名古屋の白ウサギ・1964年生・

別名、ウサギ仙人・・職業・会社員

亀田兄弟

2012-10-28 | 思う事
ボクシングの亀田3兄弟
以前私は、大嫌いであった

強い事は確かだが
思い上がった言動
野蛮なパフォーマンス
品のない表情
全てが嫌いだった

ボクシングもある意味エンターテーメント
プロレスには必ず悪役がいるのと同じで
ボクシングにも悪役がいてもおかしくない
それはそれで、ある程度必要な役割ではあるとおもう

でも、ボクシングの場合
プロレスよりは遥かにスポーツの色彩が強い

この場合、見る側の受け止め方が問題であると思える

礼儀も仁義もない亀田兄弟の言動に対して
悪役としての受け止め方をせず

 勝てば将軍、強ければどんな言動も許されるという前提に立ち


カッコいい!!!

面白い!!!!

痛快だ!!!!!

と受け止める事は何かがヘンだと思う


それにいい気になって
更に調子に乗る亀田一族

そういった観点から
亀田兄弟とそのトレーナーである父親を軽蔑していた

亀田 大毅 対 世界チャンピオン内藤大助との決戦のとき
亀田一族の思い上がりは最高潮に達していた
内藤選手をゴキブリと罵った挙句
イザ
試合をしてみると
内藤のほうが遥かに強く優勢
父親の史郎はリングサイドから、大毅に反則を促す指示を送る

 急所を蹴れ!!!

 投げ飛ばせ!!!

とてもマトモな人間の言う事ではない

実力で負けるよりも
反則で負けたほうが得するとの考えだと思う

対戦相手をバカにした無礼なやり方だ

結果、亀田 大毅は負けた

でも、これは亀田兄弟にとって

幸運な出来事だったと感じる


ピンチはチャンス



そのあと、亀田一族に対する非難の声がやっとあがり始めた


亀田兄弟は内藤戦以後、大いに反省し今までとは打って変わって

紳士的な態度、謙虚な態度に豹変した


特に長男は 凛々しく、カッコイイ姿に変貌した


その態度は私の目から見てそれは単なる芝居には見えなかった


それでも史郎は態度を改めず良識を欠く言動を続けた

父親の史郎に対する非難の声が強くなって来た
史郎、最後はとうとうボクシング協会から永久追放されてしまう

このとき、亀田兄弟は言った


世間が何と言おうと

俺達にとって最高のオヤジだ!!!



亀田兄弟の、この言葉を聞いたとき私は

エライ!!!

と心から叫んだ

涙が出てしまった

もし、ここで亀田兄弟が父親の悪い所を
並べ立て、父親を排除するような事を言ったとしたら
私は、亀田兄弟を軽蔑し続けただだろう・・・・

同時に亀田兄弟の未来は期待できないだろう

でも、亀田兄弟は


世界一のオヤジだ!!!

と胸を張って言った

これ以来、私は亀田兄弟に対する嫌悪の念は消えた

応援したい気分に一変した



亀田兄弟の言葉は父親の人格云々という事、以前の問題

として言っている言葉と受け止められる


父親の悪い所を容認しているという意味ではないが

亀田兄弟は自分の根底の部分は父親と同じ土台がある事を

分かっているのだと思う、

それは理屈ではなく

‘魂の声‘

全ての人間の 根底(土台) には善も悪もない

真実の姿があるだけだ

真実の姿は神の姿

親は、当人にとって一番身近な

神の使いではなかろうか・・・・


一番身近な神を認めることが出来ない者が


赤の他人である隣人に慈悲の念を持って接したところで

何になろう・・・・・・


それは単なる自己満足の優越感ではなかろうか・・・


親から受け継ぐ、課題を見つけそれを修正するという使命を放棄した

現実回避ではなかろうか・・・・・・


自己分析の放棄ではなかろうか・・・・・・


世界一のオヤジだ!!!

の一言に、深い感銘を受けた


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フォーマット

2012-10-26 | 思う事


私の父親、は大腸癌で亡くなった
66歳の若さであった
あれから11年の歳月が流れた

私の父親は13歳のとき、父親をチフスで亡くしている
それ以来、4人兄弟の長男として勉強など一切せず
ガムシャラになって働き一家を支え、最終的にはマアマアの財産を築いた

父親の母親はのん気でお気楽な気質、
あまり働かない
            
父は13歳にして実質的には、一家の大黒柱とならざるを得なかった

そんな人生を歩んできたが故
父は物凄く金に細かく、ケチであった
幼い頃、父親に玩具など一度も買ってもらって事はない
何か買ってと言うと物凄い形相で睨み付けられた
父と母はいつも ‘金‘の事で喧嘩していた

父は私の話には一切、耳を傾けず
何を言っても うるさい!!
と怒鳴った

私は、物心ついた頃から、
父親を冷たい視線で見るようになっていた
父の ‘ ケチ ‘ な気質と
ひとりよがりな所が大キライであった
勿論、尊敬する部分もあったが
腹の立つことの方が多かった


いつしか、あんな人間にはなりたくない・・・・
と思うようになっていた

父を亡くして11年の歳月がながれ
私は、いま 二児の父親になっている

今になって思う・・・・・・

私の目から観た 父親の長所、短所、は
私に科せられた課題である

私と父親は親子と言えども別人格
私は親のコピーではない

しかしながら、 ‘私‘ と言う人間の根底には
親から遺伝的に受け継いだ‘ある方向性‘というものが存在する

‘ある方向性‘とは短気だとか、神経質だとか、真面目だとか、
と言った具体的な性質ではなく
精神や魂の根底の部分、
例えて言えば
コンピューターの

「 フォーマット 」

ハードデスクやメモリーに文字や数字を記憶させるとき
ハードデスクやメモリーはそれを受け入れる為の ‘下地‘ を必要とする
もともと、ハードデスクやメモリーは空っぽの状態であるが
そこに、下地を覚えさせてやらないと、データーを書き込む事はできない
その下地の事をフォーマットという

フォーマットはデーターそのものではないが
データーを受け入れる基盤


下地はイロイロな種類がある

Aのフォーマットで書かれた文字やデーターは、
Aのフォーマットの媒体にしか
読み取る事が出来ない

Aのフォーマットで作られたデーターは
Bのフォーマットに読み取らせる事は不可能

私の持つ人格や考え方と
父親の持つ人格や考え方は

まったく別物ではあるけど
そのデーターが乗っかっている土台 (フォーマット)はまったく
同じものであると思う

父親もフォーマットを、その両親から受け継いでいる
血統とはそういうものではなかろうか

昭和初期、出口仁王三郎 という宗教家がいた
このお方、幼い頃から神通力があり
神童と言われていた
回りから 「八つ耳」(直感力や理解力に優れた人間という意味)
と呼ばれる程であった
後に、宗教団体を創設し、カリスマ的教祖となった

最近知った事だが、

出口仁王三郎の孫Wさん、
ある有名進学塾の講師をしているらしい
このお孫さん、進学塾講師の世界では、
‘カリスマ講師‘ と呼ばれているらしい
仁王三郎さんの作った宗教とは無縁で
あくまでも講師という土俵で活躍しているのだが、
その世界で仁王三郎さんと同じように
‘カリスマ‘
になっている
やはり、出口家の血統のなかには
カリスマを輩出するフォーマットがあるのだろう
Wさんの子供もそれを受け継ぎ
また別の世界で‘カリスマ‘となるだろう・・・・

よくよく、調べてみると
この手の話はいくらでもある




私の目に映る親の姿は、
客観的に見ているつもりでも

限りなく客観的ではない

実は、自分の意識を通して親を見ている

自分の意識 = 自分の根底( フォーマット ) = 親の根底( フォーマット )


即ち、 私の目に映る親の姿は ‘自分自身の本性‘ を見ているに過ぎない
もし私が親の事を心の底から憎んだり、怨んだりしたとする
これは、 

完全な自己破壊



親と自分は同じフォーマット、

親の性格、や気質、人格、モノの考え方を完全否定してしまう事は

自分の根源 ( フォーマット ) を否定する事になってしまう


もっと突き詰めて考えれば

私の持つ 、親への思いは

「私自身の心」 なのだ

親を見ているようで、そうでない

実は、自分を見ている事に他ならない


親の人格を否定したり嫌ったりしている限りは、
自分が潜在的に持つ ・  要因 ・ ( 宗教では‘因縁‘と呼ぶ)
から永久に抜け出すかとは出来ない

即ち、自分の意識が受け取る、親の短所、嫌いな面は自分の課題であり
真摯に受け止め、自分がそれを打破していかなければならない宿命をもつ

血統はいくらあがいても変えるることの出来ない宿命

だからと言ってそれを悲観的に考えてはいけない
現に今、ここに自分が存在すると言う事は
存続するに値する血統であるからである
これは、私に限らずどんな人間にもいえる事である

ダーウィンの進化論的に ‘自然淘汰‘の観点で人間に血統を
検証すれば、
存続する意義のない血統はとっくの昔に滅びていたはず

でも、現に今ここに存在する人間に関しては
淘汰されずに先祖から血脈を受け継いでいる

如何なる人も

今、現に、生きているだけで、素晴らしい事であると思う

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ならば、子供がいなかったり、親族すべて死に絶えた人、
そこで、血統が途絶えてしまうヒトは
存続意義がないので‘淘汰‘されという意味なのか?

それは違う

どんな血統も、いつかリセットしなければならない時期が
必ずやって来る

その時期に偶然生まれて来ただけの事


その場合、こういう人は、
血統維持の使命がない代わりに

普通の人とは違う、別の
大きな使命がある

ある意味、重要な人間である

聖徳太子は偉大なる聖者であるにも関わらず
敵対勢力の陰謀で一族全てが殺され
完全にその血統を絶たれた

しかしながら、聖徳太子の人徳と功績は、現代の日本に
今なお大きな恩恵をもたらしている・・・・・


  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


親との、確執を乗り越える事は

先祖から受け継いできた課題を清算し、新たなる飛躍を遂げる為の

チャンスである

まさしく

神が、人間に与えたチャンスと受け止めるべきではないだろうか・・・でも、確執が嫌悪で終わったら悲しい

親を怨む事は、自分を怨む事
自分で自分を怨めば、自分は破壊される

無意識に自分に不利な行動や選択をする
結果
悪い運命を呼び寄せる

親を否定してしまったら、もう自浄作用はなくなり
自己の破滅へと向かうはず・・・・

このことは、長年、人間観察や分析をして来た私の結論、



父親の全てを受け入れ

父親に理屈ではない、無条件の感謝をする


今の私の心境

合掌



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飛行機を飛ばす

2012-10-24 | その他



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鮎料理 琵琶湖

2012-10-21 | グルメ 




琵琶湖へ

鮎を食べに行った


ある美人と一緒だ

この美人は私の怪しげな理論の信奉者

チョットした訳があり

一緒に鮎を食べに行く事となった

( 勿論、家内には事情を説明してある )



これも修行の一環


不断煩悩得涅槃

勝手な解釈かな?・・・・・・



琵琶湖の東岸、長浜市に

鮎茶屋 かわせ

と言う店がある

この店はこの地で鮎を養殖す業者が経営している



駐車場には50台くらいの車が入っている
ナンバーを見るとほとんどが他府県ナンバー
大阪・静岡・三重 ・・・・
この店の人気の高さが伺える



店内は100人以上収容できそうな施設
窓からは雄大な息吹山が一望できる

・・・・・・・・

古事記には
大和武尊は息吹山の神の逆鱗にふれコテンパンに痛めつけられたと記されている

息吹山の神様は気性の荒い神様らしい


ここから息吹山を眺めると
その山肌には大きな採石の傷跡が見える

こんな事して息吹山の神様はお怒りにならないのか・・・・

採石を行った業者は大丈夫なのか?

と余計な事まで心配してしまう







鮎は活きたものを串に刺にして提供される
鮎を見るとその凛々しいお姿についつい拝みたくなってしまう
鮎こそ川魚の帝王と常々思っている



テーブル毎に 鮎を焼く為のガス機器が置かれている

鮎様に「 ごめんなさい 」

と一言声をかけ

ガスコンロのなかに投入!!!


昔、テレビの討論会でチベット仏教の学者が言っていた

言葉をフト思い出した


「 日本人は生きた魚を何の躊躇いもなく平気で食べてしまう、

残忍な民族だからこんな事ができる」


一瞬、腹が立ったが

ムキになるのも大人気ない

そのお方はそう感じたのであり

それを素直に言っただけ・・・

正直なお方である


目くじら立てるような事でもない

外国の人の目にはそう映るのかな?・・・・・・

と思った


そんな事を考えながら、鮎の焼けるのを眺めた




鮎の唐揚が出されてきた

見るからに旨そう・・・



写真を撮る前に待ちきれず

思わず一個食べてしまった

頭からガブリ


美味しい!!!!


骨を残したまま「開き」にして揚げてある

鮎が立体的に湾曲している

これはたぶん生きたままの鮎を素早く開きにして

高温の油に投入したのだろう

鮎がビックリしてギュッと縮んでこういう姿になったのだろう



鮎が焼けてきた


頭からガブリ


美味しい!!!!





名古屋人はこういう時

「 ドエリャー うみゃー ガヤー !!! 」と言う

他にも

天ぷら、南蛮漬け、刺身、甘露煮、次々と鮎料理が繰り出される

鮎の塩焼きは通常ひとり2匹だが

インターネットで予約すると

1匹のオマケが付く 

3匹の鮎は有難い・・・

うれし涙がチョチョギレルとはこのことだ



一人前あたり、鮎は合計9匹くらい使用される

これで一人 2600円  

安すぎる!!!!!




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‘あの世‘  と  ‘この世‘  7

2012-10-20 | 宗教



デビット・ジョセフ・ボーム

1917 ~ 1992年
米国ペンシルベニア州生まれ。
理論物理学者・哲学者・思想家
ロンドン大学バークベック校教授 1961年 ~ 1987年(後に名誉教授)


ボームさんは 85歳で死去 量子物理学の世界で多くの業績を残した偉大な科学者である

アインシュタインと同時期に活躍した学者であるが

アインシュタインほどの知名度はなく、お気の毒に思える

ボームの唱えた物理学理論は限りなく、仏教思想に近い理論

ボームは言った・・・・・・・・・・・・・・

宇宙は2重構造になっている

目に見える物質的な世界と、目に見えない世界

が同時に存在している

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ボームは

目に見える物質的な世界を 明在系 (メイザイケイ)

目に見えない世界を  暗在系 (アンザイケイ)

と名づけた


明在系と暗在系は同時に存在する

明在系と暗在系は全ての物質、精神、時間

などを1つに集約していて、分離が出来ない

ボームの言葉は 仏教思想 にそのまま当てはまる

般若心経に記された有名な言葉

色即是空

色 =  明在系 (この世)

空 =  暗在系  (あの世)

この世 即ち あの世

物理学も究極的には、 色即是空の世界たどり着く


しきふいくう
色不異空  (形あるものは実体がないことと同じ)


くうふいしき
空不異色  (実体がないから形あるものとして存在する)


しきそくぜくう
色即是空  (形あるものは実体がない)
             


くうそくぜしき
空即是色  (実体がないから形あるものとなる)


          ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ボームの理論は 時間 も無いと言っている


ぜしょほうくうそう
是諸法空想  (この世の中のあらゆる存在や現象には、実体がない)


ふしょうふめつ
不生不滅  (もともと、生じたということもなく、滅したこともない)


・・・・・・・・・・・・・

釈迦が 死後の世界 ・ 死後の霊魂 ・ をなぜ肯定しなかったか・・・

その答えがココにあるような気がする

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

現世と死後の世界・来世・ は同時に進行しているのではなかろうか・・・

あの世 とは人間が死んでから行く世界ではなく

‘ この世  ‘   と   ‘ あの世は ‘ 表裏一体であり分離不能

分離不能であるから、分けて考える必要はない・・・・・


それ故、死後の世界や霊魂を肯定するまでもなく


時間も空間も超越している世界を知り

「 仏の慈悲 」 の世界を観た釈迦にとっては

そう言った事を持ち出すと自分の本意を伝え辛くなる

だから

肯定も 否定も せず、

タダ タダ 沈黙に徹したのではなかろうか・・・・・


近代物理学は仏教の理論に近づき続けている

キリスト様も偉大であるが、最先端科学 から観ると

釈迦の仏教は更に奥が深い

釈迦は人類が求める究極の「 科学的真理  」を

遥か数千年の昔にすでに悟っていた


仏教の教義は物理学や科学のように

数式や実験、論証によって組み立てられている訳ではない


人間の理性や英知を超えた

霊感 によって作られた理論・(教義)としか思えない

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

時間 も無い?

それはオカシイぞ!!!!

もし、時間も無ければ

原因・因果の法則  は間違いと言う事になってしまう


原因があるから 結果がある

良い因縁があれば良い事が起き

悪い因縁があれば 悪い事が起きる


これは 

 過去 ⇒ 現在 ⇒ 未来

という 時間 のなかで成立する 概念 であるはず

本来、時間がなければ、この教義は成り立たない・・・・・・・・・・・・・・

多くの人々が 生まれながらにして 因縁 を背負っている

悪因縁・悪業・悪想念・

それらの要素によって苦しんでいる

宗教の人間は

「 あなたの心がそれを造った 」

「 先祖供養を怠っている 」

「 前世の因縁がある 」

「 今生はダメでも来世がある・・・・ 」

「 魂の修行だ 」

「 業が消え去る姿だ 」

と仰るだろう・・・・・

決して間違った事を言っている訳ではないと思う・・・・

ある断面から観れば確かにそれが正しい答えなのかもしれない・・・・


人の苦しみは 苦しんでいる本人にしか分からない・・・・・

それらのお言葉を大きな声で躊躇なくお語りになる方々、

本当にその人の苦しみを理解して言ってお見えなのか?

でも、もし、‘ 本当に理解する ‘ という行為が可能であり、

それを実際に行ったら、

本当に理解した人までも、苦痛を感じ、不幸で暗黒の世界を実現してしまう

それは現象世界の法則であり、必然であると思う

人の苦しみを完全に理解するのが宗教家の義務だ!!! などとは思わない。

宗教団体や、何らかの組織に属するものは

人の苦しみを実感出来ている訳ではいないが、苦しむ人間に対して

教義 ( 正論 )を力任せで ぶつける しかない

たぶん、教義・正論を力説する事は

人に言い聞かせる事のみが目的ではなく

「言っている自分自身」 にも言い聞かせて

自分をも 無理やり納得させようとするメカニズムが働いているのではなかろうか・・


私の知るある宗教団体の指導者的立場のお方 W先生

他人から悩み事を相談されると、

「 必ずよくなります 」

「 あなたの心が変われば、すべては解決します 」

「 祈りはかならず実現します 」

と誰に対しても自信をもって力説される

10年位前のお話だが、

偶然、ヒョンな事からこのお方の子供さんと知り合いになった

子供さんは、親の宗教論に対しては、肯定も否定もしていない

まったく無関心の立場との事

この子供さんが親の実情を私に語ってくれた

どうやら、W先生、不運の連続であるらしい

これでもか! これでもか!  といわんばかりに

次々と不運や災難、不吉な出来事が連続しているらしい

詳しくは書けないけれど

気味が悪いほど不吉な事が連続している

W先生は、時々、子供に本音をもらすらしい・・・・


「 どうしてこんなに悪い事がつづくのだろう・・・・ 」


Wさんは人格高貴なお方で、とこから観ても立派なお方である

私利私欲がなく、常に奉仕の精神の持ち主でもあせられる

皮肉に聞こえてしまったら申し訳ないけど

W先生がお気の毒で仕方がない・・・・・

宗教団体に属している方には

 W先生 のような状況に追い込まれている人も大勢いると思う

間違った事を言っている訳ではないから、

このことが‘ 悪業‘ とはならないだろうけど

なんだかオカシイ気がする

私は、それ故、 宗教団体が嫌いである

量子物理学は

近い未来、 時間という概念を否定する決定的な理論と確証を勝ち取るはずだ

仏教の原点を科学理論のなかで立証するはずだ

因縁  ・  業   ・  カルマ  ・ 前世  ・  来世

を超越した 真理 を科学と言う手法で

万人に納得させてくれる日が来るはずだ

だけど・・・

現代を生きる者の課題は

遠い未来に期待を寄せ夢を見る事ではない


それでは、単なる 理想主義者 となってしまう


今出来ることを一歩踏み出さない事には、生まれてきた価値がない

その為には

タテマエなど持たない、名誉などどうでも良い

まず、自分が幸福にならなければいけない

まず、自分が豊かにならなければならない

自分が幸福になる事が肝心であり、

自分が幸福になり繁栄する事が

結果として、家族の幸福となり、親族の幸福となり

隣人の幸福となり

国家の幸福となり

世界人類の幸福となる・・・・・


個人主義が良い意味で拡大する事こそ最善の道であると信じる

これこそが宗教の宗教たる由縁ではなかろうか・・・

現世利益がなければ宗教の意味はない・・・・

不運や災難は善良な人にも、そうでない人にも同じように起きる・・・

人格と運命には因果関係はない・・・・・

どうした事か・・・・・・

悲しい・・・・

悔しい・・・・・・・

腹立たしい・・・・・・・・

なぜ、人格が運命に反映しないのか?・・・・

こういう事を言うと、宗教の人間は

「 ならばアンタ、悪い事をしても良いと思うのか!! 」

と立腹した口調で仰るだろう・・・・・

実際にそういう論法のおエライ人を見た事がある

ため息が出るだけで、何も言い返す気にはなれなかった・・・・

当然の如く、私は悪い事はしたくない

悪に憧れている訳ではない

私の持つ、そんな前提をも察知できないお偉い輩は大勢いると思う

私から見るとこういう論法は「道徳論」であり

宗教論とは思えない

道徳論だけで運命や宿命は語れないと思う

善悪を追求して何になるんだ・・・・と言いたい

人を殺す事は 悪である

人を不幸にする事は悪である

人の不幸を喜ぶのは悪である

人を騙して金をとる事は悪である


そんなレベルで善悪を追求する事が、宗教の最終目的ではない

そんなこと 当たり前であるそれを前提にして、更に善悪を追求する事が

宗教の役割ではなか・・・・

 時と、場所と、人、 の三つの要素 が

物事を「善」にしたり「悪」にしたりする

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

個人主義の拡大  と言う立場から

なんとかせねばならない・・・・・

仏教の極意

を追求するしかない・・・・・

宗教の極致

キリスト教の本意

親鸞の本意

空海の本意

最澄の本意

道元の本意

神道の本質

すべての宗教が示唆する

宗教の 本質 が見えてくるはずだ!!!

私はまだまだ未熟ではあるが、果敢に突き進む

奇跡を起こしてみせる。

わたしは負けない!!!!!

続く




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‘あの世‘  と  ‘この世‘  6

2012-10-14 | 宗教


現在 多くの人々が認識している 仏教 は

釈迦が説いた 本来の仏教とは

大きな隔たりがあると思う

現在の仏教は

時代背景 歴史的背景 民族 などの

あらゆる要素を背景に成立した複合の産物のように思える

日本においては


 仏教 = 先祖供養


というイメージがあるが

  日本人がイメージする 先祖崇拝 先祖供養  といった教義や儀式は

本来の仏教にはなかったようです


仏教が日本に伝来したとき

もともと大和民族に 先祖崇拝 という土壌があり


それが仏教と融合して

日本独特の 仏教 を完成させた



仏教はインドで発祥し

日本で完成した


これはあくまで私の個人的な考えであり

大きな声で主張する気もない

否定されても議論するつもりもありません

でも、私はそう確信している


ならば ・・・・・


釈迦が説いた 本来の仏教 を追求しても意味がないということになってしまう


そうは思わない・・・・・


釈迦の説いた  魂 や 霊魂  の概念を否定した

本来の仏教のなかに

難解ではあるけど

究極の 真理 が隠されていると思う


親鸞聖人は 霊魂 や 魂 といった概念を否定された

それ故、 「 私が死んでも 墓 造るな 」と言い残した


同時に ありとあらゆる迷信を排除した

方角がどうだ・・・日柄がどうだ・・・・家相がとうだ・・・

加持祈祷・・・・

などといった事をすべて否定した

よくよく考えれば 親鸞聖人の考え方こそ 釈迦の説いたオリジナルな仏教

に思えてくる



ならば、加持祈祷を行う 真言宗 天台宗 などの

霊魂・魂・肯定派仏教  は間違った事を言っているのか・・・・


そうは思わない・・・・・・・・


東密  台密   ともに奥が深い


矛盾する考え方となるけど


親鸞 ・ 空海 ・ 最澄 ・ 道元


どなたも偉大であり 尊敬している


この難解な私の立場を 合理的に説明しようとするなら

量子力学

の概念を持ってくる以外方法がない

続く






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‘あの世‘  と  ‘この世‘  5

2012-10-11 | 宗教

キリスト教の経典は 聖書 

イスラム教の経典は コーラン

それに比べたら 仏教の経典は膨大すぎる
一千年以上のときを経て、仏教は多くの変貌を遂げてきた


 釈迦とその弟子たちの時代の仏教を 原始仏教という


 そのあと、いくつかの集まりに分裂して行った
 この時代に確立した仏教を 南方仏教 という


更に時代を経て 大乗仏教 が出現する


大乗仏教は 衆生の救済 を目的としている

南方仏教は 自己の悟り だけを目的にしている


それ故、大乗仏教は 南方仏教を 「 劣った教義 」と決め付け

バカにした意味で 「 小乗 」と呼んだ

小乗仏教  とは大乗仏教側が偏見を持って名づけた呼び方である

大乗に比べて 格が低い と言う意味ではない


仏教は


原始仏教 ⇒ 南方仏教 ⇒ 大乗仏教 

と複雑な変貌をとげて来た


仏教は釈迦の教えだが

ここまで多くの改革が行われて来たとなると

どれが、釈迦が当初 説いた教義なのか

サッパリ分からない

仏教は 釈迦を離れ更に進化したのか?

それとも 別物 になってしまったのか?


ある、権威ある仏教学者は

「 釈迦が実在の人物である確証はない 」

と言ったそうである


実は私も同感である


「 釈迦は実在の人物であるはずだが、架空の人物である可能性もある 」


私は常々そう思っている。


でも、そんな事は大きな問題ではない


仏教が説く教義は


人類が培った 英知の結集 であり

仏 の言葉であると思っている




人間死んだらどうなるのか・・・

死後の世界はあるのか?


個別の人格と個性をもつ 霊魂は 存在するのか・・・・

仏典に記された 釈迦の言動のみを根拠に

それを論ずるのは無理があるような気がする。

続く




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‘あの世‘  と  ‘この世‘  4

2012-10-08 | 宗教
死後の世界はあるか ないか
仏教は当然 それを認める立場であると

若い頃は 勝手に思い込んでいた

でも 

それはチョット違うようだ・・・・

膨大な仏教の経典を出来る限りではあるが

紐解いてゆくと

お釈迦様は 死後の世界 について
明確な事は何一つ言っていないような雰囲気・・・

あれーれー ?

おかしいぞ・・・・・

さらに、よくよく研究を重ねた

お釈迦様は死後の世界について

「 無 記 」  ( 肯定も否定もしない )

立場のご様子


その事は あまり触れたくなかったみたい


お釈迦様は


「 そんな話は役に立たないから語りたくない 」

というような事を言われたみたい



なぜ  無 記   の立場なのか

永遠の謎かもしれない



お釈迦様・・・・

それは チョット 意地悪 なんではないですか・・・・・


と言いたくなってしまう


お釈迦様の言動を

経典だけから総合的に解釈すると


人間死んだら、無条件に 西方極楽浄土 に行く



死んだと同時に皆 解脱して

仏 のもとに吸収される ・・・・






 チベット密教 では、

これを   ポア   と言うらしい



宗教団体の オーム は 、 この言葉を勝手に

解釈して、 だから 人を殺しても 良い

という誤った思想を作り出してしまった




結果、オーム事件で 言葉のイメージをを悪くされてしまった

チベット仏教さんにしてみれば

 大きな迷惑

同じ日本人としてお詫びしたい思いがして来る



もちろん、現在 インドやチベットには

 死後の世界や 霊魂  を肯定している方たちも

お見えであるとは思う


でも・・・

釈迦の 言動をそのままストレートに解釈したたら

やはり、 我々のイメージする 霊魂 など存在しない

と言う事になってしまう



日本の仏教 でも 死後の世界を 認めていない宗派がある

すなわち 個別の霊魂 は存在しないということ

わたしは 先祖代々 親鸞聖人 の開いた

東本願寺

東本願寺でも、 死後の世界や霊魂  は認めていない

それ故、 本願寺では、死んでも  位牌  は作らない

その代わり  過去帳  という木の板を作る

一見 位牌 のようにみえるけど

位牌 ではない

いわば  死者の戒名を書いた名札  のような位置づけ

本願寺の考え方は 



仏壇は阿弥陀如来を祭るところであり死者を祭るところではない  


と言う考え方、


それ故、過去帳は   

仏壇の隅に  何枚も重ねて ひっそり 置かれる


それとは逆に

 
真言宗 や  天台宗  曹洞宗  日蓮宗  臨済宗 などは

死後の世界  個別の霊魂  を認めている

だから 位牌 を作る


なんと 不可解な・・・・・・・・・


もし、個別の霊魂が実在するものなら


 霊魂を認めない  という見解が間違っている事になる


たいへんな事だ・・・・


本願寺を初めとする 浄土真宗 の信徒は


日本のなかでは 圧倒的多数 を占める


多くの 霊魂が 存在を認めてもらえず

悲しんでいる事になってしまう


いったい どう言う事なのか・・・・・・

                  つづく

 








 







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‘あの世‘  と  ‘この世‘  3武士道

2012-10-07 | 宗教

ニュートン ・ デカルト の登場以来
人類の科学技は急激な飛躍を遂げた

ニーユートン ・ デカルト が生み出した近代科学思想は
人類の長い歴史のなかで、わずか300年の間に
人類に多くの 富 をもたらした。

フランスの哲学者 デカルト は 

「 物心二元論 」

を唱えた。
物心二元論とは 
物質と精神は、まったく別物であり、分離して考えるべきだ・・・・・
というもの。

デカルト思想は、 宗教に対する挑戦  であった。

対立は一層深刻になるはず・・・・

不思議なもので

その結果として、血なまぐさい対立や弾圧は格段に減った


宗教と科学 が完全に分離された事によって
お互いの 縄張りが確立され、それまでに比べれば
はるかに 平和的な状況となったのではないだろうか・・・

私が思うに、

  ニユートンさん  デカルトさん どちらも

 「 神の使い 」


に思える。

ニユートン ⇒ デカルト 
という流れのなかで
宗教の否定 ・ 若しくは 科学と宗教の決別
が行われたのだが、

これも  天の摂理  であると強く感じる。

神は
時と 場所と 人 によって
それが神を否定する思想であったとしても
人類にとって最も合理的な方法を
与えているのではなかろうか・・・・

私は、若い頃 科学万能主義者 ・ 無神論者 に対して
敵意を持っていた、

48歳になった今、
その敵意はまったくない

神 を否定されても腹が立たない
宗教 を否定されても 何とも思わない


科学万能論者 の背後に 神 を感じるからだ

宗教否定論者の 頭上に 仏 を感じるからだ



なかには 暴力的な、攻撃的な 強烈な
破壊的な 戦闘意識 を持った
 唯物論者 無神論者 もいるだろう

そういう輩に対しては、

 防御と、礼節をわきまえた反撃

が必要だと思う

でも、そういう輩は 沢山いそうだが、
めったにいないような気がする

  

同じ人間同士でありながら、
根本的な思想の違い、価値観の 違いはどうしても起きる。

最も平和的 最も合理的に
人類の進化を目指すなら

宗教と科学は 妥協や ・ 協調 ・ 融合 ・を目指すよりも
双方が礼節を持ち、敬意をもち、尊重し合うことのほうが
大切ではないだろうか

それを続ける事によって
除々にお互いの融合が起きると思う。

その 融合 の入口は

量子力学

 であると思う
 

仮に、どうしても対決が必要と思われる場面がきたとしたら、
礼儀と、作法と、 誠意を持って 相手に一撃を加える
これが 日本の 

武士道 

この精神を大切にしたい・・・・・


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