日記風・・・ ~A Buzz's Life~

管理人Buzzのくだらない絵日記です(^^;

津和野街道を旅してみるハハハ(^▽^)

2016年08月12日 | 歴史
毎日暑い日が続くねぇ~(^^;

そのうちバナナが採れるようになるんじゃないん(笑)


ほいで、こないだ暑さから逃れてマッキーと山へ行ったんよ。

この時期涼しい山じゃったら、1,000メートルは上らんといけんよねぇ(^^ゞ

とりあえず、いつもの佐伯町から吉和方面を目指したんじゃ。

宮内別れから上って佐伯町まで来たとき、津和野街道の話になった。

「行ってみようかぁ(^^)」

佐伯町内にある「重なり岩」からのぞいてみた。


大きな岩が重なっとるんじゃけど、絵馬があるじゃろ。

受験生が合格祈願を書いとるんじゃけど・・・

「落ちない奇岩(祈願)」だって。

ダジャレじゃん!ハハハ(^▽^)

この岩、過去に地震で落ちたり、大名行列の際に藩主の命により落としたりしたんじゃけど、

2度とも翌日には元の位置に戻っとったという伝説のある岩らしい(^^)

さて、この後は石畳の残る津和野街道へ行くことになったんじゃ。

佐伯町栗栖の先から入っていくと、石畳が残っとるらしいんじゃけど・・・

ここの標高はまだ300メートルそこそこじゃけぇ、避暑と呼ぶには低すぎる(;_;)


これがそのルート・・・ 暑いじゃろうのぉ~(^^;

とりあえず今日は、石畳の見られる所まで行ってよう。

現在の道は羅漢温泉まで上ってから谷筋を中道へ抜けとるんよ。

それをここからまっすぐ山越えしとるんじゃけぇ、きつさがわかるじゃろ(^^ゞ


そこからさらにまっすぐ羅漢山をこえて六日市方面へ、さらには津和野へと続く街道。

意を決して進んでみるけど、山の中の道は日向よりは少し涼しいかもしれんけど、、、

暑い

少し進むと、案内板通り「峠の茶屋跡」があった。

ここで、旅人達はお茶を飲んで休憩したんじゃね。

さらに進むと、あった~!

石畳の道

この道を「隠れキリシタン」達は津和野まで歩かされたんじゃねぇ・・・

そんなことを考えながら歩いてみる。

もちろん、津和野藩主 亀井氏も駕籠に乗って通っとるよね。


街道のすぐそばを小川が流れとった。

旅人達はここで喉を潤したんかねぇ。

ちょっとだけ、江戸時代の旅人気分に浸れた(^^)

歩いた距離はほんのちょっとじゃけど、暑過ぎじゃ~(^^;

続きはまた涼しくなってからじゃね。

四境戦争「芸州口の戦い」 今、四境戦争がマイブームじゃけぇ(笑)

2016年08月02日 | 歴史
「あれ~?・・・、おかしいのぉ~??」

何度も写真と見比べたけど、大砲の跡なんか見あたらん。

「あぁ~!w( ̄o ̄)w 、なんか違う。」

「こりゃ、西念寺違いじゃ!(笑)」


今日はマッキーと「四境戦争 芸州口の戦い」の戦跡を見に来たんじゃ。

ほんで、長州の本陣といえば、てっきり小瀬川より西の山口県側だと思うたじゃん(^^ゞ


ちょっと勘違いから始まったんじゃけど、まぁ長州側から見ていけばええかぁ(笑)

とまぁ、そういうことで、まず長州側のお寺「安禅寺」から。


裏へ回ると、ここへは彦根藩士の墓がある。

立て看板には、『彦根藩士「竹原七郎平」が従者2人とともに先陣を切って小瀬川を渡ろうとしたところを、長州軍(しょう翼団)の銃火を浴びて河中に倒れた・・・』

書いてあるんじゃけど・・・なんで、幕軍の中でも彼らだけ特別扱いなんかなぁ??


気になって大竹側のサイトで見ると、「幕府軍の使者として封書を高く掲げて川を渡っていて・・・」となっとる。

そうか、使者を撃っちゃってちょっと申し訳ない感じで特別に弔ったんかな。

そこから、ちょっと歩いて和木小学校の東側に「竹原七郎平徒渉地点」っていう碑がある。

この辺へ向かって渡ってくる途中で撃たれたんじゃ。

道路を隔てて反対側(川側)に「四境之役 封境之地」っていう石碑がある。

「激戦は2ヶ月に及んだが幕軍はついに小瀬川を渡ることができなかった。」てなっとる。

幕軍はこの川を渡れんかったんじゃね。

逆に長州軍は、いくつかのルートで広島藩へ攻め込んどる。

ほいで、ここの対岸あたりに青木公園(青木神社横)があり、広島藩側の石碑があった。

これは以前行ったときに撮ったもの。


ほいで、次はしゅう翼団や各隊が定宿としとった浄蓮寺。

和木小学校から少し上流、さらに支流の瀬田川を上ったところへある。

ちょっと小さめかな(^^)

ほいで、小瀬川沿いに戻ってさらに上流へ行くと「籌勝院(ちゅうしょういん)」がある。

ここは、かの遊撃隊の本陣となった所じゃけぇ。

遊撃隊といえば、来島 又兵衛(きじま またべえ)が奇兵隊に対抗して作ったんじゃ。

もっとも、来島 又兵衛は蛤御門で亡くなっとるけぇ、この時はもうおらんかったんじゃけどね。

本堂の裏へ回ると、遊撃隊士の墓がある。

隊士の数が多かったのか?それとも最前線で戦ったからか?沢山の墓がならんどる。


ほいで、いよいよお待ちかね、本物の「西念寺」じゃ~(笑)

場所は、ちょうど大竹のゆめタウンから山側を向いて少し小高くなった所にあるんよ。

幕末には、ゆめタウンはまだ海じゃったろうけぇ、あの辺から幕軍が軍艦から撃ってきたんかのぉ・・・

などと考えながら、眺めてみる(^^)

さて、いよいよ本堂へ


「ほうほう、これが砲弾の跡かぁ・・・」(笑)


○印の場所に本来は、右側矢印のように「肘木(ひじき)」と呼ばれる木があるんじゃけど、砲弾で壊れて穴だけふさいである。

本堂の柱に、説明が貼ってあった。


大島のお寺の石垣の砲弾跡に比べると、被害が小さく見えるなぁ。

大島では石垣の石が一つ無くなっとったけぇ、この程度の壁ならドーンっと一枚無くなりそう(^^ゞ

それとも、無くなった壁を修復するときに肘木の所だけ色を変えたんかね。

芸州口・・・
近場じゃけぇ、あまり気にしとらんかったけど、調べたらけっこうあるんじゃね(^^;

近場は見尽くしたかと思っとったわぁ(笑)

「花神」を見てから始まった、四境戦争 戦跡巡りじゃけど、小倉口は遠いけぇひとまず、これで終わりかな(^^;

次は何シリーズを始めようかぁ(笑)