名古屋の白ウサギ・1964年生・

別名、ウサギ仙人・・職業・会社員

怪人・・上野凌弘との遭遇

2012-11-28 | 怪人・上野凌弘
私が20歳のときの事です。

20歳のある日(今から30年前 )のこと、
奇怪な本と出会う。

上野凌弘  (うえの りょうこう)著
闇の古代史 ヒの民の誕生  富士見書房



奇怪で、魅惑の書であった。


著者の上野凌弘氏 (1912年生) は、
大東亜戦争 終戦まえ、満州鉄道の駅長として満州に在住。

日本が戦争に負け満州から引き上げざるを得ない状況に
追い込まれる。

当時満州には沢山の日本人が生活していた。
上野氏は現地の日本人が満州を脱出するための 隊長 となり、
満州に住む日本人 約千人を統率して
満州脱出を敢行する。

途中、暴徒化した中国人や盗賊の襲撃を受け、
悪戦苦闘の毎日。

劣悪な状況下で、仲間が次々に死んで行く
地獄絵巻のような毎日が続く。

何が何でも日本に生きて帰りたい。
そんな思いで全員が懸命に日本を目指して歩き続ける。
そんな思いも空しく、とうとう力尽きて死んで行く仲間の姿を、
上野氏は目の当たりにする。

死んだ仲間をその地に埋め、
悲しみを堪え心を鬼にして前進する。

そんなある日、突然、上野氏に大きな異変が起きる。
死んだはずの仲間が上野氏の前に姿を現し、上野氏に、
無念な思いを訴えて来る。

この時を境に、上野氏は 霊覚 が開ける。
死者の霊魂と対話できるようになったのだ。

やがて上野氏は無事日本に帰国する。

帰国後は奈良県の桜井市に住み作家として生計を立てる。

ここからが奇怪なお話・・

上野氏は奈良にある多くの古墳や神社を訪れるうちに、
多くの古代人の霊と対話するようになる。

天照大神 、神武天皇の霊 卑弥呼の霊  額田王 といった荘々たる
メンバーが登場。

上野氏はそれらの古代霊から多くの事を教わる。
その内容は、実に衝撃的な内容・・・

私はその頃、日本の神道の神々 は古代オリエントに何らかのつながりが
あるような気がしていた。

上野氏の本を読んでその内容に深い関心と 言い知れぬ魅惑を感じた。

上野氏は、天照大神と対話して、
天照大神の起源を教えてもらったとの事・・
天照大神 は ヒッタイト帝国 の王女 マネ フルレー が
転生した神様であるとの事。

ヒッタイト帝国とは、紀元前1680年前、現在のトルコの地に栄えた帝国。

高度な製鉄技術をもち、鉄の王国 と呼ばれ、強大な勢力を誇ったが、
ある期を境に 忽然と姿を消した国である。

上野氏は 卑弥呼 の霊とも対話したらしい。
それによると、邪馬台国は 大和 にあったとのこと。
箸墓古墳は卑弥呼の墓らしい。

それは、私も常々そう思っていたことであるが、
上野氏の本は、不思議な説得力がある。

上野氏の本を数冊読んでみた、
難解ではあるが、実に鋭い視点で古代を語っている・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・
私は、上野氏の本を読み進むうちに、頭の中が混乱して行った。

古代霊が語る古代歴の真相は、
荒唐無稽かも知れないが、実に高度な内容。
真偽は別として、鋭さ を感じる。

ひょっとすると上野氏は怪物かも知れない・・・

上野氏の言う事が単なるフィクションであったとしても、
上野氏に驚異的な教養がなければ、
こんな内容の創作が出来るはずがない。

上野凌弘 いったい何者だ????

怪人か、超人か、天才か、大ホラ吹き か・・・・・・

よくよく調べてみると、上野氏は川端康成氏とも個人的親交がある
人物らしい。

詐欺師のような作家を川端氏が相手にするとは思えない・・・

私の好奇心に火が着いた!!!!

何が何でも、上野凌弘氏と直接対面して、
正体を見極めてやる!!!

上野氏の所在を調べた、
そして、遂に住所と電話番号を突き止めた。

勇気を出して上野氏の自宅に電話をする・

上野氏の奥様が電話に出た。

「上野先生と是非ともお話がしたいのですが・・・」

少々お待ち下さい・・・・・・・

しばらく保留音が続いた、3分~5分位待たされあと
受話器からドスの効いた 貫禄のある声がこぼれた。

もしもし・・・・お待たせしました・・私が上野凌弘ですが・・・・

「 ぜ、ぜ、是非ともお目に掛かりたいのですが、
私と会って頂けませんでしょうか ? 」

何が何でも上野凌弘と会って直接話がしてみたい。
上野氏の 霊眼 や 霊能力 に対しては実を言うと
半信半疑であった。

しかしながら、
上野氏の本を読み進むうちに、
「 ただ者ではない 」
と、強く感じるようになっていた。

「 先生の本を読ませて頂いた者です、
是非ともお目に掛かりたいのですが、
私と会って頂けませんでしょうか ? 」

当時二十歳の私は、情熱の塊であった。
熱意を込めて唐突に懇願した。

上野氏は低い声で答えた。

「 わかりました、お会いしましょう、」

「 有難うございます!!! ならば、どこでお会い頂けますか? 」

「 私の家に来てもらおうか・・・ 」

「 はい、日時を指定して頂ければ、どんな事があっても ご指定の日時に

お邪魔させていただきます 」

「 よかろう 」

上野氏に会うことができる・・・・・・

胸が高鳴った・・・・・

約束の日が遂にやってきた
近鉄電車を乗り継ぎ、奈良へと向かう。

あらかじめ、上野氏から自宅への行き方を教てもらっている。

上野氏は奈良県天理市に書斎を構えておみえであった。

天理市は天理教の本拠地であり、
全国からその信者が絶える事無くゾクゾクとやって来る。

年間を通して常に活気がある街である。

近鉄天理駅を降りると、正面に天理教本部に通じるメイン通りがある。
この通り はアーケードで覆われ、
多くの商店や飲食店、みやげ物やが軒を連ねている。
いわば、天理教の 門前町 のような商店街、
天理教のハッピを着た多くの人々が行き交う活気溢れる商店街である。

意外な事に、上野氏はこの商店街の一角で 上野商店 と看板を掲げ
みやげ物店を経営しておられた。

上野商店 の看板を発見。

店を覗くと、若い男が2人店番をしている。
一見すると大学生風の若者だった。

「名古屋の〇〇 と申します 上野先生にお目に掛かりにお邪魔しました」

「 はい、先生からお聞きしております。どうぞ奥にお入りください 」

この若者、上野氏の弟子のような雰囲気、
黒縁メガネをかけ、服装は地味、いかにも 頭の良い文学青年 
といった気配がする・・・

店の奥に入ると、中から30歳位の女性が出てきた。

小柄で、清純な気品が漂っていて、かなりの美人。

小粒の花柄の入ったワンピースを身にまとい、
地味ではあるが 奥深い光輝を放っている・・・・

一目 見た瞬間、この女性が誰であるかがわかった。

上野凌弘氏の奥さん名前も知っていた。 

頼子さんだ・・・・・・    

頼子(よりこ)さんは上野氏の本に登場する人物。
上野氏の著書 「 神武の日々 」  には、
上野氏が頼子さんと出合った経緯がドラマチックに書かれている。

上野氏は64歳のとき、38歳年下、当時26歳の 頼子さんと出会う。
このお話が、また不可解で正気を逸したお話。

なんでも、頼子さんは、
五十鈴依媛命(いすずよりひめのみこと )
の生まれ変わりらしい。

五十鈴依媛命とは『日本書 紀』によれば、綏靖天皇の皇后。

上野氏は神武天皇の子供、綏靖天皇の生まれ変わりとのこと・・・・

38歳年の離れた男女が、ミステリアスな経緯で知り合い、結局 結婚する・・・

このウソのような話が「 神武の日々 」 にはドラマチックに書かれていた。

頼子さんの話も半信半疑だったが、
実際に、頼子さんを目の当たりにしたとき、
大きな衝撃が走った。

頼子さんは実在していた・・・

上野氏の本に出てくる まさに そのままの雰囲気が漂う女性であった・・

「 ようこそ おいでくださいました、先生は2階の書斎におみえになります
  どうぞ2階へお上がりくださいませ・・・・ 」

頼子さんに付き添われ、
店の奥にある階段を昇る。

階段を上り詰めると、突き当たりにドアがあった。

頼子さん、ドアを トントン っとノックして、

「 先生、名古屋の〇〇さんがおみえです・・・・」

「 どうぞ・・・お入りください・・・ 」

ドアを開けるとそこには10帖位の広さの洋間があった。

部屋の両サイドには大きな本棚、
分厚い本がビッシリ置かれている。
300冊以上はあるように見えた。

部屋の奥には壁を瀬にして置かれた立派な両袖机。

貫禄のある大柄な男が、
トラの毛皮が敷かれた立派な椅子にドッシリと座っている。
この男が

怪人 上野凌弘

目が合った瞬間、物凄い 気迫 を感じた。
それは恐ろしいほどに強烈で力強いオーラだった。
一瞬、身震いした。

「 始めまして、名古屋の〇〇です、お忙しい所、 
厚かましくお邪魔して申し訳ございません」

「 おうー おうー  よく来て下さった 
 まあ、座りなされ 」

そこから約一時間に渡って会話が始まった・・・・・・・

上野氏は座っていた椅子から立ち上がり、
部屋の中央に置かれた応接セットのソファーに腰を下して、

「 どうぞお掛けください 」 と私に言った。

上野氏の正面のソファーに私も腰掛を下す。

私が何ゆえ上野氏に直接お会いしたいと思うに至ったかを、
まず、説明した。

私は、15歳の頃から日本の古代史に興味をもち、
多くの本読み、奈良の古墳や遺跡を幾度となく訪れ、
古代の研究をしてきた。

古事記にも興味があり、高校生の頃は毎日 古事記を読み、
そこに書かれている内容を合理的に解明しようと研究を重ねてきた・・・
もし、同志社大学に入れたら考古学者になろうと思っていたが、
私には、同志社大学に入る能力はまるでな無かった。

同志社大学 文学部 考古学科 以外の大学は、
私にとっては何の意味もない、しかたなく
高校卒業後、就職した・・・・・

働きながらではあるが、今も研究をしている・・・・
こういった私の素性を説明した。

でも、これ以上のことは話さなかった。

実のところ、私は宗教にも大きな関心があった。
考古学同様、15歳位の頃から多くの宗教書を読み漁っていた。
仏教、キリスト教、神道 、宗派を問わず、
探求を重ねていた。

霊魂は実在するか? 輪廻転生は本当か? 宗教はあらゆる人間を本当に
救済する事ができるのか? 万人を幸福にする原理があるはずだ・・・ 
そういった事を常に考えていた。

もし、このことを話してしまうと、
霊魂、や 神仏 ・オカルト の話になってしまい、
古代史の真相を客観的な立場で聞き出せなくなるような気がした。

始めは、宗教やオカルト的な話は避け、
最後に、その部分に踏み込もうと私は画策していた。

単刀直入に質問を切り出した。

 「 上野氏には 古代人の霊 と対話する能力がお有りとの事、
上野氏が著書にお書きになっている事は、
文学としてのお話なのでしょうか?

それとも、すべてありのままに真実を語ったお話なのでしょうか ?
もし、仮に全てが文学の世界のお話であったとしても、
上野先生は松本清張など比較にならない程のお方だと思います。
たいへん失礼な質問であるとは重々承知しておりますが
私の熱意に免じて是非ともお答え頂きたい 」

上野氏は鋭い眼差しで私を見て答えた。

「 すべて実話であり、真実だ 」

当時、若かった私は遠慮することなく、
更に詰め寄った。

「 神武天皇の霊魂と対話した事や、天照大神と対話したと言うお話は
先生の膨大な知識を抽象化したもののようにも感じられます
これは、
神話的手法で書かれた物語とも取れますが、
それは、間違いでしょうか? 」

上野氏はまったく表情を変えずに淡々と語りだした・・・

「 私は昭和20年に満州から千人の日本人を統率して、
劣悪な環境のなか満州脱出を敢行した。
悪戦苦闘の毎日だった、幾度となく暴徒化した中国農民に襲撃さた
そして多くの仲間が死んで行った。
一ヶ月以上歩き続け、寝袋で野宿する毎日、
凍結もはげしくなり、朝目がさめて見ると、
大勢の仲間の寝袋が動かなくなっていた
58名の死者をその地の埋めて前進した。

そんな状況下で私の霊眼が開いた。
死んだはずの仲間が私の前に現れ、語りかけてくるようになったのだ
それ以来、私は 神霊家 となった。多くの霊魂と対話する事が可能になった。
君の仮説は間違いだ、私は作家である事は確かだが、
全て真実をありのままに語っているだけだ。 」

私は、訊ねた・・・

「 ならば、先生には私の背後にいる 霊魂 見えるのですか? 」


上野氏は即答した。

「 見える 」

「 ならば、教えてください、私の本質は どう言う人間 なのか ?
何をすべき人間なのか?  」

「 君は、宗教家だ・・・・ 将来宗教家になる 」

私は更に訊ねる。

「 根拠を教えてください 」

上野氏はまったく表情を変えず、貫禄のある口調で答える。

「 君の背後にいる 神霊が そう言っている 」

私が宗教に大きな関心があることは、
上野氏には一言も言っていない。

あくまで、古代史研究をする若者をアピールしただけのはず。

にも関わらず、上野氏はいきなり 君は宗教家になる と断言して来た。
上野氏は私の内面を読み取ったのか?

話は、最初からいきなり 思いもよらぬ方向へ展開してしまった・・・・・

私の当初の面会目的は、上野氏の正体を見極める為であった。
正体を見極めた上で、
古事記 の隠された真実を、上野氏から聞き出すのが第一の目的であった。

そういった話のあと、興味本位ではあるが 霊 について、
核心的なお話に持ち込もうと思っていた。

そんな話をする間もなく、宗教的な話になってしまった。

「 先生は作家なのか? 宗教家なのか? どちらですか? 」

「私は、作家兼、心霊家 だ 」

「 何らかの宗教に関与しておみえですか? 」

「 私は、如何なる宗教団体にも関与していない 」

ここで私は気になる事が1つあった。
じつは、私が上野氏の店舗件、書斎である上野商店に初め入ったとき、
不可解な商品が目に入った。

 上野商店は 土産物屋 であるが、
この店の店頭に 天理教の教祖の言葉が書かれた色紙が置かれ 
販売されていた。

毛筆で書かれた色紙には、 
 神霊家 凌弘書  と署名され落款が押されていた・・・・・・

「 店頭に売られている、天理教の教えを書いた色紙は一体、
どう言うことなのですか? 先生は天理教を信じているのですか? 」

この質問をすると、
恐ろしい程の気迫が一変して、
上野氏の顔つきが、普通の人間の顔つきになった。

「 あれは、商売でやっているだけだ、
置いておけば、たまには売れるから置いているだけだ、深い意味は無い 」

一瞬、笑いそうになったが堪えた。

怪人、上野凌弘 の人間的な部分を見たような気がして少しホットした。

私は更に質問を投げる・・・

「 太古から現代に渡って 日本人の意識の根底に深く根をおろす
 八百万の神々 とは、実在の人物が神格化
されたものなのか?
古事記に出てくる神々は実在の人物を 神格化 したものなのか? 」

「 その多くが実在の人物だ 」

私はさらに次々と質問を浴びせた、
上野氏はどんな質問に対しても、即答する。

どうも上野氏は 古事記・日本書紀 ・を暗記しているようだった。
難しい神様の名前、年号、地名、古語 、歴史上の人名 
を正確に暗記している。

まったく詰まることなく、
次から次へと語る事ができる
本棚に置かれた分厚い本もすべて頭の中に入っているのかのように、
感じられた。
まるで私とは次元が違う。
年は、72歳のはず、その年でこれだけの記憶力を維持している事が
信じられない。
上野氏の驚異的な頭脳に圧倒され、
自分が、だんだん小さく見えてきた・・・・・・

上野氏と対話を始めて約、30分が過ぎた。

わずか30分足らずの短い間に交わした。
会話は、
かなり密度の濃いものであった。

上野氏は私の発する質問にに対し、
的確な回答を即答する。

当時、20歳の私は、
まだまだ舌足らずで、自分の
質問や疑問を的確な言葉で表現する事が出来ない。

にも関わらず、上野氏は唐突で端的な私の質問に対し
その意図を、一瞬にして察知した。

上野氏と会う前も、イロイロな宗教の先生と喋った事がある。
ほとんどの 宗教関係者は、 人の話を聞かない。

質問や疑問を投げかけると、
質問する人の 心の中 を読み取ろうとはしない。  
最初と最後の言葉だけを、
掴んで、独善的で一方的な宗教論を一方的に喋りだす。

対話にならない事がほとんど、
いい加減イライラして来て、
演説の途中、口を挟んで何かを質問すると、
その質問を遮るように、こちらの言葉の尻を取って
再び
こちらの疑問とは関係のない内容の話を等々と
演説する。

こういうところが 宗教団体 宗教関係者 の一番嫌いなところです。

こういうタイプの宗教関係者は、私が思うに2つのタイプに分かれる
と思う。

1・ 鋭い質問や難しい質問をされると、答えられないから、
無意識のうちに相手に質問させないようにする意識が働く

2・ 自分の信じる教義や、
自分の知識に絶対的な自信と信念があり、
人の疑問にいちいち答えたり、
人の心情を配慮する事は時間の無駄であり
バカバカしいことと思っている。

私は、若い頃から常に 真相が知りたい 真理を追求したい 
この思いで、多くの エライ人 に疑問をぶつけた。

世の中には、屁理屈を並べ、宗教問答を趣味とする、
「 宗教ゴロ 」 と呼ばれる人間も多くいることは確かである。

そんな連中をまともに相手していたら、
いくら宗教家や信仰者であっても身がもたない。
そんな連中は適当にあしらっておけば良いと思う。

でも、私は、そんな趣味はない、
宗教問答などには興味はない

ただ真相を知りたいだけ、
そんな、私の 意図 を的確に読み取り、
的確に聞き取り、的確に答える事が出来る人は
上野氏が始めてであった。

上野氏の 理論、や主張がすべて正しいとは思わない。
理解出来ない部分も多くあった。

でも、それ以前の問題として、
上野氏の凄さを痛感する。
 
優秀な頭脳、

相手の質問の意図を的確かつ、瞬時に読み取る能力、
人の話を良く聞く誠実さ。

質問を遮るような行為をしない貫禄。

こういった 器の大きさ をもつ人間である事は、
話してみて、実感としてつたわって来る。

そういう意味で、まさに
 偉人・怪人・ 天才 
であると感じた。

上野氏の書斎には、川端康成氏からもらった
壺 が置かれている。

壺には、川端氏直筆の文字が書かれている。

万葉集 額田王の歌が達筆で書かれていた。

三輪山をしかも隠すか雲だにも 心あらなむ 隠そうべしや

奇遇にも、
この歌は、私が最も好きな万葉集のうたの壱首だたった。

(上野氏と面会後、18年後に この 壺 と再会する事となる
  不思議な因縁を痛感する事となる   )

川端康成氏が御存命の頃、
上野氏は川端康成氏と深い親交があったらしい。

このことは、私が事前に調べて知っていた事である。

上野氏はこの事について何も言わなかった。
経緯を詳しく聞きたかったが、
話題にする時間がなかった。

やはり、高い知性の持ち主は、
凡人と比べると 大きな 能力格差 があるのだろう。
それに釣り合いの取れる人間のつながりががあり、
次元の違う世界に生きる人間が存在するのだろう・・

まだまだ、聞きたいことは山のようなにあったのだが
上野氏の迫力に萎縮した私は
なかなか言葉を発することが出来なくなっていた。

上野氏と対話をはじめて、
約30分くらい経ったとき、
書斎の隣の部屋で電話のベルが鳴る音が聞こえた

「 はい、上野でございます 」

頼子さん(上野氏の奥さん) が電話を取った様子・・

頼子さんの声が聞こえる

「 ええ、  ええ、  はい・・・ 

はあ・・・・左様でございますか・・・・・ 
只今、先生にお話ししますので、少々お待ちください・・ 」

頼子さん、書斎のドアをノックしたあと、
ドアを空け、部屋のなかに入り、
上野氏の脇に歩み寄り、小声で上野氏に言った。

「 東京の 〇〇さんが、いま、電話で 強烈な腹痛を訴えておみえです、
いかが致しましょうか? 」

上野氏

「 よし、わかった 」

と言って立ち上がり、

「 チョット失礼します」 と私に告げ

電話のある隣の部屋へ足早に移動した。

上野氏が受話器に向かって発する言葉は、
声は丸聞こえだった。

「 ううん・・・・ そうか・・・・タヌキが憑依しているな・・・

よし、私が追い出して差し上げよう・・・イエッ!!  イエッ!!

・・・・・・・・

どうだ? 治っただろ? 

・・・・・・・

うん、 それは良かった・・・・


「いまアンタのお腹に2匹の古タヌキが入り込んでいたので、
追い出してやった・・・・ 
また困った事があったらいつでも電話してくれ・・ 」

上野氏は電話を切るとすぐに書斎に戻ってきた。

唖然とする私の顔を見て言った。

「 東京の知人が突然、強烈な腹痛がすると言って来たので
すぐに治してやった。
霊視したら 2匹の古狸が憑依しおった
私が追い出してやったら、腹痛も一瞬で治った様子だった 」

私は訊ねた。

「 動物が人間に憑依するのですか ? 」

上野氏は答えた。

「 そう言う事も稀にではあるが、起きる 」

その頃、私は動物霊が人間に憑依することも あり得る と考えていた。
漠然とではあるが、上野氏の回答に特に疑問はもたなかった・・・・
( 今現在は、そんな事は あり得ない と思っている )

更に質問した。

「 病気や、事故や、不慮の災難は 本人自身に原因があるのではなく
 憑依した霊に原因があるのですか ?

「 多くの場合、憑依による 霊障 だ 」

「 成仏できない死者の魂は自力で成仏することは出来ないのですか? 」

「 不成仏霊 が成仏する事は なかなか難しい ・・・・・・

  額田王(ぬかたのおおきみ)の霊魂も、
成仏できずに苦しんでおられた・・・
  飛鳥の 天武・持統帝抱合せ古墳 の前の小山が、
  額田王の古墳であることを、私は霊視でつき止めた。
  額田王は 天武・持統古墳 の周囲で 成仏できず、
  さまよっておみえだった。
  私は、額田王の霊を救出した・・・
  後に、額田王霊は私に 神武天皇の霊 
が存在する事を教えてくれた。
  神武天皇は 一度も転生せず、神 となられていた・・・   」

私は、上野氏の奇抜で飛躍した話に困惑した。
上野氏は大真面目な顔で話している。

ご本人はウソ八百を言っているつもりはなさそうに感じられる。

もう、ここまで話が飛躍すると私の理性では付いて行く事が出来ない。

上野氏を疑うわけでも、否定する訳でもないが、
私の判断の枠からはみ出ていて、何とも整理が付かなくなった

上野氏の人格、人徳、よく理解できる。

恐ろしく頭が良く、
恐ろしく、気迫があり
近くに寄っただけで強いエネルギーを感じる。
氏の 大きな 器 と 人徳 が伝わって来る。
決して、悪い人ではないと感じる。
魔物を跳ね返す強大なパワーを発しているような気がする

凡人ではない事は確かだ。

まさに怪人を見る思いで、上野氏を見上げた。

上野氏の世界を 完全に理解し 頭から信じてしまったら、
たぶん正気を保つ事は不可能だろう・・・・

真偽は別として、凡人が首を突っ込むと
悲惨な事になるような気がして来た・・・・
 
そんな、やり取りをしているうちに
アットいう間に1時間以上の時が経っていた。

上野氏の机の上には書きかけの原稿用紙と
すでに書き上げられた原稿用紙が、
かなりの分厚さまで積み上げられた。

これ以上、長居すると迷惑が掛かってしまう。
まだまだ、話がしたかったが、
丁重にお礼を述べ、退出した。

怪人 上野凌弘  ・・・・・

一体、何者だったのか?

その答えは、結局出なかった・・・・・
 
あれから、28年の歳月が流れた。

上野氏のその後の事はまったく判らない。
今なお時々 上野氏と会ったときの事を思い出す。

もし、ご存命であれば、現在100歳になっておられるはず。

いくら超人といえども生きてお見えになる確率は低い。
10年前、奈良に行ったついでに上野氏の店がまだあるか
気になって、天理の商店街へ行ってみた。

残念ながら、上野商店はなくなっていた・・・

「 あれは、ひょっとしたら 夢 だったのかも・・・・・ 」

奇妙な気分になって来て 悪寒が走った・・・・

更に気になって、桜井市役所に上野氏の所在を尋ねるメールを送った。

上野氏は、桜井市役所に顔が利く人物だったので、
市役所の人間なら上野氏の所在を知っているだろうと思った。

残念ながら、市役所から回答は来なかった・・・・・

やはり、あれは夢の中の出来事だったのか・・・・・

あの時 上野氏が唐突に言った言葉。

「 君は将来宗教家になる! 」

この言葉は、今なお耳にこびり付いている。

・・・終わり・・・
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明治一代女

2012-11-27 | 音楽




昭和の初期、ヒットした 

明治一代女

作詞・・・・藤田まさと
作曲・・・・大村能章


(一)

浮いた浮いたと 浜町河岸に
浮かれ柳の 恥かしや
人目しのんで 小舟を出せば
すねた夜風が 邪魔をする


『巳之さん堪忍して下さい。騙すつもりじゃ
 なかったけど どうしてもあの人と別れら
 れないこのお梅の気持 騙したんじゃない
 騙したんじゃない・・・ ア 巳之さんお
 前さん何をするの 危ない!危ない!堪忍
 して か・・・
 ア 巳之さん巳之さん あたしは大変なこ
 とをしてしまった』

(二)

怨みますまい この世の事は
仕掛け花火に 似た命
燃えて散る間に 舞台が変わる
まして女は なおさらに

(三)

意地も人情も 浮世にゃ勝てぬ
みんなはかない 水の泡沫(あわ)
泣いちゃならぬと 言いつつ泣いて
月に崩れる 影法師

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


この歌を時々思い出す

ひとの心の奥深さと
業の深さを感じる



大きな不安に駆られた時
私は、鼻歌を歌う

♪・・・ 仕掛け花火に 似た命
燃えて散る間に 舞台が変わる・・・・・♪


いつか舞台が変わる日がくるだろう・・・・・




腹が立ったり、憎しみの想いが込みあげてきたとき
私は、鼻歌を歌う

♪・・・・意地も人情も 浮世にゃ勝てぬ
みんなはかない 水の泡沫(あわ)・・・・♪




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アンパンマン氏は言った

2012-11-25 | 思う事


アンパンマン氏は言った

若い頃は、もし自由に使える金があったら
幾らでも使う事ができた

飲んだり、食べたり、遊んだり
やりたい事は際限なくあった
でも、そん余裕の金はなかった

48歳になったいま
ある程度、自由に使える金はある
会社の経費でお客の接待を兼ねて
飲み食いする事もできる

でも、世の中、上手くできているもので

この年になってそういう
自由な状況になったけれど

若い頃のように、食べられなくなったし
飲めなくなった
夜遊びする体力も、気力も衰えた

自由な金が有るからといって
それ程、金を使いたいとも思わなくなった

これで、帳尻が合うんだろうな・・・・・・


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煙も味のうち

2012-11-25 | グルメ 



若い頃、トンチャン などというものは
あまり食べたいと思わなかった
40歳を過ぎた頃から、だんだんトンチャンが好きになってきて
今では、大好物
若い頃は焼き肉屋へ行くと、牛ロースとか、カルビ など
を必ず注文していたけれど
年をとるごとにトンチャンの旨さが分かって来て
トンチャン以外の肉を食べたいとはあまり思わなくなって来た


25年来の友人、謎の男アンパンマン氏 と
久しぶりに飲みに出かけた

場所は、名古屋駅東 ・柳橋市場の一角にある焼肉屋。
最近の焼き肉屋は、
ほとんどの店が最新の換気設備を備えているが
この店は、そういった設備はまったくない
店内に煙が立ち込めている

煙も味のうち、ごめんなさい

と書いた紙が、店内に貼り付けてある
昭和の香りがする
洒落た店より、こういう店のほうが何だか落ち着ける

迷わず、トンチャンを注文



トンチャンから舞い上がる煙がたまらなく食欲を駆り立てる

アンパンマン氏とビールで乾杯

アンパンマン氏と顔を合わせるのは約8年ぶり


アンパンマンもかなり老けたな・・・・・・

そういう私も、もっと老けたな・・・・・・・

と感じる。



七輪の背後に見えるのが アンパンマン氏
アンパン氏の腕に輝く銀の時計

キラリ光る

この時計、百五十万円以上する高級時計

その輝きは アンパン氏の才能と努力の象徴に思える

アンパン氏は若い頃、驚くほど不味い
ケチャップ風味の、ソース味 野菜炒めを
約3人前、一人で平らげた人物
その根性と、優しさが
今の彼を作り上げたのだろう・・・・ 

私も負けてはおられんぞ・・・・

アンパンマン氏のトンチャンを食べる姿を眺めながら思った

彼とは、生涯を通して強い縁で結ばれているような気がする
人間誰しも、
一生のうちで、必ず何回かは大きな岐路に立たされる事がある
今まで彼が遭遇した 大きな岐路 には、なぜか必ず私が関与した
同時に私が遭遇した 大きな岐路にも 彼が関与した

12年前、アンパンマンの紹介で、少し年の離れた女性と出合った
その女性が私の家内

アンパンマンとの出会いは、わたしの一生に
多大な影響を及ぼす事になった

アンパン氏と私は 何か強い因縁で結ばれているような気がする
出会いとは、そういうものではないだろうか


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水の分配

2012-11-24 | 思う事


私の家には大量の 水 が備蓄されている
20ℓ のポリ容器が10本  計、200ℓ の水道水を常時保管している

災害があったときの為である
一年に一回くらいは中の水を新しいものに入れ替えているが
災害があったとき このままの状態で飲料水にしたら
たぶん、お腹を壊すだろう

飲料用の水はこれとは別に
ポリタンクに入れ 40ℓ確保してある
飲料用は
光の当たる所に置いておけば、3年間は腐らないという
特殊な容器に入れてある
10年以上前に買った物だが
結構な値段だったような気がする
確か、1個、5千円位したと思う
そのときは、保険だと思って
思い切って買った記憶がある



災害時、もしこの水が底を尽きたら

普通の容器に入れてある 200ℓの水を
よく煮沸して飲めば、生き延びる事ができる
そういう事態も考えて
カセットコンロも十分備蓄している

ここまでやれば、どんな災害が発生しても
しばらくの間は、大きな不自由はないだろう

災害が起きるとよく耳にする言葉

「 国は何もしてくれない、 」

「 自治体の対応が悪い、水がなかなか配給されない 」

「 被災者を見捨てる気か!!! 」


こう言った言葉を耳にするたびに思う

自分の身は自分で守るのが基本

身体に障害があったり
年老いていたり
そうった弱者の方は
自分ではどうにもならないのだから
国や、自治体を頼りにするしか方法はない

でも、健常者が「イザというときは必ず国が助けてくれる」
などと思っているのはオカシイ気がする

勿論、国や、自治体は災害があれば可能な限り
被災者援助をおこなうだろう

でも、完璧な援助など物理的に不可能
迅速、完璧、な支援を期待しているなら
それは考えが甘すぎる

何事も、基本的には 自己責任
想定できる事に対しては
出来る限りの対策を講じるべきであると思う
自分の身は自分で守る
という前提で備えをすべきだと思っている

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

もし、大災害が起きて断水して、水がまったく配給されなかったとする

まず、我が家の必要な水は確保されているから問題ない
200ℓの備蓄があるので
他の、人にも分けてあげなければならない

量に限りがある
少しづつ、多くの人に差し上げるのが一番良いが
それをやったら際限がなくなる
みんな平等に などと言っていたら
分配される一人頭の量は限りなく微量となる
これでは共倒れになるだけ

配る相手を限定せざるを得ない

誰に差し上げるか・・・

優先順位としては
私が思うに

①  自分の親、兄弟、親戚といった身近な身内、
  弱者(他人であったとしても)

②    恩がある知人

③    仲の良い知人

④    些細な繋がりでも、自分と縁がある人

優先すべきと思えるのは 強い縁 のある人と弱者、

それでも余裕があれば、隣の家の人とか
同じ仕事の人間とか ホンの少しでも 縁 がある人


① に当てはまる人間でも 何らかの事情があり、心情としては
「この人にはあげたくない」と思える人間がいるかも知れない
でも、
道理として基本的にはこの順位を崩してはいけないとおもう

水の分配順位は 
私の 基本的な物の考え方でもある
宗教では
全ての人間に対して 愛を持ちなさい と言いますが

私が思うに、世の中の人すべてが
それぞれの
縁 という見えない枠組みをもち

その中で個別の 輪 を形成している

大きな視点で 愛を持ちなさい という意味は分かるけれど

それは、最低限の前提として

「 自分を取り巻く 縁 という枠組み」

 を重視した上で必要な事と思える

縁という枠組み を重要視せず、
国家、世界、人類、などと大きな視点を重要視する
物の考え方は
何か重大な欠陥があるような気がする

この、基本を固めずして
国家、世界、人類 、平和 を語る事は
恥ずかしい行為に思えてならない

どんな 些細な 縁 でも
縁 を一番大切にしたい

 

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第一印象

2012-11-23 | 思う事
ひとは第一印象で決まる

とよくいうが、私はそうは思わない

いままでの人生振り返ってみると
第一印象 
は、長い目で見るとほとんど関係ないような気がする

分類すると

①  第一印象が良く 
知り合ってすぐに仲良くなるパターン

②  初めの印象はイマイチだったけれど
時が経つにつれ
その人の意外な一面を発見し
少しづつ、接近して行って
いつしか、深い信頼を寄せるようになる
バターン

③  まったくお互い無関心で、視界に入っていなかったけれど
いつしか、自然に接近して行くといったパターン

④ 初めは、険悪な雰囲気だったが、何かを契機に
それが一転して、仲良くなると言ったパターン


いろいろなパターンがあるけれど
私の場合、 結果的に見ると ②③が一番理想的に思える


①の場合、「初めは良いけど、あとが悪い」 ということに
なった場合が多くある


①が必ずしも悪いわけではないが
このパターンが一番 危ない 気がする


④ の場合も同様、またいつ情勢が反転するかも知れない

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

人間関係 というものは全て 縁 という要素がその背後に
存在していると思う

自分の身近な人間は、偶然自分の近くにいた のではなく
必然的に自分の近くに存在しているのではないだろうか

自分の身近にいる人間と言っても
イロイロな関係がある

家族、親族
仕事上の繋がり
幼なじみ
友人、知人
近所の住民
偶然接触した見ず知らずの人

その中には、自分に対して敵意を持っている者もいるかも知れない

自分にとって 好ましい相手 ・ 好ましくない相手 ・
そのどちらであるかは関係なく

自分に関係する人間は全て 自分と 縁 があるから
自分の近くに現れた
 
そういう意味で考えると 自分に牙を向けてくる人間も
自分にとって重要な人間であり
 縁 がある

自分が社会で生きて行く上で、一番重要な
要素は 縁 だと感じる


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アンパンマン恐るべし・・・・・

2012-11-21 | その他
私の友達に
アンパンマン と名乗る不可思議な男がいる
アンパンマン氏と知り合ったのは今から24年前、25歳の頃
当時、私が働いていた会社で知り合った
アンパンマン氏と私は同年、

アンパンマン氏は
仕事面では
口八兆、 手八兆   かなりのやり手  口が悪く
毒舌でイタズラ好き

同じ職場のパートのオバチャンに
巧妙なイタズラをしかけ
イジメるのが趣味

でも、不思議な事に
アンパンマンに まんまとハメられた
オバチャン達は
彼に対して決して怒ったりはしない
むしろ、嬉しそうな顔をする


「 俺は世渡り上手のバチ当たりだ!!!! 」

これがアンパン氏の口癖

アンパンマン氏は自ら、自分が 悪人 であると言う事を
常に、堂々と 周囲の者に公言していた

そんな彼の言動にたいして
初めは少々の不信感をもっていた

ただ者ではない・・・

何か、裏がある・・・・・

油断しているとアンパンマン

裏の 裏をかいて 何かを仕掛けて来るかも知れない・・・

アンパン氏と知り合って約一年くらいは
距離を置いて彼の動向を観察していた

当時、同じ職場に 砂川恵美 という50歳くらいのオバチャンがいた

このオバチャンのご主人は
日雇いの土木作業の仕事をしてみえるお方

このご主人、稼いだ金はほとんど飲み食いに使ってしまうような
お方、貯金などまったくしない
当然の事ながら、家はビンボウ
古い借家に住み
前歯が抜けていて
背が低く
見るからに 貧相で汚らしく、品がない、

でも、この夫婦、もの凄く仲が良い

砂川恵美さんご主人より背が遥かに高く
体格もガッチリしていて大柄な女性
とても美人とは言えないが、気さくで、優しく、
親切なお方であった

ある日の事、砂川恵美さんが少し迷惑な話を
私とアンパンマンに持ちかけてきた

「ウチの主人がぜひとも、食事をご馳走したいといっている 
近くに物凄く安くて美味しい中華料理屋があるので、
そこへ招待します !! 」

私はあまり乗り気にはなれなかった
それは、アンパンマン氏も同様であった

断るのも気が引ける

結局、断りきれず、ご馳走になる事に決めた

・・・・・・・・・・・・・・・

会社のすぐ近くにある中華料理の店に案内される

砂川オヤジは嬉しそうな顔で言った

おお! 若いの!! 今日は俺が おごる から遠慮せすドンドン食べてくれ!!

まずは餃子でも食うか!!

おい!!! 店員さん!!! 餃子 3人前!!!


餃子が運ばれて来た・・・・・

3人前と言っても
一見した所、6人前位の量がある

砂川オヤジ テーブルに置かれた餃子を真っ先に1つ食べた

うまい!!!! この店は安くて、量が多くて、美味しいんだ

おい、若いの! とんどん食べてくれ!!!

・・・・・・・・・・

何だかイヤな予感、確かに量は多いけど・・・
見るからにマズそう・・・

1つ食べてみた、

んんん・・・・・・・

これはヒドイ・・・・・・

冷凍の餃子を茹でて、しばらく放置したような感じの食感
皮がぶよぶよで、焦げ目がない
中身の具はパサパサしていてほとんど水気がない・・・

砂川オヤジは旨そうにパクパク食べている


出されたものを残す訳にはゆかない・・・・

アンパン氏の顔色を伺った
アンパン氏も私の顔色を伺っている様子
目が遭った

アンパン氏の目は 私に ・・・・・ と訴えている

私は「美味しいですね」と言って全部 食べた

アンパン氏も 美味しい!!
と言いながら自分の分は平らげた

・・・・・・・・・・・・・・・・・

気を良くした砂川オヤジ
そのあと勢いに乗って他の料理を 次から次えと注文する

どれを取っても量は多いが 恐ろしい程 マズい・・・

砂川オヤジの好意を無にする訳には行かない・・・・

砂川オヤジ 口が悪く、柄が悪いが
優しさが伝わって来る

私と、アンパン氏は食べ続けた

・・・・・・・・・・・・・

もう限界だ・・・・・・と思っていると
砂川オヤジが更に追い討ちをかけてきた

ここの 野菜炒め は旨いぞ・・・・
食べるか?

私とアンパン氏は
声を揃えて言った

「 もう十分です、お腹一杯でこれ以上は食べられません 」

ナニを情けない事言っているんだ!!!
遠慮せず食べろと言ったじゃないか!!!

おい!  店員さん! 野菜炒め 3人前持ってきて!

・・・・・・・・・

アンパン氏の顔を見ると、苦しそうな顔をしている
アンパン氏は育ちが良く、かなりの美食家
酒が好きで、酒を飲みながら美味しい物をホンの少しだけ
食べるといったタイプ

私は、酒より 食べる方が主である
その気になれば結構な量を食べる事が出来た

そんな私でも、ここまでが限界だった
ましてや、アンパン氏は私以上に苦しいはず・・・

・・・・・・・

大皿に1つに盛られた 野菜炒め 3人前が運ばれて来た・・・
量が半端じゃない・・・

普通の5人前に匹敵する程の量であった

もう、一口も食べたくない思いであった
決死の思いで
取り皿に少し取って食べてみた

想像を絶するマズさだった・・・・・
アンパン氏、私の耳元で砂川オヤジに聞こえないように
ソッとつぶやいた

 マズ過ぎる・・・・

湯通し した野菜に油を混ぜ、ソース と ケチャップ と 砂糖で
味付けしたような味だった

いま思い出しても
あれほどマズイ野菜炒め を食べたのは、あれが最初で最後のような気がする 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・


おい!!! なに遠慮してるんだ!!! 

旨いだろう!!! 俺の分も食え!!!


砂川オヤジ 3人前頼んでおいて自分はほとんど食べず
ビールばかり飲んでいる

もうこれ以上食べられない・・・・
さすがの私も、完全な限界を感じた

もし、これ以上食べたら、たぶん嘔吐していだだろう・・・・


このとき、私はアンパンマン氏の本質を垣間見ることとなる

なんと、アンパン氏、この恐ろしくマズい、

大量な野菜炒めを一人ですべて平らげてしまったのだ

この光景を目の当たりにしたとき
アンパンマン氏の本質を見た気がした

それまで、
この男・・必ず何か裏がある・・・と警戒していた

この野菜炒め をいかにも美味しそうな顔をして
嬉しそうに黙々と食べる姿を見たとき

アンパンマン氏の 器の大きさが 実感として分かった
これは理屈では説明できない、以心伝心 の世界


負けた・・・・・

アンパンマン恐るべし・・・・・

この一件以降、私はアンパンマン氏に
絶対的な信頼をもつようになっていた ・・・・
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民主的で寛容な 平和な国

2012-11-20 | 思う事
最近 注目を集めている

橋下徹 大阪市長

橋下氏の政治家としての資質が、有るのか 無いのか
今の私には分かりません

しかしながら

橋下徹 たいした男だ・・・ と思っています

橋下氏が弁護士時代、討論番組によく出演しておみえになりました
とても正義感が強く、言っている事も筋が通っていて
信頼できる人と感じておりました

府知事の時代
「日教組のクソ野郎 !!! 」 と公言されたときは
痛快な思いがしました

でも、意外な事に、
橋下氏どうも育ちが良くないらしい
自分でもその事は隠さず堂々と公言しておみえになる

そんな状況で

弁護士となり
マスコミに顔を出し有名になり、最終的には
社会的信用を勝ち取り、大阪市長にまで登り詰めました

これは、まさに、自力 のなせる業
もし橋下氏が運命の奴隷となっていたなら
奈落の底に落ちていたかもしれません

橋下氏は 運命の奴隷とならず
運命の主人公 になりました
これは、 自力 以外 、何物もありません

信念は如何なる境遇も、環境も、運命も捻じ曲げる力がある

それを立証してくれたのが橋下氏であると思います

強烈な 精神力 で、自分の背後にある 因縁 を跳ね除け
マイナス エネルギー を プラス に変換したのでしょう

こういった意味で、私は橋下氏に敬意を持っています

・・・・・・・・・・・・・・・・

私が世の中で一番嫌いなもの

① 朝日新聞

② 赤

③ 緑

朝日新聞、遂に、その愚劣な本性を自ら暴露する事件が起きました

週刊朝日 が 

「ハシシタ 奴の本性」

と銘打って橋下氏の 出自 (しつじ) に関する
ドキュメンタリー特集を掲載しました

橋下大阪市長をなぜか ハシシタ と記載し、
その内容が実にヒドイ

私は普段から
朝日系列の雑誌や本はめったな事がない限り読まない事にしているので
この記事は、実際には読んでいません
読んでいませんが、その内容を報道で知る限り
正気を逸している

橋下氏の親や先祖の事を調べ上げ
それを根拠に容赦なく、氏の人格を否定し、誹謗中傷を浴びせた内容との事
あまりにも度が過ぎる

名古屋弁ではこういう時

「おみゃーさん ちょっとエリャーゼー あらけにゃー こと 言ってチョウーたナモ 」

と表現する

話が逸れました・・・・・・

私は、 霊統・血統・因縁 が人間の重要な要素だと思っています

でも、これは 血脈主義 とか 差別 とか 消極的な宿命論 とか
そういった暗黒思想ではありません


すべての人間は

神の自己実現 であり、仏の化身 である


という前提で、運命を自力で支配し、前進する為の指針として

霊統・血統・因縁 を認識することが必要であると思っているだけです


朝日の低俗な記事に対して橋下氏は

「 血脈主義、身分制に通じる極めて恐ろしい考え方だ 」

と反論しました

橋下氏には大勢の子供がいるそうです
お子さんがこの事を聞いたらどう思うでしょう

血も涙もない冷血な仕打ちではないでしょうか

私も2人の子供を持つ親、橋下氏のお子さんの事を考えると
お気の毒で涙が出ます

朝日の行為は 

最低、愚劣、低俗、醜悪、傲慢、陰険、邪悪


許されざる行為であると思います

朝日は行為が最低であるだけではなく、存在自体が 犯罪 であり 罪悪 であると
私は思っています

世の中には、 「 必要 悪 」 という言葉がありますが、
朝日新聞は 「 不要 悪 」 だと思っています。

でも、

考えようによっては・・・おめでたい 事であるのかも知れません

こんな新聞社が堂々と偉そうな顔をして
のさばる 事が出来ること自体、日本が

「 民主的で寛容な 平和な国 」

である証拠なのかも知れません


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霊統 血統 因縁

2012-11-19 | 思う事
霊統 血統 因縁


この3つの要素が複雑に絡み合い
一人の人間の 下地(土台) を形成します

この 下地 が

 環境 ・ 能力 ・ 人格 ・ 習性  ・思考パターン
 
・家庭環境 ・ 対人関係 ・ 健康 

などといった基本的な部分に対して見えないところで支配しています

このなかで、私が一番重要であると感じるのは
 
霊統

血統や因縁とかはよく耳にする言葉ですが
霊統 という言葉はあまり耳にしない言葉です

私も、かれこれ30年間 あらゆる宗教を研究して来ましたが
この言葉を知ったのは10年位前の事で、それまでは
まったくそういった概念は持っていませんでした

今までの人生のなかで
宗教的教義と矛盾する現実を数多く見せ付けられて来ました

心優しく、真面目で、多くの人に親切を振りまく人が

なぜか不思議な事に不運の連続


その反対に、自己本位で、利己主義で、親切さがまるで無い人が

経済的にも、健康面でも、家庭面でも、恵まれている

そんな不思議な矛盾を数多く目の当たりにしてきました。


こう言った事象に対し

理屈をつけようと思えばいくらでもモットもらしい説明が出来るでしょう・・・


今生は苦労の連続でも、来世がある・・・・

人生は魂の修行である・・・

悪因縁、悪業 を消し去る為に試練はある・・・・

全てが 因果報応 である・・・・

現象的なことのみに価値観を持つことは愚かだ・・・・

心を変えれば如何なる境遇も 困難も、悪運 も 必ず克服出来る・・・



どれも決して間違った考え方ではないと思います。

しかしながら・・・・

全ての事象に対して、こう言った 真理 ( 正論 ) を

頭ごなしに振りかざす事が 結果としてどれ程の効用があるのだろう?


凡人が悟ったような気分になって

山の頂上から、下界の俗世間を見渡して

こういった 高等な 宗教的教義 を念仏のように唱え続ける

こう言った手法は、ある意味  現実世界に対する 「 あきらめ 」 のようにも感じる。


どうして理不尽な矛盾が生じているのか?


それに対する 納得のゆく説明をする事が宗教家の義務ではなかろうか?

万能な理論( 真理 ) のみを力説して その後なにか矛盾が生じたら

「 現象のみに囚われるな、あなたの信念が足りないだけだ 」

といえば全て話は収まる。

私には、それは 「 逃げ 」 としか思えません。


人間の本性は  霊であり  神であり  仏であり  慈悲であり

本来の姿は   完全円満 

これは紛れも無く 真実 であり

洋の東西を問わず、すべての宗教が行き着くところの 頂点 である。


でも、

生きているからには 現実を打破する事が最優先ではないでしょうか?


人の人生を支配する大きな要素が必ずあるはずだ

その原理と理論を探り当て役に立てたい・・・・

そう願って観察・思慮・分析 を繰り返しました


その結果


霊統 という概念にたどり着きました

血統・因縁 が人の運命を決める大きな要素であることは
以前から何となく感じていましたが
霊統 という言葉は私の知識にも感覚にも、まったく存在しませんでした

10年位前のある日、私は
バッハ の作品

音楽の捧げもの ( BWV 1079)

を我が家のオーディオ ルームで聞いていました

このとき 霊統 という概念がフト頭を過ぎりました
そして確信しました

霊統・ 血統 ・因縁 

この3要素が一番肝心である!!!!

「 音楽の捧げもの 」

という曲は  
バッハが作曲した、1つの主題に基づく16の作品からなる曲集。
フーガ2曲と4楽章で構成されていて
トリオソナタ、と 10曲のカノンが含まれている作品

モーツアルト と バッハ の音楽は
あの世 の音であり 神の声
であると常々思っています・・・・・・・・


ここに一杯のビールがあります

ガラスの器は 霊統

器の中のビールは 血統

表面に浮いた 泡 は 因縁



ここに2杯のビールがあります
この2杯のビール
見た目は同じように見えますが
1つは キリンビール
もう1つは アサヒビール


グラスのビールは A子 さん
ジョッキーのビールは B男 さん

空のジョッキーを1つ用意します

用意した空ジョッキーに
この2杯のビールを半分づつ移して混ぜ合わせます

グラスのビール と ジョッキーのビールが混ざり合いました
味の違う2つのビールが混ざり合う事によって新しい味のビールが完成しました

勿論、表面に浮いた 泡 も混ざりあっています

でも1つだけ混ざり合う事の出来ないモノがあります

それは、 ビールが入っている グラス と ジョッキー

ビールと泡は液体だから 混ざり合う事が出来ます
混ざり合って別の味に変化します

でも、器 は固体だから
混ざり合う事はできません

新しい空の器を用意しなければなりません
それも、まったく同じ形で、同じメーカー
の物でなければなりません

その新しい器は

男用と 女用 があり

男の場合、ジョッキー

女の場合、グラス


霊統 血統 因縁

血統 とは 父 母 双方から受け継ぐ 遺伝的要素

因縁 とは父方 母方 の双方から受け継いだ運命的要素

血統 ・ 因縁 は父方、母方 双方の要素が混ざり合って

「 自分 」 という人間の下地を作る


でも、 霊 ( 霊統 ) は混ざり合う事ができない

ここに 祖霊祭司 ( 先祖供養 ) に関する

重大なポイントがある。
 

これを理解しない事には


いくら善行を積んでも

いくら得を積んでも

いくら奉仕しても


自分自身の 性質や運命を支配する事は

不可能






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人生を支配する要素 ④

2012-11-17 | 思う事


家系の科学 という本に出会った事により
 運命研究 の方向性がハッキリすることになりました
その方向性で
改めて今まで見てきた 人格と運命のアンバランス、なんとも理不尽な不可解な
 「 例外的事象 」を
徹底的に再検証する事となりました

その経緯は
多くの人のプライバシーに関わる事なので
詳しくは書けません、
人のプライバシーに関する重大な事は
それがたとえ身内であっても喋ってはいけないと
常々思っています

経緯は飛ばし
結論を申し上げます


人の、個性、人格、気質、運命、境遇、家庭環境、

すなわち、

人間に備わる潜在的要素
生まれながらにして持っている 「 下地 」は
3つの要素で決まる

この3つの要素が
複雑に絡まり
人の 「 下地 」を決定する
これが
努力や精進・善行 とは無関係に
人の運命を左右する最大の要因となる


① 霊統

霊統 とは祖先から受け継ぐ 霊的性質 ・霊的つながり
祖霊祭祀 の観点から見て
重要な意味をもつ、



② 因縁

因縁とは 祖先からうけつぐ 悪い要素・良い要素(エネルギー)
の総称


③ 血統

血統とは
祖先から続いている血のつながり。
血のつながり即ち祖先からの遺伝による
肉体的性質、気質・能力・習性 の継承

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

血統は混ざり合う事ができる
父親の遺伝子と 母親の遺伝子が 混ざり合って
子供に継承される

父親  =  A

母親  =  


その子供 C =  A  となる


子供 AB が  さんと結婚

子供 E が出来た


E = A

血は、世代を重ねるごとに混ざり合い、
新しい組み合わせの遺伝子を持つ 人間を輩出する


同時に祖先の持つ 
因縁 
も血統的遺伝と同じく混ざり合う
先祖のもつ 因縁 がその祖先の誰に影響を与えるかは
特定不能、どんな家系でも、良い因縁、悪い因縁 両方を併せ持つ 

血統 、因縁 、 どちらも家系の流れのなかで混ざり合う



だが・・・・・

霊統 だけは混ざり合う事は出来ない


       A=======
       父   |   母
           |
           |
         .--------.
         ↓   ↓ 
         ↓   ↓ 
         C   
         男   女

子供 C は父親Aの霊統

子供  は母親の霊統

夫婦を初代と仮定するなら

父親、男A の霊統は 男Cでなければ子孫受け継ぐ事は出来ない
母親 女 の霊統は 女 でなければ子孫に受け継ぐ事は出来ない

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

もし、仮に A夫婦に女の子しか出来なかったとする
AB家はE男を婿養子にして、娘  と結婚させる
E男さんには兄弟がいない。


         川口家
 

       A=======
       父   |   母
           |
           |         
           ↓ 
           ↓
 山田家
 E男  ===== 
           
       | 
       |
  ------------------------
  ↓   ↓    ↓   ↓
  ↓   ↓    ↓   ↓ 
     G        I 
 
  女   男    女    男   


山田家の E男 さんは川口家に 婿養子にはいったのだから
川口E男 になり、川口家の人間になった事になる

この場合、霊統 はどうなるのか?

ここが、重要

E男 さんは戸籍上、苗字が川口になっただけ
戸籍の苗字 が変わっても
霊統 は変わらない


子供 女さんは、女を経由して女さんの霊統

子供  G男さんは、苗字は川口だけど、E男の 山田家の 霊統 にはいる

嫁いだとか、養子になったとか、それはあくまで人間が決めた戸籍制度による
もので、霊の世界には それは何の関係もない
苗字はあくまで、
道理 と 秩序 と 義理 と 精神・理念 
を維持する為にある

何ゆえ、男の霊統は 男でしか受け継ぐ事ができないか?
何ゆえ、女の霊統は 女でしか受け継ぐ事ができないか?

男系、女系 の構造は
私が多くの人を観察した結果、感覚的に感じ、結論付けしたことであります
それにあとから理屈を当てはめ結論づけました

説明しようと思うと複雑で難解な説明が必要となってしまいます
同時に 多くの事例を述べないと説明が出来ません
そういった事情で
ここでは、省略します

霊統 とは前に述べましたが、
祖霊祭祀
を意味します
祖霊祭祀とは 自分の祖先を敬い、感謝し、供養する事
必ずしも、法事とか、儀式とか、を行う事とは限りません


末端の子孫G男 さんは苗字が 川口です。
必然的に 川口家の人間として 川口家の祖先の墓にお参りしたり
法事に参加したり、川口家を優先します。
実感として、山田家の 祖霊祭祀 にはあまり関心がなくなるはず

でも、川口G男 さんは 血統・因縁 は 川口家・山田家双方の混血ですが
霊統だけは、山田家なのです

G男さんが、もし仮に、山田家の先祖の事を意識の中でまったく度外視したら・・・
祖霊祭祀 の精神を一切持たなかったら・・・・ 

山口家の祖先は悲しむ

旧姓・山田E男さんには兄弟がいないので、山田家の大勢の祖先から見れば、
川口G男 さん その兄弟の川口I男さん のみが自分達の霊的子孫となる

祖霊祭祀 とはもう一度繰り返しますが

自分の祖先を敬い、感謝し、供養する事
必ずしも、法事とか、儀式とか、を行う事とは限りません


F女   G男   H女  I男   この子孫達が

自分の運命(下地)を見極めるようとするとき

F女   G男   H女  I男

それぞれが   

霊統 ・ 因縁 ・血統 

を如何に客観的に見極めるかが課題となるでしょう

何か大きな障害、不運、が具体的に発生しているなら
心の法則 だけでは自分の運命をコントロールできないと痛感するなら

血統・因縁(家系の科学的手法)で祖先をたどってみるべきである、
その背景が必ず分かって来るはずです。

更に、もっと重要な事は
霊統
祖先から子孫に受け継がれ、
その間、絶対に混ざる事のない要素

霊統 をたどり、
その中で、自分に影響を与えている祖先の一人を見つけ出せば
その人の、供養ができる
供養とは、儀式ではない
哀悼の念を持ち心に留めるだけでも 供養 といえる
祖先から受け継ぐ宗派の作法に則って何らかの供養をする事も
意義がある
出来る限り 墓にお参りするだけでも供養といえる

人間の 「 下地 」 は 

霊統 ・ 因縁 ・血統

が支配している
これを理解しない事には

いくら、徳を積んでも
いくら、努力しても
いくら、心が正しくても
いくら、社会に奉仕しても
いくら、心清らかに明るく生活しても
いくら、念仏を唱えても

障害や、不運を追い払う事はできない
自分自身で運命を切り開いてゆく事は出来ない
運命の主人公とはなれない
運命の 奴隷 になるだけである

自分自身で

霊統 ・ 因縁 ・血統

 を徹底検証すれば、自分が何をすれば良いのかが
必ず分かるはず

自分で模索し、自問自答し、
自分で運命を選択 をする事が肝心ではないでしょうか


神はすべての人間に幸福になる権利を与えています
仏は すべての人間に慈悲と知恵を授けました


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

どんな人でも
自分の子供が喜べば 自分も嬉しい
自分の子供が悲しめば 自分も悲しい

これと同じく

祖先の霊魂は決して 大切な子孫に対して 祟りの念 は持たない
ただただ、子孫を見守っているだけ

先祖の霊魂は 子孫が幸福であれば喜ぶ
先祖の霊魂は子孫である 人間と表裏一体

あの世 と この世  は別々な場所にある訳ではない
あの世 と この世  は同時に存在して
同時に進行している
例えば、我々が 大きな悲しみに襲われたとする

心のなかで 「 哀しい!! 」 という想い(エネルギー)
が発せられると
血圧を低下させたり、胃腸の機能を低下させたり

そのエネルギーは自分の肉体に形となって現れる

「 自分の心 」 と、「 自分の肉体 」は 別物ではなく
同時進行している

自分の心 は  自分の肉体 に対して
敵意を持っている訳ではい
別物 と判断している訳ではない

同時進行 しているだけである
表裏一体 であるだけである

祖先と 自分の関係とは
これとまったく同じ


自分の心 ⇒  自分の肉体

     を


自分   ⇒  祖先の魂


と言葉を変えても事は同じ


先祖の霊魂が 何かに対して強い 想い を持てば
その想いは 子孫に 現れる
それは自然の摂理である
ならば、祖先の 念 が自分に現れたとき
何をすればよいか?

祖先を敬う気持ちを持てばよい
祖先に対して感謝の念を持てばよい

よほど重大な事象があるなら

霊統 ・ 因縁 ・血統 をたどり
特定の、先祖を見つけ出し
その御霊に対して冥福を祈り 心に留めればよい

ただし、「 改宗 」 は絶対にしてはいけない
ひとの不安や悩みに付け込んで改宗を勧めてくる
新興宗教がおおくある

先祖代代受け継ぐその家の宗派を絶対にかえてはいけない。
改宗は祖霊に対して絶大な苦痛をあたえる。

この事については、また別の機会に述べさせていただきます。


2千年以上前 キリストさんは言われました    

あなたの信念によって あなたの信じる姿になりなさい


人間には 運命選択の自由 があります



             合掌



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人生を支配する要素 ③

2012-11-17 | 思う事
人格と運命には決定的な因果関係はない

と私は以前述べました

意地悪で、嫌われ者で、利己主義で、根性の悪い人間が
経済的にも、家庭家庭的にも、健康的にも恵まれ

心優しく、誠実で、奉仕の精神がり、多くの人から慕われ、人望厚い人が
病弱であったり、貧乏であったり、災難にあったり・・・
多くの不運に見舞われてしまう・・・・・

こういう矛盾する現実を多く見てきました
こういった、矛盾する多くの現実がある以上

人格と運命には決定的な因果関係はない
と言わざるを得ません

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「あなた自身の心がすべてを支配します」
「あなたの心が変われば運命も変わります」

基本的には、心の法則・原因結果の法則・は
間違っているとは思いません

だけど、しかし、残念ながら・・・
それ以上に人の運命を大きく支配する要因がある

勿論、

人格高貴で心優しく、何事にも恵まれ、大きな問題もなく、幸運な人も多くいます

人格や行為が下劣な人は
それ相応の環境や境遇が現れ、不幸の人生を歩む事になってしまう。

良い種を蒔けば良い芽が出る
徳を積めばそれがいつか自分に帰ってくる

こういった当然の現象は勿論あります
それをすべて否定している訳ではありません
すべて、否定しないが例外が多すぎる

ひとの運命を支配する大きな要因・・・・・

これを見極めるには、逆説的な手法を使わざるを得ません

近代心理学の祖 フロイトさんは
人間の、心理を解明する為
奇抜な手法を用いました

異常な行為・異常な心理・異常なヒト・ 
の心理を徹底的に観察、分析することで  

すべての人間に共通する普遍的理論を探し出そうとしました
フロイトさんは 
例外に目を向けたのです


その集大成が フロイト理論となり
後の心理学研究に大きな道筋を与えました

フロイトさんの理論や手法が全て正しいといとは思いません
ユングさんのほうが人間的に好感が持てます
でも、
私の思考や手法はフロイトさんに少し似ているような気がします


        続く

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人生を大きく支配する要素 ①

2012-11-14 | 宗教


私は18歳の頃から 30年間に渡り
人の 運命 について研究してまいりました
どうして人によって 幸運 不運 の大きな落差があるのだろう?
それを究明すべく
多くの本を読み、多くの人の意見を聞き
多くの人を観察し続けてまいりました

幸運、不運 の違いは
その人の 心のあり方 によって大きく左右される事も事実です

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

いつも不平不満ばかり言っている人には悪い事が引き寄せられます

いつも感謝の念をもって、どんな境遇でも前向きに明るく努力する
人には、幸運はおのずと引き寄せられます

人の悪口や批判ばかりしている人の回りには、それ相応の人が引き寄せられ
悪い事ばかり起きます

何事もプラス思考な人は、苦境に立たされてもそれがチャンスとなります

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

これを 

「 心の法則 」

と言います

人の運勢を考える上で
心の法則は確かに的を得た理論であると思います

でも、これが人の運命を左右する決定的な要素とは思いません

他に考えられる事としては・・・・・

人には、持って生まれた 因縁 があるのかも知れません
その因縁とは、前世 といった事です

前世があるか 無いか 私には分かりません
「 分からない 」とは、「 答えが出せません 」 という意味ではなく
「 解からない 」 が最終的な答えだと思っています
つまり、
 肯定も否定もできない
と言う事が真理ではないかと思っています

全ての事に、人間の知性や言語で答えが出せるのでしょうか
それが必要なのでしょうか

勿論、人類は長い歴史のなかで常にあらゆる事に 答えを 求め
思考錯誤を繰り返して来ました
その成果として、文明を築き 秩序を構築し、文化を築いて来ました

答えを追求する事は、尊い人間の本能であることは確かです

私自身も、今まで多くの事に、「答え」を求め
日々、精進して来たつもりです

だからと言って 完璧に全ての事に於いて 答え を出す事ができる
ものではないと思います

もし、全ての事に於いて答えを出す事が出来る 
と真剣に思うのなら、それは人間の 傲慢 ではないでしょうか?
 
お釈迦様は 結局最後まで
死後の世界 や 霊魂 について
肯定も否定もせず 「 不記 」
の立場を貫かれました
このことについては諸説があり、
「 そんなハズはない 」
と異論を唱える人もいるかも知れません

でも、私が 限りなく客観的に判断する限り
やはり、 「 不記 」 であったと思います

話が逸れました・・・・・

もし、仮に前世があったとしても

前世は変えられない。

変える事のできない要素を探ったり、究明しても意味がない

変えられない要素 を重要視するなら、

それは、宿命論 となってしまう

宿命論とは、「 納得して諦めなさい 」

という意味ではないでしょうか?

‘納得して諦める‘ 事を 悟り というのでしょうか?


変えられない、対処方法がない、
そういった要素を吟味しても
何の、効用もないと思えます。

ならば、やはり 心の法則 が全てか?

これだけで全てが説明できるでしょうか?
 人の運命を左右する一番大きな要素は
即ち、
自分次第 なのでしょうか?

ならば、その「 自分 」とは何なのか?

不平不満ばかり言っている人
感謝の念をいつも持っている人

何ゆえ、同じ人間が2つに分かれるのか?

不平不満ばかり言っている人 は不平不満の心を作り出す
魂の 下地 があるから そうなるのではないだろうか

感謝の生活をする人 はその魂に 下地 があるから自然とそうなるのではない
でしょうか?


心 ⇒ 行動 ⇒ 運命

これが 心の法則 であるけど
これだけでは説明にならない

下地(魂) ⇒ 心 ⇒ 行動 ⇒ 運命 

その、「 下地 」とは何かを追求しないと話が始まらない

でも、

私が今まで多くの人間観察をして来た中で

下地 ⇒ 運命
 
といった 本人の 心 や 努力、人格 と言った要素を
すべて飛ばして除外されてしまい
苦悩や、病気、災難 などの
不運に苛まれるといった
あまりに残酷な、不可解な現象がある事も事実です
こういった、何とも納得が行かない事象を多く見て来ました


先回、書いた 

悪代官 Fさん 

仏の Sさん 

の話がその最たる例です


Fさん Sさん の話を読んで戴ければ分かって頂けると思いますが


心の法則   原因結果の法則   神仏のご加護  本人の努力  陰徳

などまったく当てはまらない不可解な事がよくあります

・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

「 下地 」とは私が便宜的に考えた言葉ですが

意味としては、

「 人の人生を大きく支配する要素 」

ここからが 個人レベルで
運命を見極める
一番重要な事です 

続く

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姓名判断について

2012-11-10 | 姓名判断



姓名判断や運命予知について
もっと詳しく書いてほしいという要望が

面識のある人 ない人 を含め複数の人から寄せられています
私と致しましても
もっと詳しく書きたいところです

書きたいけど書けない

書き始めても数行でキーボードを打つ手が止まってしまう

私の場合
姓名判断を初めとする 人間観察 の手法は
ほぼ、100% 経験と観察から導き出されたものです

私の人間観察の手法を人に説明しようと思うと
その根拠が必要になってきます根拠を説明しようと思うと、どうしても
実際に私が経験した事や私に縁がある人物の事を書かざるを得なくなります。

それを話さないと本意が伝えられないことが多くあります
しかしながら
私に縁がある人を 話のネタ する事に大きな罪悪感を感じます
私の信用にも関わってきます
明るみにしたら問題になる 裏話 も多くあります

仮名を使ったりしてもやはり罪の意識を感じます

話を少しアレンジして、ストーリーは違っても
骨組み は一緒にする と言った手法を使う事も事も出来ますが

そんな事をやると、私自身が
現実と想像の世界 の区別が付かなくなってしまう可能性があり
恐怖を感じます

自分の教養と経験を元に、それをアレンジして描いた架空の話を、
無意識のうちに
自分自身が現実の話として認識してしまう
そういったクセが付いて
しまう恐れがあるからです

凡人がそうなってしまうと、かなりの危険が伴います
マトモナ死に方が出来ない事になってしまいます

宗教家 や 小説家 には、この落とし穴に落ちた人が多くいます

これがもっとひどくなっ来ると、自分の知識から導き出された 言葉 を

「 神のお告げ 」 だとか 「 霊の声 」 「 霊感 」

 だとか言い出す

かつて、宜保愛子 と言う霊能者がテレビに出て一大ブームになった事があります
彼女の場合まったくこのタイプだと思います

後に、彼女の子供がそれを裏付ける多くの告発をしています
彼女は自分が人から聞いた事を無意識に「自分が実際に見た事 」として認知し
それを記憶として残してしまう性癖があったとの事
子供は彼女の 霊感 を頭から否定していました

これの延長で、自分の知識を 「 霊の声 」 として感じる
習慣を身に付けたのではないかと思います

ただ、彼女には人の 「心」 や 「意識」 「拘り」 を察知する
鋭い感性があった事は事実のようです

霊言 とか お告げ 霊感 とかという話は
99パーセント「 意識の暴走 」であると思います
なぜなら、 霊言とか霊感は
その人の知識を超えた内容の言葉を発する事はできない

霊媒 霊言 霊感 の真偽は別として

その人がもつ意識や情報 以上の言葉は口から出る事はない
要するに 「 霊言 」とは
その人の潜在意識から出てくる言葉であり
潜在意識にないモノを再生する事はできない

すべてがそうだと思っている訳ではありません
例外もごくごく稀ではあるけど起こり得ると思います

その、例外的存在が 釈迦であり  キリストであり マホメッド
ではないでしょうか

勿論、現代にも凄いお方は存在すると思います
現にそういうお方を知っております
でも、
そんのようなお方は無闇やたらと世間に顔をお出しにならない

私は、所詮 凡人
凡人が思い上がると厄介な事になります


大きな妄想に取り憑かれないよう常に注意しています

そういった事情で 姓名判断 や  占い的 な事はこのブログには
あまり書けないといった状況でございます


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螺旋階段

2012-11-06 | 思う事
私が幼い頃よく遊んだ公園で

自分の子供が遊んでいる

不思議な感覚に襲われる

自分が子供だった頃から40年位の

年月が流れているのだけど

今現在と、

私が子供だった頃とが

同じ ‘ 時 ‘

として感じられる


時間の流れはひょっとしたら

線で描いたとすると

直線 ではなく

螺旋 であるような気がして来た

螺旋階段を登る自分の姿を


螺旋階段の上空から

テレビカメラで映して

それをモニターでリアルに見ることが出来たとしたら

たぶん、自分は何階のどの位置にいるか

分からないだろう

姿が見えたり

消えたり

何度も繰り返すけれど

上に上昇しているのか

現れたり消えたりしているだけなのか

見ていても実感として伝わってこないだろう


でも・・・・・・

上に向かって

ひたすら段をの昇っているのだから

たぶん何時かは頂上にたどり着けるヨ

人間の生命とはそういうモノなのかな?

もし、輪廻転生 というのがあるなら

螺旋を描いて転生を繰り返すのかもしれない・・・

・・・・・・・・・・・

無邪気に遊ぶ自分の子供の姿を眺めながら

そんな事をフト思った


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人相

2012-11-04 | 思う事
私は現在、ほとんど一日中

自動車で数十箇所を移動する仕事をしている

一日、約80k~100k走る

交通事故を起こしたら一貫の終わりです。

交通事故を起こさない秘訣は

事故を起こしやすそうな人相の人には近づかないことだと思います。

近づけば、事故が起きる確率が高くなる

交通トラブルも起こしたくない

時間をムダにしたくない

平穏を奪われたくない


私は、車を運転するようになって

30年、一度も事故を起こした事がない

と言っても、

その内の 27年間は一日せいぜい20~30キロしか走っていない

多く乗れば多く乗る程、事故を起こす確率は高くなる

しかしながら、ここ3年はそれまでの5倍以上の距離を、毎日運転している

一度くらい接触事故が起きても不思議ではない

だが、一度も起こしていない

交通トラブルも一度も起こした事がない

こういう仕事をしていると

自分に過失はなくても事故に巻き込まれる事はよくある

例えば、停車中、後ろから来た車に追突されるとか

向こうからぶつかって来るとか・・・・

そういった災難にあうことは必ずあるはず

でも私はそんな事は一度もない


私はずば抜けて運が良い訳ではない

交通安全のお守りを付けているからでもない



すれ違う車や近くにいる車の運転者の人相を常に見ているだけ

危ない顔の人が運転する車には近づかない


更に、後続の車の運転者の人相もルームミラーをチラチラ見て

常に観察している

後続車の運転者が怪しいと感じたときには

車線を変えるか、追い越しをさせる。

それが無理なら、横道に逃げる

だから、追突されない。

不可抗力もほとんどの場合

自分にも原因がある


一度でも自動車事故を起こした人は

一度では終わらない、何度でもやる

そういう人は運が悪いのか?

何かの悪い因縁がそうさせているのか?

そんなハズはないと思う

仮に何か悪い因縁があったとしても

ほとんどの場合、それは阻止できるはず


運が良いとか  悪いとかは 多くの場合

他力による不可抗力ではなく

危険予知を怠っているだけに過ぎないと思う


最悪の状態を想定して

それに対する対策をしていないだけだと思う

自動車事故に限らず

それは、あらゆる事に言える事ではないだろうか・・・


以前、私は「 人を見る 」と言う事に関して

少々、自信があったにも関わらず

イイ気になっていて、

図に乗っていた


それが原因でチョットの油断をしたばかりに

散々な目に遭った事がある

まるで振って沸いたかのように

次から次へと問題が起きてきた


事態は何とか収拾出来たけれど

約半年間 その事に振り回された

今になって考えると

私は何も悪い事はしていない

でも、

そうなる事を予測しなかった私が悪い


人を疑う事は良くないが

それのみに拘っていたらヒドイ目に合う

あらゆる事に関して 「 ひょっとしたら 」

と疑って客観的に考えてみる事の重要性を思い知らされた


運が良いとか  悪いとか  は

全てとは言わないが、ほとんどの場合

こう言う事ではなかろうか・・・・



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