日記風・・・ ~A Buzz's Life~

管理人Buzzのくだらない絵日記です(^^;

四境戦争「石州口の戦い」長州藩進軍路をたどる ファイナル

2016年07月23日 | Weblog
今年はカープが調子エエねぇ(^^)

ここでは野球のことはあまり書かんのんじゃけど、書かずにはおられんくらい調子ええじゃろう(笑)

今年はいっちゃうんじゃないの(○゚ε^○)v ィェィ♪


ところで、こないだ行った「四境戦争 石州口の戦い」で、村田蔵六率いる長州軍の進軍路の続きなんじゃけど・・・

益田を攻略した後、浜田城へ向かったんよ。

ということで、浜田城まで行っとったんじゃ(^^;

浜田藩の藩主は松平武聡(まつだいらたけあきら)で、一橋慶喜(当時はまだ将軍じゃなかった)の弟じゃけど

このときは病気であまりやる気がなかった?(^^;

結果、城に火をかけて逃げ出したそうです。

ということで、ここには天守はなく、石垣だけです。


入ってすぐの所に「浜田藩追懐の碑」っていうのがあって、司馬遼太郎の書いた「花神」の一部が刻んであった。


石垣は残っとるけど、津和野城と比べてしまって・・・(^^ゞ


本丸へ上がると、所々日本海が見えるんじゃけど、木が茂りすぎじゃねぇ(^^ゞ

もっと木を刈ると、海を天然の堀にした城のイメージが湧きやすいんじゃけどねぇ(^^;

四境戦争 石州口はとりあえずここまでじゃ。

石州口を見て回ったら、芸州口が気になってきた。

苦の坂ぐらいしか知らんけぇ、ちょっと調べて行ってみよう(^^)

津和野城跡、天空の城もあるのか?(^^;

2016年07月14日 | 歴史
こないだから「四境戦争 石州口の戦い」を見に行きよるんじゃけど、もう少し見たいところがあったけぇ、

続きに行って来た(^^)

ほいで、最初は津和野藩。

乙女峠

新政府による隠れキリシタン弾圧で、長崎より連れてこられて拷問を受けたところ。

信仰を改めるよう、5年もの間続けられ多くの殉教者をだした。

明治6年に釈放されたってなっとるけぇ、新政府とはいえまだまだ江戸時代と変わってなかったんじゃね。

次に行ったのが、津和野城跡

ここは気になっとったんよぉ。山城とはいうてもリフトがあるけぇ、敷居は低いよ(^^)

地図上に「現在地」ってなっとるところが、リフト乗り場。

尾根まで登れるけぇ、アップダウンは多少有るけどぜんぜん楽。

ちなみに地図の「現在地」の右下あたりに太鼓谷稲成、右下隅あたりに藩主の菩提寺永明寺がある。

雪のないリフトに乗るのは、変じゃのぉ~って言いながら、5分ほどで降り場についた。

そこから少し進むと最初の史跡「出丸」があった。

ご覧のように、天気は快晴じゃないけど十分暑い(^^ゞ

期待しながら登って、景色を見ると

おぉー!イメージ通りのものが見えた(^^)

真ん中を流れる川は高津川、そこにかかる橋が津和野メインストリートにかかるあの橋(^^)

ほんで、左下に写っとるのが太鼓谷稲成神社。

なんとなく位置関係がわかったじゃろ。

そこから、尾根伝いに一度下がってさらに登ると本城がある。

見えてきた、見えてきた(○゚ε^○)v

規模も大きくてええ感じなんじゃけど、ちょっと荒れててもったいない(^^ゞ

木が大きくなって石垣を崩しよるし、崩れそうな石垣に落石防護ネットがかけてあった。


石垣がきれいなところだけでも、かなりスケールが大きい。

ここには石垣の上、両方にまたぐように建物があって建物をくぐるように入って行く感じ。



(この絵図の現在地は出丸と本丸の間です。)

ほら、柿木林道から津和野に入るときにある、大きな鳥居がちょうど見えるじゃろ(^^)

じゃけぇ、あの道路から見上げるとここの石垣が見えるはず。


山の上じゃけぇ、エエ所から見たら、竹田城跡みたいに天空の城になりそう。

今、検索してみたら有るねぇ、やっぱり。

霧に浮かぶ津和野城跡(^^)

ここまでで、出丸と本丸だけじゃけぇ規模が大きいのがわかるじゃろ。

熊本城の石垣も大変じゃけど、こういうマイナーな石垣も大事にせんといけんねぇ(^^ゞ


四境戦争「石州口の戦い」長州藩進軍路をたどる

2016年07月04日 | 歴史
四境戦争のうち、大島口の戦跡は以前行ったんじゃけど、「石州口」はまだじゃったんよ。

しかも、こないだ「鋳銭司村字大村」へ行ったけぇ、ますます気になってきた。

ということで、「石州口の戦い」の戦跡を見に行ってきたよ(^^)

場所は益田市。

毛利家家臣に「益田氏」っておるけど、元々はここのお殿様。

関ヶ原以降、毛利について萩へ行ったけぇ、その後は浜田藩の所領となってここのお殿様はおらんかった。


たしか、今も萩に残る一番長い白壁は「問田 益田家」(益田家の分家ね)で家禄はたしか2千石じゃった。

分家が2千石じゃけぇ本家はもっとすごいんじゃろうと思ったら、、、

益田氏の家禄は1万2千石ってなっとったわぁw( ̄o ̄)w オオー!


前置きが長うなったね(^^ゞ

ほいで、まず、最初に行ったのが「益田市歴史民俗資料館」

おすすめ情報とかも聞いとかんとね(^^)

建物は大正時代に建てられた群役場を使っとるらしい。

おすすめの場所は、やはり津和野藩と浜田藩の藩境がそれっぽくてエエらしい。

ええ資料がないか聞いたら、これをくれた(^^)

おおぉ~、ええじゃん!

こういうのが欲しかったんよ(^^)

山陰道がピンクで書いてあったんじゃけど、わかりずらいけぇ赤で書いてみた。

地図の下側が藩境。ここから上(益田)に向かって進軍したんじゃ。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(以下「ますだ歴史浪漫街道 探訪マップ」より抜粋)
幕末 石州口の戦い

元治元年(1864)蛤御門の変で長州軍は朝敵となりました。
幕府は慶応2年(1866)、第二次長州戦争の軍を起こし、四境(石州口・芸州口・大島
口・小倉口)より戦端が開かれました。そのうち石州口の戦場となったのが浜田藩領
益田でした。幕府軍は浜田藩800名、福山藩800名の連合軍で、6月17日の朝、萬福寺と
医光寺に布陣しました。一方、大村益次郎率いる長州軍1200名は幕府軍の動きを読み、
16日には扇原関門(益田市多田町)に迫っていました。関門を守るのは扇原関門関守
の浜田藩士岸静江国治と少数の士卒、そして農民16名のみです。圧倒的多数の長州軍は、
何度も開門を迫りましたが、藩命を遵守した岸静江は断固拒絶し、石州口の戦いの火ぶ
たが切られました。
 槍の名人であった岸静江は甲冑で武装を固め長州軍の前に立ちはだかりましたが、
近代兵器の前ではなすすべもなく、縦断を浴びて立ち姿のまま絶命したといいます。
享年31歳。彼の脇差しは、益田市立歴史民俗資料館に保管されています。翌6月17日、
長州軍は扇原を通り、益田口へと来襲し、本陣を妙義寺に構えました。勝達寺、医光
寺、萬福寺に布陣した幕府軍との戦いは双方互角の打ち合いで激戦となりましたが、
形勢は次第に長州軍に傾き、夕方には長州軍の勝利に終わりました。萬福寺の本堂に
は当時の銃弾の跡が残っています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
とうことで、まず津和野藩、浜田藩の藩境へ

ここから240mほど先にある。

高札に人馬のみ通行を許すってなっとる。

馬は連れてきとらんかったけぇ、歩いて行ってみる( ̄▽ ̄;)!!

木が鬱そうとしげる街道をしばらく進む。石畳こそ見あたらなかったが、静かな道で江戸時代にタイムスリップできる(^^)

山陰道は西国街道と違い、旅人はそんなにはおらんかったじゃろうねぇ。そんなことを考えながら歩いた。

そのさきに、建物があった跡らしき石垣が出てきた。

坂を上りきると、藩境の碑があった。

向こう側が津和野藩。大村益次郎率いる長州軍が、向こうから行軍してきたんじゃね。

右側に「岸静江戦死の地」の石碑があった。

ここで立ち往生したんじゃね。

碑の後ろに石垣が見えるが、たぶん元々ここに関のための門があったんかねぇ。

車の所に戻ったら、道路を隔てて反対側に「岸静江国治」の墓がある。

ここからはマップに従って旧山陰道を進軍する。といっても、車じゃけど(^^;


ここ(机崎神社)に長州軍は一度集まって作戦会議をしたんじゃ。

大村益次郎は百姓姿に変身して向かいの稲積山へ登って敵軍の様子を観察した。

稲積山の写真を撮るのを忘れたわぁ(^^ゞ

資料館の人のお話だと、稲積山へは上れなくはないけど、ロケもよくないし大村益次郎気分には浸れないらしい(^^;

これは、妙義寺。

旧山陰道からは少しはずれとるけど、益田家の菩提寺で長州軍が本陣を置いたところ。

乃木(希典)さんの叔父さんと3名の長州藩士の墓があるらしい。

妙義寺から少し進んで益田川を渡ったところに「萬福寺」がある。

萬福寺には浜田藩が本陣をおいていて、激戦となったようです。


このお寺は由緒正しい?お寺で、中に雪舟作の庭があってやはり益田氏の菩提寺になっていたようです。


ちなみに、入場料は500円です。

しかし、毛利とともに長州へ行ったのに、この寺は廃れず残ったんじゃね。

益田氏の庇護を変わらず受けとったんかねぇ。

ほんで、受付のおばあちゃんが話し好き、歴史好きでメチャクチャお話ししてくれます(笑)

大内氏や尼子氏、毛利氏のお話から関ヶ原以降幕末まで、聞かなくてもどんどんお話ししてくれました。

もしかして、戦国時代から生きてるの?ハハハ(^▽^)

これが、本堂にある長州藩が撃った銃弾のあとです。

どうやら、補修されているようで、穴に木の杭や鉄のくさびが打ち込んであったようです。

銃弾といえば、寺田屋、蛤御門、鳥羽伏見の戦いの料理屋の魚三楼でも見たこと有るけど、

これを見ると当時の様子がリアルに思い起こされねぇ。

あとは浜田城へ行ってみる予定じゃったけど、今日は時間切れじゃ(^^ゞ

また次回じゃね(^^)

周防高森城跡、この季節はきつかったわぁ(^^;

2016年07月01日 | 歴史
今日は西へ野暮用があったけぇ、そのまま西へ遊びに行ってみた(^^)

ほいで、最近あまり通って無い道を選んで佐伯町から国道186号を左へ、

さらに県道2号へと入って山口県へ入ると「美和町」なんじゃけど・・・

道路脇に案内地図があったけぇ、車を止めて眺めてみた。

なにやら面白そうなものを見つけた(^^)


高森城跡

スマホで調べてみたら、山城じゃね。

しかも、出てくる名前が「大内氏」の家臣、岐志氏や、陶氏、ほんで毛利氏、坂氏。

こりゃ、面白そうじゃけぇ行ってみにゃいけんじゃろう(笑)

とうことで、さっそく行ってみた。

登り口がちょっとわかりにくい上に、県道2号からはずれたあとは、離合できないほど狭かった(^^ゞ

まぁ、俺バック得意じゃし(笑)

もっとも、対向車と一台もすれ違わんかったけどねハハハ(^▽^)

↑場所はここね。

地図を航空写真に変えると、地図上に無い道が見えてくるけぇ。

車を止められる所がないけぇ、どんどん進むと、軽自動車しか通れんのんじゃないかと思うほど狭い道や

何カ所かは、木が覆い被さってるとこがあったんじゃけど、無視してぐんぐん進むと駐車場に出た(´▽`) ホッ


高森城跡

ちゃんと案内看板のあるじゃん(^^)



距離はあんまりなさそうじゃけど、急斜面じゃのぉ~(^^ゞ

気温も高くて、湿度も高そうじゃけぇ、ちょっとだけ躊躇したけど、ここでやめたらいけんじゃろう(笑)

登り始めて5分もせんうちに、息が切れてきた'`ァ'`ァ (*´Д`*) '`ァ'`ァ

運動不足じゃ~(^^ゞ

くじけず登って行くと、少し緩やかになった気がする・・・

おぉー、これは廓じゃの!

山城は師匠(マッキー)につれられて、けっこう登ったけぇねぇ。

目が肥えてきとるわぁハハハ(^▽^)

もう少し登ると、「おぉー、見えてきた、見えてきた!」きっとアレが主廓じゃ。


とうちゃこ~(笑)

何にもない(^^;

しかもロケ悪い(^^ゞ

360度どちらを向いても下界は見えんかった(笑)

ええんじゃ、ひとりでタイムスリップするけぇハハハ(^▽^)


主廓に祠があったんじゃけど、当時のものじゃないよね。

横に積んである石垣が、変わった積み方じゃのぉ~って思った。

平たい石を重ねて積み上げる形。


主廓から一度出て、横を通って南側へ行こうとしたとき、雑草にまみれた石垣発見!

ここの石垣は、こういう積み方なんじゃね(^^)


地面が斜めになった道って言うか、もともと道じゃ無かった所を無理矢理通ってるだけよね(^^ゞ

じゃけぇ、転げると、写真の角度よりさらにきつい急斜面を滑落することになるけぇ不注意な人は連れて行かれんね(笑)


これが南側の廓。3段ぐらいになってるね。

その先の方に、まだ残ってる石垣がこれ。

すごいねぇ、築4~500年、しかも使われなくなってからも400年くらい経ってたのに、よう残っとったねぇ(^^)

うん、なっとく!

距離は片道400メートルくらいじゃけど、坂がけっこうキツくて(^^;

汗びっしゃりになった。

近くにまだ面白そうなもんがあるけぇ、また今度来んといけん(^^)