓の師匠とのこと、

メンバー全員が同じリズムで太鼓を叩いているのですが、



このお方だけは、明らかに何かが違う。

私は太鼓に関する知識は全く無いのですが、

そんな私でも、他の若い衆との違いがハッキリ分かる。

素人目ではあるが、

太鼓仙人様の叩く手の動きをよく観察して思った事は、

太鼓を叩いたたあと、

手を戻す動作が、限りなく静かで、滑らか、

なるほど・・・と思った・・・・

太鼓の世界でも、やはり達人は手の動き一つとっても

 「 露骨でないたしなみ 」 を持っている。

これは長年、地道に修練を積み重ねてきた証のように感じる。


美人のお姉さん、

この方の背後にスター性が見えた。



もう1人の美人のお姉さん


この方の背後には、「 素直さ 」 が見えた。


メンバー全員、個性があり、なおかつ安定性を備えておみえになる。


最後に太鼓仙人様の、手のひらを拝見させて頂きました。



眼は、クチほどにものを言うと申しますが・・・・

この場合手のひらは、クチ以上にモノを言う・・・・
コメント
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