日記風・・・ ~A Buzz's Life~

管理人Buzzのくだらない絵日記です(^^;

幕末へタイムスリップ

2018年02月27日 | Weblog
前回、「やけのかいがん」って入力しよったら、「やけのやんぱち、やいゆえよ」っていうフレーズを思い出して書いたんじゃけど・・・

周りの反応が「???・・・ 何、それ??? (・_・;」ってなっとった。

昔テレビでやりよったよねぇ、ぽんきっきじゃったっけ?

調べたら、カリキュラマシーンじゃった。

そんなもん、知らんひとのほうが多いよねぇ(^^ゞ

もし気になったら、「カリキュラマシーン あいうえおの歌」で検索したらYouTubeで出てくるけぇ(笑)

そういうことで、再び「焼野海岸」へ行って来た。
 

ちょっと地中海とかを思わせるおしゃれな海岸じゃろ(^^)

順光で撮ったらきれいなんじゃけど・・・


太陽に向かって撮ると空も海も真っ白。

今日は西から天気が崩れるらしい。

これじゃ、夕日も期待できんじゃろ(^^ゞ

ということで、またも夕日かダメじゃった( ̄▽ ̄;)!!ガーン


翌日は山陽小野田市を散策。

まず最初に情報収集のため「山陽小野田市 歴史民俗資料館」ってあったけぇ行ってみた。

ここはタダじゃったけど、捕まえて聞いたお兄ちゃんがはずれじゃった。

高飛車で、話のキャッチボールのできん人じゃった。

やっぱタダじゃけぇ聞いちゃいけんかったんじゃね(^^ゞ

とりあえず、資料を見て移動することにした。

あぁ~~~!今福原なんちゃらって書いてあった!

引き返してみると、

やっぱり!

「福原史跡公園」ってなっとる。

入ってみると、ただの公園じゃったけど、周りをグルッと白壁の土塀で囲われとって結構な広さじゃった。

福原氏と言えば、蛤御門の変ののちに責任をとったあの福原氏なんじゃけど、ここへ住んどったんじゃね。

もっとも、福原越後さんは主に萩屋敷へ住んどったらしい。

ほいでここの門、小さいなぁと思ったら、萩にある福原家屋敷門を3分の2に縮小して再建しとるらしい。


萩の福原家の門はこれ。

3年くらい前に行った時の写真じゃけど。

続いて、皿山といわれる場所へ。

ここは「旦(だん)の登り窯」といわれるところで、天保のころからこのあたりで陶器が作られ初めて戦後まで作られとったらしい。

ここの畑の土を見て「この土は焼き物ができる。」と言った男がおって、それを支援したのが前原一誠の父じゃった。




ということで、この登り窯から少し下に降りたところに「前原一誠旧宅跡」がある。

今も人が住んでいて、何度か改築してるらしいから建物は撮らんかった。

「前原一誠」といえば松下村塾門下生で「萩の乱」で処刑されたね。

「花燃ゆ」では佐藤隆太が演じとったね。

ほいで、次は「来島又兵衛」


蛤御門の変で薩摩軍の銃弾に倒れたんじゃったよね。

「来島又兵衛」は「真木和泉」と並んで過激なイメージがあるよね(^^ゞ



ほいで、厳島神社の敷地内に石碑がある。



ネット情報では「ここから150メートルほど北にある田んぼの南端の生家の有った場所に、石碑がある」っていうのを

見つけたんじゃけど、よう見つけんかった(^^ゞ

その人のブログによると、美祢の厚保(あつ)小学校の中に来島又兵衛の銅像があるみたい。

他にも面白そうなことが書いてあったけぇ、美祢にも行ってみにゃいけん(笑)


やけのやんぱち やいゆえよ? また行くけぇ「やけのかいがん」

2018年02月19日 | Weblog
前回、厚狭へ行ったときに近くに「焼野海岸」っていう夕日の名所があった。

この時の天気は山口県だけ大雪で、前回の洞玄寺の写真になったんよ。

ほいで、今回は夕日もねらってみたんじゃ(^^)

現地に着いたのが16時頃。

本日の日没が18時頃、まだ2時間もあるけぇその辺をプラプラ散歩しよった。

寒いけぇ、車の中で休んどったら・・・

うたた寝しちゃって目が覚めたら18時をまわっとった( ̄▽ ̄;)!!ガーン

やべぇ~!

大急ぎで外に出て撮った写真がこれ。

日没直後で空が焼けとった(^^)

まぁ、雲もそんなに良くないし、また行くチャンスはあるじゃろう(^^;

ほいで翌日「妙徳寺」へ行ってみた。


毛利元就の五男元秋を祖とする厚狭毛利家の菩提寺です。


本堂を左側へ進むと墓所があって、その一角に厚狭毛利家関係の墓があった。

このレイアウトはなんだか納得できんなぁ・・・

そう思いながら見たんじゃけど、どうやら後ろに出来たバイパスの影響で動かしたらしい。

名前を見たけど、毛利氏だけじゃなくいろんな名前があった。

家臣の墓も一緒になっているらしい。

それにしても規模が小さいなぁって思ったら、厚狭毛利家の石高は1万石足らず。

本藩の家老、益田氏や福原氏などより石高は少なかったんじゃね。


続いて近くにある「厚狭毛利家居館跡」へ行ってみた。

この票柱しかなかった(^^ゞ

今は某火薬会社の寮になっとった。

明治に入って富国強兵を叫んどったけぇ、たぶんそのときに国が火薬会社を作ったんじゃろうねぇ。

後で調べたら、裏に石垣が残っとるらしい。

それから目の前にあった神社も居館から移築したものらしい。


続いて貞源寺

居館から少し行ったところある、厚狭毛利家三代元宣の室の墓所がある。

山門から見える本堂の向拝口は厚狭毛利家の玄関を移築したらしい。



たしかに、オモダカの家紋が彫ってあった。

さてさて、あとは「焼野海岸」へリベンジといきたかったけど、さすがに今日は帰らんといけんけぇ昼間の景色をもう一回見とこう(^^)


ここは一応瀬戸内海になるんじゃけど、向こうに見えるのは九州(大分)、ずーっと右の方に関門大橋、そして下関あたりも見えるらしい。



いつも見慣れた瀬戸内海と違って島がぜんぜん見えんねぇ(^^ゞ

新鮮じゃけぇ、また来るけぇ。

でも、夕日のきれいな季節はもうすぐ終わるねぇ。


厚狭毛利家

2018年02月16日 | Weblog
今年はよう降ったねぇ(^^;

2日続けて50cmオーバーの積雪で除雪が間に合わず、ラッセルしながら走ったり(^^ゞ


こんな景色も何度も出会ったよ。

あっ、広島市内じゃなく県北(広島県北部)の話ね。

ところで、お休みの日には山口方面へ行ってきたよ。

今年は維新150年で、いろんなところでイベントしとるけぇ

山口メインで行ってみようかね(^^)

ということで、川棚温泉からの山陽小野田市(笑)

温泉は端折っちゃったけど(^^ゞ

ほいで、こちらは厚狭毛利家の菩提寺「洞玄寺(とうげんじ)」

ご覧の通り、再建してあるんじゃけど元の物を忠実に作ったらしい。

じゃが、新しいとどうもピンとこんねぇ(^^ゞ


本堂の裏山へ上がると厚狭毛利家の墓がある。


その中に意外な人の墓があった。

毛利勅子

日本で3番目に古い女学校を作った人ってなっとった。

でも、引っかかったのはそこじゃなく、彼女は福原越後の妹じゃった。

そう、蛤御門の変の後に責任をとって国司氏、益田氏とともに自刃した3人の家老の内の一人。

福原氏の自刃した岩国のお寺に行ったなぁ・・・って思い出した。


ほいで、帰ってから調べたら、厚狭毛利家の菩提寺は他にも「妙徳寺」がヒットしたけぇ、今度はそっちも行ってみようかね(^^;

ほいじゃが、どんどんマニアックになっていくなぁ(笑)