今年は予報通りの暖冬じゃねぇ。
時々雪は降るけど、ほかの日が暖かい。
ほいで、こないだの日曜日に野暮用を終えて昼から暇になったけぇマッキーを誘って遊びに行ったんじゃ。
「行ってみたいところがあるんじゃけど。」
近場で気になるところをみつけたけぇ、聞いてみた。
マ「僕も気になるところがあるんじゃ・・・」
おっ、そっちも面白そう(^^)
ということで、ひとまずマッキーの見つけてきた所から行くことにした。
~※~※~※~※~※~※~※~※~
10年ほど前に行った「西国街道」なんじゃけど、崩れとって通れん所があったんじゃ。
どうやら今は通れるらしい。
~※~※~※~※~※~※~※~※~
広島藩の西の端、大竹の「苦の坂」。
そう、2~3年前に四境戦争の戦跡を見に行ったときにも入り口までは来たんじゃけどね、通れんと思っとったけぇ入らんかった(^^ゞ
ほいで、東側の入り口から上って行って、振り返ったところがここ。
竹藪になっとるけど、道だけは確保してある。
峠のてっぺんには案内板が立っとった。
県境側への坂はけっこうきつかった(^^;
「これぞ苦の坂!」と思わせる坂じゃったけど、距離が短かったけぇ西国街道の中ではそれほど難所じゃなかった。
ほいじゃが、長州藩の兵はこれを登っていったんじゃ、これじゃ上からねらい打ちじゃ~などと話しながら歩いた。
残念ながら写真を撮り忘れたんよ(^^ゞ
10年も経ってから行けるとは思っとらんかったけぇ、良かった(^^)
ほいで、本日の2つ目は時代は江戸時代から戦国へとさかのぼる(^^)
会社の「戦国時代」好きのおじさんから、「○○城は行ったことがあるか?」って聞かれたんよ。
「聞いたことあるけど、たぶん行ったことないと思う。」
そう答えたけど、気になったけぇ、帰って調べたけどやっぱり行ってない。
「こりゃ、行ってみんといけん。」ということになったんよ(^^;
その山城は「草津城」
草津城は草津天満宮のとなりの山で、ほんまは西国街道(海)側から登るのが正しいと思うんじゃけど、
山側から階段がついとって、そこを登るとすぐじゃった。
山頂には「草津城址」の石碑と案内看板があった。
曲輪も残っとって、なんとなく山城っぽいんじゃけど・・・
海側をみると、でっかいマンションがあってタイムスリップするにはイマイチじゃった(^^ゞ
以下案内板より
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
草津城址と児玉周防守就方の墓
草津城跡(城山)は山陽本線(1899年)と宮島線電車(1923年)の開通により三分された。戦国時代には西は海老山、
厳島、南は能美島、江田島、東は五箇荘(広島)、江波山、海田市も見渡せる重要な所であった。
草津城がいつごろできたかはっきりしないが、1456年(室町時代)武田信賢が草津城を攻め落とし、改築して城と
しての形が整ったといわれている。その後、新里式部少輔(大内氏)→羽仁有繁(陶氏)→児玉周防守就方(毛利氏)
→児玉就英→児玉元昌と城主が変わった。
関ヶ原の戦の後、毛利氏は長州に移り、福島正則が広島城主となると、正則は草津城下の山陽道に大門をつくり、
広島の西の関所とし、草津城をこわしたといわれている。
草津城主であった児玉周防守就方の墓は小泉家の墓所にある。苔むした古い墓(五輪塔)と後世に建てられたと思
われる大きい墓が二つあるが、莵山にあった慈光寺の境内にあったものは古い墓ではないかと思われる。
児玉周防守就方は毛利氏の家来で船方奉行ともいわれ、また毛利水軍の将であったともいわれている。
就方は、厳島の戦(毛利元就と陶晴賢の戦)で毛利の船大将として手柄をたてて草津城主となった。その後織田信長
が石山本願寺を攻めたとき、毛利氏の水軍の将として就方の長男就英が軍船数百艘で、多量の兵糧米を石山本願寺
(後の大阪城)にとどけたことで知られている。
就方は天正14年(1586年)74才で死亡し、その子「就英」が児玉家第二代の草津城主となった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ほうほう、厳島の戦いのときの水軍の将じゃったんじゃね。
ほいじゃ、厳島で「陶晴賢」が自刃した所へ行ったけぇ、あそこで会っとったんじゃね(^▽^)
あそこへ追いつめたのは水軍じゃったもんねぇ。
ほんで、この児玉氏の末裔が203高地のときに出てきた児玉源太郎なんじゃ。
徳山で児玉神社になっとる。
繋がったねぇ(^^)
案内板に「山陽本線と宮島線電車により三分された。」となっとるじゃん。
Google mapで見てみると、、、
あれ~、「草津城跡」ってもう一個あるじゃん。
試しに航空写真に変えてみると
あぁーやっぱり山は続いとる。
山陽本線の向こうにも城跡(曲輪)があったんじゃ。
まあ、近いし墓所も行ってないけぇもう一回行けばええわぁ(^^)
時々雪は降るけど、ほかの日が暖かい。
ほいで、こないだの日曜日に野暮用を終えて昼から暇になったけぇマッキーを誘って遊びに行ったんじゃ。
「行ってみたいところがあるんじゃけど。」
近場で気になるところをみつけたけぇ、聞いてみた。
マ「僕も気になるところがあるんじゃ・・・」
おっ、そっちも面白そう(^^)
ということで、ひとまずマッキーの見つけてきた所から行くことにした。
~※~※~※~※~※~※~※~※~
10年ほど前に行った「西国街道」なんじゃけど、崩れとって通れん所があったんじゃ。
どうやら今は通れるらしい。
~※~※~※~※~※~※~※~※~
広島藩の西の端、大竹の「苦の坂」。
そう、2~3年前に四境戦争の戦跡を見に行ったときにも入り口までは来たんじゃけどね、通れんと思っとったけぇ入らんかった(^^ゞ
ほいで、東側の入り口から上って行って、振り返ったところがここ。
竹藪になっとるけど、道だけは確保してある。
峠のてっぺんには案内板が立っとった。
県境側への坂はけっこうきつかった(^^;
「これぞ苦の坂!」と思わせる坂じゃったけど、距離が短かったけぇ西国街道の中ではそれほど難所じゃなかった。
ほいじゃが、長州藩の兵はこれを登っていったんじゃ、これじゃ上からねらい打ちじゃ~などと話しながら歩いた。
残念ながら写真を撮り忘れたんよ(^^ゞ
10年も経ってから行けるとは思っとらんかったけぇ、良かった(^^)
ほいで、本日の2つ目は時代は江戸時代から戦国へとさかのぼる(^^)
会社の「戦国時代」好きのおじさんから、「○○城は行ったことがあるか?」って聞かれたんよ。
「聞いたことあるけど、たぶん行ったことないと思う。」
そう答えたけど、気になったけぇ、帰って調べたけどやっぱり行ってない。
「こりゃ、行ってみんといけん。」ということになったんよ(^^;
その山城は「草津城」
草津城は草津天満宮のとなりの山で、ほんまは西国街道(海)側から登るのが正しいと思うんじゃけど、
山側から階段がついとって、そこを登るとすぐじゃった。
山頂には「草津城址」の石碑と案内看板があった。
曲輪も残っとって、なんとなく山城っぽいんじゃけど・・・
海側をみると、でっかいマンションがあってタイムスリップするにはイマイチじゃった(^^ゞ
以下案内板より
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草津城址と児玉周防守就方の墓
草津城跡(城山)は山陽本線(1899年)と宮島線電車(1923年)の開通により三分された。戦国時代には西は海老山、
厳島、南は能美島、江田島、東は五箇荘(広島)、江波山、海田市も見渡せる重要な所であった。
草津城がいつごろできたかはっきりしないが、1456年(室町時代)武田信賢が草津城を攻め落とし、改築して城と
しての形が整ったといわれている。その後、新里式部少輔(大内氏)→羽仁有繁(陶氏)→児玉周防守就方(毛利氏)
→児玉就英→児玉元昌と城主が変わった。
関ヶ原の戦の後、毛利氏は長州に移り、福島正則が広島城主となると、正則は草津城下の山陽道に大門をつくり、
広島の西の関所とし、草津城をこわしたといわれている。
草津城主であった児玉周防守就方の墓は小泉家の墓所にある。苔むした古い墓(五輪塔)と後世に建てられたと思
われる大きい墓が二つあるが、莵山にあった慈光寺の境内にあったものは古い墓ではないかと思われる。
児玉周防守就方は毛利氏の家来で船方奉行ともいわれ、また毛利水軍の将であったともいわれている。
就方は、厳島の戦(毛利元就と陶晴賢の戦)で毛利の船大将として手柄をたてて草津城主となった。その後織田信長
が石山本願寺を攻めたとき、毛利氏の水軍の将として就方の長男就英が軍船数百艘で、多量の兵糧米を石山本願寺
(後の大阪城)にとどけたことで知られている。
就方は天正14年(1586年)74才で死亡し、その子「就英」が児玉家第二代の草津城主となった。
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ほうほう、厳島の戦いのときの水軍の将じゃったんじゃね。
ほいじゃ、厳島で「陶晴賢」が自刃した所へ行ったけぇ、あそこで会っとったんじゃね(^▽^)
あそこへ追いつめたのは水軍じゃったもんねぇ。
ほんで、この児玉氏の末裔が203高地のときに出てきた児玉源太郎なんじゃ。
徳山で児玉神社になっとる。
繋がったねぇ(^^)
案内板に「山陽本線と宮島線電車により三分された。」となっとるじゃん。
Google mapで見てみると、、、
あれ~、「草津城跡」ってもう一個あるじゃん。
試しに航空写真に変えてみると
あぁーやっぱり山は続いとる。
山陽本線の向こうにも城跡(曲輪)があったんじゃ。
まあ、近いし墓所も行ってないけぇもう一回行けばええわぁ(^^)