日記風・・・ ~A Buzz's Life~

管理人Buzzのくだらない絵日記です(^^;

そうだ 下関 行こう!

2018年03月27日 | 歴史
ジャジャーーーーーーン

って、偉く中途半端な距離数が出てきたけど、何なん?

そうです、ちょうど1年前の春分の日に長野へ納車へ行って来たけぇ、今日から2年目なんよ(^^)

その半年後の9月に1万キロを突破したけぇ、年間2万キロペースじゃったんじゃけど、ペースはちょっと落ちたね(^^;

とは言うても、通勤には使わず週末だけ出動しとるんじゃけぇけっこうなハイペースじゃね。

さてさて、偶然今年も連休がとれたけぇ出動するぞ!

って、楽しみにしとったんじゃけど、天気が悪い・・・

天気は西から変わるけぇ、こりゃ西へ行ってみよう(○゚ε^○)v ィェィ♪

とうことで、「津和野街道」を通って「萩」へでも行ってみようかなぁ。


ほんで、津和野に着いたときは変わらず雨。

「つまらんのぉ~( ̄へ ̄|||) 」

「津和野城跡」が雲の上に飛び出しとったら絵になるんじゃけど、、、

石垣までは見えて、その上に雲。

「普通じゃん( ̄▽ ̄;)!!」

雨の中でカメラを出すのもためらって、次じゃ~(^^)

そのまま9号線を南下、今度は「萩」を目指した。

「やっぱり雨かぁ~」

天気予報は見事なまで当たって萩もやっぱり雨じゃった(^^;

ほいじゃが、ここは素通りできんじゃろう。


「松陰神社」

松陰先生の所だけはご挨拶に行かんにゃ~(^^)


「松下村塾」

雨のおかげで人が少なかったけぇ、のんびりと見て回った。

ほいじゃが、このまま萩の町を散策する気にはなれんかったけぇ、駐車場で天気図とにらめっこ・・・

「そうだ 下関 行こう!」
(CMのキャッチコピーっぽいハハハ(^▽^))

やはり西の方が早く天気が回復しそうじゃ。

というても、すでに3時半をまわっとるけぇ、今日は温泉でも入っておわりじゃの。

ということで「川棚温泉」を目指した。

川棚温泉は、こぢんまりした温泉街じゃけど、銭湯感覚で行ける所もあって気にいっとるんじゃ(^^)


夜の間は強い風と、雨に悩まされた(^^ゞ

朝にはなんぼかようなったけど、まだ降りよった。

いうても、まだどこにも行っとらんけぇ、このまま帰るわけにはいかん( ̄^ ̄)

そうじゃ、こないだからの「来島又兵衛(きじままたべえ)」シリーズが、美祢にあったわぁ(^^)

#いつからシリーズになったん?(笑)

話はさかのぼるんじゃけど、前回の「来島又兵衛生誕地」へ行ったときに、

「ここから150メートルほど北にある田んぼの南端の生家の有った場所に、石碑がある」って書いたんじゃけど、

その後、そこは探し当てとったんよ。

「喜多村家居宅後」

ほいで、「喜多村家」から「來島家」へ養子に行った又兵衛が1年後に妻の実家のある、ここ美祢市厚保(みねしあつ)に居宅・剣道場を構えたらしい。


以下説明看板より
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 維新の志士 來島又兵衛翁事蹟
又兵衛翁は文化14年(1817)小野田市高須の萩藩士喜多村正倫の二男として生まれ幼名は亀の進。
天保7年(1836)20歳で長門市俵山の萩藩士來島又兵衛政常の養子となり、西厚保町本郷の永代大庄屋格
の來島清三郎の長女タケと結婚。
結婚1年後、妻の実家のあるここ厚保小学校運動場の側に居宅・剣術道場を構えました。人並みはずれた
立派な体格の持ち主だった翁は、ここで剣・槍・鉄砲・馬術等すべての奥を極めていきます。
嘉永4年(1851)には家督を継いで來島又兵衛政久と名のります。
藩主の信任が厚かった翁は、安政2年(1855)には大検使役に、文久元治(1861~64)には江戸御留守居手元役・
学習院御用掛・馬関総奉行手元役と藩の要職を歴任しました。
文久3年(1863)5月下関で外国船を撃つ攘夷戦の際は、おおいに奮戦、しかしその直後公武合体派によって
攘夷派長州藩は京都を追放されてしまいます。これに憤慨した翁は攘夷派長州の京都復帰を果たすため「進発論」
を主張し元治元年(1864)遊撃軍を率いて大挙上京7月19日蛤御門において公武合体派の薩摩・会津軍と戦いますが、
翁自身は薩軍に狙撃されて戦死(48歳)。長州軍は敗走。しかし、翁のこの決死の活躍が慶応元年(1865)正月の
高杉晋作決起、明治維新への起爆剤となっていったのでした。明治24年には正四位が贈られています。吉田松陰
先生は翁の人となりを「飛耳長目」の人「胆力人に過ぎ精算密思あり」と評されました。
「昭和9年、地元有志の努力によって翁の像を建立しましたが、その後供出によって、台座を残すだけとなって
いました。幸、明治維新130年にあたる本年、翁の功績を後の世まで語り継ごうと、地元の皆さんとともに再び
翁居宅ゆかりのこの地に、又兵衛像を建立することに致しました。」
平成10年9月6日 來島又兵衛像再建委員会
        美祢市教育委員会

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力強い立ち姿じゃね。

大河ドラマ「花燃ゆ」の時はこの「來島又兵衛」を山下真司が演じとったね。

体型は違うけど、いかつい感じは似とるかも(^^)


ほいで、そのすぐ横に「世外候養痍隠晦之処」(井上候がきずをいやし姿をかくしたところ)

というのがあった。

蛤御門の変で朝敵になった長州藩の内部主導が、改革派(正義派)から保守派(俗論派)へ変わったとき、井上聞多が

保守派に襲われ瀕死の重傷を負った。ほいでここで療養をしたとなっとる。

「世に棲む日日」にも井上聞多のけがは出てきたけど、療養に厚保へ来たのは覚えてないなぁ(^^ゞ

なんで、厚保?

井上聞多の妹が、來島又兵衛の息子の嫁じゃったらしい。フーンそうなんじゃ。

ここへ来て長州ファイブに会えるとは思うとらんかったわぁ(^^ゞ

なんか、つながっとるんじゃねぇ。

動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し。

2018年03月06日 | Weblog
次の休みはどこへ行こうかぁ・・・

って考えよったら、マッキーが「また『東行庵』へ行きたいのぉ。」って言よったのを思い出した。

なにやら、資料館でエエもんを見たのをもう一度見たいらしい。

「東行庵」行ったのは、西国街道の旅の時。

もう、10年も前の話しなんじゃねぇ(^^ゞ

ということで、行って来たよ(○゚ε^○)v ィェィ♪



人も車も多くて、相変わらず高杉くんは人気「たかずぎ」ハハハ(^▽^)

ここには、東行(高杉晋作)の墓以外にも、奇兵隊や諸隊の隊士の墓があるんよ。

今回は時間をかけてじっくり見て回った。

白石正一郎の墓や赤禰武人の墓もここにあった。

赤禰武人の墓所は柳井にもあったね。

「赤禰武人?」

マッキーが食いついた。

「本人はどう思うとるんかねぇ・・・」

赤禰武人は三代目JSB・・・・ じゃなくて(^^;

三代目奇兵隊の総督まで務めたのに、最後はスパイ扱いされて処刑されたんよね。

辞世の句に「真は誠に偽に似,偽は以て真に似たり」と残しとるけぇ、悔しい思いをしたんじゃろうねぇ。

墓の横にあった立て看板には

「---- 墓は志士としての復権を願う遺族、関係者により平成7年11月に建てられた。」(一部抜粋)

確かに柳井のお墓は廃れとったし、出身地の柱島のお墓は超マニアックな私たちですら行ったことがないけぇ、

このままじゃ浮かばれんと思うたんじゃろうねぇ。

ナムアミダブツ(-人-)


さて、高杉くんは

おるおる、トレードマークの大きな刀をもって(^^)


高杉晋作と言えばこれじゃねぇ(^^)

ほいじゃが、伊藤博文が言った

「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し。・・・」も有名じゃね。

でも、あの文は利助(伊藤博文)がちょっと上から目線でイヤじゃ(^^;


東行(高杉晋作)の墓


「高杉晋作」の像の入り口に新しい「山縣狂介(有朋)」の像があった。

説明文には昭和8年に建てられたが、太平洋戦争の時の供出で無くなったものを2015年に再建したとあった。

鍋釜まで出し時代じゃけぇねぇ。(あっ、ちなみに私はその時代を知りません(笑))


さて、いよいよマッキーお待ちかね東行庵の資料館へ。

すると、マッキーが騒ぎ出す。

「甲冑が無い!前来たとき高杉晋作の甲冑があったじゃろう?!」

私に問いかけるが、甲冑にそれほど思い入れのない私には記憶がない。

「前は確かにあったよ、甲冑が!!」

いつも冷静に見えるマッキーが、いつになく興奮しとる(笑)

それでも、ひととおりじっくり見て出口のところで受付の人に話しかけよる。

「ここに高杉晋作の甲冑がありましたよね?」

人と絡むのをめんどくさがるマッキーにしては珍しく積極的にいきよる(^○^)

どうやら、所蔵品の中には確かに本物の高杉晋作の甲冑があるが、

企画展で今は奇兵隊の隊士に関する資料に展示が変わっているそうだ。

そうなんじゃ・・・ショック☆<( ̄□ ̄;)>☆ショック

外へ出てからぼやくマッキー。

マ「東行庵なんじゃけぇ、奇兵隊の資料より高杉晋作じゃろう (○`ε´○)プンプン!! 」

 「まだ、この三味線のほうがええわぁ。」

入り口でもらった資料の収蔵品の写真をみながらつぶやいた(笑)

うん、たしかに高杉晋作と言えば着流しに三味線のイメージがあるねぇ。

俺も三味線を見てみたい(^^)

こりゃ、甲冑を見るためにまた来んといけんのんかねぇ。

まんまと企画展の罠にはまっとるじゃんハハハ(^▽^)

(帰ってから、前回の資料を確認したら高杉晋作の甲冑は確かに展示してあった(^^ゞ)



近くに「奇兵隊陣屋跡」があるというので行ってみた。

広い敷地に銅像と石碑と説明文があるだけじゃった。


当時は十数棟の建物があって、400名の隊士が厳しい調練を受けよったんじゃね。



この隊士は何を考えよるんかねぇ。

「わしらががんばったら、きっとええ時代が来るよのぉ~。」

維新後の未来を見よるんじゃね。