名古屋の白ウサギ・1964年生・

別名、ウサギ仙人・・職業・会社員

きっと良い閃きがあるはずです。

2024-09-14 | 宗教


弥勒菩薩

お釈迦様が入滅した後、
56億年7千万年後に
仏なると約束された方です。

指に注目してください。
親指の先と薬指の先を接触させて
輪を作っています。



これを仏教では「印相」と呼びます。

印相(いんそう)、とは、

手の指で様々な形を作り、
宗教的理念を象徴的に表すものです。

親指と薬指で作る印相を

「思惟手」(しゆいしゅ)
と申します。

この印相は、弥勒菩薩さまが、
56億年7千万年後仏になったとき、
どのように人を救おうかと考えている
お姿を意味しているそうです。



私の場合・・
苦しんでいる人がいて、
その人を救うために、
どうしたら良いかを真剣に考え、
思い悩むとき、
無意識のうちに、
親指と薬指で輪を作っています。

不思議なことに、
良い知恵が湧いて来る事がよくあります。

  

人間の脳内には、
精神系だけに関連する
 A10神経 
という神経があります。

たぶん、この印を結ぶと、
前頭前野のA10神経に微弱な信号が流れて
閃きのスイッチをオンにする為の
刺激が加わるのではないかと推測します。

私の勝手な推測ですが、
このA10神経に
「閃き」「直感」の
入り口があるような気がします。

この、閃き・直感とは・・
俗に云う「霊感」のようなものと思います。

(霊感とは、あくまでも
「脳内作用」であると思っています。)

     

弥勒菩薩様の

「思惟手」(しゆいしゅ)

これを真似ると、
脳内に指令が伝わり、
人を助けるため知恵が得られやすい
状態になるのだと思います。

重要な事を考えるとき、

 親と薬指で輪を作る 

これをお勧めします。

 きっと良い閃きがあるはずです。







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文学の世界の話として受け止める。

2024-09-06 | 宗教


 輪廻転生 

輪廻転生とは??

人は死んだあと生まれかわる。

輪廻とは・・・車輪が回るという意味。
転生とは・・・生まれ変わるという意味。

バラモン教の考え方を仏教が取り入れた。

輪廻転生・・・真実か???

空想の産物か???

「絶対にアル」
と断言する宗教関係者もいる。

確証も無いのに断言することは
非常に危なっかしい行為だ思う。

ある新興宗教の教祖様は、

誰々は・・・誰々の生まれ変わりである・・・

などど断言する。



ただし・・・不思議な事に、
その内容は時々訂正される。

「kさんはナイチンゲールの生まれ変わりである」
と言っていたにも関わらず・・・
状況が変わると、

「 Kさんは実は悪魔の生まれ変わりです」
などと言って簡単に
前言を翻す教祖様もいるらしい。



私の考え・・・・

輪廻転生は

肯定も否定もできない

輪廻転生が真実だとしても、
前世を知ることは絶対に出来ない

「あなたの前世は〇〇です・・・」

と発言する宗教家、
スピリチャルさん、右脳教屋さんがいる。

なかには魂胆があって
嘘をついている人も存在すると思うが、

純粋で真面目な御方が、
大真面目に言っている場合も多いと思う。



もし、仮にの話ですが・・・

世間で有能と言われている
霊能者や拝み屋さん、
霊感のある宗教家を10人集めたとします。

この10人の方と個別に面会して、
私の前世を見てもらったとします。

そのとき起こり得ること・・・

「あなたの前世は・・・
石川五右衛門です!!!」

と全員が断言する・・・・
若しくは過半数の先生が
同じ回答をすることがある得るだろうか?

 いや・・・

「そんなことは絶対にありえない」と思います。



A先生は・・・
「あなたの前世は戦国武将です」

B先生は・・・
「あなたの前世は坊さんです」

C先生は・・・
「あなたの前世は柿本人麻呂です」

D先生は・・
「あなた前世は賓頭盧尊者です」

こんなな感じになると思います。



この場合・・・
どの先生の話が真実なのか???

正解は多数決で決めるのか???

真実は一つのはずです。

間違った回答は無限大にあります。

即ち・・・・・
前世は何だったか???
の問いに対して、答えは出せない。

前世はあるかも知れないが、
特定は絶対に不可能。

もし、それを特定したり断言したりするエライ先生がいたら。

1・・・笑って聞き流す。

2・・・神話の世界、文学の世界の話として受け止める。

3・・・心の問題としての、観念として受け止める。

4・・・勧誘や支配を目的としているようなら近づかない。

5・・・とことん矛盾を追求して論破する。
(危険を伴うのでこれは避けた方がよい)
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恐怖の体験

2024-08-03 | 宗教


私が20歳の頃(今から40年前)
当時の私は
奈良大和路に魅了されていました。

当時、毎年、4~5回は通ったと思います。

奈良に行ったとき必ず、
大神神社(おおみわ神社)を参拝し、
この神社の御神体である、
三輪山を眺めるのが通例でした。

三輪山山麓に桧原神社という神社があります。

この神社のある場所は、
「 倭笠縫邑伝承地 」
と呼ばれています。

「倭笠縫邑(やまとかさぬいむら)」
とは、
現在の伊勢神宮(内宮)に祀られてい
る天照大神を
初めて宮中の外でお祭りした場所です。

この地こそ、
現在の伊勢の神宮の出発点であると感じます。

桧原神社の境内からは、
大和盆地の景観が一望できます。

この地に立つと、
「 大和は国のまほろば・・・」
の歌が心の中に響いて来ます。

大和盆地の反対側には、
生駒山系が連なっています。

生駒山、信貴山は、
修験道系・密教系の霊場が点在していて、
日本有数の霊山としてもその名が知られています。。

私はそれまで何度も奈良に訪れていたのですが、
生駒山の方面には一度も足を踏み
入れることありませんでした。

理由は分かりませんが、
私には相性が良くない土地だと思えたからです。

そんなある日の事、
なぜか、フト思いつきました・・・

生駒山に行ってみよう・・・・

生駒山中にある、
x寺というお寺には宿坊があり、
格安な値段で宿泊できあると
云う事を知りました。

安いことも魅力でしたが、
好奇心のような感覚もあり、
その寺で、泊めて頂く事にしました。

この寺は、役行者(えんの行者)
が開山したお寺で歴史の古いお寺でした。

対向車が来たらすれ違うこともできない、
曲がりくねった細い山道を車で登って行くと、
いかにも役の行者が好みそうな場所に、
xx寺がありました。

寺にたどり着いて車を停めたとき、
日が暮れ始めていました。

車を降りたとき、
冷たい小雨が降り始めました。

掃除や庭木の手入れなども行き行き届いた、
立派なお寺でした。

石段を見上げると、
夕暮れの濃い霧の中に
本堂が浮かんでいました。

独りぼっちの私の目には
不気味な光景に映りました。

それは映画八墓村のワンシーンのような
心細さを感じる神秘的な絵でした。

石段を登り、本堂に辿り着きました。

ほかに宿泊客がいると思っていたのですが、
私以外誰もいませんでした。

どう訳か分かりませんが・・
今日は、
寺にいるのは住職ひとりだけの様子。

臆病な私は心細くなってきました・・・

・・・・・・・・

夕食の時間になりました。

夕食は住職が鍋を作ってくださいました。

大きな鉄鍋の中を覗き込むと、
ネギがたくさん入っている、
シンプルなものでした。

汁は少量で、透明・・・
出汁の味は全く
感じられませんでした。

鉄鍋の底には肉団子が沈んでいました。

鳥の挽肉に生卵を入れて、丸めただけの
シンプルな鶏団子でした。

不平を言っては失礼ですが・・・
まったく味の無い汁でした・・・

住職は、嬉しそうな眼差しで、
鍋の中に醤油と、スプーンに
山盛りの砂糖を投入しました。

(これはスキ焼と云うのかもしれません)

住職は自分の取り皿に
野菜と肉団子を取り分けると、
美味しそうに食べてお
見えになりました。

薄暗い本堂の密教の護摩壇の横で、
住職と2人でほとんど会話もなく、
黙々と食べました。

なんとも寂しく孤独で・・
異様な光景でした。

そのあと、住職は住処に帰り、
私は離れの宿坊で一人になりました。

物音ひとつしない、無音状態。
テレビもない。

気味が悪く、怖くなってきたので、
寝るのが勝ち!!と思い、
8時くらいに布団にはいりました。

そのあと・・・
恐怖の一夜が待ち構えていたのです・・・

布団に入って目を閉じると、
何やら、只ならぬ気配を感じる・・・

数人の人にジッと
見つめられているような感覚・・・
四方八方から視線を感じる。

怖くて、頭から布団に潜り込む。
眠れない。

恐怖のあまり、
布団の中に潜り込む、
それでも・・
強い視線を感じる。

住職に助けを求めに行こうと思った。

しかしながら・・
住職が寝ていると推測される御堂まで
行こうと思うと、
真っ暗な本堂を
通り抜けて行かねばならない。

暗闇を歩いてゆく勇気もない。

恐怖心は限界に達していた・・・



いっその事・・・
化け物でも、
幽霊でも、妖怪でも・・
何でもいいから、
姿を現して欲しいと思った。

幽霊が姿を見せてくれたなら、
大声で 

助けてー 

と叫ぶことができる。

しかしながら、
この状態で 「助けてー!!!! 」
と叫ぶことすらできない。

四方八方から強い視線を感じるだけで、
別に非常事態が発生した
訳ではないからである。

じっと耐え続けていたら、
今度は小便がしたくなってきました。

強い尿意を感じるも、
更に強い視線を感じる。

やはり怖くて布団から出ることができない。

尿意が更に睡眠を妨げる。

結局、夜が明けるまで一睡もできませんでした。

長い夜が明けました・・・

生涯で一番長い夜でした。



住職と2人で朝食を食べました。
そのとき、住職に昨晩の事を話しました。

住職は笑うだけでした。

そこで私が尋ねました、
「 幽霊や魔物は存在しますか? 」

住職、ニッコリ笑って答えました・・・

「  そんなものは存在しません、
怖いと思うから怖いだけですよ  」

・・・・

修験道系の密教では、
護摩壇の前での加持祈祷は必須で、
その場合、加持祈祷を受ける人には、
頻繁に憑依現象が起きているはずです。

それに、
この寺に住んでいれば何らかの体験を
しないはずがありません。

浄土真宗系ならば、
基本的には霊魂の存在を認めていないので
霊的現象を否定されたとしても
不思議ではありませんが、

この寺は、役行者の開山した寺で、
現在は山岳修験道系の密教寺院です。

それでも敢えて否定されるところに
深い意味があると感じました。

今になって思うに、
これは修験道で言う、

 「 行試 」(ぎょうためし)

あのとき体験したことは、
霊や魔物の仕業ではなく、
そういう「 現象 」を通して、
役行者が私を
「 試した」 のだと思えます。

今思えば・・・
あのとき、私が取るべき最も適切な対処方法は、
迫り来る只ならぬ気配と、
四方八方から注がれる
強い視線に対して、

ニッコリ笑って

 注目して頂けて光栄です

 歓迎して下さって有難うございます

 今ここ天国極楽浄土



と、申し上げるべきだったと思います。

その時、迫り来る恐怖の視線は消え去り・・
天女が現れて極楽浄土の
光景を見せてくれていたかもしれません。

後1か月で60歳となります。

再度、
あの寺で泊まってみたいと思っています。

もし、あの時と同じ事が起きたなら、
  
 ニッコリ笑って申し上げたいです。

  注目して頂けて光栄です

 今ここ天国極楽浄土



果たして・・
このような対応が出来るかどうか???

ひょつとしたら、
怖くて気絶してしまうかも・・・

ミラクル白ウサギの
真価が試されることになるでしょう・・・

畏れ多くも・・・
再度、役行者様と
相撲を取る日が来るのが楽しみです。

自分の生態が興味深いです。
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肯定も否定もしない・・

2024-07-30 | 宗教


死んで あの世 に還った霊魂が、
また再びこの世に何度も
生まれ変わってくることを

俗的には、輪廻転生 という。

(厳密に言えば、仏教の教義に於ける、
輪廻転生とは少し意味が違う)



はたして、人間は死んだ後、魂はまた再び
別の肉体に宿るのだろうか?



私は、若い頃からずっと考え続けてきた

「 生まれ変わり 」 
ほんとうなのか?



実を言うと・・
私は、
他人の過去世が分かる(感じる)
ことがある。

そういう時は、
自分で自分の感覚を否定する

この姿勢こそが自称・宗教家としての
「責務」であると思っている。

自分の感覚に自己陶酔する者は、
多くの場合、社会に害をもたらす。

科学的に説明ができない、
「何か」を感じたとき、

  自分の感覚を疑う。
科学的合理性が認められない場合、
自分の感覚を否定する 

これこそが正気を保つための
絶対条件であると思っている。



過去生を知ることはできるのか 

生まれ変わり・・とは真実なのか 



ある時、
この疑問に対する答えを出した。

 永遠の謎  

これが私の結論です



宇宙の果てはどうなっているのだろうか?

どんなものにもその 終わり がある
宇宙の果てまで行く事が出来たら
そこには何があるのだろうか?

壁 があるとする。

ならば壁の向こうには何がある。
また、宇宙があるのか?

もし、宇宙の果てに壁がなかったら、
地球上を まっすぐひたすら進んで行ったら
また同じ場所に戻ってくるように
宇宙も丸い形をしていて、
一周してまた地球に戻ってくるのだろうか?

ならば、その 丸い宇宙 の外には何がある?

結局、答えは出せない。

これは、

 永遠の謎 

即ち、「 解らない 」

が答えである。

 

「 解らない 」
とは逃げ で言っている訳ではない。

「 解らない 」 も れっきとした 

 答え   であると思う。

人間の頭脳や感性で
全ての事に対して答えを出す事が出来るのだろうか?

「 人間は、すべての事に対して必ず答えが出せる 」

と大真面目に信ずるなら、
それは、

「 争いや、戦争が
ない社会がいつか必ずやって来る 」

と、大真面目に信じる者と同列に思える。

このような輩を、
「夢見るドリーマー」
と呼ぶ。

その 希望的な妄想 が極度に達したとき、

 カルト宗教 となる 

若しくは、ドラックに走る。



アメリカで、かつて、ヒッピー と呼ばれる
人達が発生した。

ヒッピー とは、
伝統・制度などの既成の
価値観に縛られた人間生活を否定し
文明以前の野生生活への
回帰を提唱する人々の総称。

ヒッピー と呼ばれる人達の本質は
極めて純粋な人間であったと思う。

だが、哀しい事に
ヒッピー の人達の多くは必然的に

 反戦運動 ・・・・・

 薬物・・・・

 カルト宗教・・・・

 極端な形での右脳信仰・・

このような道を辿る事になった。



どういう訳か???
この種の集団は、
欲情・色情に支配されやすい傾向にあり、
フリーS▲Ⅹ・・若しくは破廉恥行動
に傾倒することが多い。



皮肉なことに、ヒッピーは、
西洋思想を嫌い、
「東洋思想」 に憧れ、歩み寄った。

「東洋思想」
にも西洋思想とは別の意味で
大きな落とし穴が存在する。



かつて、オーム真理教 に洗脳され
奈落の底に突き落とされた信者達は、
どこか、ヒッピー 
に似ているような気がする。



実を言うと、
私の 願望 としては、
輪廻転生(生まれ変わり)
 が真実であって欲しい。

でも、それは 
「希望から来る 期待」であり、

期待を持って物事を考えれば
それにたいして、
都合の良い事例や要因などしか
目に入ってこないだろう・・・



お釈迦様は、結局最後まで

輪廻転生 や 死後の世界 
について何も語らなかった。

 これには諸説ありますが、
学問として仏教を検証する場合、
お釈迦様は、
「死後の世界」や「生まれ変わり」
という概念に対して、

 肯定も否定もしない・・
という立場を貫かれた



私も、輪廻転生 (生まれ変わり)
を信じたい願望は心の奥底に確かにある。

でも、それは 「期待と願望 」
の世界に留めておくべきであると思うようになった。

この姿勢こそが、自称・宗教家 として
「私のあるべき姿」であるとおもっている。
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疑うことを忘れた無防備な人間

2024-07-25 | 宗教


 偶然に起きたこと 

これに意味を求めると落とし穴にハマる。



3桁の数字は何通りの組み合わせがあるか??

10×10×10=1000

1千通り組み合わせがある・・

私は以前、家庭用の電気メータを
取り替えたり、
取り付けたりする仕事をしていました。

毎日、30個位の電気メータを取り付けていました。

電気メーターには製造番号が刻印されています。

製造番号は10桁なのですが、便宜上、
下3桁のみで管理されていました。

取り付けた電気メーターは、
10桁全てをデーター端末に入力しますが、
そのあとは、
便宜上、下3桁の数字のみが、そのメーターの
目印として扱われます。

「下3桁」と、「契約者名」
の2項目が契約を特定する背番号となります。

工場から出荷される計器の製造番号はランダムです。

アパートなど複数の部屋(契約)がある物件で、
取り付け時に、製造番号の下3桁が
隣の部屋と同じになると
たいへんな事になる危険性があります。

メーターの指示を検針する人は、
メーターの下3桁の
製造番号を頼りに
メーターを特定して、検針しています。

検針員は、「部屋番号」と「下3桁の計器番号」
の両方で場所を特定する決まりになっていますが・・

人間、誰しも失敗する事があります。

もし、検針員が何らかの事情で、
例外的にマニュアルを無視して、
製造番号だけで部屋を特定してしまったとします。

偶然には偶然が重なり・・偶然にも・・
もし、下3桁が、
隣と同じ製造番号なら・・
隣の部屋に料金の請求がいってしまう・・

仮に業務事故にならなかったとしても、
絶対に隣の家の電気メーターの製造番号が
同じになってはいけない。



計器取り付け作業者は
毎日、倉庫から約30個持ち出します。

下3桁が同じ製造番号が連続する確率は

 1000分の1 

であるはずですが・・・
時々、不思議な事が起きます。

同じ3桁の製造番号が
隣あ合わせになることがあるのです。。



(電力会社は、社会的責任が大きいため、
「あり得ないこと」に対しても
二重・三重のチェックが為されています。
取付作業終了後、
机上での最終チェックします。
このとき、
同一番号が並んでいることが判明することもあります。
幸いにも二重チェックが機能して、
事前に事故を阻止することが出来たのですが、
また、同じ事が起きないように・・という観点から、
重大な問題として扱われました)



長年(約13年間)やっていると、
30個の内、
同じ番号が連続して
いるこが数回ありました。

更に・・その数字が
777とか
666とか・・・
意味ありげな数字が隣り合わせになることもよくある。

欧米の陰陽師は666という数字は
魔力が宿ると考えているようです。

30個の内、666の製造番号が
隣り合わせになる確率・・・

チョット計算が難しいです。
計算できますが、
私の計算が間違っている可能性があります。
馬鹿がバレてしまうので明記しません。

とにかく、、確率的な観点では
「奇跡的な出来事」です。

13年間、電気屋として、
電気メータを毎日取り扱う中で、

 「極めて低い確率」とは・・・
「絶対にあり得ない」と言う意味ではない

「まず、あり得ない」・・・と、
いう意味でしかない・・・

「まず」と言う言葉は、
文学では通用しますが、
数学では、通用しない言葉です。

数学は、笑ってゴマカシしても通用しません。

ならば・・・

意味ありげな下3桁の製造番号が偶然に連続する・・・
これには何かの暗示があるのか??

 霊のお告げか???

 神のメッセージか???

 異次元世界からのメッセージ??

答えは明快です・・

 単なる偶然です 

対象が、たかが・・
電気メーター(機械)であるから、
何でもない事です。
電気メーターの製造番号如きに
拘る人などいません。

だたし・・

対象が、縁の深いひとの命日であったり・・
特別な節目の日付であっあり・・
時間であっあたり・・・・

人の心情や人生に関わる出来事である場合、
その偶然に・・意味を求めてしまう。

そして、それに答を求める・・

これは、ある意味・・人間の弱さ。

思考や知性を排除する行為である。

例え、目的や思想が正しくても、
ゴマカシが習慣になってしまうと、
その習慣は、普段の言動に反映し、
極端なかたちで常習化すると、
結果として信頼を失う。

もし、仮にそれが
「良い偶然のみを信じる」
というのなら、プラス思考という意味に於いて、
意義はあるかも知れない。

しかしながら、
その弊害として、
「疑うことを忘れた無防備な人間」
になってしまう危険性を誘発する。

ここに「諸刃の剣」という意味での
宗教を筆頭とする
イデオロギーの危険性が存在する。



気持ちが不安になると、
偶然に起きる現象に対して、
意味を求める・・・

「まずあり得ないこと」
が起きた場合、
それを怪しい人に相談すると、

拝み屋さん・占い屋さん・
スピリチュアル屋さん・・
全てを説明する・・・

自信満々な態度で
「偶然ではない!!」
「何々が原因だ!!!」
断言される。
断言されると、
何の根拠もない回答でも信じてしまう。

信じてしまうと、心の扉が開いてしまう。

心の扉が開いたとき、無防備になる。
魔物にとっては絶好のチャンス。



防御の扉が開放されて、無防備になった場合、
カルト宗教の思う壺・・・・

無防備な心の中に入り込んで来て、
洗脳する。

最終定期には
判断力を奪う。

偶像を売りつけたり、

金を奪ったり、
最終的には心を奪い、
骨までしゃぶる・・・

これがカルト屋さんや
怪しいスピリチュアル屋さんの常套手段。

必然と、偶然を見分ける知恵と勇気を失うと、

「変える事の出来るもの」
・・未来

 「変える事のできないもの」
・・過去

この二つの境界が曖昧になります。

そういう「心に隙間に」
 悪い人間が付け込んで来る。
 人を不幸にする悪しき思想が入り込む

更に言うなら・・



「悪い人間」に付け込まれるだけでなく・・
「悪い霊」に付け込まれる・・・

 怪しきものは、
飴とムチで人の心を支配する 

ご用心あれ・・・
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信じる必要などない

2024-07-10 | 宗教


 快いものに耽溺せず、
また高慢にならず、柔和で、
弁舌さわやかに、信じることなく、
何かを嫌うこともない。

中村元訳
『スッタニパータ』853

・・・・・・・・・・・・・・・

南伝仏教のパーリ語経典、
『スッタニパータ』
学術的には、仏教初期に編纂された
「最古の仏典」との説がある。

「 信じることなく 」
と記されている。
この言葉には色々な説があるらしい。



・・・私は次のように解釈する・・・

 信じる必要などない、信じる事によって、
自分が偉い人間てあると勘違いしてはならぬ 



私の勝手な解釈かも知れないが・・

仏教の奥深さを痛感されられる・・・
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善悪の違い 

2024-07-02 | 宗教


・・・親鸞聖人曰く・・・・・・

 善悪のふたつ、
総じてもって存知せざるなり 

歎異抄
註釈版853頁

・・・・・・・・・・・・・・



親鸞は、 
「善と悪の違いなど分からない 」
 と記しておられる。

 善 と 悪 との違い ・・

これを深い意味で見極めることは、
至極困難だと思う。
自分の今までを振り返ると・・・

自分の主観や、自分の都合を基準にして、
「 良いことをした 」 と思っているに
過ぎないことも多くあると思う。

人間の意思には一貫性があるとは思えない。

あるときは、他者に対して、
「 かわいそう・・・ 」 と思い、
慈悲の念を起こす。

しかし、時と、場所と、周囲の状況が変われば

「 可愛そうだ・・ 」

という思いが一変して
憎しみに変わったり
妬みに変わったり
嫉妬に変わったり・・・

人間に自分自身を救済する
力などあるのだろうか?

ましてや、苦しむ他人を
救済する力などあるのだろうか?



この疑問が、
修練の出発点であると感じる。

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善人の不幸は根が深い

2024-06-28 | 宗教


善人は不運になりやすい。

これ即ち、「 霊的因果 」である。

ただし・・・

この要素は、仏教で説かれている、
「 因果報応 」とは、別物であり、
その辺をハッきり区別する必要がある。
 
 清く正しく徳を積む
されど、貧困と不運の連続 

この落とし穴に落ちた人を
多く見てきました。

この落とし穴にはまる人には、
共通することがあります。

1・・真面目。
2・・正義感が強い。
3・・責任感が強い。
4・・親切心が強い。
5・・弱者に対して優しい。
6・・老人を労わる。
7・・愛情深く人情もろい。

8・・自動車事故をよく起こす。
9・・腰が弱い。(腰痛)
10・・食べ物に好き嫌いが多い。
11・・マルチ商法に狙われやすい。
(綺麗事を並べ、顧客の連鎖的な拡大を図る商売)
12・・騙されることが多い。
13・・宝くじをよく買う。



この12項目のうち、当てはまる項目が多い人ほど、
「 落とし穴」に嵌り易い。

この12項目のなかで、
8~12は別として、

1~7 の項目を満たす者は、
一般論で言う、 「 善人 」であるといえる。

にも関わらず、必ずしも幸運とはいえない。
このような人でも生涯、
不運の連続という事もよくある。

このような人間は、
 善行を積む、「 善人 」であるはずです。

どうして
落とし穴意に嵌ったり、不運に襲われ易いのか?

   

ここで、再び親鸞様のお言葉・・・

 

善人なほもて往生をとぐ、
いはんや悪人をや。

しかるを世の人つねにいはく、
「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。

この条、一旦そのいわれあるに似たれども、
本願他力の意趣に背けり。



・・・・・・・・・・・・・・

親鸞がいう、 善人・悪人 の定義
をハッきりさせておかねばなりません。

親鸞のいう、「 善人 」とは?

「 善行を重ねると、
往生すると信じているひと 」

( 往生=死後安楽な清浄真実の 世界に生れること )



「 善行を重ねると仏に
近づくことが出来ると信じているひと」



親鸞のいう「 悪人 」とは?
自分の善行に溺れていないひと。
自分の行った、一つ一つの善行に捉われていないひと。



ここで、親鸞の言いたかったことは、

「 善人より、悪人のほうが救われる。
悪人だから救われるのではなく、
悪人のほうが救われるにふさわしい
心の状態になりやすい 」

という事なのです。

そういう意味で「良い人」の不幸は、
深い根があるのです。

即ち、善人であるが故に、
素直な心境になる事が出来ない。

自称・善人の意識のなかには、
強い信念が刻み込まれている。

「自分は善い行いを積み重ねているから、
それは必ず自分に戻ってくる・・」

これは、決して間違った信念ではありません。

これこそ、仏教の「 因果報応 」なのです。

この自覚は、
人類レベルでは大きな意義のある真理です。

全ての人間がこのことを意識して行動するなら、
争いも、略奪も、暴力も
根絶することが可能となるでしょう・・・



私は、仏教の教義を否定する訳れはありません。

しかしながら、個人の運命を、
これのみで説明する
事には無理があるのです。

皮肉な事に・・・

徳を積む・・
因果応報・・・

その信念の裏側には、
「 傲慢 」
という二文字が隠れている。

自分が善人であるという自覚は、
言葉を変えれば、
「 自力の善に誇りを持っている 」
という事。

この「誇り」が、特権意識となり、
自称・・「偉い先生」を輩出する。

ごくまれな例外を除いて、
多くの場合、
宗教団体とは「偉い先生養成機関」である。



これだけ善行を成したのだから、
自分は救われる資格があると
良い事が帰って来て当然であるという考えに偏り、
自分が成した
一善、一善を心のなかで、誇るようになる。

その、「 自信 」とは、
「 素直で、謙虚な心の姿勢 」と
相反する性質をもつ。

善人の持つ特有の
「 誇り 」と「 自信 」が、
謙虚さを失ってしまう
大きな要因となってしまうのです。

彼の内面にある、「 善人の誇り 」が、
「 因果報応 」
の絶対原則にフタをしている。

その結果、霊的因果に飲み込まれ、
振り回され、
悪い連鎖を助長している。

形の上での‘ 善 ‘に捉われているうちは、
 本質を見ることはできない。

本質とは、人間のホントウの姿。
生命のホントウの姿。

全ての人間のは、神の分霊、仏の分身
人間は、神によって生かされている・・・
全ての人間の内に神・仏は存在する。

これこそが、「 ホントウの姿 」なのです。

この心境を音にしたのが、

 南無阿弥陀仏 

( 悪あがきしません、お任せします)



キリスト教では、

 アーメン 

 ヘブライ語で
 「 まことに、ほんとうに 」
という意味。




ウサギ講では・・

 ココ掘れワン!!ワン!! 
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ウサギ講の目指すもの。

2024-06-17 | 宗教


「 太陽は明るい 」
「 炎は熱い 」
「 氷は冷たい 」

当然の事です。
別に「 信じる 」必用などありません。

「 太陽は明るい事を信じます 」
「 炎は熱いという事を信じます 」
「 氷は冷たいと信じます 」

もし、こんな事をいう人がいたら、その人は、
太陽も、火も、氷も・・見た事も体感したこと
もない人でしょう。

これ即ち、腹の底では信じていないのに、
「 信じるべきだ 」
と自分に対して言い聞かせている事になる。

太陽を見た事がない人が
もしいたとするなら、その人は、
「 私は太陽を信じます 」
という言葉を使うことが適切です。



「 神を信じる 」 
私はこの言葉を使いません。

「徳を積む」・・
この言葉も使いません。

私の場合、この言葉を使うことに
大きな恥じらいを感じるからです。

そういう意味で、
日本古来の神道は素晴らしいと感じます。

神道は教義を持たないからです。



真の宗教の目指すものは、
「 信じる 」ことでは無く。

「 自分の内に宿る永遠の生命 」
を実感することであると思います。



 永遠の生命  

こそが、神の分霊であり、
仏の化身であると感じます。



「 信じる 」を超越した人こそが、
真の宗教家であると思う。

即ち、神を信じる・・信じない・・
そんなことは、どうでもよい事であると思う。

現に、無神論者のなかにも
「 自分の内に宿る永遠の生命 」
を自覚する偉大な人間は多く存在する。



故に、真に偉大な人は
「信じる努力をしていないごく普通の人間」
であると感じます。



そう云う私も、
幾重にも重なる皮を剥がしてみたら、
実は「信じようと努力している」
人間であるかも知れない・・

自問自答しながら生きています。



ウサギ講の目指すものは、
「 神仏を信じる 」
という言葉を忘れることです。

同時に「徳を積む」という言葉を
忘れることです。

皮肉なことに・・・

宗教団体は、 
「神仏を信じる努力をする偉い先生」
を多く排出する。
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意味など求めない・・

2024-06-16 | 宗教


単純な宗教屋さん,
貪欲なスピリチャル
関係者は言います・・・

 善行せよ、徳を積め!! 

天に宝を蓄えれば、
運命が好転する。



巻向山のウサギ仙人

  謹んで申し上げます。



行為が人の運命を作るのではない!!!



 行為の前提(心の方向性)が運命を決める 

親切・・善行・・愛行・・慈善・・笑顔・・

その前提(動機)が、コンプレックスであったり、
トラウマが原因である場合も多い。

親切・・善行・・笑顔・・・優しさ・・

素晴らしい事ではあるが、
一皮めくれば、
その正体は

自己顕示欲・・
支配欲・・・
依存症・・
現実逃避・・

で・・
あっありすることもよくある。



人間の深層心理は千差万別であり、
奇怪過ぎる。

幼い頃から、気が優しく、親孝行で愛深い人間が、
成人したころ、親を憎み出し・・
惨殺したという事件もある。

これは・・・まさしく・・
      
常に善い子を演じざるを得ない状況のなかで、
親からの「誘導・圧力・支配」への忖度。

この負の感情の蓄積が自我の形成の段階で、
攻撃に転じ、爆発。
     


親孝行は最大の美徳・・・
これは真実ですが。

その「美徳」を行う前提(動機)
が肝心なことである。

行為だけに価値を求める固まった心の方向性は、
自分が支配できる人間に対して
「脅し」「誘導」という方法を無意識の内に行なう。

「愛情という名のオブラートで包まれた支配欲」
「教義と云う名の傲慢」



これが一番怖い・・

この魔物は支配下にある人間の自由意志を押し殺す。

その反動はいつか、
何らかの形で爆発して表に出る。

魔物を呪文で封印して逃げ続ければ、
魔物は肥大化し続ける。

臭いもの蓋をしても解決にはならない。
この魔物と向きあって相撲をとらねば前に進まない。

結果的に魔物と和解するまでは
魔物は消えない。

魔物と和解する為の第一課題は、

魔物の正体を見極めることである。



「優しさ」の正体が
共嗜癖(きょうしへき)
であることもよくある。

この場合、必ず不幸を引き寄せる。

不幸とは・・
自分に不利な選択を何度も繰り返すこと。 

共嗜癖とは、自分と特定の相手が、
その関係性に過剰に依存している状態。

「人間関係に囚われている関係」
への依存状態を意味する。



宗教系の自称・ベテランカウンセラーの中には・・
「 共嗜癖 」「共依存」
という言葉すら知らな人も存在する。

それ故に傲慢な宗教屋さんは危ない。

以前、付き合いのあった
ある偉い宗教の先生・・・

心理学も勉強していると自称して
カウンセリングを行っいるお方ですが、

この御方に、「共依存」
という言葉を出したら、
「 なんですか? それ? 」と・・
言われました。

耳を疑いました・・
何ともお粗末な・・・

雑学程度に近代心理学を齧った者なら、
分かり切っているお話しです。

この御方は、
年間、数百冊以上の本を読んでいるとのことですが、
たぶん・・・数百冊の本の中から、
「自分の知っている
言葉のみを探し続けている。」
と推測しています。



すばらし!!! あなた慈悲深い!! 
あなたは徳の高い人だ!!

彼方は神から選ばれた存在だ・・

必ず神様が願いを叶えてくださる。
貴方は、天に宝を積んでいる・・

持ち上げて煽てる。

その場は甘い蜜でも、
甘い耳障りの良い言葉を無条件に信じると、
何時まで経っても堂々巡りとなる。



行為に意味などない・・
自分行った善行に意味などない。

それでも・・

 目の前で苦しんでいる人がいたら助ける 

善行に意味など求めない・・
見返りなど信じない・・・

この「心の方向性」のみに意義がある。

 この「心の方向性」こそが、

人間が万物の霊長たる所以であり、
神が人間に与えた
 特権である 



 神様は万人に対して公平です。

見返りを求めるような取引には応じません。
運命はその人の選択の自由であり、
神様が饅頭を持ってきた人のみに
エコヒイキしたりはしません。

自分の行為の前提と、
自分の内に潜む、潜在的な特性を
勇気を持って抉り出す。。

これに成功した者のみが
左右に揺れる振り子の重りを、ピタリと止め、
真上に跳ね上がることができる。

恐れるべからず!!

心配無用  必ず勝てる!!!

勝たねばならぬ・・・








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石上神宮

2024-05-05 | 宗教












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行為より大事なのは

2023-08-06 | 宗教


「嫌われるのが怖い」
嫌われるのが怖いから我慢する。

嫌われるのが怖いから、
嫌なこともニコヤカな顔で引き受ける。



行いは良くても、動機に危険性が存在する。

この場合・・
自分自身を放棄したことなる。

これが積み重なると、
最終的には追い込まれて行き詰まる。



宗教や、スピリチャル屋さんは、動機や背景を無視して、

親切を施せ。
徳を積め。
愛業を施せ。

苦しむ者に対して誰構わずと綺麗ごとを並べる・・・

もっともらしい正論、美談、格言を
得意満面になって吐き続ける。

 行為より大事なのは 

「その行為の背景にある動機」



他者に支配されると
「自分を失った人間」
となってしまう。
それ故に宗教やスピリチャル屋さんは怖い。



人を支配することを美徳とする、
怪しい宗教屋さん、怪しいスピリチャル屋さんの
ターゲットになった場合、

10人の内、2人は奇跡が起きる。
残りの
8人は不信を持つ。

2人は称賛して、誇大広告をする。
「偉い先生」の話を信じたら、
良いことが起きた、出世した、病気が治った・・

この2人の人間が、20人に宣伝する。

勧誘した20人の人の中から、4人の人が信者になる。

4人の人が同じように、40人を勧誘すると、
8人の信者を獲得する。

その連鎖で大きくなっえてゆく。



奇跡が起きた人は
「偶然そのタイミングで」
という意味であり、
10分の2・・・という
確率的な要素が主である。



不信を持った8人は沈黙する。
「偉い先生」の話を信じたが、何も変わらなかった、
更に状況が悪化した・・

これも、
「偶然そのタイミングで」
という意味であり、確率的な要素が主である。



「運やチャンスは・・
人・時・場所に関係なく無作為に起きる」

神様はすべての人に平等で、
すべての人に同じだけのチャンスを与えている。

それ故、
最悪な行いをしてきた人間でも、
何かのチャンスで立ち直る。
そして神を感じる



昇る朝日を見ただけで、
これまでの悪事を懺悔して
涙を流して改心した・・・

そんな話も耳にする。

人は、説得には応じない。
自分の内なる声を求めている。



何者にも支配されてはいけない。

何よりも大切なことは
「自分は自分である」
という自覚。

それ即ち、
「自分の内に宿る神」
を見ること。

神仏に向かって唱える言葉があるとしたら。

 悪あがきしません・・・
お任せします・・

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恩は仇で帰って来ることも多い。

2023-05-13 | 宗教


幼い時に、事情があって里親に引き取られて育てらてた人がいたとします。
育ての両親は我が子と思って愛情深く育てました。
この事実は秘密にされていました。
子供が成人したころ、初めてその「事実」を知らされました。



育ての親は言いました。
「どんなことがあろうとも、この子は私の子供だ」

子供は思いました
「事実がどうであれ、私は今のお父さんお母さんの子供だ」



 ここが肝心・・

事実と真実は別問題。

血の繋がりはなく、実の親子ではない事は「事実」

 どんなことがあろうと、親子である 

   これが「真実」 

事実でない事は納得できない・・
このような考えでは人生、苦しみがあるのみ。

混沌とした世界で、暗中模索の日々が死ぬまで続く。
(死んでも続く)



事実と真実を混同すると、
精神は衰退し、貧弱になる。

奥ゆかしさ、慎ましさ品性、とは

 真実を見る眼 

であると感じます。

但し・・・

その前提に、「誠意」が必要であると思います。

1つの誠意は、
立派な屁理屈100回語るに勝ると思う。

人間いつ死ぬか分からない。



徳を積む???

私は徳など積まない、
善行とは、天に宝を蓄える「貯金」ではないと思う。

徳とは・・捨て去るもの。

徳を積んでも何も帰って来ない。

恩は仇で帰って来ることも多い。



それでも・・

 善意と誠意を尽くす・・

 これが人間に与えられた「特権」

この特権に気付いたとき、
「真実の世界」が見えると思う。



 「私は徳を積んでいる」・・
「私を見習って、貴方も徳を積みなさい」・・
などと戯言を言う。

そういう輩を多く見たみた・・




そういう私も以前は徳を積んでいる積りになっていた。

いま思えば、恥ずかしい限りである・・



 誠意と真実を観る眼 

大切に生きて行きたい。

生きてるだけで丸儲け。



耶蘇傳曰く・・

 弱い時こそ強いのです・・・

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死んだつもりで。

2023-05-07 | 宗教
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近道などありません。

2023-01-14 | 宗教



多くの苦悩、後悔、葛藤・・

生活苦、対人関係・不運・病苦・経済苦



苦悩が無い人間など存在しない。

誰しもが、その原因を求めようとする。



過去生、前世からの因縁???

遺伝的要素???

前世や過去の行いに対する
清算としての受難??

器が大きい者に与えられた試練???

強者に課せられた成功の為の課題??

霊的要因??



その判別は、かなり難しいです。

複数の要素が微妙に絡みあっている事も多いです。

ウサギセンサーで感知する事もありますが・・

多くの要素が螺旋状に絡まっているので、
「その時一瞬」状態を見ることは出来ても、
全貌は見えない。

 見えないものを、錦の旗を振りかざし、
断定したり、
得意満面な顔で断定する事は愚かな行為。

怪力者に観てもらったとしても、
怪力者は複雑に絡まる「一部の要素」を見ているだけです。

他者の力で「全貌」を掴むことは不可能。

自力でも然り・・



強欲な宗教屋さんに相談しら、
鴨になる。

錦の旗を振りかざして
後出しジャンケン・・



ウサギセンサーで全貌を観ようとしたなら、
ウサギ仙人の精神が崩れてしまう程の負荷が掛かります。

どちにせよ、
過去から来る要因を判別することは不可能に近いです。

ならば・・・

どうすれば良いか?



だだ、ひたすら、
前を向いて。

 目の前にあることを精一杯やる 

 今を精一杯生きる 

 過去の事に対して、後悔はせず、反省する 

 見返りを求めず、親切と誠意を尽くす 

 善行に意味などない!!!無意味を極める 

 笑って誤魔化さず、明るく誠実に生きる 

そして、天に委ねて呟く・・

 悪あがきしません・・お任せします 

一見、気の長いお話のように感じますが、
近道などありません。

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