名古屋の白ウサギ・1964年生・

別名、ウサギ仙人・・職業・会社員

パン食の王道

2014-10-29 | グルメ 

スライスしたフランスパン

オリーブ油にモンゴル岩塩を一つまみ・・・
バターにヒマラヤ岩塩を少々・・・

この、シンプルにして、ゴージャスな調味料を
パンに浸しながら食する。

これ、バン食の王道、パン食の極致、

美味しすぎて涙が出る。

更に贅沢を言えば・・・・ドイツワイン

これが揃えば極楽浄土。

私が 「フランスパン」 と言うと、
10歳、年下の妻が必ず怒る。

「 バゲットだってば!!! 」

私が子供の頃は
 
‘ バゲット ‘ などという食品名は存在しなかった。

頭がカチカチな私には、
「 バゲット 」 と言われてもピンと来ない。

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バカになるのも簡単ではない。

2014-10-25 | 思う事


人との関わりあいにおいて、
やはり、相性の好い悪いはあります。
「 あの人は表面では善い人そうに見えるが、チョッと警戒したほうがいい 」
と普段感じている人がいたとします。

その予感は的中して、
このひとが影で自分の足を引っ張るような事を画策している事が
わかったとします。

この場合、「 やっぱりネー 」と思うだけで、
それほどビックリもしないし、腹も立ちません。

それとは反対に、
「 あの人は裏表がない人だから、絶対的に信頼できる人だ 」
と思っていろいろ面倒を見たりして、愛情をもって接していた人がいたとします。
その思いとは裏腹に、
実は、その人は、見えないところで自分に対して、悪意を持った画策をしていたことが
判明したとします。

この場合、驚き、動揺する。
そのとき、今までその人に向けられていた好意は強い怒りと怨念に変貌する。
 クッソー ・・・ あのヤロー!!! 恩を仇で返す気か・・・許さん!!! 
これが、はじめからさほど期待を寄せていなかった人間や、
まったく意識していなかった人間
ならさほどビックリもしないだろうし、腹も立たない。
これは信頼を裏切られたが故の憎しみではないだろうか。

これはどういう事だろう・・・
「 愛情の裏側は 憎しみ 」 なのか?
「 信頼の裏側は、失望 」 なのか?

初めから愛情や信頼などもってさえいなければ、
これほど強い憎しみなど生まれないはずだ。

信頼さえしなければ、 失望 などしないということだ。

ならば・・・ 愛情や信頼など人間が作り出した虚像であり、
それに大きな価値などない事になってしまう。

愛情とか、信頼とかは、絶対的なものではなく
時と、場所と、人、の三相応に於いて、
いとも簡単にひっくり返ってしまう茶番劇という事になってしまう。 

だから、どんな場合でも、他人を絶対に信用してはいけない。
常に警戒すべし。
果たして、こういう考え方がもっとも賢い考え方なのだろうか?

もし、こういう考え方で生涯を貫いたなら、
傷を負う事もないかわりに、大きなものを得る事もありえない。

私は思う。
人を信じると云う事は、これ即ち
覚悟
信じるとは、覚悟するという事に他ならない。
いったん覚悟したからには、その結果に失望したり落胆しているような
醜態をさらしてはいけない。
「 これでイイのだ・・・・ 」 と笑い飛ばすだけだ。
ならば、「覚悟」とは何か?
覚悟とはバカになる事

ただし、生半可な気持ちではバカになりきる事ができない。
バカになりきるためには、
それ相応の知識と、深い洞察と、思慮と、道理の見極めがなくてはならない。

かつて、日本を震撼させた宗教団体 〇ームの凶悪事件は、 
教祖 麻Hを絶対的に信用する多くの信者によって引き起こされた事件である。

当時、テレビの報道番組を見ていて面白い光景を目にした。
報道番組の記者が街頭で、通行人にインタビューをしている光景だった。
大阪の繁華街を肩をいイカらせて歩いている、見るからにその筋の方と
わかる、中年の恐い顔をした人にインタビューするシーンだった。

記者 ・・・・「 一連のオーム事件についてどう思いますか 」

恐い人 ・・・・「 信者達が、麻〇に惚れ込んだなら、
それはそれでよい、それは大事な事だ。
そんなこと、とやかく言っちゃーいけない。
でも、ヤク(麻薬)はやったらアカン、それだけは許されへん 」

なるほど・・・と思った。
この恐い顔をしているお方の言いたい事はよく分かったような気がした。

〇ームは、麻薬を密造し、それを気付かれないように信者に投与していた。
薬物を使って多くの殺人を行った。
サリンで無差別テロを行った。
これは、やってはいけないこと。

ヤクザ屋さんの世界にも、それ相応の自主規制をもってやっている人がいるということだ。

〇ームの信者は、麻〇を信じ、バカになってそれに従った。
でも、そのバカになる判断を間違った。

これ即ち、 バカになって良いか、悪いかの 
道理としての見極めを間違ったということだ。

人間、最終的にはバカにならなければ何も出来ない。
でも、バカになるには「 道理の見極め 」が不可欠である。

その「 道理 」とは、
自分の親や兄弟、を悲しませるような事はしてはいけないという事。
自分の先祖が悲しむような事はしてはいけないという事。
殺してはいけないということ。
自分勝手な都合で、薬物などの武器を使って、
人の人格を支配したり、生命を支配してはいけないという事。


自分の信じる人の行動や思想が、
如何に立派なことであったとしても、
惚れ込んでしまったとしても、
その人がもし、このような、人間としての道理をわきまえていない人間ならば、
信頼してはいけない。
こういう人に対しては、バカになって信じてはいけない。

バカになるのも簡単ではない。
何に対して、バカを極めるか?
これが自分に課せられた最大の課題である。

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宇治神社 

2014-10-19 | 出来事
京都府・宇治市




宇治神社参拝


宇治という地名の起源は、ウサギからきているそうです。
いままで宇治には数回来た事がありますが、最近、大熊氏から教えて頂いて始めて知りました。








ウサギのおみくじ・・・カワイイ!!!


いままで一度もおみくじを引いたことのない私ですが、
ウサギに縁がある私としては、ここで素通りする訳には行きません。


生まれて始めてのおみくじ、吉とでるか? 凶とでるか?
おみくじはウサギのお腹の中に入っている様相、


「 末吉 」 だった・・・
末吉ってどんな意味?  「吉の一番低いランク」と言う意味なのか? 
よく意味がわかりませんが、吉であることは確かのような気がします。
これでイイのだ・・・ 


今回、宇治を訪れた目的は、
「 社団法人・ いのちを守る親の会 」の、
大熊良樹理事長にお会いするためです。




大熊理事長いわく・・・・
自分の中の良心を晦ませて
 欺き誤魔化すこと事ほど
人間として、ぶざまで、
貧しく恥ずかしいことはありません。

人間は神の分身である。自分を裏切ってはいけない。
  人を照らす明るい生き方をしなければならない。


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ウサギがつぶやいた・・・

2014-10-17 | その他
ウサギがつぶやいた・・・

他者の評価は誤るであろう。
他者があなたを賞賛しようとも、
また、仮に否定しようとも、
それは、どちらも真実ではない。

まわりの人間はあなたのことを

あるときは善人として持ち上げ、
あるときは悪人に引きずり降ろす。

真実は、「自分の魂」が、「自分の行い」を知った時、
のみに「絶対的な価値」を生み出す。

自分の在るべき姿は、自分の魂のみが知り得る。

内在神(自分の内に宿る神)の声に耳を傾けるべし。
内在神の声のみを恐れ、それに従え。

さすれば、現実に見る如何なる苦難も、障害も、
恐れるに足らず。

このとき、自己に宿る 内在神と、父母の心。
先祖の暖かい眼差しを感じるであろう。
この暖かい眼差しは、
風となり、光となって自分を包む。
このとき、
すべての因縁を超越する。
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The Great Gig in the Sky

2014-10-14 | 音楽


『 虚空のスキャット 』
 The Great Gig In The Sky 

ピンク・フロイド のアルバム「狂気」
に収録されている曲です。
曲の作者は、キーボードのリチャード・ライト

この曲の歌詞は、
♪ ・・あー あー あー ああー あーあーあー
あー あー あー あー あー あー ・・・♪

意味不明だが、意味のないところに 意味がある。

前奏のあと
女性ボーカルが圧倒的な歌唱力と、
独特の節回しで  「 あーあー 」 と歌い出す。

ヴォーカル女性の名前は
クレア・トリー(Clare Torry)

彼女の、「 ♪ あー あー あー 」 は、タダの 「 あー 」
ではない。

身震いする程の「 あー 」である。
まるで、魂の叫びのようだ。

「 あ 」の音霊 ( 音に宿る霊 )が伝わって来る。

何度も発する 「 あー 」のなかで、
数回 「あー」に コブシ  が入るヶ所がある。
( これをコブシと呼んでいいのか分かりませんが・・・ )

その時、クレア・トリーは下顎を小刻みに振動させている。
恐るべき高等テクニックだ。
下顎の振動を音の揺らぎに変えている。

彼女の下顎が小刻みな振動を発した瞬間、
私は、頭のてっぺんからジーンと来て、 
耳の穴から炎が出ているような感覚に襲われる。

もし、彼女が私の目の前に現われて、私のために 「♪ あー あー 」
を奏でてくれたら、
そのとき、私は失神してしまうだろう。
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終末論??

2014-10-08 | 思う事


これまで、長きに渡り株価の低迷が続いた
終末論 のかたがたは
「 ほら 見たことか・・・」
と思ってみえたのではなかろうか。
世界大恐慌がはじまる
株は紙切れになる
世界経済、世界情勢 は混乱の度を加速させ
メチャメチャになる。

その時、あたらしい価値観が芽生え
現在の価値観は通用しなくなる・・・・

こういった論調の考え方は 
遠い昔から定期的に何度も言われているお話であり
今になって出てきた考え方ではない

今までの歴史の中でその時代の水準に応じた 
終末論が幾たびか繰り広げられてきた。

現在の先進国主導の世界経済は大きな
矛盾と弊害があることは確かである
しかし、
矛盾や、弊害がまったくない社会やシステムなど
この世には存在しない

創造的破壊 いい言葉だと思う。

しかし、

創造的破壊 とは現行のシステム全体を
闇雲に壊す事ではない。

長い時間を費やして築いてきたモノを
頭から否定するものでもない。

現代文明は永い人類の歴史のなかで試行錯誤を繰り返し、
培ってきた「 人類の英知の集大成  」であると思う。

「 競争や対立がない世界がいつかは実現する・・」 と
漠然とではあるが 大真面目に思っておみえの人は、
文明に対して悪魔的イメージをもって
おみえのような気がする。

産業構造 市場経済 金融システム  
など、現在機能する大規模なシステムは、
人間の欲望と 対立 搾取 の象徴であり、
自然の原理と対立する 
人間の愚かさが築いた虚像であるかの如く
冷笑する 知識人 も多く存在する。

競争 があれば 対立 も起きる。
人類がこの地球上に存在するかぎり、
競争と対立は絶対に無くならない。


そういった 基本的な大前提を十分踏まえたうえで
その先、どうあるべきか、どうすべきかを、
突き詰めて考える必要がある。

それに指針を与えるのが、宗教
ではないだろうか。
 
縄文、弥生時代の遺跡から発掘される人骨を良く調べると
左側の頭部が砕けた人骨がよくみつかる
なぜか・・・
右手で武器を持ち相手を殴ると、
相手の左側面に当たるからである。
すなわち、縄文、弥生の時代から抗争や対立、戦争はあった。

縄文、弥生時代には 
貨幣などない貨幣が無くても争いは起きた。

それは、縄張りであったり・・・
食料確保の利権だったり・・・
色恋沙汰だったり・・・

文明社会をもたない彼らでさえ、
対立、闘争、戦争 は避けられなかった。

対立、戦争 を 文明のせいにするのはオカシイ。
経済のせいにするのはオカシイ。

「 国があるから戦争が起きるのだ 」
といった人がいた
ならば、国が無くなれば戦争はなくなるのか?
無くならない
国が無くなれば争いはさらに増えるだろう。

あちらこちらで親分が現れ規律も秩序もない、
泥沼合戦のような状態が世界規模でおきるだろう。

無秩序な争いは、
いままで人類が培ってきた技術や文化を破壊するだけで
新しいモノを創造する事は無い。

愛国心があるから戦争が起きると誰かがいった。

縄文、弥生時代に「 国 」 はまだ誕生していなかった。
そんな時代でも
集落の周りに堀を作ったり敵を寄せ付けない為の
柵や見張り台が設置されたいた。

人間は一人では生活できない。
古今東西、どんな時代も人間は必ず集落をつくり
寄り添って生活してきた。

一人で生活する 仙人 のような特殊な人もいるだろうが
そういう人は、例外的な人間である。

こういった 人間の特性 は絶対に変わることはない。

国が無くなれば、秩序がなくなるだけであり、
無秩序な争いが増えるだけである。

世界中、どの国の人間も自国に対する
愛国心をもつことが最善の状態であるとおもう。

愛国心 が戦争を起こすのではなく、

人間の 業 (ごう)が戦争を起こす

自分の生まれた国が好きになれないというのなら、
それはその人の自由である。

人の心の中は何人たりとも支配できない

ただ、その前提として、
「 異国の人間や文化、思想に対して敬意と礼節をもつ 」
これが絶対に必要であると思う。



 
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金美齢【字幕付き】伝説の靖国スピーチ

2014-10-05 | その他
金美齢【字幕付き】伝説の靖国スピーチ
(きん びれい)



金美齢 女氏曰く・・・

総理や閣僚の靖国参拝に対して、
100と言う理屈が出てきます。
わたくしはそれが悲しい。

靖国に参る。それは、
お国のために尊い命を捧げた方に敬意を表し、
心から感謝を捧げこと。

余計な理屈はいりません。
なぜ、
靖国で会おうという約束をして出かけていって、
尊い命を失った方との約束を守れないのか?

生きている人なら、
お互いに相談して約束を変える事ができる。
でも、
亡くなった方との約束は違えることはできません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   以上、金美齢 女氏のお言葉
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正論の背後には、残念ながら・・多くの場合・・・

2014-10-04 | 思う事


かつて冷戦時代、
核兵器廃絶を唱える運動が、
日本も巻き込んで世界的に活発になった
ことがありました。

これは、本当にあったお話ですが・・・・

広島で、核兵器廃絶のための市民を巻き込んだ、
大きな集会がありました。

その壇上で、ある勇気ある学生が主催者を怒らせる主張しました。

「 なぜ、この集会ではアメリカの核兵器に対する批判のみをして、
.     ソ連の核兵器に対する批判はしないのか? 」

すると、主催者が 「バカヤロー」 と罵声を浴びせながら
壇上に上がってきて、
この学生を強引に壇上から引きずりおろしたのです。

当時の反核運動の背景がどんなものであったかが、
この事件を知れば
容易に理解できることではないでしょうか。

この運動の裏では、北側の勢力と、
国内の反日勢力、反米勢力、が
巧みな手法で音頭を取ってたのです。
( もちろん‘反日‘ 国家転覆‘を経営理念とする
‘ 朝〇〇聞‘はこう事は絶対に報道しません )

反戦、平和・反核・・・・・
間違った言葉ではありません。

しかしながら・・・

こういった 「 ご立派なお言葉 」を何の恥じらいもなく
声高々にお吐きになる方々を見ると、
捻くれ者の私は、本能的に疑ってしまいます。

若しくは、そういう方の未来が心配になってしまいます。
(大きなお世話ですが・・・)

こういう運動の背景には、多くの場合
その言葉を利用して、自分が優位に立とうとする
シタタカな勢力が影で糸を引いてるからです。
悲しい事に・・・
善良で、純粋な人ほど、こう云った策略をもつ勢力に
上手いこと利用されてしまいます。
これは、個人レベルでも、
団体レベルでも起きる事のような気がします。

素直で純粋である事は、美徳である事は確かです。
でも、そこでワンクッション置くことが重要だと思います。
「 もしかしたら・・ 」 「 ひょつとすると・・ 」
が大切であると感じます。
地〇〇〇〇・・・・・
C〇〇〇〇・・・・
この言葉を耳にするたびに、
冷戦時代の反核兵器運動を思い浮かべてしまう
捻くれ者は私だけでしょうか?
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意味などありません

2014-10-03 | 思う事

私のような捻くれた人間でも、
たまには 善行らしき事 をすることがあります。
何のためにそれをやるか?

意味などありません

人が喜べば自分も嬉しい、
人が幸福になれば自分も嬉しい。
家族が喜べば自分も嬉しい。
自分に少しでも縁がある人が喜んだなら、自分も嬉しい。

自分の存在が、自分にまったく縁がない人の救いになったとしたら、
クジ引きで、『 大当たり 』が出たようなもの。
ただ、それだけで自分の存在意義を実感できる・・・

それ以上の意味など何も無い

自分の行いに、それ以上の意味を持たせるなど
野暮 に思えてなりません・・・

意味が無いことに ‘ 意義 ‘ がある。

私は、それが自分にやがて「 大きくなって戻ってくる 」 などとは
一切思っていません。

もし・・・自分の善意が、仇になって帰って来たとしても、
笑い飛ばしやります・・・

これ即ち、バカを極める事なり。

この世に生を受けた人間の最大の課題は、
自分の内に宿る ‘ 神 ‘ を観ること。
自分以外のすべての人間の内に ‘ 神 ‘ を観ること。
生命の尊厳を知る事。

これが出来たとき、 因果を超越する事が出来ると信じます。
 これこそが釈尊の本意であると信じています。

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自分を供養する。

2014-10-02 | 宗教



人間死んだら 無 になるのか?
死後の世界はないのか?
霊魂 など存在しないのか?
・・・・・・・・・・
魂 と 霊 は別物
この二つを区別しないと、何も見えてこない。

人間には ‘ 心  ‘ がある
‘ 心 ‘ とは言い換えれば ‘ 想い ‘
想い とは、 
哀しいとか、嬉しいとか、腹が立つとか、悔しいとか・・・

そういった人間の内部で発生する エネルギー
このエネルギー 即ち  「 魂  」

ならば、霊 とは何か?
「 霊 」とは
 永遠不滅のエネルギー

人間の本体は 「 霊 」そのもの
「 霊 」は神と一体であり、仏の分身でもある。
神の姿は、は完全にして円満。


人間の 想い はいつかは変わる。
腹が立っていても、悲しくても、
何かのキッカケがあれば、それは一瞬にして消えてしまう

霊 は永遠不滅のエネルギーであるから
魂のように、あるときは 喜び、あるときは悲しみ、
又、あるときは怒る・・・
そんな不安定なものではない。

霊 は常に極楽浄土の中に存在し
法悦に満たされ、静かに、安らかに存続し続ける。
この、霊こそが 「 人間の本質 」 
これこそが、「 絶対的な因果 」

霊魂 と言う言葉は
便宜的その言葉を使っているだけで
霊 と 魂 をごちゃ混ぜにした単語。

人間は死ぬと 「 霊 」 と 「 魂 」 に分離する。

無念な思いを残して死んで行った人が 幽霊 となったり
怨念となって災いを及ぼすとかいった話を耳にします。
これは、死んだ人の 魂 が起こす現象です。

でも・・・もっと追求するなら・・・
死んだ人の魂より怖いものがある。

それは、
「 生きている人間の魂 」
強い憎しみ、怨み、悲しみ、後悔、不平不満、怒り、
こう言った 念 を持ち続けると、
その念を発した 本人の周りを、「 魔物のようなもの 」
が取り囲む。

この 「 魔物 」とは、自分の外からやって来るものではなく、
「 自分の内 」からやって来る。

でも、これは、実在するものではない。
魔物の存在は 「 事実 」
これが見える人には、見えることもある。

でも、 これは「 真実 」ではない。

魔物とは、その人の 念 ( 魂 )
が作り出した蜃気楼のようなもの。
「 無いものが、あるかのごとく見えたり、悪影響を及ぼす。」
これは 「 事実 」

これは人間の心が作り出した 
虚像(迷い) であり 『 迷いは無い 』
これが 「 真実 」
真実 と 事実 この二つを混同してはいけない。

これは、先に述べた
「‘霊‘ と ‘魂‘ を混同してはいけない 」
という理屈とよく似ている。

厄介な事に・・・・
魔物の根源は、自分の魂であるにも関わらず、
自分の意思とは離れた「 別人格のような」
振る舞いをする。

即ち、自分が作り出した魔物が、
自分に害を与えるような悪さをする。

苦しむ魂が想いを入れ替えれば
ニコヤカになる時も来る。

でも、もう一方の 霊 は
終始一貫して 安らかで、平和なエネルギーしか発していない
それ故、死んだと同時に極楽浄土に行く

供養とは、先祖の ‘ 魂 ‘を安心させ
‘ 霊  ‘に対して 畏敬の念を送る こと。
先祖がニコヤカになると、
自分もニコヤカになる。
なぜなら、‘あの世‘ と ‘この世‘ は別の場所にある訳ではないからだ、

‘あの世‘と、‘この世‘ は今現在、同じ場所で、同時進行している。

更に突き詰めれば・・・
生きている人間にも、霊魂が宿る。

自分で自分の霊魂を供養する必要がある。
これを 私は「 自分供養 」 と呼ぶ。

自分を供養する方法は?

自分を、深い意味で喜ばすこと。
深い喜びとは?

ひとが喜べば自分も嬉しい。
殺されそうになっている生命を、救済できたなら、
自分も嬉しい・・・

これが、自分を供養すること。

当然の事ながら・・・
自分を供養すのは、「自分自身」
それ以外の方法はありえない。

自分自身の内なる声を聞こうとせず、
それを偽ることは、
自分の内に宿る ‘ 霊‘ を隠蔽することである。


 
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