名古屋の白ウサギ・1964年生・

別名、ウサギ仙人・・職業・会社員

我 忘れるが故に、我 あり 

2014-05-05 | 思う事


四苦八苦・・・

やはり、生きているからには多くの苦しみが伴う。

苦悩、 後悔、 不安、 いらだち、 孤独、 肉体的苦痛・・・・

嫉妬、 憎悪、 憎み、 怒り、 嫉み、 妬み・・・・

どんな人間でも必ず持っている。


どんな大富豪も、

どんな成功者も、

強烈に陽気な人も、

誰もが羨むヒーローも、

穏やかで、平和な生活をしている人も、


人知れず 「 苦 」 と戦っている。


なかには、想像を絶する大きな苦しみを抱えている人もいる。

ただ、それを他人に見せないだけ。


私は、若い頃、こんな簡単な事が解かっていなかった。

高等そうな立派な理屈を並べ、「 真理は普遍にして万能なり 」

と信じ、それを得意満面に人に語った事もあった・・・


今思うと・・・そういった思い上がった自分が情けなく思える。


人間はそれぞれ、その人にしか分からない苦しみがある。

人の苦しみをその人の身になって理解したつもりで偉そうな事を言う事は簡単だ。


あるとき思った・・・


苦しむ人を助けたい・・・と真剣に思うなら、

自分のなかに、その人の意識を入れなければならない。

その人の苦しみ( 心の状態 )を自分で中で再現しなければならない。


そのうえで、何かを語るべきだ、


でも・・・・そんな事を常にしていたら、自分自身がイカレてしまう・・・・


自分がイカレてしまっては身も蓋も無い・・・・


ならば、どうしたらよいか・・・・


「 自分を忘れる 」 これしかない・・・


デカルトさんは、 「 我思うゆえ、我あり 」 と仰ったけど、

私の場合、

「 我、忘れるが故に、我あり 」 と考えるのが自分にとって最も効率的な

生き方であるような気がして来た・・・


それ以来、自分以外の誰かの事を考える時間が増えて行った。


と言っても、常に自分を忘れる事は不可能だ、

自分の前に、苦しむ人が現れたとき、

その人のみに全身全霊を込めて、意識を集中する。


これを行っている間は、「 自分の苦しみ 」 など存在しない。

ひょつとしたら・・・この状態が 浄土であり天国なのかも知れない。


苦しむ人の意識を自分の中に入れなくても、何らかの手助けができる。


自分以外の誰かに強烈に意識を向ける。

これが出来れば、結果として、必ず何らかのかたちで自分の存在が人の為になる。


最も、これは「 世の為、人の為に何かをする 」 などという高等な意識ではない。


恥ずかしながら・・・わたしはそんな立派な人間にはなれない。


「 自分を忘れるために、何かをする 」 ただそれだけだ、


自分の行為や存在が、人の役に立つことが出来た時、

誰かが深い意味で喜んでくれたとき、


ありがとう・・・・


とお礼を言いたくなる。


自分の愚かさに打ち砕かれそうになったとき、

自分の子供の事、家族の事で苦悩が襲い掛かってきたとき、


「 我 忘れるが故に、我 あり 」 念じる。


このあと、私がどうなるかは 全て神様にお任せしようと思っている。















コメント
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