「 因果報応 」
は仏教や多くの宗教が説く尊い教えであり、
真理です.
しかしながら・・・
それは、読んで字の如しではありません。
その奥があるのです。
( これは、ウサギセンサーで語っています )
例えば・・・
A子さんがBさんに対して、
過去に何か悪い行いをしたとします。
単純に「因果報応」を当てはめれば、 A子さんは、
その「原因」に対する「結果」として、
Bさんから何らかの悪果を受ける事になる。
若しくは、Bさんとは関係ない人から苦痛を与えられる。
人間が関与しなくても、
不慮の事故、病、苦悩、
などの突発的不運となって帰ってくる。
確かに、ある意味この法則は機能してる。
でも、この説明は完全で完璧ではない。
多くの場合、ここで止まってしまうから、
生半可に宗教をかじると、結果的に不幸となる。
悪い原因(種)は、バトンタッチをしながら、
永遠に連鎖し続ける。
もし、これが真実なら、全ての人間はいつかダメになる。
どんなに努力しようとも、悪因を創り連鎖し続ける。
全ての人間が悪くなってゆく。
これを「 相対因果 」と呼ぶ。
相対因果は、何かとの比較を前提としている。
何々できないことは悪い事である。
何々してはダメだ・・・ とは
「善」と「悪」との「対比」
「対比」を基準にする判断を「相対」と云う。
相対因果で物事を見ることは、
あくまでも真理への入り口であり、
終点ではない。
相対因果は、真理への「 入り口 」としては、
必要でるかも知れないが、
いつまでたってもそこで足踏みしていると、
そのエネルギーは
権威意欲・傲慢・選民意識・に姿を変え、
やがて闘争・分裂・不義理・となり、
「 腐った宗教家 」なり果てる。
こういう、「 自称・偉い先生 」になってしまうと、
‘‘妖怪のような化け物‘‘になってしまい、
煮ても焼いても食えない。
相対因果を超越したとき、
「絶対因果」が見えて来る。
これを見つけるのが最大の課題である。
釈迦が説いた仏法の頂点は
「 絶対因果 」
・・絶対因果とは・・・
1・悪いことをしてしまった
↓
悪い種があったから悪い事をしてしまったのであり、
もうこれで因果は終決している。
2・ヒドイ目にあった。
↓
悪い要素が現われたという事、
現われたとは言葉を変えれば「悪い要素が消え去った」
もうこれで、因果は終決している。
↓
「 過去は無い 」 「 悪業・悪因も本来無い 」
「 ホントウにあるモノ 」とは、
現在と未来のみである。
無いものをあると思っうと
「 報いを受けて当然 」という潜在意識が働く。
これを、「 自己処罰 」と云う・・・
それ故、の優しい人、純粋なひとほど、騙され易く、
不運にになり易い。
清廉潔白な人ほど、自らが不運を選び、それを引き寄せることが多い。
こんな事は、ごく普通の社会経験のある人なら、
多くの人と関わってきたなかで、
言わずとして分かっていることだが、
こんな当たり前な事が分からない人も
存在することも確かである。
「 自分を処罰 」とは、
無いものをあると思うが故に、
無意識の領域の自分が、‘悪い要素‘ を自ら作り出し、
苦悩・不幸・不調和・不完全を引き寄せる。
ホントウにあるモノを感じ見たとき、
相対因果の循環から脱出する。
ホントウにあるモノとは、
・・自己の内に宿る神・仏
・・他者の内に宿る神・仏 天地万物に宿る神・仏
これを見たとき、
「 悪あがきはしません・・・
素直な気持ちで、全てをお任せします 」
という心境に達するはずだ・・
それを音にしたのが、
「 南無阿弥陀仏 」であり、
「 ナンミョウホウレンゲキョウ 」であり、
「 アーメン 」