
ウソをつくと閻魔様に舌を抜かれますよ・・・・
子供の頃耳にした言葉です。
閻魔様がいるいないは別として、
この言葉が大きな害を及ぼすとは思えません。
「 ウソをつくと自分にとって マイナス になりますよ 」
ということを子供に感覚的に教えるという意味で、
この手のお話も必要なのかも知れません。
仏教ではこういうのを 「 方便 」 と呼びます
最近、 疑似科学 が横行しています。
これは非常に危険であると思っています。
水に 「 ありがとう 」 と語りかけると
その水に科学的な変化が生じるとか・・・・・
この手のお話は、
方便 として道徳論や精神論を説くという意味においては
べつに問題ないと思います。
間違った事を教えている訳ではありません。
感謝の心は大切です。
感謝の心は如何なる邪悪な要素も 「 消し去る 」
汚い言葉や 暗い言葉を使うと 自分にとってマイナスとなります。
しかしながら・・・・
水の性質が変わると言ったことを、科学的に立証した という類のお話は
危険極まりない と思えます。
絵本の世界のように「 たとえ話 」 として述べることは問題ありませんが、
それに無理やり 科学的 という言葉を当てはめる手法は感心できません。
あくまで 「 方便 」 として
程々のところで抑えておけば良いと思うのですが、
これが更にエスカレートすると、
カルト になります。
水の結晶 を顕微鏡カメラで撮影した写真が、
科学的根拠 があるかの如き解説で紹介されているのを目にしました。
少しでも科学的知識がある人が見れば
???????
です、
有識者は ??????と思っても、
大真面目に議論するのも野暮と思って黙っているだけのような気がします。
私のような無学な人間でも、こういったお話が荒唐無稽である事ぐらい、
容易に判断できます。
結晶の写真 と称するのは
厳密に言えば 「 氷が解けてゆく過程 」 の写真
綺麗な幾何学模様は 氷に周辺の水蒸気がくっついてできたもの。
それは、固定した姿ではなく 刻々瞬瞬と形を変えます。
「 どのタイミングで写真を撮るか 」
の問題であり、水の継続的な状態 を表すものではありません。
要は、
何百枚も写真を撮って その中から
‘ 趣旨に沿った綺麗な図柄の写真 ‘ を選び出す。
まあ、そう言う事なんです。
この写真を 科学的 と仰りたいなら、
どういう条件で、 何枚撮ったのか、
この2点を明記しなければなりません。
たぶん・・・この事は絶対に公表できないはずです。
現に、一切、公表されていません。
こういう写真を 「 選び出す 」 為には、膨大な時間と、根性と執念が必要だと思います。
そういう意味ではたいしたものだと思います。
「 精神論 」 「 例え話 」 「 ご愛嬌 」 「 軽い冗談 」
という土俵で語っているなら、
このこと自体を批判する気はありません。
メルヘンの世界、( 方便 ) と言う意味では無意味ではありませんが、
大真面目に 「 科学的だ 」 などと言ってしまったら
チョッと行き過ぎです。
手のひらから、何かを取り出す、
イ〇ドの 〇者 差異〇〇 さんと同列な気がします。
信じられない事に、ある程度教養を備えた、インテリ階級の人まで
このお話を信じているようです。
この手のお話は、
ウソをつくと閻魔様に舌を抜かれますよ・・・・程度に解釈して、
あくまでも 童話の世界 に留めるべきだと思います。
こういう手法で 科学 を振りかざすことは、
地道に努力している科学者に対して失礼です。
科学者の背後にそも、
神を否定する唯物論者の背後にも、
それを守護する神の英知が存在しています。
この手のお話は、純粋な人間ほどコロリと行ってしまいます。
そういう意味で、私のような捻くれた人間は安全です。
純粋過ぎることは、多くの危険を伴うと云う事です。
悲しい事に・・・
純粋な人間ほど、利用されやすい・・・・
純粋な人間ほと不幸になりやすい・・・・
純粋な人間ほど、‘ ‘ の類のお話に振り回される・・・
でも・・・
全てを疑っていては、それだけで人生終わってしまいます。
「 何かを信じる 」 と云う事は大切な事です。
「 何を信じるか 」 でその人の運命は決定します。
ならば・・・・
信じるべきものはなにか?
私は思います・・・
「 自分の内に宿る 神 」
これを信じる事が、全ての根本だと思います。
全ての人間は 神の分身 です。
これはウソではありません。
ウソをつくと閻魔様に舌を抜かれてしまいます・・・・
子供の頃耳にした言葉です。
閻魔様がいるいないは別として、
この言葉が大きな害を及ぼすとは思えません。
「 ウソをつくと自分にとって マイナス になりますよ 」
ということを子供に感覚的に教えるという意味で、
この手のお話も必要なのかも知れません。
仏教ではこういうのを 「 方便 」 と呼びます
最近、 疑似科学 が横行しています。
これは非常に危険であると思っています。
水に 「 ありがとう 」 と語りかけると
その水に科学的な変化が生じるとか・・・・・
この手のお話は、
方便 として道徳論や精神論を説くという意味においては
べつに問題ないと思います。
間違った事を教えている訳ではありません。
感謝の心は大切です。
感謝の心は如何なる邪悪な要素も 「 消し去る 」
汚い言葉や 暗い言葉を使うと 自分にとってマイナスとなります。
しかしながら・・・・
水の性質が変わると言ったことを、科学的に立証した という類のお話は
危険極まりない と思えます。
絵本の世界のように「 たとえ話 」 として述べることは問題ありませんが、
それに無理やり 科学的 という言葉を当てはめる手法は感心できません。
あくまで 「 方便 」 として
程々のところで抑えておけば良いと思うのですが、
これが更にエスカレートすると、
カルト になります。
水の結晶 を顕微鏡カメラで撮影した写真が、
科学的根拠 があるかの如き解説で紹介されているのを目にしました。
少しでも科学的知識がある人が見れば
???????
です、
有識者は ??????と思っても、
大真面目に議論するのも野暮と思って黙っているだけのような気がします。
私のような無学な人間でも、こういったお話が荒唐無稽である事ぐらい、
容易に判断できます。
結晶の写真 と称するのは
厳密に言えば 「 氷が解けてゆく過程 」 の写真
綺麗な幾何学模様は 氷に周辺の水蒸気がくっついてできたもの。
それは、固定した姿ではなく 刻々瞬瞬と形を変えます。
「 どのタイミングで写真を撮るか 」
の問題であり、水の継続的な状態 を表すものではありません。
要は、
何百枚も写真を撮って その中から
‘ 趣旨に沿った綺麗な図柄の写真 ‘ を選び出す。
まあ、そう言う事なんです。
この写真を 科学的 と仰りたいなら、
どういう条件で、 何枚撮ったのか、
この2点を明記しなければなりません。
たぶん・・・この事は絶対に公表できないはずです。
現に、一切、公表されていません。
こういう写真を 「 選び出す 」 為には、膨大な時間と、根性と執念が必要だと思います。
そういう意味ではたいしたものだと思います。
「 精神論 」 「 例え話 」 「 ご愛嬌 」 「 軽い冗談 」
という土俵で語っているなら、
このこと自体を批判する気はありません。
メルヘンの世界、( 方便 ) と言う意味では無意味ではありませんが、
大真面目に 「 科学的だ 」 などと言ってしまったら
チョッと行き過ぎです。
手のひらから、何かを取り出す、
イ〇ドの 〇者 差異〇〇 さんと同列な気がします。
信じられない事に、ある程度教養を備えた、インテリ階級の人まで
このお話を信じているようです。
この手のお話は、
ウソをつくと閻魔様に舌を抜かれますよ・・・・程度に解釈して、
あくまでも 童話の世界 に留めるべきだと思います。
こういう手法で 科学 を振りかざすことは、
地道に努力している科学者に対して失礼です。
科学者の背後にそも、
神を否定する唯物論者の背後にも、
それを守護する神の英知が存在しています。
この手のお話は、純粋な人間ほどコロリと行ってしまいます。
そういう意味で、私のような捻くれた人間は安全です。
純粋過ぎることは、多くの危険を伴うと云う事です。
悲しい事に・・・
純粋な人間ほど、利用されやすい・・・・
純粋な人間ほと不幸になりやすい・・・・
純粋な人間ほど、‘ ‘ の類のお話に振り回される・・・
でも・・・
全てを疑っていては、それだけで人生終わってしまいます。
「 何かを信じる 」 と云う事は大切な事です。
「 何を信じるか 」 でその人の運命は決定します。
ならば・・・・
信じるべきものはなにか?
私は思います・・・
「 自分の内に宿る 神 」
これを信じる事が、全ての根本だと思います。
全ての人間は 神の分身 です。
これはウソではありません。
ウソをつくと閻魔様に舌を抜かれてしまいます・・・・