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四日市公害と環境未来館、1産業の発展と公害の発生

2017-07-13 04:51:39 | 日記

皆さんは、四日市と言うと、どんなイメージをお持ちでしょうか。

まず、思い浮かぶのは、深刻な、大気汚染と、四日市喘息でしょうね。

たしかに、かっては、その通りでした。

そんな負の遺産を抱えながら、四日市が、どの様にして、問題解決に取り組み、

美しい環境を取り戻そうとし、取り戻して来たか、その歴史と未来への提言を

しているのが、ここ、四日市公害と環境未来館です。

 

 

 

 

 

 

それでは、中へ入って見ましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

四日市の近代化は、稲葉三右衛門の、四日市港整備から始まりました。

 

 

 

明治政府は、殖産興業の一環として、生糸、紡績業の発展を促し、この政策にしたがって、

伊藤伝七は、三重紡績(後の東洋紡)を興しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第二次世界大戦の勃発と共に、日本は、独伊と三国同盟をむすび、連合国側と対戦することになり、

東南アジアからビルマ、インドまで戦線を拡大していきますが、アメリカの、体勢立て直しが完了してからは、

次第に劣勢となり、主に、太平洋海域、日本周辺での、戦闘に、追われて行きました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やがて、広島長崎に原爆が落とされると、日本は、ポツダム宣言を、無条件でのみ、降伏します。

 

戦争が終わって、日本国民は、荒廃した国土のなかから、立ち上がりました。

政府は、殖産興業政策を、積極的に推し進めて、日本各地に、工業地帯、石油コンビナートの造成に着手していきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

終戦後、10年経った、昭和30年の経済白書には、もはや、戦後ではない、と記されたほどでした。

国民は、一億総中流の言葉を信じて、更に,働き続けました。

 

 

 

 

 

入社して、しばらくして、マイホームを手にすることが可能になったサラリーマンたちは、

そのことを、実感したものでした。

しかし、その裏には、国民の健康、生活を蝕む、恐ろしいことが起きつつあったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ーーー続くーーー