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名古屋の白ウサギ・1964年生

自称・宗教家・・宗教家とは職業ではなく「私の生き方」です。
職業・会社員、投資家  趣味・偽善事業

本物の霊感とは、迷信を否定することにあり。

2025-04-30 | 宗教


今まで多くの人から悩み事の相談を受けました。
多くの成果を上げました。

有料で行っていた時期も2年ほどありました。


私の奇怪な能力は、口コミで広がり、
多くの人が私に会いにやって来ました。

2年間で、200名位の人と対話しました。
頂いたお金は一切手を付けず、
1円単位で帳簿を付けて経費なども記録して
厳格に管理していました。

累計すると、
〇百万くらいの売り上げがありました。



当時、私の経済的な内情は厳しいものでした。
差しあたり、お金に困っていた訳ではありませんが、
対策を打たないと、将来的に
困窮するとが予測される状態でした。

本業の収入が減少して、
苦しい時期でもありました。

まさに正念場であり、
将来の為に節制・倹約の日々でした。




この副業は2年で足を洗いましが、
予想以上の思わぬ収入がありました。

この収入の
半分は慈善団体に寄付して、残り半分は
ボーナスと思って少しは贅沢しようか・・・
と考えていました。

自分自身も節約・節制をしてきた事も確かですが、
当時中学生だった子供は、
その空気を読み取っていた。

結果として子供には
暗黙のプレッシャーを与えていた。

子供には普段、我慢をさせて来た・・
たまには太っ腹になって、
子供に欲しいモノを何でも買ってあげようか・・・

などと思っていたのですが・・
結局は、諸々の経緯があり、
全て慈善団体に寄付してしまう
結果となりました。

その慈善団体は、理念と目的は立派でしたが、
深く関われば関わる程、
代表者の信用と人望に関しては
疑問を抱くようになりました。

代表者の軽率で非常識な言動など、
不愉快なことが度重なりました。

ある時期を境に、その不満は限界に達しました。

寄付が無駄になった訳ではありませんが、

結果として、もう二度と関わりたくない・・
と思うようになりました。

 終的には決別しました。

何事も用心深い私としては、
それまでは大きな
失敗をしたことはありませんが、
この慈善団体の理事長に接近したことは、
私にとって人生最大の
判断のミスとなってしまいました。

お金は稼ぐことも大変だが、
その使い道を見極めることは
更に難しいという事を、
この体験を通じて実感しました。



子供には申し訳ない事をしたという
思いは今だに消えません。



皮肉なことに、
この慈善団体の代表者と決別したあと、
私の資産は爆発的に増え始めました。

それまでの一番苦しい時期に
生活費や小遣いを削って買い続けて、
保有していた株が一気に上昇し始めたのです。

それは信じられない程の
強烈な勢いでした。

 運命のイタズラ 
とは・・まさに・・
この事かも知れません。

  

      

このブログでは例え匿名・仮名であっても、
相談を受けた内容は本人の承諾を得ない限り
公表したことはありません。

今回は、本人から承諾を頂きましたので
公表させて頂きます。



30代、独身女性Yさん・・からの相談・・
お逢いしたのは、4年前の11月・・・

Yさんは深刻な顔をして私に問うた・・



「今年になって悪いことが連続しています・・
家族問題・・
友人関係でのトラブル・・・
仕事上のトラブル・・
車の運転中、交通トラブル、
何となく体調が悪い・・
些細ではあるが、金銭的トラブル・・
悪い夢をよく見る・・
連続して起きる小さな怪我・・

ウサギ仙人様・・・
どうして??どうして・・
悪い事が重なるのでしぅようか??
今年になってから良くない事の連続・・

年回り???
名前が悪い??
家相???
方位の良し悪し??
何かの暗示??

毎日いろいろ考えています・・・

 ひょっとしたら・・何かの祟りでしょうか?

 霊障??でしょうか???(霊的要素で起きる障害)」



私は、原因が即座に観えました・・

(観えるとは・・何かを強く感じて・・それに確信を持つこと)


私は低い声で、力強い口調で答えました・・・

  それは・・偶然です・・  

Yさんは不思議像な表情で私の見つめました・・

  私は更に続けました・・・



・・・・霊能者や拝み屋さんに相談したら、
必ず何か最もらしい事を言うでしょう・・

「あなたの心掛けが悪いから」・・とか
「あなたの背後に何か見える」とか・・

不安な心境のときは、
何の根拠もない回答でも
自信満々な態度で
「何々が原因だ!!!」
・・・と断言されたら、
その内容を精査することもなく、
信じてしまう・・・

偶然に起きる現象に対して、
全てに意味を求める・・・
全てを説明する・・・

これは、徒労です。

必然

偶然

この二つを
見分ける知恵と勇気が肝心です。

 「変える事の出来るもの」・・未来

「変える事のできないもの」・・過去

この二つの境界が曖昧になります。

そういう「心に隙間に」
悪い人間が付け込んで来る。

若しくは、
「世間知らずの自称・偉い先生」の餌食になる。



更に言うなら・・

「悪い人間」に付け込まれるだけでなく・・



「悪い霊」に付け込まれる・・・

「悪霊」とは・・・人間の心が創り出した
「影」のようなもの、
「心の影」です・・

影は実在ではないが・・・
不思議な事に、
「個性を持つ独立した実体」のように
独り歩きする。

霊感??とは非科学的な言葉であり
「文学」の世界の言葉です・・

霊感・・と言う言葉を使う事は、
恥ずかしいことですが・・
恥を顧みず、
敢えて、この場合
・・「霊感」という言葉を使います・・

私の「霊感」で感じることを
率直に申し上げます・・・

いまの貴女に・・霊障・祟り・・
などと言った要素は一切感じません!!!

念のために申し上げますが・・
私は・・同じ言葉を、誰に対しても、
どんな場所に於いても、オームのように
繰り返しているのではありません。

ごく稀に、例外的、奇跡的な事ですが・・
確率で言えば・・100件の内2~3件・・
霊が関係している事も確かにあります・・・

方位、年回り、家相、そのような悪い要素も一切感じません。

 悪い事が続くと、不安になり、何かの障りではないかと疑う・・

 良い事が連続すると・・
気が大きくなり、この状態がいつまでも、
永遠に継続すると言う妄想を描く・・

 急にお金が入って来ると・・
これからも金運は続くだろう・・
という錯覚に陥り、
笑って浮かれる・・

 悪い事が起きれば・・・
「目に見えない何か」に原因をもとめ・・
すがる思いで神頼み・・

 良い事が続けば
調子に乗り・・
危機管理意識を忘れる。

肝心なのは・・・

目先の浮き沈みに右往左往しない
心の余裕

貴女に申し上げます。

今の貴女がやるべきことは・・



魔物だろうが・・悪霊だろうが・・
どこからでも掛かって来い!!!!

・・・と・・宣言することです。

・・・・・・・・・・・・・・



私と会って話した数カ月あと・
Yさんは奇跡を見ました・・

彼女の頭上に強い光が差しました・・・

事実ですが・・
嘘みたいな話ですから、内容は書けませんが・・・

厳密に言えば、奇跡ではなく・・・

  本当の自分を取り戻した 

が・・・適切な表現であると感じます。

進め!! 進め!!  果敢に進め!!!

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信じる者は救われない

2025-03-14 | 宗教


私が今までの経験のなかで痛感したこと・・・



社会的信用は
信仰深さ、とは無関係

人望や人徳と信仰心とも無関係・・

幸運・不運とも無関係。



仏教には膨大な数の仏典が存在してます。
一説には7千巻の経典があると言われています。

親鸞聖人が
膨大な数の経典のなかで、
特に重要視した仏典

大無量寿経
(だいむりょうじゅきょう)

という経典があります。

この経典には
『疑城胎宮(ぎじょうたいぐう)』
と・・云う言葉が記されています。

「疑城胎宮」とは、

「城のように殻を作って立てこもり、
胎児のように外を見ることがない世界」

という意味だそうです。



仏を信じる・・

神を信じる・・

立派な心掛けであると思います。

しかしながら、「立派な心掛け」自体には
大きな意味は感じません。

「心掛け」の前提こそが
重要であると思うからです。

「心掛けの前提」とは???

「信じる」という行為の根本的な動機

即ち・・・

「信じる」と自分に言い聞かせている背後には、
「疑う心」がある。

「砂糖は甘い」と・・信じる努力をするひとはいない。

「自分の子供はカワイイ」と信じる努力をする人はいない。

なぜなら、「疑っていないら」信じる必要などない。



仏を信じる・・

神を信じる・・

その正体とは・・・・・

神仏を信じているのではなく

「自分の理性を信じる努力をしている」

と言いう事になる。

「自分の理性」の前提には
「自分の都合」があるのみ。

即ち・・・

信仰深い人、神仏を信じている!!
と力説するようになってしまうと

これこそが「大無量寿経」の説く、

『 疑城胎宮(ぎじょうたいぐう) 』

(殻を作って立てこもり、
胎児のように外を見ることがない世界)

から抜け出すことが困難であると言わざるを得ない。



いままで、疑城胎宮に
閉じ込めらたお方を何人か見てきました。

立派な心掛け・・・立派な理論・・・

でも・・・何かが???オカシイ・・・



「善人より悪人の方が救われるチャンスが多い」

親鸞聖人はこのような趣旨の言葉を多く発しています。



歳を重ねる毎に、
親鸞聖人の真意が理解できる
ようになったような気がします。

親鸞聖人こそ、
宗教史上最大の正直者であるとい思っています。

だからと言って、親鸞聖人の教義が全であり、
万能であるとは思ってはいません。



私は、数年前、
ある出来事を通して、
あることを痛感しました。

それを機に、
神仏を信じる事を辞めました。

 信じることを辞めて、
神仏に任せる決意をしました 

 悪あがきしませんお任せします 0

これが私の念仏です。








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目に見えないもの

2025-03-09 | 宗教


一番の不幸とは、
自分を見失う事である。

絶好調なときも、
あるかもしれないが、
自分を見失うと、
暗闇に引きずり込まれる。

そういう不幸な人はたくさんいる。

宗教の真の目的とは、
 目には見えないモノを見る  
事にある。

 「目に見えないモノを見る」
 とは、
霊を見たり、神や仏の姿を映像
として見るという意味ではない。

もし、神仏や霊を映像として見たなら、
それは、幻覚であり、
自分の内部で起きている、
「 脳内現象 」であり、
「 真実 」ではない。

神仏の声など聴く事はできない。
もし聞こえたら、それは幻聴・・・

私の場合、そのようなことが起きたら、
まず第一に、自分の感覚を疑い、
自分の耳を疑い、
そのあと、意識のスイッチをオフにします。

 夢の中に偉人が現れて、
何かを語った 

このようなお話も、
99%は潜在意識が為せる、脳内現象。

願望を記憶に変換した潜在意識のイタズラである。

若しくは、苦し紛れの創作か
記憶の捏造である。



先に述べた、「 見る 」とは、

「 観る 」 = 「 静観する 」
という意味である。

「 静観 」とは、
事物の奥に隠された本質的なものを見極める
という意味。

「 静かに見る 」のではない、
目で見るのではなく、 心で観る 

たとえ、目の前が、
辛酸な、惨憺たる状況であろうとも・・
栄華を極めた状態であろうとも・・・

その背後にある、「 見えないもの 」を
見ることが出来ない人間は、
この世に生まれてきた最大の意義と、
権利を放棄した事になる。

目に見えないものを観たとき、
自分にとって、、
最高にして、最大の幸福を観る。

他者との比較ではない、
「 自分が全て 」なのだ。

「目に見えるもの」 
これのみが全てと考えるなら、
全ての人間が平等ではない、
「 全てが不平等 」である。

生まれつき虚弱なひともいれば、
強靭な人もいる。

生まれつき裕福な環境で育った人もいれば、
貧乏な環境で育ったひともいる。

五体満足で生まれた人もいれば、
障害を持って生まれた人もいる。

誰かが言うでしょう・・・



おれは善良に、真面目に生きている、
悪に憧れている訳でもない・・

なのに、なぜ!!不平等なんだ!!!
神も仏もあったものか

その気持ち、痛いほど分かります・・
だからこそ・・・

「 目に見えないもの 」
が存在するのです。



誰かが言うでしょう・・・
この、ウサギオヤジ!!!屁理屈ばかり
言いやがって!!!
詭弁をいうな!!!

ご最もでございます・・
だから、宗教はバカにされるかもしれません・・



しかしながら、

理論的な判断だけではどうにもならないのが、

‘ この世 ‘ なのです・・・

そこから一歩踏み出さない事には、
世のなか真っ暗闇で、
人生が「 徒労 」となってしまう。

目に見える世界は不平等だが、
それは、その奥にある、
「 絶対的なものを観る為の道具として、現われる仮の姿 」
見えないもの とは  

 自分の内に宿る神 

 自分の生命の根源である‘神‘  

 自分の内に宿る生命の偉大さ 

 自分を見守る、親の心・先祖の想い 


 全ての人間は、神の分霊・仏の化身 


これを知らせる為に、釈迦が現われた。
これを知らせる為に、キリストは現われた。

  生きてるだけで丸儲け  
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ホントウに業が深い人・・とは??

2025-02-22 | 宗教


「 あのひとは、よい死に方をした 」

というような言葉をよく耳にします。

その反対に、
「 あの人は、心掛けが悪いので、
良い死に方はできない・・」

などというような
意味の言葉がよく使われています。

私も、以前は
 ・・良い死に方・・
 悪い死に方・・
と云う目で、人の死を捉えていました。



しかしながら・・・いつしか、
そういう見方はしないようになっていました。

そのような観かたは、軽率であり、
本質から外れた考え方だと思っています。

 死に方に良い悪いなど無い 

病気で死んだとしても・・・
交通事故で死んだとしても・・・
天災で死んだとしても・・
孤独死したとしても・・・

それは、永遠不滅の生命の、
「一幕」 でしかない。

廻り舞台がグルリと回っただけ。

どんな死に方をしたとしても、
それはそれで、

 天命を全うした 

と言える。

慈愛に満ちた、
心優しい慈善家が、
悲惨な死に方をする事もある。

かと思えば・・・

利己的で、意地が悪く、
ひとを困らせ続けて来たひとが、
苦しむことなく平穏に、
死んで行くこともある。

そういう事例はたくさん知っている。

人間の運命は、
多種多様な要素が絡まっている。

多く要素が
螺旋状に絡まって形成されている。

螺旋状・・とは??
細い糸を何本も使って
作られた縄のようなものである。

その、細い糸の一本だけを摘み、
「 この糸が原因だ!!! 」
と言ったところで、
本質を見ることはできない。

占いとは、螺旋状に絡まる沢山の糸の中から、
1本だけを引っ張り出して、
「これが全ての原因だ!!」
と主張する行為。

それ故、占いには限界がある。



「 あの人は心掛けが悪かったから、
良い死に方が、できなかったんだ 」

「 業が深いから、ああなったんだ・・」

などと浅はかな事を抜かす輩も
世のなかには存在する。

このような生半可な
「信仰深い偉い人」 
 
このような輩にこそ、
「 業が深い 」という言葉が、
そのまま当てはまる。

そういう事を言う
  自称・「 徳を積んでいる偉いヒト 」こそ、

 ホントウに業が深い 
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「謙虚な心」と「畏敬の念」

2025-02-10 | 宗教



・・問・・

神仏を信じ、信仰深い人は病気にならないか?

・・ウサギ仙人答えて曰く・・
神仏を信じていても、信じていなくても、病気になります。

・・問・・・
神仏に願えば、難関な試験に合格するか?

・・白ウサギ仙人答えて曰く・・
素質と、努力の成果が合否を決めます。
合否は、願掛けとは無関係です。

・・問・・
ならば、祈願・祈祷・お守り・・・
これらは無意味???

・・ウサギ仙人答えて曰く・・
はい、無意味です。

但し・・・
それは「ご利益」という打算に対して
「無意味」と申しているだけです。

「区切り」
「節目」「作法」「憶念」
「神社仏閣の維持ための寄付」
という意味に於いては有意義。

これは「文化」であり、
「文化を重んじる」という事が
「信仰」の意義でり
「品性」である。

それ故に、
 蒲鉾の板に
下手糞な字で神様の名前を
勝手に書いて、
拝んてはいけない。

蒲鉾の板は無意味でも、
このような行為は
「神への冒涜」

神を信じる・・
神を信じんじない・・
神を信じる振りをする・・

それは個人の自由であるが、

「冒涜」は赦されない。

・・問・・
信仰深く慈悲深い人が事業を
はじめた場合、必ず成功するか?

・・白ウサギ仙人答えて曰く・・
信仰深い人であっても、
潰れるときは潰れます。

・・問・・・
ならば???
「 神仏を信ても信じなくても、結果は同じ 」
という事では?・・・・

・・白ウサギ仙人答えて曰く・・・

はい、仰る通りです。

人間、死ぬ時は死にます。
病気になるときは病気になります。
交通事故に遭うこともあります。
家庭不和に悩む事もあります。
対人関係に悩むこともあります。
事業に失敗することもあります。

ただ・・ここからが肝心です。
「既に起きたこと」
「これから起きそうなこと」
これに対して、どのように捉え、
どのように感じ、
どのように対処するか、
そして、そこから何を学び、何を掴み取るか?
これこそが、宗教の存在意義なのです。

・・問・・・
それな事なら・・神仏を信じ、
信仰したりする必要など無いと言う事に
なってしまうんじゃないですか???


・・白ウサギ仙人答えて曰く・・・

はい、仰る通りです。

別に神仏を信仰する必要などありません。

神仏を信じることより、
「謙虚な心」と「畏敬の念」、
この二つのほうが
遥かに大切なのです。

・・問・・・
ウサギ仙人!!!
アンタそれでも宗教家ですか???

・・白ウサギ仙人答えて曰く答えて・・・
はい、私は宗教臭い宗教が大嫌いな、
自称・宗教家です。


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太陽は明るい 

2025-01-31 | 宗教
 

 太陽は明るい 

  炎は熱い 

 氷は冷たい

これ、当然の事です。

別に「 信じる 」必用などありません。

「 太陽は明るい事を信じます 」
「 炎は熱いという事を信じます 」
「 氷は冷たいと信じます 」

もし、こんな事をいう人がいたら、
その人は、
太陽も、火も、氷も
その存在を信じていない。

これ即ち、腹の底では信じていないのに、

「 信じるべきだ 」
「信じなければならない」

と・・自分に対して言い聞かせている場合もあり得る。



「 神を信じる 」 
私はこの言葉を使うことに恥じらいを感じます。

「徳を積む」・・
この言葉も可能な限り使いません。

この言葉を使うことに
大きな恥じらいを感じるからです。

そういう意味で、
日本古来の神道は素晴らしいと感じます。

神道は教義を持たないからです。

神道の祝詞に、
「徳を積め」
「善行を為せ」
などと言う言葉は出て来ません。

日本の仏教に於いても、
親鸞聖人はこのような言葉を一切
経典に記していていません。



真の宗教の目指すものは、
「 信じる 」ことでは無く。

「 自分の内に宿る永遠の生命 」
を実感することであると思います。

  永遠の生命  

こそが、神の分霊であり、
仏の化身であると感じます。

「 信じる 」
を超越した人こそが、
真の宗教家であると思います。

即ち、神を信じる・・
信じない・・
そんなことは、どうでもよい事であると思います。

現に、無神論者のなかにも
「 自分の内に宿る永遠の生命 」
を自覚する偉大な人間は多く存在します。

逆に、自称・信仰者の中に
神を信じていない人も存在します。

真に偉大な人は
「信じる努力をしていないごく普通の人間」
であると感じます。

そう云う私も、
幾重にも重なる皮を剥がしてみたら、
実は「信じようと努力している」
人間であるかも知れない・・

自問自答しながら生きています。

ウサギ講の目指すものは、
「 神仏を信じる 」
という言葉を忘れることです。

同時に「徳を積む」という言葉を
忘れることです。

皮肉なことに・・・

宗教団体は、 
「神仏を信じる努力をする偉い先生」
を多く排出する。

驚くことに・・

「信じようと努力している」
人間はの中には、
巨大な宗教団体のトップも
存在します。



信じていない人が、
信じるように人を誘導する・・

この行為を
「支配」と呼ぶのだと思います。

支配とは、信じる振りをする人
がある一定数に達した時に起きる、
「集団催眠」であるかも知れません。

何物にも支配されない人間でありたい。





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魂のレコード盤

2025-01-10 | 宗教

今から44年前、
私が16歳の時に買った
荒井由実のLP・・・

このとき、荒井由実が将来、
大物シンガーになるなどとは、
まったく想像していなかった。

レコードの時代は終わった・・

この2枚だけは
どうしても捨てられない。

♪♪・・頑固者だけが悲しい思いをする・・・♪

私が今生を終えて、
あの世に行ったとき、
子供が、「 なんだこれ??」
と言ってポイと捨ててしまうだろう・・・

これは、悲しむべき事ではなく、
喜ぶべき事だと思う。



死ぬ時は金も、物も、地位も、名誉も、
持ってゆくことは出来ない。

そのとき、持って行く事ができるのは、
自分が、最終的に
「 何を思い、何を行ったか 」
という事実のみ。

その事実は、
自分の魂のレコード盤に刻まれている。

これは、消し去る事も、
捨て去る事もできない・・・

最終段階で、魔化しも、
修正もできない・・

魂のレコード盤に刻印されている情報とは、
どんな経緯があろうとも、
どんな紆余曲折があろうとも・・・
そこから得た「 答え 」に他ならず・・・


これこそ、神が人間に与えた 

絶対的な‘ 平等 ‘

やがて、その情報を自分の子供が再生する。

そして、それに続く、子孫が再生する・・・
これは、確実な事だと思う。

このことは「民事」であり、
神は民事に関与しない。

もし、仮に輪廻転生があるなら、
自分自身が、「 来世 」で、
そのレコードに刻印されている情報を、
新たなる、
最新の再生機で再生するのでしょう。

その情報は、時、場所の要素によって
絶妙な補正が加えられて、
妙なるメロディー奏でるのかも知れません。

これは、死んでからしか分からない、
事です・・・
死んでからの
「 お楽しみ 」



 
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釈迦は死後の世界に関して、肯定も否定もしなかった。

2024-12-24 | 宗教


 平生業成  
 へいぜい ごうじょう

これは、親鸞聖人の
教えから出た四字熟語です。

 平生 =死んだあとではない、生きている今現在。

 業 =人生の大事業 
 
 成 =  完成、達成



・・・・私の訳・・・・・

人間死んだ後、
どうなるかは誰にも解からない。

生きているうちに
必ず人生の目的を達成しなさい。

・・・・・・・

 現生不退  
げんしょう ふたい

この言葉も、
親鸞の教えの核心部分であると思います。


・・・・・・私の訳・・・・・・・

生きているうちに(現生)
必ず幸福になりなさい(不退)!!
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神を試すなかれ

2024-12-02 | 宗教


徳を積んでも
何も返ってこない・・・

それでも、苦しむ人がいれば助ける。

目の前で、死にそうな人がいれば助ける。

 嫌な奴になると疲れる・・

それでも・・
必要とあらば、
徹底的に嫌な奴になる勇気を持つ・・



「嫌な奴」が、
善意の仮面を被った愚か者の垂れ流す
害悪を阻止していることもある。

実際のそういう勇者と出会ったことがある。
コトバを出すのも野暮だと思って、
黙って敬礼した。



 自分の良心の声のみを恐れ、それに従う 

徳は「積む」ものではなく。

 捨て去るモノ 

捨てなければ得られない。



私の申し上げたいことは・・・

「因果の法則」の否定ではありません。

否定ではなく!! 肯定しているのです!!!

「因果の法則」「善因善果」を深い意味で
肯定しているです。

「駆け引きとしての因果」を否定することで、

 真実の因果の法則  

を肯定しているのです。



耶蘇伝に記された言葉を借りるなら、

 神を試すなかれ 

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科学万能論者の背後に 神を感じる。

2024-11-28 | 宗教


ニュートン ・ デカルト の登場以来
人類の科学技は急激な飛躍を遂げた。

ニーユートン ・ デカルト 
が生み出した近代科学思想は
人類の長い歴史のなかで、わずか300年の間に
人類に多くの 富 をもたらした。

フランスの哲学者 デカルト閣下は 
「 物心二元論 」
を唱えた。
物心二元論とは 
物質と精神は、まったく別物であり、
分離して考えるべきだ・・・・・
というもの。

デカルト思想は、 
宗教に対する挑戦 であった。

対立は一層深刻になるはず・・・・

不思議なもので

その結果として、
血なまぐさい対立や弾圧は格段に減った。

宗教と科学 が完全に分離された事によって
お互いの 縄張りが確立され、それまでに比べれば
はるかに 平和的な状況となったのではないだろうか・・・

私が思うに・・・

  ニユートン閣下、 
デカルト閣下、 どちらも

   神の使い 



ニユートン ⇒ デカルト 
という流れのなかで
宗教の否定、若しくは
 科学と宗教の決別
が行われたのだが、

これも天の摂理
であると強く感じる。

神は
時と 場所と 人 によって
それが神を否定する思想であったとしても
人類にとって最も合理的な方法を
与えているのではなかろうか・・・・

私は、若い頃 
科学万能主義者 、無神論者 に対して
敵意を持っていた、

60歳になった今、
その敵意はまったくない。

神 を否定されても腹が立たない
宗教 を否定されても 
何とも思わない

科学万能論者 の背後に 
神 を感じるからだ。

宗教否定論者の 
頭上に 仏 を感じるからだ。

なかには 暴力的な、攻撃的な 強烈な
戦闘意識 を持った
 唯物論者 無神論者 もいるだろう。

そういう輩に対しては、

礼節をわきまえた反撃
が必要だと思う。

でも、そういう輩は 沢山いそうだが、
めったにいないような気がする。

同じ人間同士でありながら、
根本的な思想の違い、
価値観の 違いはどうしても起きる。

最も平和的 最も合理的に
人類の進化を目指すなら

宗教と科学はお互いの
領域守るべきであると思う。

もし、融合を目指すなら、
最終的には、争いとなる。

双方が礼節を持ち、
敬意をもち、尊重し合うことのほうが
大切ではないだろうか。



事の本質をたどれば、

 宗教は「方便」という大義のもとでは
嘘が許される世界であり、

 科学は嘘が許されない世界である。

もちろん、科学にもウソは存在するが、
「原則」としてウソは許されない。

このことを深く受けてめて、
反省することが、
これからの宗教関係者に
課せらた課題はであると思う。





 
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最も尊重すべきもの

2024-11-23 | 宗教


基本的人権の尊重
これは重要な考え方だと思います。

ただ・・・・
皮肉なことに・・・・

この言葉には、
「 天国 と 地獄 」 両方が
同時に表現されている。

「 基本的人権 」 の 
‘ 基本 ‘  とは何か?

この定義次第で、
この言葉が人間を不幸にしてしまう。

「 基本  」 を、
 目に見える人間( 物質 )と定義した場合、
多くの人を不幸にします。

この考えかたは、
物質としての人間の尊重であり、 
その奥に宿る、
生命( 霊 )に対する尊重がありません。

こういう考えかたは、
真実に反します。

それ故、
不幸 ・ 不調和 ・ 不完全 
・闘争・分裂を実現します。

「 基本 」 を、 
肉体の奥に宿る、

 目に見えない人間 ( 霊 ) 

と定義した場合、 
多くの人に 幸福をもたらします。

人間の最も尊重すべきものは、

 人間の内に宿る生命( 霊 )なのです。

肉体はやがて滅び、消え去ります。
霊は不滅です。

このことを悟ったとき、始めて
「 個人としての人間 」 
に対する 尊重 が実現するのです。

信じる必要はありません。

信じなくても救われます。

「 感じる 」と 「 信じる 」は別問題です。


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バカにしか与えられない特権。

2024-11-02 | 宗教


 受けた恩は死ぬまで忘れない 
 与えた恩は、すぐに忘れる 

これが、運命の奴隷ではなく、
「運命の主人公」と
なり得る条件であると信じる。

こういう人こそ、
絶対的成功者だと信じる。

言葉を変えれば、最善の未来とは、
自分の善行を、
すぐに忘れてしまう事の出来る
バカにしか与えられない特権である。



その反対は・・・

受けた恩はすぐに忘れ、
与えた恩は、絶対に忘れない。

そういった心境で・・・
自分は天に貯金を積んだと信じ、
心のなかで優越感に浸る。

挙句の果てには、
自分は、霊的な位が高いなどと思い込む。



お利口すぎて、不幸な人は多くいる。

急ぎすぎて、
順番を間違えているのではないだろうか?

     

・・・南無阿弥陀仏・・・・

・・私の勝手な訳(東洋風)・・
降参しました、悪あがきはしません、お任せします



・・・アーメン・・・・

・・私の勝手な訳(西洋風)・・・
 弱い時こそ強いのです、全てを委ねます 


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きっと良い閃きがあるはずです。

2024-09-14 | 宗教


弥勒菩薩

お釈迦様が入滅した後、
56億年7千万年後に
仏なると約束された方です。

指に注目してください。
親指の先と薬指の先を接触させて
輪を作っています。



これを仏教では「印相」と呼びます。

印相(いんそう)、とは、

手の指で様々な形を作り、
宗教的理念を象徴的に表すものです。

親指と薬指で作る印相を

「思惟手」(しゆいしゅ)
と申します。

この印相は、弥勒菩薩さまが、
56億年7千万年後仏になったとき、
どのように人を救おうかと考えている
お姿を意味しているそうです。



私の場合・・
苦しんでいる人がいて、
その人を救うために、
どうしたら良いかを真剣に考え、
思い悩むとき、
無意識のうちに、
親指と薬指で輪を作っています。

不思議なことに、
良い知恵が湧いて来る事がよくあります。

  

人間の脳内には、
精神系だけに関連する
 A10神経 
という神経があります。

たぶん、この印を結ぶと、
前頭前野のA10神経に微弱な信号が流れて
閃きのスイッチをオンにする為の
刺激が加わるのではないかと推測します。

私の勝手な推測ですが、
このA10神経に
「閃き」「直感」の
入り口があるような気がします。

この、閃き・直感とは・・
俗に云う「霊感」のようなものと思います。

(霊感とは、あくまでも
「脳内作用」であると思っています。)

     

弥勒菩薩様の

「思惟手」(しゆいしゅ)

これを真似ると、
脳内に指令が伝わり、
人を助けるため知恵が得られやすい
状態になるのだと思います。

重要な事を考えるとき、

 親と薬指で輪を作る 

これをお勧めします。

 きっと良い閃きがあるはずです。







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文学の世界の話として受け止める。

2024-09-06 | 宗教


 輪廻転生 

輪廻転生とは??

人は死んだあと生まれかわる。

輪廻とは・・・車輪が回るという意味。
転生とは・・・生まれ変わるという意味。

バラモン教の考え方を仏教が取り入れた。

輪廻転生・・・真実か???

空想の産物か???

「絶対にアル」
と断言する宗教関係者もいる。

確証も無いのに断言することは
非常に危なっかしい行為だ思う。

ある新興宗教の教祖様は、

誰々は・・・誰々の生まれ変わりである・・・

などど断言する。



ただし・・・不思議な事に、
その内容は時々訂正される。

「kさんはナイチンゲールの生まれ変わりである」
と言っていたにも関わらず・・・
状況が変わると、

「 Kさんは実は悪魔の生まれ変わりです」
などと言って簡単に
前言を翻す教祖様もいるらしい。



私の考え・・・・

輪廻転生は

肯定も否定もできない

輪廻転生が真実だとしても、
前世を知ることは絶対に出来ない

「あなたの前世は〇〇です・・・」

と発言する宗教家、
スピリチャルさん、右脳教屋さんがいる。

なかには魂胆があって
嘘をついている人も存在すると思うが、

純粋で真面目な御方が、
大真面目に言っている場合も多いと思う。



もし、仮にの話ですが・・・

世間で有能と言われている
霊能者や拝み屋さん、
霊感のある宗教家を10人集めたとします。

この10人の方と個別に面会して、
私の前世を見てもらったとします。

そのとき起こり得ること・・・

「あなたの前世は・・・
石川五右衛門です!!!」

と全員が断言する・・・・
若しくは過半数の先生が
同じ回答をすることがある得るだろうか?

 いや・・・

「そんなことは絶対にありえない」と思います。



A先生は・・・
「あなたの前世は戦国武将です」

B先生は・・・
「あなたの前世は坊さんです」

C先生は・・・
「あなたの前世は柿本人麻呂です」

D先生は・・
「あなた前世は賓頭盧尊者です」

こんなな感じになると思います。



この場合・・・
どの先生の話が真実なのか???

正解は多数決で決めるのか???

真実は一つのはずです。

間違った回答は無限大にあります。

即ち・・・・・
前世は何だったか???
の問いに対して、答えは出せない。

前世はあるかも知れないが、
特定は絶対に不可能。

もし、それを特定したり断言したりするエライ先生がいたら。

1・・・笑って聞き流す。

2・・・神話の世界、文学の世界の話として受け止める。

3・・・心の問題としての、観念として受け止める。

4・・・勧誘や支配を目的としているようなら近づかない。

5・・・とことん矛盾を追求して論破する。
(危険を伴うのでこれは避けた方がよい)
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恐怖の体験

2024-08-03 | 宗教


私が20歳の頃(今から40年前)
当時の私は
奈良大和路に魅了されていました。

当時、毎年、4~5回は通ったと思います。

奈良に行ったとき必ず、
大神神社(おおみわ神社)を参拝し、
この神社の御神体である、
三輪山を眺めるのが通例でした。

三輪山山麓に桧原神社という神社があります。

この神社のある場所は、
「 倭笠縫邑伝承地 」
と呼ばれています。

「倭笠縫邑(やまとかさぬいむら)」
とは、
現在の伊勢神宮(内宮)に祀られてい
る天照大神を
初めて宮中の外でお祭りした場所です。

この地こそ、
現在の伊勢の神宮の出発点であると感じます。

桧原神社の境内からは、
大和盆地の景観が一望できます。

この地に立つと、
「 大和は国のまほろば・・・」
の歌が心の中に響いて来ます。

大和盆地の反対側には、
生駒山系が連なっています。

生駒山、信貴山は、
修験道系・密教系の霊場が点在していて、
日本有数の霊山としてもその名が知られています。。

私はそれまで何度も奈良に訪れていたのですが、
生駒山の方面には一度も足を踏み
入れることありませんでした。

理由は分かりませんが、
私には相性が良くない土地だと思えたからです。

そんなある日の事、
なぜか、フト思いつきました・・・

生駒山に行ってみよう・・・・

生駒山中にある、
x寺というお寺には宿坊があり、
格安な値段で宿泊できあると
云う事を知りました。

安いことも魅力でしたが、
好奇心のような感覚もあり、
その寺で、泊めて頂く事にしました。

この寺は、役行者(えんの行者)
が開山したお寺で歴史の古いお寺でした。

対向車が来たらすれ違うこともできない、
曲がりくねった細い山道を車で登って行くと、
いかにも役の行者が好みそうな場所に、
xx寺がありました。

寺にたどり着いて車を停めたとき、
日が暮れ始めていました。

車を降りたとき、
冷たい小雨が降り始めました。

掃除や庭木の手入れなども行き行き届いた、
立派なお寺でした。

石段を見上げると、
夕暮れの濃い霧の中に
本堂が浮かんでいました。

独りぼっちの私の目には
不気味な光景に映りました。

それは映画八墓村のワンシーンのような
心細さを感じる神秘的な絵でした。

石段を登り、本堂に辿り着きました。

ほかに宿泊客がいると思っていたのですが、
私以外誰もいませんでした。

どう訳か分かりませんが・・
今日は、
寺にいるのは住職ひとりだけの様子。

臆病な私は心細くなってきました・・・

・・・・・・・・

夕食の時間になりました。

夕食は住職が鍋を作ってくださいました。

大きな鉄鍋の中を覗き込むと、
ネギがたくさん入っている、
シンプルなものでした。

汁は少量で、透明・・・
出汁の味は全く
感じられませんでした。

鉄鍋の底には肉団子が沈んでいました。

鳥の挽肉に生卵を入れて、丸めただけの
シンプルな鶏団子でした。

不平を言っては失礼ですが・・・
まったく味の無い汁でした・・・

住職は、嬉しそうな眼差しで、
鍋の中に醤油と、スプーンに
山盛りの砂糖を投入しました。

(これはスキ焼と云うのかもしれません)

住職は自分の取り皿に
野菜と肉団子を取り分けると、
美味しそうに食べてお
見えになりました。

薄暗い本堂の密教の護摩壇の横で、
住職と2人でほとんど会話もなく、
黙々と食べました。

なんとも寂しく孤独で・・
異様な光景でした。

そのあと、住職は住処に帰り、
私は離れの宿坊で一人になりました。

物音ひとつしない、無音状態。
テレビもない。

気味が悪く、怖くなってきたので、
寝るのが勝ち!!と思い、
8時くらいに布団にはいりました。

そのあと・・・
恐怖の一夜が待ち構えていたのです・・・

布団に入って目を閉じると、
何やら、只ならぬ気配を感じる・・・

数人の人にジッと
見つめられているような感覚・・・
四方八方から視線を感じる。

怖くて、頭から布団に潜り込む。
眠れない。

恐怖のあまり、
布団の中に潜り込む、
それでも・・
強い視線を感じる。

住職に助けを求めに行こうと思った。

しかしながら・・
住職が寝ていると推測される御堂まで
行こうと思うと、
真っ暗な本堂を
通り抜けて行かねばならない。

暗闇を歩いてゆく勇気もない。

恐怖心は限界に達していた・・・



いっその事・・・
化け物でも、
幽霊でも、妖怪でも・・
何でもいいから、
姿を現して欲しいと思った。

幽霊が姿を見せてくれたなら、
大声で 

助けてー 

と叫ぶことができる。

しかしながら、
この状態で 「助けてー!!!! 」
と叫ぶことすらできない。

四方八方から強い視線を感じるだけで、
別に非常事態が発生した
訳ではないからである。

じっと耐え続けていたら、
今度は小便がしたくなってきました。

強い尿意を感じるも、
更に強い視線を感じる。

やはり怖くて布団から出ることができない。

尿意が更に睡眠を妨げる。

結局、夜が明けるまで一睡もできませんでした。

長い夜が明けました・・・

生涯で一番長い夜でした。



住職と2人で朝食を食べました。
そのとき、住職に昨晩の事を話しました。

住職は笑うだけでした。

そこで私が尋ねました、
「 幽霊や魔物は存在しますか? 」

住職、ニッコリ笑って答えました・・・

「  そんなものは存在しません、
怖いと思うから怖いだけですよ  」

・・・・

修験道系の密教では、
護摩壇の前での加持祈祷は必須で、
その場合、加持祈祷を受ける人には、
頻繁に憑依現象が起きているはずです。

それに、
この寺に住んでいれば何らかの体験を
しないはずがありません。

浄土真宗系ならば、
基本的には霊魂の存在を認めていないので
霊的現象を否定されたとしても
不思議ではありませんが、

この寺は、役行者の開山した寺で、
現在は山岳修験道系の密教寺院です。

それでも敢えて否定されるところに
深い意味があると感じました。

今になって思うに、
これは修験道で言う、

 「 行試 」(ぎょうためし)

あのとき体験したことは、
霊や魔物の仕業ではなく、
そういう「 現象 」を通して、
役行者が私を
「 試した」 のだと思えます。

今思えば・・・
あのとき、私が取るべき最も適切な対処方法は、
迫り来る只ならぬ気配と、
四方八方から注がれる
強い視線に対して、

ニッコリ笑って

 注目して頂けて光栄です

 歓迎して下さって有難うございます

 今ここ天国極楽浄土



と、申し上げるべきだったと思います。

その時、迫り来る恐怖の視線は消え去り・・
天女が現れて極楽浄土の
光景を見せてくれていたかもしれません。

後1か月で60歳となります。

再度、
あの寺で泊まってみたいと思っています。

もし、あの時と同じ事が起きたなら、
  
 ニッコリ笑って申し上げたいです。

  注目して頂けて光栄です

 今ここ天国極楽浄土



果たして・・
このような対応が出来るかどうか???

ひょつとしたら、
怖くて気絶してしまうかも・・・

ミラクル白ウサギの
真価が試されることになるでしょう・・・

畏れ多くも・・・
再度、役行者様と
相撲を取る日が来るのが楽しみです。

自分の生態が興味深いです。
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