四境戦争のうち、大島口の戦跡は以前行ったんじゃけど、「石州口」はまだじゃったんよ。
しかも、こないだ「鋳銭司村字大村」へ行ったけぇ、ますます気になってきた。
ということで、「石州口の戦い」の戦跡を見に行ってきたよ(^^)
場所は益田市。
毛利家家臣に「益田氏」っておるけど、元々はここのお殿様。
関ヶ原以降、毛利について萩へ行ったけぇ、その後は浜田藩の所領となってここのお殿様はおらんかった。
たしか、今も萩に残る一番長い白壁は「問田 益田家」(益田家の分家ね)で家禄はたしか2千石じゃった。
分家が2千石じゃけぇ本家はもっとすごいんじゃろうと思ったら、、、
益田氏の家禄は1万2千石ってなっとったわぁw( ̄o ̄)w オオー!
前置きが長うなったね(^^ゞ
ほいで、まず、最初に行ったのが「益田市歴史民俗資料館」
おすすめ情報とかも聞いとかんとね(^^)
建物は大正時代に建てられた群役場を使っとるらしい。
おすすめの場所は、やはり津和野藩と浜田藩の藩境がそれっぽくてエエらしい。
ええ資料がないか聞いたら、これをくれた(^^)
おおぉ~、ええじゃん!
こういうのが欲しかったんよ(^^)
山陰道がピンクで書いてあったんじゃけど、わかりずらいけぇ赤で書いてみた。
地図の下側が藩境。ここから上(益田)に向かって進軍したんじゃ。
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(以下「ますだ歴史浪漫街道 探訪マップ」より抜粋)
幕末 石州口の戦い
元治元年(1864)蛤御門の変で長州軍は朝敵となりました。
幕府は慶応2年(1866)、第二次長州戦争の軍を起こし、四境(石州口・芸州口・大島
口・小倉口)より戦端が開かれました。そのうち石州口の戦場となったのが浜田藩領
益田でした。幕府軍は浜田藩800名、福山藩800名の連合軍で、6月17日の朝、萬福寺と
医光寺に布陣しました。一方、大村益次郎率いる長州軍1200名は幕府軍の動きを読み、
16日には扇原関門(益田市多田町)に迫っていました。関門を守るのは扇原関門関守
の浜田藩士岸静江国治と少数の士卒、そして農民16名のみです。圧倒的多数の長州軍は、
何度も開門を迫りましたが、藩命を遵守した岸静江は断固拒絶し、石州口の戦いの火ぶ
たが切られました。
槍の名人であった岸静江は甲冑で武装を固め長州軍の前に立ちはだかりましたが、
近代兵器の前ではなすすべもなく、縦断を浴びて立ち姿のまま絶命したといいます。
享年31歳。彼の脇差しは、益田市立歴史民俗資料館に保管されています。翌6月17日、
長州軍は扇原を通り、益田口へと来襲し、本陣を妙義寺に構えました。勝達寺、医光
寺、萬福寺に布陣した幕府軍との戦いは双方互角の打ち合いで激戦となりましたが、
形勢は次第に長州軍に傾き、夕方には長州軍の勝利に終わりました。萬福寺の本堂に
は当時の銃弾の跡が残っています。
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とうことで、まず津和野藩、浜田藩の藩境へ
ここから240mほど先にある。
高札に人馬のみ通行を許すってなっとる。
馬は連れてきとらんかったけぇ、歩いて行ってみる( ̄▽ ̄;)!!
木が鬱そうとしげる街道をしばらく進む。石畳こそ見あたらなかったが、静かな道で江戸時代にタイムスリップできる(^^)
山陰道は西国街道と違い、旅人はそんなにはおらんかったじゃろうねぇ。そんなことを考えながら歩いた。
そのさきに、建物があった跡らしき石垣が出てきた。
坂を上りきると、藩境の碑があった。
向こう側が津和野藩。大村益次郎率いる長州軍が、向こうから行軍してきたんじゃね。
右側に「岸静江戦死の地」の石碑があった。
ここで立ち往生したんじゃね。
碑の後ろに石垣が見えるが、たぶん元々ここに関のための門があったんかねぇ。
車の所に戻ったら、道路を隔てて反対側に「岸静江国治」の墓がある。
ここからはマップに従って旧山陰道を進軍する。といっても、車じゃけど(^^;
ここ(机崎神社)に長州軍は一度集まって作戦会議をしたんじゃ。
大村益次郎は百姓姿に変身して向かいの稲積山へ登って敵軍の様子を観察した。
稲積山の写真を撮るのを忘れたわぁ(^^ゞ
資料館の人のお話だと、稲積山へは上れなくはないけど、ロケもよくないし大村益次郎気分には浸れないらしい(^^;
これは、妙義寺。
旧山陰道からは少しはずれとるけど、益田家の菩提寺で長州軍が本陣を置いたところ。
乃木(希典)さんの叔父さんと3名の長州藩士の墓があるらしい。
妙義寺から少し進んで益田川を渡ったところに「萬福寺」がある。
萬福寺には浜田藩が本陣をおいていて、激戦となったようです。
このお寺は由緒正しい?お寺で、中に雪舟作の庭があってやはり益田氏の菩提寺になっていたようです。
ちなみに、入場料は500円です。
しかし、毛利とともに長州へ行ったのに、この寺は廃れず残ったんじゃね。
益田氏の庇護を変わらず受けとったんかねぇ。
ほんで、受付のおばあちゃんが話し好き、歴史好きでメチャクチャお話ししてくれます(笑)
大内氏や尼子氏、毛利氏のお話から関ヶ原以降幕末まで、聞かなくてもどんどんお話ししてくれました。
もしかして、戦国時代から生きてるの?ハハハ(^▽^)
これが、本堂にある長州藩が撃った銃弾のあとです。
どうやら、補修されているようで、穴に木の杭や鉄のくさびが打ち込んであったようです。
銃弾といえば、寺田屋、蛤御門、鳥羽伏見の戦いの料理屋の魚三楼でも見たこと有るけど、
これを見ると当時の様子がリアルに思い起こされねぇ。
あとは浜田城へ行ってみる予定じゃったけど、今日は時間切れじゃ(^^ゞ
また次回じゃね(^^)