日記風・・・ ~A Buzz's Life~

管理人Buzzのくだらない絵日記です(^^;

お久しぶりです(^^;

2021年11月18日 | Weblog
なんか、ひさしぶりに書くわぁ~(^^;

旅に出ちゃいけん雰囲気じゃったし、○○警察とかイやじゃし(^^ゞ

それなりに、遊びよったけど・・・

ここんとこはまっとったのは、DIYじゃね。

まぁ、それについては機会があったらまたあげるわぁ(^^ゞ

また、どんどん旅に出て写真をも撮ってくるけぇ。




くろだぶし

2019年07月23日 | Weblog
♪さ~け~は~ の~め~ の~め~ の~む~な~ら~ば~♪
酒は飲め飲め飲むならば

子供の頃、正月の集まりで酔った親戚のおっちゃんが歌いよったよねぇ(^^;

大人の余興にひとしきり付き合わんと、お年玉がもらえんけぇイヤイヤ聞きよったよ(笑)

この歌が「くろだぶし」じゃっていうのは知っとったけど、

最後の

こ~れ~ぞ~ま~こ~と~の~く~ろ~だ~ぶ~し~~♪
これぞまことの黒田武士

これが、タイトルの「黒田節」と「黒田武士」をかけとったんじゃねぇ。

これは大人になってから気づいた(^^;

さらに、この歌が「母里太兵衛」が福島正則との酒飲み勝負で名槍「日本号」を勝ち取ったときの歌じゃと知ったのは

わりと最近の話じゃ(笑)


さてさて、長い前振りじゃった(^^ゞ

ここは福岡県朝倉市にある秋月城跡です。

元々は秋月氏の城下町じゃったんじゃけど、その後黒田氏がここに入って「秋月黒田藩」ができたそうな。



「杉の馬場」もともとは馬場じゃったけど、今は桜の名所らしい。

馬場にしては狭いけぇ、当時は両サイドの桜は無かったはずじゃ。



「瓦坂」坂道の土が雨で流れないように、瓦がうめてあった。

この坂を上ってお城に入りよった。

ここは江戸時代そのままらしい。



「黒門」これは秋月城の大手門じゃったらしいが、移築されて残っとる。

新緑のもみじじゃったけど、紅葉の季節に行ったら映えるじゃろうねぇ。



ここにお城があったみたいじゃけど、今は中学校になっとる。

大きなクスノキ?があってすてきな学校じゃった(^^)

ほいで、資料館で質問しよったら、詳しそうな男の人が出てきていろいろ教えてくれた。

秋月氏は長い間大内氏の傘下で勢力を伸ばしとったけど、大内氏の滅亡後は大友氏に攻められた。

そのときは毛利の力を借りて逃げ延びた。

その後秋月に戻り、島津に敗れ衰退する大友氏をみて島津と手を結ぶ。

秀吉の九州征伐で島津側の最前線となって戦うが敗れて、秀吉側の最前線として戦わされる。

「付く相手を間違えたねぇ。」って資料館の人がいよった(^^;

島津に付かずに秀吉に付けばそのままここに居れたかもしれん。

これで、300年あまり続いた秋月での秋月氏は終わるんじゃけど、江戸の中期に黒田氏の跡継ぎとして

秋月氏が養子に入り名前は黒田じゃけど秋月氏の血が戻ったらしい(^^)

詳しく教えてくれたけぇ、「戦国が得意なん?」って聞いたら「私は古代が専門です(笑)」ってハハハ(^▽^)

けっこうな時間お話ししたけぇ、納得して資料館を出たら、

「あっ、○○さんおなか大丈夫ですか?」

どうやら俺が見あたらんけぇ、お腹が痛くてトイレでねばっとると思ったらしい(笑)

お腹は壊してないけぇハハハ(^▽^)

急ぎ登城せよ!

2019年05月02日 | Weblog
令和元年5月、松山城主より登城の命がくだった(^^;

#令和って江戸時代にありそうな元号じゃねぇ(笑)

「こりゃあ~、急いで行かんにゃいけん。」

広島藩の下級武士二人に、なぜ松山城主から登城の命があったのかはおいといて\(^^\) (/^^)/

しまなみ渡って車で行く、という選択肢もあったけど、GW中ということで渋滞を嫌って自転車で行くことにした。

フェリーを使えば、松山観光港から松山城まで10Kmほどじゃけぇ、自転車で十分じゃろ(^^;


ちなみに、フェリーの料金は片道、大人3600円 自転車430円。

大人二人が往復すると、、、ね、高速とかわらんじゃろ(^^;

今回は、輪行したけぇ、自転車の料金は不要じゃった。

松山までは2時間40分ほど、のんびり行こうかぁ。


天気は今ひとつじゃけど、雨は降ってない。

霧も出とる。


おおぉ~、豪華客船じゃ(^^)

瀬戸内海には似合わん大きさじゃねぇ。


さて、松山へ上陸したら、まず、三津浜へ行ってみた。

むかし、大きな船は港に着けられんけぇ、ここの沖に停泊してここから小舟に乗って乗船したんじゃ。

そう、「坂の上の雲」の時に秋山真之が軍服着て、沖に停泊しとる軍艦に乗るシーンがあったよねぇ。

あのシーンはここから小舟に乗って行ったのを別の場所で撮っとるんよね。

次に、三津浜の「御茶屋井戸跡」


江戸時代に三津浜を港にしとったけぇ、参勤交代の時にお殿様が泊まるところが必要になるんよ。

そのときのお宿が三津浜の御茶屋。


そこにあったのが、この井戸。

今は小学校の校庭にある。


さて、いよいよ松山城の御城下へやってきた(^^)



ここは「秋山兄弟生誕の地」

場所はこのままじゃけど、第2次世界大戦で焼けて同じ場所に再建したらしい。

すでに、気づいとると思うけど、今回は司馬遼太郎の「坂の上の雲」の聖地巡礼じゃけぇ(笑)

ここからすぐの所にお城へ上るリフトがあるんよ。

昔、この辺までは来たんじゃけど、当時の私は「差し控え(登城禁止)」じゃったけぇ?お城には上がらず下から見上げただけじゃった(^^;

あの頃は、歴史にぜんぜん興味がなかったけぇ、上らんかったんじゃね(^^;



おぉ~、霧の中から城が見えるぞぉ。



松山城は現存天守12城の中のひとつ。

築城したのは「加藤嘉明(よしあき)」。

加藤清正、福島政則、黒田長政らと並ぶ七本槍の一人。

関ヶ原の功績でこの地をもらって、城を建てるんじゃけど途中で会津に移封される。

石高は倍近くになったけど、とばされた感はあるよねぇ。

福島政則もしかり。七本槍の人たちは冷や飯食わされとるよねぇ(^^ゞ



さぁ、いよいよ城の中へ。



加藤嘉明も眼にすることが出来んかった、天守からの景色じゃ(^^)

天気が良かったら、芸州広島藩も見れたんかねぇ。



ほんで、ここは「坂の上の雲」のエンディングのロケ地になっとったところ。

ちょうど正岡子規(香川照之)の立ち位置におるけぇ(^^)



ここは「お囲い池跡」 旧藩時代の水練場じゃった場所。

秋山真之がふるちんで泳ぐ鎮台さんを叱って、けんかしたところじゃね。

残っとるのは、この看板だけじゃけどね(^^;


一日中、エエ子して遊び回ったけぇ、帰りの船の中は・・・



鯛入り にぎりちくわ わさびチーズ味!

お土産にしようと思ったんじゃけど、ビールが目に入ったとたん、つまみに変身した(笑)

近いんじゃけど、なかなか行かん松山。

だいぶ遅れたけど、ドラマのおかげで行けたわぁ。

2009~2011に放送されたんだって。

えぇ~、もう8年も前の話しじゃったヽ(^o^)丿

おのれ~、紀州の奴らめ

2019年04月20日 | Weblog
「おのれ~、紀州の奴らめ許さん!ぼったくっちゃる!!」

と龍馬が言ったか、弥太郎が言ったか、はたまた誰も言っとらんかもしれんけど(^^ゞ




そう、アソコに見えるのは「いろは丸。     ・・・平成いろは丸」です。



平成も終わろうとしているある日、思いつきで鞆の浦へ行った来たんじゃ。

平日じゃったんじゃけど、「一緒に行く!」って休暇を取ってきた人がおって2人じゃったんじゃけどね。

前に来たときも一緒じゃったねぇ(^^;

何度か来たことがあるけぇ、今回の目的地はまだ行ったことのない仙酔島

ここへは渡ったことが無かったんよねぇ(^^ゞ

さっそく、平成いろは丸へ乗り込み「いざ!出航!!

#ちなみに「自転車は乗せられますか?」って聞いたら「乗せられるけど、島には乗れる所は無いよ。(^^;」って言われたんじゃ。

じゃけぇ、自転車は置いて行った。



弁天島を横目に見ながら港へ着いて、少し歩くと向こうの浜へ出る道と山へと続く道があった。

まず、「龍の背中に乗れる場所」へ行けとなっとったけぇ、山側へ進んだ。


看板には、

~※~※~※~※~※~※~※~※~※~※~※~※~※~※~※~※~
 
 仙酔島は太古より、七福神や龍神さまなどの神々が鎮座されていると伝わっています。

七福神は寶船(たからぶね)にのって人生を航海し、この世からあの世に向かうとき、
寶船は龍となり、天に昇ります。
 昔から、龍の背中に乗ることができれば幸せの方角へ導いてくれる伝えられており
人生を全うした者だけが龍の背中に乗ることができるのです。

ここ仙酔島には唯一、現世でも龍の背中に乗ることができる場所かあります。
  それは・・・この橋の向こう側

ただし、この橋を渡り龍神さまの背中に乗るためには、一つだけ守って頂きたいことがあります。
渡る前に眼を閉じ大きく息を吐き、橋の上では息を止めて、静かに、静かに、龍神さまに気づかれ
ないように、そっと渡ってください。

あちら側に着いたら、龍の背中に乗って一つだけ願をかけてください。
 ここ仙酔島にはたくさんの龍神さまがあらわれます。海の道、山の道を歩きながら
あなたはどれだけ出逢えるでしょうか。
ほら、右下の崖からもこちらを見ていますよ♪

あなたの人生がよりワクワク愉しいものになりますように。

  感謝

~※~※~※~※~※~※~※~※~※~※~※~※~※~※~※~※~

と書いてあった。

龍の意味がようわからんかったけど、とりあえず設計図どおりやってみた。


彼は何を願かけたんでしょうか・・・(^^)


目をつむって橋を渡るのが意外と怖かった。

龍に見つかったかも(^^;

ほいで、こっちへ進むと自動的に山登りの道になってしまう。



山道を登ると「小弥山」「中弥山」「大弥山」と尾根伝いに進んだ。




ロケのエエ所はあまり無かったけど、鞆の浦が見えたよ。

クレーンがあるところが、今、雁木を整備中の鞆の浦だよ。

島の東へ進む道は通行止めになっとって、海岸線に降りた。



海岸線に続く遊歩道を戻ったんじゃけど、岩場じゃね。

「これは花崗岩ですね。」なんて「ブラタモリ」なら、やるんじゃろうけど、なんかようわからんハハハ(^▽^)

これで、ずっと気になっとった「仙酔島」制覇じゃ(笑)

行ってみて思ったんじゃけど、この、尾根伝いに進む道が上ったり下がったりしとるけぇ、龍の背に見立てたんかねぇ。


ほいで、本土に戻って常夜灯と雁木。



あえて、いつもと違うところからの写真にしてみた(^^;



龍馬らと紀州藩が談判した町家って書いてあるけど、「宮崎駿監督デザイン 御船宿」ってなっとる。

前来たとき作りよったけぇ、古民家を改築して作ったんじゃろうねぇ。

久しぶりに来たけど、平日のおかげか少し静かでゆったりできた(^^)

この雰囲気をずっと残して欲しいね。

萩のシンボルへやっと行けたよ(^^)

2019年03月23日 | Weblog
先週、久々の連休がとれたけぇ遊びに行く予定を立てたんよ。

二日目は雨の予報じゃったけど、出かけんのんはもったいないけぇ「萩」へ行くことにした。

初日は天気が良かったけぇ、下道をプラプラ走って行ったけぇ終わってしもうた(^^;

ほんで、夜中に「強風&雨」でどうかと思ったけど、翌朝は雨がやんどる。

「こりゃ、アソコに行ってみよう。」

前から気になっとった「指月山」


萩のシンボルとも言える、指月城の後ろのあの山。

まず、入場料を払って萩城址へ入って、まだ、少し早い桜を横目に奥へ進んでいくと登山口がある。


山頂まで、GPSで軌跡をとってみた。

写真でも分かるように、ほとんど木に覆われてロケがエエ所は全然無いよ(^^;

少し進むと分かれ道に看板がたっとる。

「洞春寺」聞いたことのある寺の名前じゃ。


平に削ってあって、寺が建っていた名残はあるけど、なんもないよ(^^;

#「洞春寺」毛利元就の菩提寺で吉田郡山城へ建てられ、関ヶ原以降、山口へ移転、そしてここへ移転。さらに明治に入って再び山口へ。

郡山城も、山口も「洞春寺」って見たわぁ。

さて、再び山頂へ向かう。

なんだかそれっぽい道を登っていく。

昔も登りよったかねぇ。でもここだと城内じゃけぇ登るなら「羽織、袴に裃付けて」じゃね。

うわぁ~、大変そうじゃ~(^^ゞ

一人でそんなことを考えながら20分くらい登ると山頂に着いた。

ほうほう、これが矢倉門かぁ






二の丸から「要害門矢倉」を見てみる。

せっかくの白壁にいたずらをしとる不心得者がおる。こりゃみんな手打ちじゃの(^^ゞ


本丸にある石には切り出した跡が残っとる。

石の周りに「貯水池」がつくってある。


石を切り出した跡は他にも何カ所かあった。

山頂の石を切り出して、石垣を作れば下から持って上がるより楽じゃねぇ。


これは本丸の東側にある「埋門(うずみもん)」

勝手口かな、、、本丸にご用聞きが来るとも思えんけぇ(^^;、最期にここから逃げ出すためかな?

山頂から唯一見える景色が、本丸の南側から見えるこれじゃった。

萩高校が見えるけぇ、元は家老の屋敷が並んどるあたりじゃね。


二の丸から本丸を見てみる。

一段高くなったところに白壁があって、真ん中の階段の所に「棟門」があったはず。

こうやって、絵図を見ながら、一人で想像しよった(^^ゞ

30分以上おったけど、誰とも出会わんかった。

おかげでじっくり楽しめたよ(^^)