日記風・・・ ~A Buzz's Life~

管理人Buzzのくだらない絵日記です(^^;

大内義隆自刃に追い込まれる

2018年06月27日 | 歴史
今回は、前から気になっとった長門へ行ってきたよ(^^)

ほいじゃが、その前に・・・


    山県有朋     木戸孝允     伊藤博文

萩も覗いてきた(^^;

萩いうても、今回は浜崎地区なんよ。

萩藩御船倉の近くにある浜崎伝統的建造物群保存地区いうところ。

浜崎といえば、今は漁師町のイメージじゃけど、港町じゃけぇ当時は流通の拠点として商家がたくさんあって賑わっとったみたい。

ほいで、今も江戸時代の建物が複数残っとるんじゃ。


「山村家」元は船具屋さんらしい。

江戸時代は間口で税金がかかっとったけぇ、この間口の建物がどんだけリッチかわかるよねぇ。

今は資料館的な感じで無料開放されとった。

ボランティアのおばちゃんの解説付き(^^)


同じ建物の奥行きです。


すぐ近くに今も現役の船具店がある。

小さな町に船具店が複数あったというだけでも、昔の賑わいが感じられるよね。

このあたりは、過去に何度か来たことがあったんじゃけど、少しずつ整備されて今の方が古い町並がきれいなよ(^^)

まだまだ見所はたくさんあったんじゃけど、今回はメインディッシュが別にあるけぇ次に行った(^^ゞ

次回は、自転車持っていってもうちょっと詳しく回って来るね。

浜崎から少し東にある、「芳和荘」

旅館ってなってるけど、元々は遊郭じゃったんよ。

当時の建物がそのまま、旅館として使われとるんじゃ。

真ん中が吹き抜けになっとって、そこをグルッと回るように廊下がついとる・・・

幕末の志士たちが、斬り合いを始めそうな場所じゃけぇ(笑)

中は宿泊せんと見られんかったけぇ、気になった人は検索してみて。


こんな建物じゃけぇ。


「芳和荘」のすぐ近くに「浮島遊郭跡」っていうのをグーグルマップでみつけたけぇ行ってみた。

ほいじゃが何にもないのぉ・・・ってグーグルマップを航空写真に切り替えたら、もう何もないパチンコ屋の駐車場じゃった(^^ゞ


さて、萩から移動して今度は長門。

長門といえば、数年前に安部さんがプーチンさんをもてなした「大谷山荘」がある温泉じゃ。

今回は大谷山荘からもほど近い「大寧寺」へ行って来た。


大寧寺は大内氏最後の当主「大内義隆」の最期の地です。

そう「陶晴賢」によって自刃に追い込まれたんよね。


寺の入り口付近に



「かぶと掛けの岩」


「姿見の池」


さぁ、大内氏の墓へ・・・

あれ?

こんな所に、「関東管領(かんとうかんれい) 上杉憲実(うえすぎのりざね)」の墓があるじゃん。

関東管領といえば、上杉謙信もやっとったよねぇ。

大河ドラマ「風林火山」でガクトがやっとったわぁ(^^;

なんで、こんな所に・・・

なんか、いろいろあって諸国を旅して最後は大内氏を頼ってこっちで亡くなったんだって。ふーん。


さぁ、いよいよ大内義隆の墓所

「大内義隆主従の墓所」

さっきの所から少し上がって、墓所の一番奥にある。

昼間でも日があまり入らない薄暗いところにあった。



一緒にある墓の中に、「二条」「三条」って言う名前がある。

大内義隆って山口に京を作って、公家のような生活をしとったっていうけど、本当の公家も呼んどったんじゃねぇ。




大内義隆、義尊親子の墓が正面に、周りには家臣の墓が並んどる。

ちなみに、普通の墓石っぽいのは墓石じゃなく名前が書いてある墓標で、本当の墓石はその横や後ろにある「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」じゃけぇ。


三条公頼卿の墓石には石室がついとる。

この中でも特別身分が高かったんじゃろうねぇ。

大内義隆が陶によって滅ぼされたのは知っとったけど、山口市から逃げてここへ来て、自刃したんじゃね。

そのときに寺も焼失したらしい。

その後、お寺は毛利氏によって再建された。

ふぅー、これで気になっとった大内氏の最期の地は見れたわぁ(^^)


シシドシ

2018年06月05日 | 歴史
シシドシ?

宍戸といえば 「宍戸錠」!?フルーハハハ(^▽^)

いやいや、 「宍戸刑馬」ムムムこれはまた、マニアックな名前(^^;

#高杉晋作が馬関戦争の講話談判へ行くときに名のった名前じゃね。「アメツチノハジメノトキ、タカマノハラニナリマセルカミノナハ、・・・」
#古事記を暗唱したというあれのとき(^^;

さて、今回は毛利の家臣「宍戸氏」の縁の地へ行ってきたよ(^^)

長州藩で宍戸氏といえば一門家老の筆頭になっとる。

晋作が名のった「宍戸刑馬」からさかのぼること300年。

安芸の国におった頃の宍戸氏、縁の地へ行って来たよ(○゚ε^○)v ィェィ♪


もともと、宍戸氏と毛利氏は仲が悪く何度も抗争を繰り返しとったんよ。

宍戸元源の時代にも、毛利氏と争っとる。




宍戸元源(もとよし)夫妻の墓

ほんで、元就の代に元源の嫡孫「隆家」に元就の娘(五龍局)を嫁に出して和睦したんじゃ。

力を付けてきた元就が、贈り物を持っていったんじゃけどね。


これ以降、宍戸氏は毛利の中で吉川、小早川と並ぶ立場になったんじゃ。


隆家夫妻の墓

元源の嫡男「元家」は元源より先に亡くなっていたため、元源の跡を継いだのはこの隆家じゃった。

隆家は叔父の隆忠を家臣の讒言(ざんげん 人を陥れようとして事実を曲げて告げ口すること。)により殺害しとる。


隆忠の墓

元源、隆忠の墓は、理窓院っていう寺にあるんじゃけど、場所が分からず寺の中をウロウロしとったら、

ちょうど住職が出てきて案内してくれた。

そのとき、寺の歴史とかもちょっと説明してくれたよ。

親切な住職じゃった(^^)


続いて、理窓院から川を渡って隣の山にある、宍戸氏の居城 「五龍城」へ。

五龍城は江の川と本村川と二本の川に挟まれた場所にあるんよ。



川の流れに削られたのか、崖が急で山城にはもってこいの地形じゃ。


山城全体はこんな感じで、かなり本格的?(^^;

なぜかGoogleマップと向きが反対じゃ。

登り口は山城の先端で、今は神社の参道になっとる。



参道を上ると最初の曲輪「尾崎丸」に神社がある


宍戸司箭神社


ここの「五龍城址図」がわかりやすかったけぇ、貼っとくね。

五龍城は間伐してあって、曲輪や堀切、竪堀がわかりやすかった。



これが本丸、向こうに見える段は土塁。

これを越えると、10メートルはあろうかという堀切がある。

大変な工事じゃったろうなぁ。

写真じゃ分かりづらいけぇ、気になった人は行ってみて(笑)

これは、五龍城址図がわかりやすいよ。

一番奥の足軽ノ段まで行って引き返した。

この山城はロケの良いところはあまり無く、そういう意味ではイマイチじゃったけど、

当時の面影が沢山残っとって、タイムスリップは出来たよ(^^)


さて、元就が宍戸氏と和睦する際に贈り物を持っていったと書いたけど、

そのときの贈り物が、高橋氏を謀略により滅ぼし手に入れた領地の一部じゃった。

高橋氏の所領は「石見国邑智郡の阿須那・出羽、安芸国の北半分、山県郡の東部」といわれとる。

毛利は手に入れた領地を、石見・出雲進出への足掛りにした



説明文は下の「高橋盛光の墓」入り口にたっとった。


高橋盛光の墓


ここは「軍原」と言われる場所で、この岩の上で「高橋興光」が切腹をしたといわれとる。通称「腹切り岩」

説明文だけ読むと元就が悪い奴に見えるけど、元就の兄「興元」に高橋久光の孫を嫁にだし、

興元の死後は、嫡男「幸松丸」の外祖父として後見人なり毛利家ににらみをきかせとったらしい。

「幸松丸」死後、元就が毛利の当主となるとき、元就の異母弟、相合四郎元綱が謀反をしようとして粛正されとるが、

このとき尼子氏がからんでいたのは有名な話しじゃけど、高橋氏も一枚かんどったという話しもある。

高橋氏の系図に関しては諸説あるみたいじゃけど、元就の「謀略恐るべし」じゃね(^^ゞ

この時代は生き残るためにみんな必死じゃけぇねぇ。

でも、いろんな話が出てきて面白いね(^^)