現代日本語百科   けふも  お元気ですか

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述語と話法  日本語の文法について その36  述語16

2013-05-28 | 日本語文法
日本語に話法はあるか、ないというのがその答えだ。はたしてどうか。ない、となると議論の要はないが、それでは、ないとならないことを見てみる。直接話法と間接話法なら聞いたことがある。それは引用によることだ。しかし日本語文法ではそれを特徴づけるものはない。あるとすれば引用符号を使うか使わないかでかき分けるなりする。その書き方で符号を外してもぼうびきの会話スタイルを小説の文体などで見かける。そこに文法の法則が働いていても、話法としての特徴はない。 すると話法とはそもそも何か。説明を求めれば、他人の言葉を伝える際の種々の様式のこと、口から発した発話だけでなく、心の中で思った思考内容も含まれる、とフリー百科事典では解説をする。そこには加えて、そのため発話と思考を合わせて言説、discourseと呼ぶ者もあると注をつけ、さらにまた引用という用語で代用する場合もあるとなる。言説引用と話法と文法の区別がつかないのが日本語である。 . . . 本文を読む

文法のいろいろ

2013-05-28 | 日本語百科
ほんとうにいろいろであるからそれが一つであるような説明はそうしたことだろうか。学説の名前を付けて文法論があるとそれは論があるのであって文法は一つだというような反論が出てくる。それもその限りでは言語現象で日本語なら日本語ではその通り、一つの文法がはたらいていると解釈できる。しかしその日本語文法でも文法論に5大、3大文法または学説とかあって、そのほかに規範文法と言い、これは学校文法とすることがふつうであって、そこに教育文法とかいうと、その文法は文節文法だよと説明したりしてそれは橋本文法とどう違うのかと思ったりするから、文語文法、口語文法、古典文法、現代文法となかなかわかりにくくなるようなことで、そのとらえ方が一つだと考えをまとめるのは普通の人々にとってはかなり大変である。しかしそれだけではないのである。言語における探求はさまざま側面を見せてその限りで分析をしていくと文法また文法論はその立場方法によることになる。 . . . 本文を読む

いきざま、しにざま

2013-05-28 | 日記
使いにくい言葉だ。くわえて、やりざまとつい言ってしまってこれはどうしたことか。遣り様だろうが。やりようといえばそれなりにわかるところ、仕業とも言いたかった。しわざである。いきざまを言われてそれは使わないから死に様だと言って見せてこれも、しにようのことだなと思ってそれは生きたあかしなんだろうかとふと思っている。死に際に何を見るか、何を見せるか、そういうことなんだろうか。辞書によれば死ぬときの様子が死にようだとそのまままであり死に際となるとその死んだのはどうして死んでいったかを説明するようだ。死に方が取りざたされるのはその生きようが良くないものであったのか、それとも普通に死んだのではなくて劇的にとか運命に翻弄されてとかそういうことか。しにざまという発音がきつく意味に与える何かがあるならそのざまにあるのだろう。様を見ろとかなんとかいうたぐいだ。そこで死に方や死にようではなくて死に様なわけだ。ざまぁみろはともかく死に様は良い意味では使われないのか、あるいはそれを補うために生きざまが使われるようになったというのが辞書の説明のようだ。 . . . 本文を読む

139  声をかけてください  

2013-05-28 | 日本語新百科
日本語誤百科 12ページ  お声掛けください を、例題にしている。お声掛け と、ください の組み合わせで、その意味が、声を掛けてもらうことであって、相手を呼び止めて、ちょいと、もしもし、というようなわけである。ことば自体にあやまりがあるわけではないので、待遇用法の適不適に議論がある。この声をかける行為が自発的に行われるならまだしも、相手に対して用があるときにこちらの方から言うのを、逆転して、用がある人から言ってくださいというような要求をすることになって、その場面に応じた物言いでは用法が難しいことになる。つまり、サービスを売る側が、そのサービスについてまず、お声掛けをください というように、言ってみれば、サービスを要求しろというようなことになる。だから、サービスを買う側になると、まずそちらから応対をしてくれ、というようなことだ。とくに、お声掛けください の場面は、黙って突っ立ているか、振り向きもせずに通り過ぎてゆくか、極端に言えばそこに誰もいないのである。新たなサービス商法に客に付きまとうことを避けるような応対が行われる場合があってこの語の必要性もあるのだろうか。 . . . 本文を読む

138  ~という

2013-05-27 | 日本語新百科
現代日本語「誤」百科 806  完全に解決したという対応 を、例題にしている。という についてコラムでは、事柄の内容を表すために使うと、解説する。例題は事柄を表していない、言い方が、解決した対応 では、こういうことができないから、完全に解決してからの対応 とすればよいとする。はて何を言わんとするのか。この例題では引用の、~という を用いた表現とみてよいので、文脈からそのような内容であろう。 . . . 本文を読む

文法はいずこ

2013-05-27 | 日本語百科
文法の話をしていて難しいとか得意ではないとか、良い印象で語られることが少ないので、文法教育の影響するところかと思ったりもして、ある程度文法観を持ちうる、この文法観なるものもいかにもわからなさげで文法の見方といえば済むのであるが、そういう年齢に達している人々に文法とはどう考えたらいいかを説明して、文法はどこにあるか、どこにもない、あるとすればそれはあなた方ひとりひとりの頭のうちか、あなたが使う言葉の中にあるのだというの導入にすることがある。文法よ、いずこにというわけであるが、これはすぐにも気づくが自分の言葉を使っていて、おかしいと思ったり間違ったかなと思ったりしたときに、そこには自らの文法規範が働いているのであるから少しぐらい規則に破格であっても通じればいいというようなことで規範意識には違いないがいつも文法についての言葉のチェックが行われていてそこに文法はあるのである。 . . . 本文を読む

叙述の語  日本語の文法について  その35   述語15

2013-05-27 | 日本語文法
述語の捉え方は文法によって異なることはないだろうが日本語文法として作り上げてきたのはどのような見方であろうか。命題による判断文か、シンタクスとみられる統語範疇の議論であろうか、このことはまた構文論として日本語文法が明らかにしてきたことは何であったのかを捉えなおすことになる。文法の構造を捉えてみて下位構造によって上位構造を規定するとすれば日本語には何があるだろうか。 述語をみて日本語にある文末の機能で述語のいくつかの種類をもって構成しているということは叙述をするということになる。叙述の機能を文法に即して説明すると日本語には当てはまりやすい。述語も叙述も述べたてることに変わりはないが、ことをありのままに述べていくとするのは日本語の構造に適応すると捉えよい面が出てくる。叙述語という用語を使う向きもあるので特徴を表すものであろう。 . . . 本文を読む

口語、文語

2013-05-26 | 日本語百科
話し言葉と書き言葉のことを口語と文語という。言葉は話すことからだろう。この話すについても日本語では言う、語る、話すと言葉があるから、その意味はどう違うだろうかとなるが、それはまずさておき、口語と文語とを並べて口語文法、文語文法となると、これまた奇妙なことに、文語があって口語があることになる。また文語体と口語体となるとこれはかつて区別があってそしていまはともになくなってしまった。文体も日本語に特徴的であるとされるのでこれについては機会を改めよう。戻って、話し言葉の記録は文字が漢字とともにある日本語では方言的なものを訛言として伝えるほかは、ほとんどにおいて書き言葉の記録である、と断言してよいかも迷うところで、それぐらいに話しことばはわからない。わからないのではなくて記録するということがなかったとするなら、これは記録されたものの中に話し言葉を類推することになる。言文はわかれて伝えられたとする立場にあるなら、それが見える状況でさかのぼることができるだろう。 . . . 本文を読む

キャンパスにて

2013-05-26 | 日記
大都心のキャンパスとはおもえないくらい、静かだ。池袋はこのような土地だったか。建物も瀟洒で煉瓦造りを残す。木が豊かでという言い方もおかしいが、日陰を得て暑さでまぶしく消耗するのをを癒す。敷地はそれほど広くもないとわかったような感想を漏らして、2日間を過ごしたことを思う。日本語教育学会の春季大会、立教大学にて終わった。長くブログなどを書きちらしているが、こんなふうにしおらしく書くのも初めてだ。二日目の教室はD302ときめてそれこそいつもの口ぐせで有意義でありました、ということになる。 . . . 本文を読む

137 的を得て言うことは

2013-05-26 | 日本語新百科
日本語誤百科 11ページ 的を得る を、例題にしている。たびたび指摘してきているように、文化庁の国語課の調査で広まった誤解だ。この誤解は一方的な調査ともいうべき、正しい庶民の受け止め方を誤解のほうに誘導している。例題は、たとえば文学における表現として慣用句が生まれてくる、それは故事成語となるが、この故事はともかく成語は難しい。漢語表現であれば日本語として熟語の扱いになってますますその区別の議論が必要だという例に似ている。この場合は弓道での言い方を広めて、正鵠を得る 中心の白円は正鵠ともいい、正鵠を得るとは的の中心に的中することである とする説明が一般に理解されているかどうか、それは難しいとしても、的を射るのが、真ん中でなくてもよいとの理屈も出来るわけであるから、射的として的中、的外れなどと言い、正鵠を射ると言うことがあっても、正鵠を得るとしても、正鵠は的である、的を得るとしてそれは誤用ではないのである。 . . . 本文を読む