1日長い2月も終わって、3月に入ったねぇ。
仕事の忙しい時の1日長いのは、損してるのか?はたまた得してるのか?(^▽^)
GW中の4月が1日長くて32日まであったりしたら、絶対得しとるよねぇ。
ってことは、やっぱり損したんかねぇ(^^ゞ
ところで、先週末にマッキーと再び倉橋へ行って来たよ。
中国新聞に、早瀬大橋の下に「平家口碑」があるって書いてあったけぇ、見にいったんよ。
まず、第二音戸大橋の工事の進み具合を確かめて・・・
こないだと何も変わってないね(^^ゞ
別に、第二音戸大橋のファンってわけじゃないけど、まぁせっかく来たんじゃけぇってことで(^^)
呉側は、汐音しおん(元の音戸ロッジ)の下に着くんじゃね。
倉橋側は山を削っとるけど、どこに降りるんかねぇ。
おぉ、ここからこないだの毛利家、縁の寺「法専寺」が見えるわぁ。
ってことで、早瀬大橋の方へ回ってみた。
これかぁ・・・
これしかないじゃん(^^ゞ
近くの案内板にはこう書いてあった。
==================================================================================
「王泊・大君の地名と平家口碑(へいけこうひ)」
この付近は、文治元年(1185年)2月、屋島の合戦で敗れた平氏が安徳天皇を奉じて
海路西へ落ちていく途中、ここに停泊。王泊・大君の地名はそれによると伝えられています。
「能美島志」に、「王泊・大君邑に在り、昔清盛、未だ隠渡(音戸)をさく開せざりしの時、
往来の船舶多く速瀬(はやせ)の海を通る。或いは潮汐(ちょうせき)の漲(みなぎ)るを
候(うかが)い、或いは順風を待つの客船皆此裏に泊す」と記されています。
平清盛が音戸の瀬戸を開くまでは、船の多くはここを通り、潮待ち・風待ちの船もここに
泊まったと伝えられています。
その時代、広島はまだ開けておらず、畿内(きない)から海路宮島に行くには遠回りに思
えますが、当時、江田島湾を形成する江田島と能美島は離れており、ここから江田島湾を通
って宮島方面に向かったとも考えられています。
「平家口碑」は、この地のいわれを後世に伝えるため、昭和56年4月、当時の大柿町と
大柿町観光協会により建てられたものです。
江田島市
==================================================================================
このあと、源氏に追いつめられ壇ノ浦で平氏とともに入水したんよね。
そういやあ、昔は「いいくに(1192)つくろう鎌倉幕府」なんて言よったけど、最近は平氏の滅びて
源氏に政権が移った1185年っていう説が有力みたいじゃけど・・・
今、学校じゃどうやって教えよるんかねぇ?(笑)
とは言うてみたものの、私が学生の頃にはこんなことはちっとも興味がなかったけぇ
年号なんか覚えとらんかったけぇ、なんも問題は無いんじゃけどねハハハ(^▽^)
「ほいじゃが、この橋の下じゃ流れが速くて停泊はできんよねぇ。」とマッキーが言い出す。
そりゃそうじゃ、碑はここにあるけど実際に泊まった所は別な所じゃない?
早瀬大橋の下は潮の流れが早くて、停泊に適した場所には見えん。
魚はよう締まっておいしそうじゃけど(^▽^)
地図を見ながら少し南へ移動すると、あるじゃん王泊(^^)
ちゃんと、入り江になっとって、そこに王泊の地名があった。
なっとく!(笑)
幕末以外はあまり興味がないといいながら、
大河ドラマが始まるとちゃっかりはまってしまってる自分がいる(^^;
ちょっと前まで、「平家」と言えば「新平家物語」くらいしか思いつかんかったのに。
あっ、もちろんお菓子の方の新平家物語じゃけぇ(笑)
仕事の忙しい時の1日長いのは、損してるのか?はたまた得してるのか?(^▽^)
GW中の4月が1日長くて32日まであったりしたら、絶対得しとるよねぇ。
ってことは、やっぱり損したんかねぇ(^^ゞ
ところで、先週末にマッキーと再び倉橋へ行って来たよ。
中国新聞に、早瀬大橋の下に「平家口碑」があるって書いてあったけぇ、見にいったんよ。
まず、第二音戸大橋の工事の進み具合を確かめて・・・
こないだと何も変わってないね(^^ゞ
別に、第二音戸大橋のファンってわけじゃないけど、まぁせっかく来たんじゃけぇってことで(^^)
呉側は、汐音しおん(元の音戸ロッジ)の下に着くんじゃね。
倉橋側は山を削っとるけど、どこに降りるんかねぇ。
おぉ、ここからこないだの毛利家、縁の寺「法専寺」が見えるわぁ。
ってことで、早瀬大橋の方へ回ってみた。
これかぁ・・・
これしかないじゃん(^^ゞ
近くの案内板にはこう書いてあった。
==================================================================================
「王泊・大君の地名と平家口碑(へいけこうひ)」
この付近は、文治元年(1185年)2月、屋島の合戦で敗れた平氏が安徳天皇を奉じて
海路西へ落ちていく途中、ここに停泊。王泊・大君の地名はそれによると伝えられています。
「能美島志」に、「王泊・大君邑に在り、昔清盛、未だ隠渡(音戸)をさく開せざりしの時、
往来の船舶多く速瀬(はやせ)の海を通る。或いは潮汐(ちょうせき)の漲(みなぎ)るを
候(うかが)い、或いは順風を待つの客船皆此裏に泊す」と記されています。
平清盛が音戸の瀬戸を開くまでは、船の多くはここを通り、潮待ち・風待ちの船もここに
泊まったと伝えられています。
その時代、広島はまだ開けておらず、畿内(きない)から海路宮島に行くには遠回りに思
えますが、当時、江田島湾を形成する江田島と能美島は離れており、ここから江田島湾を通
って宮島方面に向かったとも考えられています。
「平家口碑」は、この地のいわれを後世に伝えるため、昭和56年4月、当時の大柿町と
大柿町観光協会により建てられたものです。
江田島市
==================================================================================
このあと、源氏に追いつめられ壇ノ浦で平氏とともに入水したんよね。
そういやあ、昔は「いいくに(1192)つくろう鎌倉幕府」なんて言よったけど、最近は平氏の滅びて
源氏に政権が移った1185年っていう説が有力みたいじゃけど・・・
今、学校じゃどうやって教えよるんかねぇ?(笑)
とは言うてみたものの、私が学生の頃にはこんなことはちっとも興味がなかったけぇ
年号なんか覚えとらんかったけぇ、なんも問題は無いんじゃけどねハハハ(^▽^)
「ほいじゃが、この橋の下じゃ流れが速くて停泊はできんよねぇ。」とマッキーが言い出す。
そりゃそうじゃ、碑はここにあるけど実際に泊まった所は別な所じゃない?
早瀬大橋の下は潮の流れが早くて、停泊に適した場所には見えん。
魚はよう締まっておいしそうじゃけど(^▽^)
地図を見ながら少し南へ移動すると、あるじゃん王泊(^^)
ちゃんと、入り江になっとって、そこに王泊の地名があった。
なっとく!(笑)
幕末以外はあまり興味がないといいながら、
大河ドラマが始まるとちゃっかりはまってしまってる自分がいる(^^;
ちょっと前まで、「平家」と言えば「新平家物語」くらいしか思いつかんかったのに。
あっ、もちろんお菓子の方の新平家物語じゃけぇ(笑)
大泊のラブホに連れ込もうとしたら廃墟になってたのを思い出しましたw
懐かしい青春^^
今でもまだ”HOTEL”見えてましたかね?
この日のブログには誰も食いつかんと思っとったんですが・・・
まさかの座長さん!
ラブホ?
うわぁ~、気がつかんかったですねぇ(^^ゞ
あったかも知れんですねぇ(^^;
今度行ったときには、証拠の写真を撮ってきます(笑)