名古屋の白ウサギ・1964年生・

別名、ウサギ仙人・・職業・会社員

赤い色 は嫌いだが 赤い人は憎めない

2013-01-29 | 宗教
物理学は 行き着くところ 

「 時間は無い 」

ということを立証すだろう

時間は無い とは

今も、過去も、未来も 無い
という意味です


般若心経 の一節


ふしょうふめつ
不生不滅 ・ 生じたということもなく、滅したということもない

            
ふくふじょう
不垢不浄 ・ よごれたものでもない、浄らかなものでもない、

ふぞうふげん
不増不減 ・ 増えることもなく、減ることもない

ぜこくうちゅうむしき
是故空中無色 ・ 実体がないということの中には、形あるものはなく

むじゅそうぎょうしき
無受想行識 ・ 感覚も念想も意志も知識もない


むげんにびぜつしんに
無限耳鼻舌身意 ・ 眼・耳・鼻・舌・身体・心・といった感覚器官もない


むしきしょうこうみそくほう
無色声香味触法 ・ 形・音・香・味・触覚・心・に対する対象もない

むげんかいないしむいしきかい
無限界乃至無意識界 ・ それらを受けとめる、あらゆる分野もないのである


仏教の説く 空 の思想は
科学の終着点を示唆している

しかしながら、宗教と科学が手を結ぶことは不可能であると思う
永遠に並行線をたどるような気がする

それで良い と思う

それも、神の意思だと思う


それぞれがお互いの領域で切磋琢磨すれば良いと思う

ヘタに手を結ぼうとするなら
最終的には 戦争 になるだけだと思う

現象世界における 人間の行為の腐敗は
古今東西、洋の東西、宗教の有無、 を問わず

同じように起きる

金持ちであろうが、貧乏人であろうが、先生であろうが、

聖職者であろうが、信仰者であろうが、赤であろうが

緑 であろうが・・・・・・

人間の習性は 基本的にすべて同じである


私は今まで多くの人間観察をして来て
強く感じたことは

信心 と 人格は無関係

神仏を崇め、信仰心が強い人間と
神を否定して 一切の信仰を持たない人間を
比較するなら、この両者に
人格や、人望・人徳・資質・実績の
決定的な違いは 残念ながら見当たらない

私が嫌いな 赤い人 にも立派な人はたくさんいる

赤い色 は嫌いだが
赤い人 は憎めない

「 自分は徳を積んでいる」

などと、自慢げに 仰る 生半可な信仰者より
むしろ、好感が持てる

赤が腐って変色した 緑 はもっと嫌いだが
これも同様


無神論者の頭上にも、

信仰者の頭上にもにも、

同じように 神の英知 が輝いている


並行線であっても
並行である以上2、つの線は同じ方向を向いて進んでゆく

その2本の線が進む先は

宇宙の本源

宇宙の本源とは

神 であり 佛 であるはずだ

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羯帝羯帝波羅羯帝

2013-01-28 | 宗教
時間とは 生命の別名であると思う
もし、時間の流れが止まったら
「 自分が生きている 」
という事実が無くなる

生きているから年を取り
生きているからいつかは死ぬ
年を取らない人間がもしいたとしたら
その人にとっては 「 時間の流れ 」 がない

その人は即ち 生きていない ということになる

科学もこれから さらに大きな飛躍を遂げる日が来るだろう
量子力学 が究極の世界を解明するだろう

物理学は 行き着くところ 

「 時間は無い 」


ということを立証すだろう

時間は無い とは

今も、過去も、未来も 無い
という意味

時間という概念が虚像だとしたら
自分の生命 も虚像と言う事になってしまう

人間の生命は 幻 (まぼろし) なのか?

いや、そんなはずは断じてあり得ない

般若心経は  空 (くう) を説いている
一切の事物は 空  であり 何も無い 
という事を数々の視点から
凝縮された言葉で語っている

そのあと、最後に 意味不明の
呪文のような言葉が出てきて
最後を締めくくる


ぎゃていぎゃていはらぎゃてい
羯帝羯帝波羅羯帝

 
はらそうぎゃてい
波羅僧羯帝



これは、 「 あの世 」の言葉を
強い霊感の持ち主が聞き取って 文字にしたのだろうと思う

経典の訳としては

羯帝羯帝波羅羯帝  (往き往きて、彼岸に往き、)

波羅僧羯帝  (完全に彼岸に到達した者)

であるが

この言葉には、言葉に表す事のできない
霊力 が込められていると思う


私は この一節を勝手に こう解釈している


「  生きろ!!!  止まるな! 動け! 進め!

 歩くな!!  走れ!!  」 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 


「 生命 」とはなにか?

私が思うに

「 生命 」 とは 

 考え、そして動く事 

 自分以外の人のために 動くこと 


これが 生命 ではないだろうか

心臓が動いている事が 生命ではない


ならば

身体が不自由で人に介護されなければ生きてゆけないない人は
どうなる・・・

知能に障害があり、自分以外のひとのために動く事ができない人は
どうなる・・・・

そういう人は 生きている意味がないのか?


そんなハズは断じてない


健常者と同じ 生命の価値 がある

なぜか?

障害者が生きて行くには誰かがその手助けをしなければならない

その 手助けした人 は
「 あの世 」 見たら
得をした人 である

自分以外の人のために 考え動く機会を多く与えられた
特別な人間である

介護された人は 介護してくれた人に
生命を活かす 機会をより多く与えたことになる


「 この世 」の尺度でこの状態を見るなら

その両者の関係は不均衡である

介護される者は、一方的に与えられるだけで
自分以外の人に 与えたり 恩を返したりできない

でも、

「 あの世 」からみれば
不均衡ではない

介護されるひとは、そのことで誰かに「 生命を活かす場 」
を与えている

それだけで、両者は釣り合いが取れる


羯帝羯帝波羅羯帝  (往き往きて、彼岸に往き、)

波羅僧羯帝  (完全に彼岸に到達した者)

菩提   僧莎訶   (悟りそのものである)

般若心経  (知恵の完成についてのもっとも肝要経典)

  
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メンドクサイ事は先にやる

2013-01-26 | 思う事
メンドクサイ事は先にやる

「 時間を稼ぐ 」 ためには

これが重要に思える

私の知る限り、優秀な人間ほど
メンドクサイ事や厄介な事 があると
それを先にやってしまう

そういう人に共通して言える事は

「 忙しい 」

と言う言葉をめったに使わない

逆に、
いつも「 忙しい 」が口癖になっている人もいる

その人だけに偏って仕事が多いわけではないのに
どうして 忙しい を連発するのだろう・・・・

「 忙しい 」をよく発する人間ほど
仕事の効率が悪く
成績も悪いように感じられる

これは私の主観によるものなのか
それとも的を得たことなのか?

多くの人を観察した。

やはり、有能な人間ほ 「 忙しい 」 という言葉を発しない

能力が低い人ほど 「 忙しい 」 を頻繁にいう

なぜそうなるか?

さらに、深く観察してみると

有能な人間ほど、何事も前倒しにやる
( 先に出来る事を探して行動する )

有能な人間ほど、厄介なこと、メンドクサイ事 を先にやってしまう

その逆に

有能でない人間ほど、何事も 後回しする
( 常に、後で出来ること を探している )

有能でない人間 ほど、厄介なこと、メンドクサイ事 は後回しにする

即ち

「 前倒し 」 と 「 後回し 」を比較すると

前倒しのほうが仕事の効率が良いということ

何事も 前倒し しないと損をする

効率が良い ということは 
無駄な時間を使っていない

無駄な時間を使わなければ
自分がやるべき仕事が早く片付く

早く片付けば 焦る必要もない

焦らないから 「 忙しい 」 という言葉がでない

メンドクサイ事を先にやることは

 時間を稼ぐ (時間を得する) 事になる

即ち、生命を捨てない 事

生命を捨てなければ 60歳で死んでも

60歳以上の年まで生きた事になる

そのことに気づいて以来、生活習慣を変えるよう努力した

平凡 な自分が 非凡 になるには
優秀な人の 行動を観察して
それを マネル しか方法はない 


私は、風呂に入るのがメンドクサイ
だから、家に帰るとすぐに風呂に入る

歯を磨くのがメンドクサイ
だから、人の二倍の速さで歯を磨く

後片付けがメンドクサイ 
だから、後から片付けない 何かをやっているとき
終わる前に片付けながら、それを行う

家を出かける のがメンドクサイ
だから、一瞬にして家を出ることができるよう
万全の体制を常に整える

自分がやらなければいけない事で、
それが自分にとって、物凄く苦痛な事であれば
何をさておいても、まずそれを最優先にやってしまう

何かに追われていても「 忙しい 」 という言葉を発しない
「 忙しい 」と言う言葉は 恥 であると心得る


長年、そう言った事を 意識して自分に課してきた

後ろから追っかけ回されているような
ストレスを感じることもある
でも、

これが私の 「 修行 」 だと思っている
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時間を稼ぐ

2013-01-23 | こだわり
時間を稼ぐ

という言葉がある

この言葉は

他の事で時間を長びかせているうちに、他の事をを進める。

という意味の言葉である


駅で電車を待つ間、本を読んで時間を稼いだ

御飯の時間になるまで ゆっくり風呂に入って時間を稼いだ

通常、このような意味合いで使われる言葉であると思う


この他にも

試合終了の合図があるまで、相手に攻撃をさせないように時間を稼いだ


というように使われる事もある


私もこの言葉をよく使うが

この言葉は私の感覚としては

金を稼ぐ  と

まったく同じ意味でこの言葉を使っている

ひとが、10分かけてやっている事を
5分でやってしまったなら

5分稼いだ と感じて嬉しくなる

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

夜、家にいて誰かから電話が掛かって来て
急遽 出かけなければならない用事が出来たとする

普通の人なら、家を出ようと思ったあと
10分~15分位は時間を要するだろう

服を着て
サイフをポケットに入れ
車の鍵を持ち
携帯電話を取り出し
その他、必要なものをカバンに入れ

ゴッヤゴチァやっているうちに
10分、15分くらい あっという間に経過してしまう
へたをすると30分位時間を使ってしまうこともある

出かける と言う行為は それなりの用事があるから
出かけるのであり
時間の浪費 ではない

でも、

出発するまでの準備に要する時間は 時間の浪費 に思える

時間の浪費は
 時間を捨てること 
時間を捨てることは

生命を捨てること

バカバカしい

何か良い方法はないか?

あるときフト思いついた

戦争の時代を想定すればよい・・・・・

戦争のとき東京の住民は
いつ空襲があってもすぐに逃げられるよう
常に準備を整えていた
逃げ出すときに必要な最低限のモノをリュックや袋に入れ
それに備えていた

私もこれと同じことをすればよい・・・・・

私は出かけようと思い立ってから
3分以内で家を出ることが出来る

その3分とは 服を着る時間のみである

夜中だろうが、早朝だろうが、風呂に入っていようが、
御飯を食べていようが
どんな時も、3分以内で家を出ることができる



私は仕事から家に帰ると、サイフや携帯電話、 家の鍵、タバコ、
など、持っていたモノをすべてを このリュックに入れる

絶対に机の上に置いたり、壁に引っ掛けたり
引き出しに入れたりはしない

それは、いつ如何なるときも
徹底している

災害時も想定してこのリュックには小型のLED照明機も入れてある

以前は、
パラシュート用の細くて軽量なロープも忍ばせていた
このロープ 直径2~3ミリの細いものだが
約80kの重量に耐えることができるツワモノである

イザというとき
これで命が助かるかもしれない
人の命を救うことができるかもしれない・・・

そう思っていつも忍ばせて置いたのだが

ここまでやると 被害妄想壁があるようで
異常な人間 と思われかねない

今は、入れていない

もし、急に出かける用事ができたら
このリユックを持って家を飛び出すだけ
あれがない、これがない 、などと探し物をする必要や
煩わしさがない

何も考えず、ただリュックを持って家を出ればよい

行き先がリュックで出かけるのが不適切な場所の場合
リュックの中身をそっくり他のカバンに移すか
ポケットに移すかするだけ

何も考えなくても良い
ただ移し変えるだけ

忘れ物をする可能性はまったく無い

時間のロスがまるで無く
実に痛快である

わたしはこの方法で また一つ 

時間を稼いでいる


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時は生命なり

2013-01-22 | こだわり
時は金なり

と言う言葉がある

時間はお金と同じように大きな価値がある。
無駄にしてはいけない。

無駄な時間を浪費することは
愚かである

でも、

この言葉、少々物足りなさを感じる

時間の大切さを お金 に例えている

確かに、お金は大切で 尊いものであるが
それ以上に大切な 尊いものがある

それは 生命

時は生命なり

と言ったほうが適切であると思う

生きて行く上で お金 以上に大切なものは 時間 であると思う

時間の使い方で 人の値打ち が決まってくるとおもう

時間を無駄に使ってはいけない
という意識を常にもっている
それは、意識と言うよりも、
脅迫概念に近いほどの強烈な情念であるかもしれない

テレビはほとんど見ない
ギャンブルは一切やらない
モスバーガーでハンバーガーを買わない
ゆっくり歩かない

なぜかというと 時間の無駄 だから

そんな事で生命(時間)を使いたくない

時間の浪費を減らせば
その分 他のもっと有意義なことに
生命を使う事ができる

ジッと何かを考えたり
人の話を聞いたり
目的をもって人と対話したり
本を読んだり
仕事をしたり
人間を観察したり
モーツアルトを聴いたり
美味しいものをゆっくり食べたり

有意義な使い方はいくらでもある

時間に対して貪欲であるべきだと思う

だけど、人間いつかは 死ぬ私は96歳まで生きる予定だが

実際に96歳まで生きる保証は無いそれは、神のみぞ知ることであり

こればかりは自分の意思や努力ではどうにもならい事である

96歳まで生きると言っておきながら、
60歳でポックリ行ってしまうかもしれない

生まれながらにして決まっている宿命があるとすれば
自分の意思で長生きする事はできない

仮に、私が60歳で死ぬ という変える事のできない
宿命をもっていたとする・・・・・

絶対に変える事が出来ないのだから
当然それ以上 長生きする事はできない

何とかならないか?

何かいい方法はないか?

決定的な秘策を私は発見した

それは誰でも出来る、確実な方法である

人間が生活して行く上で、毎日10分かけてやっていることを
5分でやってしまえばよい

1日   5分
7日で  35分
1年で  30時間
10年で 5日間

本来なら捨てていた時間が減る事になる

即ち、60歳で死んだとしても

10年間これを続けていれば

実は60年と5日生きた事になる
何も考えず、ノンベンダラリンとやっていたら
60年の時間はそのままの60年でしかない

本来なら 捨てていた時間を もっと有意義な 別の事に使えば
その分、長生きした事になる
その反対に、
時間を捨てる事は、生命を捨てることになる

男ならほとんどの人が 毎日 髭を剃る

毎朝、鏡に向かって長い時間
髭剃り機を顔に押し当てているといらだって来る。

時間の無駄だ・・・・

いつもそう思うのだが髭を剃らない訳にはゆかない

何とか この無駄な時間を半分に減らす方法はないか?

10年くらい前のある日、閃いた
ひょっとするとこれは 天の声 だったのかも知れない



両手に髭剃り機を持って、両手で髭剃りをすれば
時間が二分の一に短縮できる!!!!

早速、シェーバーをもう一台購入した
それ以来、毎日 両手にシェーバーを持ち
両頬に押し当てて髭を剃っている
時間は二分の一に短縮できた

痛快である

さらに欲が出てきた・・・・

歯を磨く時間が無駄だ・・・

何とかならないか・・・・

閃いた!!!!



両手で歯を磨けばよい

これも 天の声 に思える

早速始めた

でも、今度はそう簡単には行かない

両手に歯ブラシを持ち、同時に2本の歯ブラシを
口に押し込んで、
左右効率よく動かすのは非常に難しい

右手にばかり意識が行ってしまって
左手があまり動いていない

「 やって出来ない事もある  やらずに出来る訳がない 」

これが私のスローガン  やるしかない

毎日、必死になって両方の歯ブラシを同じように
同時に動かす練習を続けた

約、2週間後 訓練の成果が現れ始めた

3週間後には 完全に 二刀流 を会得するに至る

それ以来、私は毎朝、両手で歯を磨くようになった

これで10年間が 10年と10日になった

これを30年間続けたら、1ヶ月の時間のロスを削減できる
事になる

これだけで、寿命より 1ヶ月長生きしたと 同じ事になる

私の 時間 ( 生命 )に対する
貪欲なまでの執念は
さらにエスカレートする事になる

これ以外にも数々の 挑戦 が始まる事になる


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善人 ほど犯罪を犯す?

2013-01-17 | 思う事
三島由紀夫 曰く

本当の悪党は犯罪を犯さない

善人 ほど犯罪を犯す

・・・・・・・・・・・・

善人 ほど犯罪を犯す?

よくよく考えてみれば
確かにそれもうなずける


犯罪を犯せばいつかは掴まる

本当の悪人は、リスクを避ける
リスクをおかしてまで悪い事をしない

純粋な人間

善人 ほど犯罪を犯しやすい

私の今までの経験を振り帰ってみると
悪いヤツ が犯罪を犯して掴まったり
身を崩したりしたという実例はあまりない

そういう連中は、悪事が暴露され
罪を問われたりしても、
致命傷とらない範囲を見極めている

それを、本能的に察知していて
 微妙なところでコントロールしている


善 悪 とは結果論であり
その背景には計り知れぬ隠れた要因が潜んでいる

罪を犯さない 本当の悪人 と
罪を犯す 純粋な 善人 

両者を比較するなら、
どちらのほうが 「 あの世 」 の尺度でみて
罪深いのだろうか?

これは昔、 私と同じ職場で働いていた
中島紀香さんという美人から聞いた話であるが・・・・

ある、ホワイトカラーの男性会社員がいた
彼は物凄く真面目で、一本気で、几帳面な青年だった
同じ事務所で働く女子社員が時々、冗談を言って
笑ったりすると、
「 〇〇 さん!! 仕事中に歯をみせないでください!! 」
と真剣な顔で注意した
それは、彼の仕事に対する責任感から来る 正義感 だったのだろう

こういう人間は、協調性や柔軟性はないが
律儀 (りちぎ) で堅実で 正義感が異常に強い人間であると思う

しかしながら、この男 最後は犯罪を犯して
解雇 となる

彼は、多額の会社経費を横領したのだ

といっても、その金は飲み食いに使ったり、
ギャンブルにつぎ込んだ訳ではない

彼は、知人の借金の 連帯保証人 になっていた
その知人が返済不能 となった

義務感の強い彼は困り果てた末
その、返済にために会社の金を横領したのだ

これは、律儀で真面目な人間ほど陥りやすい落とし穴である
義務感の強い、真面目な人間ほど
リスクを考えずに 不正 を行ってしまう

彼が本当の悪党なら
そんな割の合わないことはせず
他人を犠牲にしてでも、自分にリスクのない
方法を考えるだろう

でも、
法律的に見て、彼は罪を犯したことは確かであり
当然、法律で罰せられるべきである

法律や制度とは別の観点
「 あの世 の尺度 」からみたら

彼は、果たして 善人 なのか ?

悪人 なのか ?

「 心は、善人だが 行為は悪人 」
であると思う

心は あの世 (神の世界) の管轄

行為は この世 (物質の世界) の管轄

表裏一体であるこの2つの要素が
チグハグになっている

これ即ち

 気の毒ななひと


ならば・・・・


「 心は 悪人 ・ 行為は 善人 」

のひと、 ( 即ち、三島由紀夫の言うところの ほんとうの悪人 )は

どいいう位置づけなのか?

私がおもうに、 

最高に不幸なひと


親鸞聖人 が言われた

「 善人より、悪人のほうが救われる 」

とは、こういうことではなかろうかと私は勝手に解釈している


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「 あの世 」の尺度

2013-01-16 | 宗教
人間の感覚で捉える 善 悪 とは
実に曖昧な、虚しい虚像にすぎない

悪業(あくごう)も、 本質的には存在しない

善業 も、本質的には存在しない

人間が感じることの出来る  
「 この世 」
の尺度で善悪を論じても本質は見えてこない

もし、仮に敵国が日本に上陸して来て、
自分の家に押し入って来たとする
自分の目の前で子供が
殺されそうな状態となった

〇永〇○ のような人なら
「 攻めてきたら殺られればいいじゃないか 」
と言って
自分だけ逃げ出すだろうが

普通の親ならまず子供をかばう
同時に自分の身も守ろうとする
もし、それでもダメなら反撃する

即ち、殺すか殺されるかの状態である
反撃した結果、相手を殺してしまったとする
これは、「 あの世 」の尺度で見て
罪なのか 正当な行為なのか
善なのか 悪なのか

私が思うに

善でも 悪でも ない

先に述べた「善も悪もない」とはこういう意味で言っている事です
決して、何をしても良いという意味ではありません


でも、当事者は 罪の意識を感じるだろう
自分と子供の身を守る為に反撃したのだが
結果的に相手を殺してしまったと言う事実を
生涯背負わなければならない
罪の意識 という十字架を背負って生きてゆかなければならない

戦いは嫌だ、争いは嫌だ と言って自分だけ逃げる人間と、
本能的に、自分の子供をかばう人間と

どちらが上等な人間なのであろうか?

神様の尺度 仏様の尺度 

「 あの世 」の尺度

をもって見極めるしか方法が無い
ならば、「あの世」の基準をどうやって知ればよいか?

残念ながら、神や仏は人間に直接言葉を語る事はない
世の中には、神仏の声が聞こえると言う人もいる

でも、その人が もし仮に 神仏声を聞くことが出来たとしても
その神仏が 本当の神仏である保証は無い
ひょっとすると悪霊の声かもしれない
自分の 潜在意識 の声かもしれない

神のメッセージをもし聞き取る事が出来たとしても
その真贋を見極めることは不可能である

かつて、オーム真理教は 仏教 の名のもとに
残虐な無差別テロを行った

彼らにしてみれば それは 悪 ではく
世の為、人のため と大真面目に信じ
善業 のつもりでやった事である

彼らは オカシな教義を根拠に 無差別テロ を行った 
このことが「 神の意思、仏の意思 」 
と信じていたのだろう
宗教の最大の危険性とは
神 仏を 持ち出せば どんな事も正当化されてしまう
と言う事ではなかろうか

それ故、宗教は 諸刃の剣 であると感じる
宗教家は、無宗教の人間以上に
宗教の危険性を十分認識し
警戒する必要があると思う

私は、 神を信じ 仏を信じる

それ故、無神論者以上に
宗教に対する 疑念 を持ち続ける義務があると思っている




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評論家になったらおしまいだ 

2013-01-15 | 思う事
私は、これまで多くの 厄介事 に
ボランテァで首を突っ込んで来た。

当然の事ながら
動けば動いた分 だけリスクが生じる
リスクを避ける唯一の方法は
動かない事
ジッとしていれば 向こう傷 を負ったり
返り血を浴びたりする心配は無い
だけど・・・・
それでは自分が生きている実感が沸かない

どんな人間でも、自分が生きている実感が欲しい

ならば、動かない人間は何をもって 生きている実感を得るのだろう?

たぶん、その多くは、
 
「 批判的人間観察 」

ではなかろうか・・・

自ら動かない人間ほど
他人のすることを批判したり、
冷ややかな目で見る傾向が強いように
感じる

自らが積極的な行動をしないクセに
積極的に動く人間に対し
つねに、冷ややかな視線で 論評 する輩がいる
こういうのを わたしは「 評論家 」 と呼ぶ

立派な、論評 をすることによって
優越感に浸っているように思う

こういう人にとっては 「 評論 」 が
自分が生きていることの 証し であり
実感であるのだろう

私は、常々、自分に言い聞かせている

「 評論家になったらおしまいだ 」 と

そう思って行動すると

必然的に
失敗の絶対数が増える
返り血を浴びる機会が増える
あとで、反省したりする事が増える
自分で気づいていない、罪 を犯してしまう危険性がある

積極的に動いたが故に犯した 罪 は
果たして、悪業 なのか?

このへんは 簡単そうで難しい問題であると思う

突き詰めて考えてゆくなら、

結局のところ

人間の尺度で 善 悪 を測ることはできない
人間的尺度でいう 善 悪 とは
虚像に過ぎない

それ故、本質的には 悪業、悪因縁など 存在しない
その反対に
徳を積む などと言う言葉も 曖昧すぎて
単なる自己満足に思えてならない

徳を積んでも 何も見返りはない
それでも、自分の良心に従い
一歩前に出る

謙虚な気持ちで、
神仏の方向を見つめ
神仏に向かって自問自答し

自分が 「 良し 」 とした事を
継続する事が
人間の務めではなかろうか

それは、ある意味 「 無意味 」
な事である

無意味な事を徹底的に行う事が出来る者の前には
最終的に大きな 有意義 が現れると信じる


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大発見 寿司の蘇生術

2013-01-03 | グルメ 


夕方 スーパーに行くと寿司が値引されて販売されている
私は、寿司が食べたいときはあえて
18時以降に買い物に出かける
運が良ければ50%値引きでゲットする事ができる

昨日、
この寿司を目当てにスーパーに出かけた

18時に店に入ると
20%引 のシールが張られていた
買おうか 止めようか......

寿司売り場の店員さんが
売り場に出きた、
その店員さんは何もせず
売り場の様子を見ている

私は、店員さんの顔つきと、表情をジッと観察した
店員さんの顔には
20分後に30%引きのシールを貼る
と書いてあった

20分待つ事を決意

店内をブラブラして20分の時間を潰す

18時20分 ジャスト
再び寿司売り場に行ってみた

私の予言は的中した
18時20分ジャストに
店員さんは 30%引 のシールを張り始めた

こういう 予知能力 は生きて行く上で
重要な要素であると思う

言い知れぬ優越感が込みあげてくる

あと30分待てば50%引きになりそうな気配も感じた

30分時間を潰せば良いのだが
物凄くお腹が減ってい
これ以上は待てない
これ以上待つ忍耐力と精神力と執念は
今の私にはない
まだまだ修行が足りないようだ

結局 30%引 でゲット

ただ、この方法は一つ欠点がある

寿司は、握ってから時間が経てば経つ程
まずくなる
握りたての寿司は御飯がフワッとしていて
口に入れたとき 固まっている御飯が
口のなかで 適度な加減で崩れる

握ってから長い時間が経過した寿司は
御飯が団子のように固まってくる
こうなると、どうしても食べたときの
味は劣化する
寿司は、団子でもなく、おにぎり でもない
非常にデリケートな食べ物である

即ち 時間が経つ程 寿司 としての値打ちが落ちる
と言う事

30%引 50%引 で買った 寿司は 握ってから
4~6時間は経過している
必然的に味が落ちている

この寿司を 蘇生させ 美味しくする方法はないか?

私は試行錯誤を繰り返した

そして、3年程まえ ついに ある画期的な蘇生術を発見した

これは秘密にしておきたい技法ではありますが

公表します



寿司を電子レンジに入れる

時間は、寿司1個に対して 2.5秒

10個入りの寿司パックなら 25秒ということ

ただ、電子レンジは加熱箇所にムラがある
その為、10秒おきに電子レンジを一時停止させ
ターンテーブルの上に載せた皿の場所や向きを変える

これで、固まってしまった寿司の御飯が フンワリする


この方法のは寿司を温めるのが目的ではない
ホンの少し、寿司の御飯を電磁波で刺激してやるのが目的

寿司には、当然 ネタ が乗っている
焼アナゴや、茹で海老 なら電子レンジに入れても違和感がないが
マグロ や ハマチ などの 生もの も一緒にレンジに入れてしまう
となると そんな事して大丈夫?
と思えるかも知れません

ご安心ください、加熱し過ぎたらもちろんいけませんが
寿司1個に対して 2~3秒 位の加熱では
刺身の味は劣化しません
ただ、注意すべき事は 蘇生術を施した寿司は
すぐに食べてください
蘇生術を施した後 放置すると刺身の鮮度が かなり劣化します

一番理想的な方法としては
寿司の上から ネタを剥がして御飯だけの状態にしておいて
御飯 だけレンジに入れる( 1個あたり4秒 )
そのあと、ネタをもとの位置に戻す

これをやれば完璧です

私は 初めの頃はこの方法を取っていましたが
あまりにもメンドクサイので
この方法は止めました

御飯だけで言うなら
1個あたり 4秒が 最も理想的です

ネタを乗せたままの場合、ネタの鮮度劣化と
御飯の蘇生という 矛盾が生じます
この条件にたいして
もっともバランスが良い加熱時間は 1個2.5秒 
という結論に達しました

電子レンジの加熱能力は
機種によって様々です
私の場合は1個2.5秒 ですが
出力の高い機種をお使いなら
1個2秒でいいかもしれません
そのへんは加減を見ながらやってください


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株価は上がる

2013-01-02 | 金融
昔は10万円の定期預金や
郵便局の定額預金を持っていれば
10年後には金利が付いて
20万円になった

超低金利の時代 貯金をしても金持ちに
なることはできない

年利0.02%で計算すると
10万円を 20万円にするには
360年かかる

日本経済をおそった デフレ も
そろそろ風向きがかわり
徐々に インフレ 傾向となる雰囲気

インフレ とは お金の価値が下がる と言うこと
いま、持っている10万円の現金は
10年後には5万円の価値になってしまう
ということも有りうる

高度経済成長の時代は
汗水流してコツコツ働き
地道に貯蓄すれば
必ずその成果は現れた

でも、これからの時代はそんな訳には行かない

現在の若い人が気の毒である

最近の若者は
非常に優秀だと思う
なかにはヘンなのもいることは確かであるが
全般的にみて 自分を含めて私が20代だった頃の若者と
今の若者を比較すると
かなり進化していると思える事が多くある

にも関わらず いい大学を出てもマトモな就職先がなく

低賃金で福利厚生もない不利な労働条件
そんな環境のなかで
 多くの若者が
泣き言を言わず、明るく生きている

若い者 を見習って
泣き言 を言わないようにしなければいけないと
つくづく思う

悲しいことに、これからの時代、
貧富の格差 が急激に進むだろう

残念ながら、文明社会は 競争社会
ボーッとしていると
徹底的な 貧乏 となってしまう

中間層 という言葉も消えるだろう
富裕層と 貧困層 2つに1つ
ということになる

文明社会を捨てて、山奥や孤島に行って
自給自足の生活ができる人なら
その道をゆくのが幸せなのかもしれない
でも、
そんなことが実際に出来る人はごくごく希な
存在である

いやがおうでも 現在の文明の歯車のなかで
生き延びていかなければならない

個人レベルで自己防衛する唯一の方法は
貯蓄ではなく
投資 以外 有効な方法は考えられない

よく働き
地道に金を貯め
その一部を 貯金ではなく
投資 して自分で運用するしか手立てがないと思える

貨幣の価値が下がれば
株価は上がる

貧富の差が大きくなるということは即ち
企業はさらに収益を上げるということ
企業が業績を上げれば株価が上がる

債権がダメになれば、資金は行き場を失う
行き場を失った資金は
株式市場に流れ込む

原子力発電
風力発電
シエールガス
その他新エネルギー

如何なる方法においても
それをエネルギーに変え
そのエネルギーを効率よく応用する
技術が必要

その技術と実力を持つのは
日本である

地道な研究や努力をせず
勢いに乗って
いい気になっている隣国は
そろそろボロが出始める

トヨタは20年もまえから地道に
新しいエネルギー活用(ハイブリット)を研究していた
トヨタに限らず 日本の多くの企業は

 今日の勤めに田草を取ってきた

日本人と 日本企業の根底には
二宮尊徳 の精神がある 

これから、その成果が一気に吹き出す

株価低迷が長く続いたが
いまその流れは変わろうとしている

イザ、出陣だ!!!


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2013年 第一幕が開く

2013-01-01 | 金融




大量に供給されたものは 必ず値崩れする

絶対に安全  絶対に儲かる ということは有り得ない
有り得ない事を信じる者はいつか必ずコケる


これが経済の絶対原則であると思う
難しい理論や説明は苦手な私ではありますが
この単純な原則は十分理解しているつもりです

大量に供給されていもの とはなにか?

それは

 国債

国債の発行残高は、国の税収の20年分に匹敵
するはどの額に迫っている

異常な状態であることは
無学な私にも感覚的にわかる

債権の値崩れが始まったら
一番 大きなダメージを受けるのは誰か
それを大量に保有する 銀行 信金 郵貯 生保 年金

そういう状態になったとき
金の流れは大きく変わる

金の性質 は臆病でシタタカ
危険を察知すると一目散に逃げ出す

30年ほど続いた 債権神話 はまもなく崩れ始めるであろう
そして、その資金は必然的に
 株式 
に流れ込む

もちろん、資金の流れが大きく変わるとき
混乱は起きるだろう

だが、最終的には 株式 に流れ込む
2013年はそのシナリオの第一幕が開かれる年であると思っている

ピンチはチャンス
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