日記風・・・ ~A Buzz's Life~

管理人Buzzのくだらない絵日記です(^^;

また、また、津和野へ行って来た(^^)

2018年04月24日 | 歴史
「ポォォォ~~~~~~~~~~~~~」

ギャラリーが集まってきたけぇ、サービスで鳴らしてくれたんか?



懐かしい汽笛の音じゃ(^^)

SLと言えばそう、あそこ!勘の良い皆さんならお気づきでしょう(^^;

「津和野」です。

#こないだも行っとったじゃん!ハハハ(^▽^)

そうです、ブログにも書いたけど津和野は来とるよ。

でも、あの日は通りすがりで見ただけ。

じつは、先週も来たんじゃけど寒くてすぐに撤収したんよ(^^;

じゃけぇ、リベンジでまた来たんじゃ。

「道の駅 津和野温泉なごみの里」でお昼ご飯を食べたあと、ここからは自転車で移動。



今日は先週と一転、暑い汗;;;

街中までは2kmちょっと、川沿いの遊歩道をのんびりと行ったよ(^^)

ここからは殿町通り。

津和野藩の家老が住んどったところじゃ。

多胡家老門。

津和野藩の筆頭家老、多胡家(たごけ)

門の脇に番所がある。来客があったらここから覗いたりしよったんかね(^^)

大岡家老門

「無礼者!」

なにやら怪しい挙動で屋敷を覗く輩がおる。

無礼討ちされるよ(笑)

現在は、屋敷の一部は津和野町役場として使われとる。


殿町通り

カトリック津和野教会

『乙女峠』で有名な教会。

築は昭和の初めらしい。


左端の建物が津和野藩家老の屋敷、ここから向こうは町家通り。

地面の色が変わって、殿町通りと町家通りの境目がわかるようになっとる。

江戸時代には、ここに門があったみたい。

町家通り

古橋酒造

これもエエ感じの建物じゃ。

中ではお酒以外にも、アイスやラムネも売りよった。

アイスは、日本酒が入ったお酒味。

おいしそうじゃったけど、アルコールが若干(1%未満)入ってるってことじゃったけぇやめといた(^^ゞ

中の椅子でラムネを頂いて一休みした(^^)

そのときお店の人に聞いたら、建物は大正時代のもので改築は何度か行ったらしい。

たしかに、棟続きの隣の建物は大正っぽい(^^)

あちらは住居への入り口(玄関)らしい。

のんびり散策しよったら、汽笛が聞こえてきた。

ほいで、行ってみたのが最初の写真。

見よったら、汽笛を何度か鳴らしてくれた(^^)

出発するかと待っとったけど、なかなか動かん。

時刻表を見たら、3時45分発。

今は3時じゃけぇ、当分動かんわぁ。

遅くなるけぇ帰ろう(^^;

道の駅で帰り支度が整った頃に汽車が見えた。


SLに特別思い入れがある訳じゃないけど、昔は家の前を普通に走っとったけぇなつかしいのぉ。

さて、今週末からはいよいよGWじゃね。

変則の連休になりそうじゃけど、どこへ行くかな(^^)

吉田町墓巡り?

2018年04月12日 | 歴史
「吉田に国司氏の菩提寺があるよ。」

マッキーからの返信メールが届いた。

国司氏といえば、幕末に切腹させられた長州の「三家老」の一人。

最近の私のブログを見て、刺激を受けたんか?

それとも、毛利ネタでワシを釣るつもりか?

よーし、釣られてやろうじゃないかハハハ(^▽^)

ということで、マッキーと自転車を持って出かけてきた(^^)

吉田の町もけっこう来たけど、まだまだ行ったことがない所がたくさんあるんじゃねぇ(^^ゞ

最初に行ったのは、「多治比猿掛城跡」



元就が幼い頃に、隠居した父「弘元」に連れられてこの城で暮らしとった。

27歳で毛利の家督を継ぐまでここにおったらしい。

ほいで、ここの目的は弘元の墓じゃ。


真ん中に見えるのが、弘元の墓。

その左にあるのが弘元の妻の墓。

妻は実家の福原城で亡くなって、そちらへ埋葬されとったのを大正10年に移葬された。となっとる。

この頃の毛利は山口の大内氏と島根の尼子氏の間であっちに着いたり、こっちに着いたりしながら生きていた小さな国人領主じゃった。

ほいじゃが、なんで大正時代に福原の墓所からこっちへ墓をうごかしたんかねぇ?

福原家の墓所に埋葬されとったのは、それなりの理由があったと思うんじゃけど・・・

さておき、5歳の時に母、そして10歳で父と亡くし一人になった元就を育てたのは弘元の側室「お杉の方」じゃった。

#大河ドラマでは松坂慶子が演じとったね。

もう一人の側室は「相合の方」。そう、元就が毛利を継ぐときにいろいろあった、相合四郎元綱の母。

正室亡き後、側室同士の戦いもいろいろあったんじゃろうねぇ。

この「お杉の方」の墓は多治比猿掛城の中ではなく、川を挟んだ対岸にあった。


少し虐げられた感じはあるけど、多治比猿掛城がよく見える場所に葬ってもらっとったよ。


次に「国司氏の墓所」へ。

元々は「休照庵」という菩提寺があったようじゃけど、今は墓所だけ残っている。


そこの看板に、国司氏は足利尊氏の重臣「高師直(こうのもろなお)」の弟「高師泰」の息子「師武」がここに移り住み

地名から国司を名のったと書いてある。

「師直塚へいったよねぇ。あの渡しを渡った後に。」マッキーが言うが、ピンとこんねぇ(^^ゞ

渡しの跡は思い出したが、師直塚は思いだせん。

あとで調べてみたら、確かに西国街道へ行ったとき師直塚の前は通っとる。

ストリートビューみたらなんか見覚えがあるような・・・(^^;

ほいじゃが、保存してあった写真の中には師直塚の写真はなかった。

そのときもピンとこんかったんじゃろうねぇ。

ちょうどそのあたりの写真にたこ焼きの写真があったわぁ(^^;

あの当時、師直塚の重要性がたこ焼き以下じゃったんじゃねハハハ(^▽^)

国司氏の出身もわかったところで、次は井上氏居所跡。

また、マニアックな(^^;


元就が幼かった頃に所領を横領し、のちに粛正された「井上元兼」。

#大河では片岡鶴太郎がやっとったね

ここは居所跡が「亀崎神社」となって残っとる。

井上の文字は見あたらんかった(^^ゞ

ほいで、今度は福原氏の居城、鈴尾城(福原城)。

ここに福原氏の墓所もある。


なんと、福原氏も毛利と同じ大江氏の出じゃった。知らんかったのぉ(^^ゞ


ここが福原城にある福原家墓所


「上ってみようやぁ。」

マッキーが言うけぇ、鈴尾城は上ってみた。


元就誕生伝説碑


福原家居館跡

八代当主、福原広俊の娘が毛利へ嫁に行き興元、元就が生まれとる。

元就はここ福原城で生まれたという伝説もあるらしい。

当時、現代のように「嫁が実家に帰って出産する」という習慣があったのか?疑問じゃけど(^^;

まぁ、「伝説」ってなっとるけぇ、ええじゃろう。

いずれにしても、この吉田の地で生まれたのは確かじゃ。

ほいで、道は整備されて歩きやすかったけど、けっこう急で年寄りにはきつかった(笑)


でも本丸からの景色は、意外と良かった(^^)

グルッと見えたらもっとええんじゃけど、まったく見えん山城もあるけぇ○じゃろう。

距離はあまりなかったけぇ、下りはあっというまじゃった。

ほいで、そこから少しの所に「桂広澄」の墓所がある。

相合四郎元綱の謀反のときに坂氏、渡辺氏がからんどって、桂広澄は無関係じゃったけど坂氏の嫡男だったことで

自刃したといわれとる。

#大河では草刈正雄

墓に名前はなく、たぶん地元の人によってお世話されとったんじゃろうねぇ。

なんだか墓巡りみたいになったけど、知ってる名前だと身近に感じるよね。

500年前に亡くなった人がここに葬られ、そのときの墓石が目の前にあると思ったら浪漫を感じるよねぇ。