日記風・・・ ~A Buzz's Life~

管理人Buzzのくだらない絵日記です(^^;

大内義隆自刃に追い込まれる

2018年06月27日 | 歴史
今回は、前から気になっとった長門へ行ってきたよ(^^)

ほいじゃが、その前に・・・


    山県有朋     木戸孝允     伊藤博文

萩も覗いてきた(^^;

萩いうても、今回は浜崎地区なんよ。

萩藩御船倉の近くにある浜崎伝統的建造物群保存地区いうところ。

浜崎といえば、今は漁師町のイメージじゃけど、港町じゃけぇ当時は流通の拠点として商家がたくさんあって賑わっとったみたい。

ほいで、今も江戸時代の建物が複数残っとるんじゃ。


「山村家」元は船具屋さんらしい。

江戸時代は間口で税金がかかっとったけぇ、この間口の建物がどんだけリッチかわかるよねぇ。

今は資料館的な感じで無料開放されとった。

ボランティアのおばちゃんの解説付き(^^)


同じ建物の奥行きです。


すぐ近くに今も現役の船具店がある。

小さな町に船具店が複数あったというだけでも、昔の賑わいが感じられるよね。

このあたりは、過去に何度か来たことがあったんじゃけど、少しずつ整備されて今の方が古い町並がきれいなよ(^^)

まだまだ見所はたくさんあったんじゃけど、今回はメインディッシュが別にあるけぇ次に行った(^^ゞ

次回は、自転車持っていってもうちょっと詳しく回って来るね。

浜崎から少し東にある、「芳和荘」

旅館ってなってるけど、元々は遊郭じゃったんよ。

当時の建物がそのまま、旅館として使われとるんじゃ。

真ん中が吹き抜けになっとって、そこをグルッと回るように廊下がついとる・・・

幕末の志士たちが、斬り合いを始めそうな場所じゃけぇ(笑)

中は宿泊せんと見られんかったけぇ、気になった人は検索してみて。


こんな建物じゃけぇ。


「芳和荘」のすぐ近くに「浮島遊郭跡」っていうのをグーグルマップでみつけたけぇ行ってみた。

ほいじゃが何にもないのぉ・・・ってグーグルマップを航空写真に切り替えたら、もう何もないパチンコ屋の駐車場じゃった(^^ゞ


さて、萩から移動して今度は長門。

長門といえば、数年前に安部さんがプーチンさんをもてなした「大谷山荘」がある温泉じゃ。

今回は大谷山荘からもほど近い「大寧寺」へ行って来た。


大寧寺は大内氏最後の当主「大内義隆」の最期の地です。

そう「陶晴賢」によって自刃に追い込まれたんよね。


寺の入り口付近に



「かぶと掛けの岩」


「姿見の池」


さぁ、大内氏の墓へ・・・

あれ?

こんな所に、「関東管領(かんとうかんれい) 上杉憲実(うえすぎのりざね)」の墓があるじゃん。

関東管領といえば、上杉謙信もやっとったよねぇ。

大河ドラマ「風林火山」でガクトがやっとったわぁ(^^;

なんで、こんな所に・・・

なんか、いろいろあって諸国を旅して最後は大内氏を頼ってこっちで亡くなったんだって。ふーん。


さぁ、いよいよ大内義隆の墓所

「大内義隆主従の墓所」

さっきの所から少し上がって、墓所の一番奥にある。

昼間でも日があまり入らない薄暗いところにあった。



一緒にある墓の中に、「二条」「三条」って言う名前がある。

大内義隆って山口に京を作って、公家のような生活をしとったっていうけど、本当の公家も呼んどったんじゃねぇ。




大内義隆、義尊親子の墓が正面に、周りには家臣の墓が並んどる。

ちなみに、普通の墓石っぽいのは墓石じゃなく名前が書いてある墓標で、本当の墓石はその横や後ろにある「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」じゃけぇ。


三条公頼卿の墓石には石室がついとる。

この中でも特別身分が高かったんじゃろうねぇ。

大内義隆が陶によって滅ぼされたのは知っとったけど、山口市から逃げてここへ来て、自刃したんじゃね。

そのときに寺も焼失したらしい。

その後、お寺は毛利氏によって再建された。

ふぅー、これで気になっとった大内氏の最期の地は見れたわぁ(^^)


シシドシ

2018年06月05日 | 歴史
シシドシ?

宍戸といえば 「宍戸錠」!?フルーハハハ(^▽^)

いやいや、 「宍戸刑馬」ムムムこれはまた、マニアックな名前(^^;

#高杉晋作が馬関戦争の講話談判へ行くときに名のった名前じゃね。「アメツチノハジメノトキ、タカマノハラニナリマセルカミノナハ、・・・」
#古事記を暗唱したというあれのとき(^^;

さて、今回は毛利の家臣「宍戸氏」の縁の地へ行ってきたよ(^^)

長州藩で宍戸氏といえば一門家老の筆頭になっとる。

晋作が名のった「宍戸刑馬」からさかのぼること300年。

安芸の国におった頃の宍戸氏、縁の地へ行って来たよ(○゚ε^○)v ィェィ♪


もともと、宍戸氏と毛利氏は仲が悪く何度も抗争を繰り返しとったんよ。

宍戸元源の時代にも、毛利氏と争っとる。




宍戸元源(もとよし)夫妻の墓

ほんで、元就の代に元源の嫡孫「隆家」に元就の娘(五龍局)を嫁に出して和睦したんじゃ。

力を付けてきた元就が、贈り物を持っていったんじゃけどね。


これ以降、宍戸氏は毛利の中で吉川、小早川と並ぶ立場になったんじゃ。


隆家夫妻の墓

元源の嫡男「元家」は元源より先に亡くなっていたため、元源の跡を継いだのはこの隆家じゃった。

隆家は叔父の隆忠を家臣の讒言(ざんげん 人を陥れようとして事実を曲げて告げ口すること。)により殺害しとる。


隆忠の墓

元源、隆忠の墓は、理窓院っていう寺にあるんじゃけど、場所が分からず寺の中をウロウロしとったら、

ちょうど住職が出てきて案内してくれた。

そのとき、寺の歴史とかもちょっと説明してくれたよ。

親切な住職じゃった(^^)


続いて、理窓院から川を渡って隣の山にある、宍戸氏の居城 「五龍城」へ。

五龍城は江の川と本村川と二本の川に挟まれた場所にあるんよ。



川の流れに削られたのか、崖が急で山城にはもってこいの地形じゃ。


山城全体はこんな感じで、かなり本格的?(^^;

なぜかGoogleマップと向きが反対じゃ。

登り口は山城の先端で、今は神社の参道になっとる。



参道を上ると最初の曲輪「尾崎丸」に神社がある


宍戸司箭神社


ここの「五龍城址図」がわかりやすかったけぇ、貼っとくね。

五龍城は間伐してあって、曲輪や堀切、竪堀がわかりやすかった。



これが本丸、向こうに見える段は土塁。

これを越えると、10メートルはあろうかという堀切がある。

大変な工事じゃったろうなぁ。

写真じゃ分かりづらいけぇ、気になった人は行ってみて(笑)

これは、五龍城址図がわかりやすいよ。

一番奥の足軽ノ段まで行って引き返した。

この山城はロケの良いところはあまり無く、そういう意味ではイマイチじゃったけど、

当時の面影が沢山残っとって、タイムスリップは出来たよ(^^)


さて、元就が宍戸氏と和睦する際に贈り物を持っていったと書いたけど、

そのときの贈り物が、高橋氏を謀略により滅ぼし手に入れた領地の一部じゃった。

高橋氏の所領は「石見国邑智郡の阿須那・出羽、安芸国の北半分、山県郡の東部」といわれとる。

毛利は手に入れた領地を、石見・出雲進出への足掛りにした



説明文は下の「高橋盛光の墓」入り口にたっとった。


高橋盛光の墓


ここは「軍原」と言われる場所で、この岩の上で「高橋興光」が切腹をしたといわれとる。通称「腹切り岩」

説明文だけ読むと元就が悪い奴に見えるけど、元就の兄「興元」に高橋久光の孫を嫁にだし、

興元の死後は、嫡男「幸松丸」の外祖父として後見人なり毛利家ににらみをきかせとったらしい。

「幸松丸」死後、元就が毛利の当主となるとき、元就の異母弟、相合四郎元綱が謀反をしようとして粛正されとるが、

このとき尼子氏がからんでいたのは有名な話しじゃけど、高橋氏も一枚かんどったという話しもある。

高橋氏の系図に関しては諸説あるみたいじゃけど、元就の「謀略恐るべし」じゃね(^^ゞ

この時代は生き残るためにみんな必死じゃけぇねぇ。

でも、いろんな話が出てきて面白いね(^^)

萩はエエわぁ~(^^)

2018年05月16日 | 歴史
津和野、津和野と続けて行ったけぇ、GW前半は萩へ行って来たよ(^^)

昔はGWと言えばバイクで萩へ来て、レンタサイクル借りてプラプラしよったよ(^^)



ということで、今回も自転車を持ってきて散歩じゃ。

車は中央公園の駐車場(310円/一回)へ止めて、この近くから責めるぞ。

というても、何度も来とるけぇノープランでお散歩じゃ(^^)


ジャジャーン。

円政寺


「利助!」
晋作くんの声が聞こえてきそうじゃね(^^)

円政寺は高杉くんの家のすぐ近くじゃけ、利助(伊藤博文)と遊びに来とったみたい。


晋作くんが苦手じゃった天狗の面。


晋作くんと利助が鼻を撫でとったって書いてあるけど、、、

きっと晋作くんがまたっがって、ビビリ(シツレイ(^^;慎重派)の利助が「やめようやぁ、おこられるよぉ~」なんて言よったんじゃない(笑)


菊屋家住宅


菊屋横町

高杉くんや、利助、木戸孝允も近所じゃけぇ、こんな景色を見たんじゃろうねぇ。


おっ!人力車。

ほいじゃが、これは明治とか大正っぽいよね(^^)


高杉晋作生家

200石取りじゃけぇ、それほど大きな家じゃないね。


近くに晋作広場っていうのがあって、晋作くんの銅像がある。

珍しく、まげ姿じゃ。

ざんぎり頭のイメージが強いよねぇ。


つづいて、「北の総門」

これより中は三の丸で、通称「堀内地区」と言われとる。

暮れ六ツから明け六ツまではこの門は閉められて、鑑札のある人以外は入れんらしい。

ちなみに明け六ツは夜明け前の明るくなる頃、暮れ六ツは日没後の薄明るい頃じゃけぇ、季節によって違うんじゃ。

ほいじゃ、日が暮れたら飲みに行かれんじゃん( ̄▽ ̄;)!!ガーン

大丈夫じゃ、ワシはきっと下級武士じゃけぇ堀の外に住んどるわぁハハハ(^▽^)


益田家物見矢倉

となっとるけど、蛤御門の後御腹を召された三家老の一人、「益田親施(ちかのぶ)」の旧宅です。

やはりでかい。

ほいで、その近くにあったのが


周布家長屋門

周布家と言えば、周布政之助を思い出すが、ここは政之助の本家です。

知行は1350石とけっこうもらっとる。

家老ではなく、大組筆頭の家格で分家の政之助の所は200石あまりもらっとった。


ほいで、問田益田氏の白壁。

益田氏の分家とはいえ、知行は4000石あまり。

本家は12000石じゃけぇ~(^^;


これは旧郵便ポストではなく、その隣の石碑。

ここは「国司親相(ちかすけ)(信濃)旧宅地」

おぉー、でた例の三家老の二人目「国司氏」

二人とも、徳山で御腹を召されたよね。


そこからすぐの所に、「福原家屋敷門」

三家老の三人目、福原越後の屋敷じゃね。

当たり前じゃけど、みんな近くに住んどったんじゃねぇ。


萩城のすぐ近く、天樹院。

移封されたときの藩主、輝元の墓です。


堀内の鍵曲(かいまがり)


平安橋

この橋のたもとに「平安古の総門」があった。

三の丸へ入る門は全部で3つ。

#もう一つの「中の総門」の場所はようわからんかった(^^ゞ


児玉家長屋門

徳山の児玉源太郎もここと同じ「安芸児玉氏」の末裔みたいじゃ。


忠孝をはげまし、夫婦兄弟諸親類にむつまじく、召仕之者に至る迄憐愍(れんみん)
を加ふべし、若(もし)不忠不孝之者あらば可為重罪事(じゅうざいたるべきこと)。

こんな感じで、幕府や藩からの「御触」が掲げれられる。

萩往還、赤間関街道、石州街道の起点で、防長の一里塚の基点にもなっとった。

高札場は2010年に、江戸時代当時のものが復元されとる。

堀内界隈をグルッと回った感じじゃね(^^)

天気が良かったら、自転車で巡るとちょうどエエね。

萩は何べん来てもええわぁ~(^^)




また、また、津和野へ行って来た(^^)

2018年04月24日 | 歴史
「ポォォォ~~~~~~~~~~~~~」

ギャラリーが集まってきたけぇ、サービスで鳴らしてくれたんか?



懐かしい汽笛の音じゃ(^^)

SLと言えばそう、あそこ!勘の良い皆さんならお気づきでしょう(^^;

「津和野」です。

#こないだも行っとったじゃん!ハハハ(^▽^)

そうです、ブログにも書いたけど津和野は来とるよ。

でも、あの日は通りすがりで見ただけ。

じつは、先週も来たんじゃけど寒くてすぐに撤収したんよ(^^;

じゃけぇ、リベンジでまた来たんじゃ。

「道の駅 津和野温泉なごみの里」でお昼ご飯を食べたあと、ここからは自転車で移動。



今日は先週と一転、暑い汗;;;

街中までは2kmちょっと、川沿いの遊歩道をのんびりと行ったよ(^^)

ここからは殿町通り。

津和野藩の家老が住んどったところじゃ。

多胡家老門。

津和野藩の筆頭家老、多胡家(たごけ)

門の脇に番所がある。来客があったらここから覗いたりしよったんかね(^^)

大岡家老門

「無礼者!」

なにやら怪しい挙動で屋敷を覗く輩がおる。

無礼討ちされるよ(笑)

現在は、屋敷の一部は津和野町役場として使われとる。


殿町通り

カトリック津和野教会

『乙女峠』で有名な教会。

築は昭和の初めらしい。


左端の建物が津和野藩家老の屋敷、ここから向こうは町家通り。

地面の色が変わって、殿町通りと町家通りの境目がわかるようになっとる。

江戸時代には、ここに門があったみたい。

町家通り

古橋酒造

これもエエ感じの建物じゃ。

中ではお酒以外にも、アイスやラムネも売りよった。

アイスは、日本酒が入ったお酒味。

おいしそうじゃったけど、アルコールが若干(1%未満)入ってるってことじゃったけぇやめといた(^^ゞ

中の椅子でラムネを頂いて一休みした(^^)

そのときお店の人に聞いたら、建物は大正時代のもので改築は何度か行ったらしい。

たしかに、棟続きの隣の建物は大正っぽい(^^)

あちらは住居への入り口(玄関)らしい。

のんびり散策しよったら、汽笛が聞こえてきた。

ほいで、行ってみたのが最初の写真。

見よったら、汽笛を何度か鳴らしてくれた(^^)

出発するかと待っとったけど、なかなか動かん。

時刻表を見たら、3時45分発。

今は3時じゃけぇ、当分動かんわぁ。

遅くなるけぇ帰ろう(^^;

道の駅で帰り支度が整った頃に汽車が見えた。


SLに特別思い入れがある訳じゃないけど、昔は家の前を普通に走っとったけぇなつかしいのぉ。

さて、今週末からはいよいよGWじゃね。

変則の連休になりそうじゃけど、どこへ行くかな(^^)

吉田町墓巡り?

2018年04月12日 | 歴史
「吉田に国司氏の菩提寺があるよ。」

マッキーからの返信メールが届いた。

国司氏といえば、幕末に切腹させられた長州の「三家老」の一人。

最近の私のブログを見て、刺激を受けたんか?

それとも、毛利ネタでワシを釣るつもりか?

よーし、釣られてやろうじゃないかハハハ(^▽^)

ということで、マッキーと自転車を持って出かけてきた(^^)

吉田の町もけっこう来たけど、まだまだ行ったことがない所がたくさんあるんじゃねぇ(^^ゞ

最初に行ったのは、「多治比猿掛城跡」



元就が幼い頃に、隠居した父「弘元」に連れられてこの城で暮らしとった。

27歳で毛利の家督を継ぐまでここにおったらしい。

ほいで、ここの目的は弘元の墓じゃ。


真ん中に見えるのが、弘元の墓。

その左にあるのが弘元の妻の墓。

妻は実家の福原城で亡くなって、そちらへ埋葬されとったのを大正10年に移葬された。となっとる。

この頃の毛利は山口の大内氏と島根の尼子氏の間であっちに着いたり、こっちに着いたりしながら生きていた小さな国人領主じゃった。

ほいじゃが、なんで大正時代に福原の墓所からこっちへ墓をうごかしたんかねぇ?

福原家の墓所に埋葬されとったのは、それなりの理由があったと思うんじゃけど・・・

さておき、5歳の時に母、そして10歳で父と亡くし一人になった元就を育てたのは弘元の側室「お杉の方」じゃった。

#大河ドラマでは松坂慶子が演じとったね。

もう一人の側室は「相合の方」。そう、元就が毛利を継ぐときにいろいろあった、相合四郎元綱の母。

正室亡き後、側室同士の戦いもいろいろあったんじゃろうねぇ。

この「お杉の方」の墓は多治比猿掛城の中ではなく、川を挟んだ対岸にあった。


少し虐げられた感じはあるけど、多治比猿掛城がよく見える場所に葬ってもらっとったよ。


次に「国司氏の墓所」へ。

元々は「休照庵」という菩提寺があったようじゃけど、今は墓所だけ残っている。


そこの看板に、国司氏は足利尊氏の重臣「高師直(こうのもろなお)」の弟「高師泰」の息子「師武」がここに移り住み

地名から国司を名のったと書いてある。

「師直塚へいったよねぇ。あの渡しを渡った後に。」マッキーが言うが、ピンとこんねぇ(^^ゞ

渡しの跡は思い出したが、師直塚は思いだせん。

あとで調べてみたら、確かに西国街道へ行ったとき師直塚の前は通っとる。

ストリートビューみたらなんか見覚えがあるような・・・(^^;

ほいじゃが、保存してあった写真の中には師直塚の写真はなかった。

そのときもピンとこんかったんじゃろうねぇ。

ちょうどそのあたりの写真にたこ焼きの写真があったわぁ(^^;

あの当時、師直塚の重要性がたこ焼き以下じゃったんじゃねハハハ(^▽^)

国司氏の出身もわかったところで、次は井上氏居所跡。

また、マニアックな(^^;


元就が幼かった頃に所領を横領し、のちに粛正された「井上元兼」。

#大河では片岡鶴太郎がやっとったね

ここは居所跡が「亀崎神社」となって残っとる。

井上の文字は見あたらんかった(^^ゞ

ほいで、今度は福原氏の居城、鈴尾城(福原城)。

ここに福原氏の墓所もある。


なんと、福原氏も毛利と同じ大江氏の出じゃった。知らんかったのぉ(^^ゞ


ここが福原城にある福原家墓所


「上ってみようやぁ。」

マッキーが言うけぇ、鈴尾城は上ってみた。


元就誕生伝説碑


福原家居館跡

八代当主、福原広俊の娘が毛利へ嫁に行き興元、元就が生まれとる。

元就はここ福原城で生まれたという伝説もあるらしい。

当時、現代のように「嫁が実家に帰って出産する」という習慣があったのか?疑問じゃけど(^^;

まぁ、「伝説」ってなっとるけぇ、ええじゃろう。

いずれにしても、この吉田の地で生まれたのは確かじゃ。

ほいで、道は整備されて歩きやすかったけど、けっこう急で年寄りにはきつかった(笑)


でも本丸からの景色は、意外と良かった(^^)

グルッと見えたらもっとええんじゃけど、まったく見えん山城もあるけぇ○じゃろう。

距離はあまりなかったけぇ、下りはあっというまじゃった。

ほいで、そこから少しの所に「桂広澄」の墓所がある。

相合四郎元綱の謀反のときに坂氏、渡辺氏がからんどって、桂広澄は無関係じゃったけど坂氏の嫡男だったことで

自刃したといわれとる。

#大河では草刈正雄

墓に名前はなく、たぶん地元の人によってお世話されとったんじゃろうねぇ。

なんだか墓巡りみたいになったけど、知ってる名前だと身近に感じるよね。

500年前に亡くなった人がここに葬られ、そのときの墓石が目の前にあると思ったら浪漫を感じるよねぇ。







そうだ 下関 行こう!

2018年03月27日 | 歴史
ジャジャーーーーーーン

って、偉く中途半端な距離数が出てきたけど、何なん?

そうです、ちょうど1年前の春分の日に長野へ納車へ行って来たけぇ、今日から2年目なんよ(^^)

その半年後の9月に1万キロを突破したけぇ、年間2万キロペースじゃったんじゃけど、ペースはちょっと落ちたね(^^;

とは言うても、通勤には使わず週末だけ出動しとるんじゃけぇけっこうなハイペースじゃね。

さてさて、偶然今年も連休がとれたけぇ出動するぞ!

って、楽しみにしとったんじゃけど、天気が悪い・・・

天気は西から変わるけぇ、こりゃ西へ行ってみよう(○゚ε^○)v ィェィ♪

とうことで、「津和野街道」を通って「萩」へでも行ってみようかなぁ。


ほんで、津和野に着いたときは変わらず雨。

「つまらんのぉ~( ̄へ ̄|||) 」

「津和野城跡」が雲の上に飛び出しとったら絵になるんじゃけど、、、

石垣までは見えて、その上に雲。

「普通じゃん( ̄▽ ̄;)!!」

雨の中でカメラを出すのもためらって、次じゃ~(^^)

そのまま9号線を南下、今度は「萩」を目指した。

「やっぱり雨かぁ~」

天気予報は見事なまで当たって萩もやっぱり雨じゃった(^^;

ほいじゃが、ここは素通りできんじゃろう。


「松陰神社」

松陰先生の所だけはご挨拶に行かんにゃ~(^^)


「松下村塾」

雨のおかげで人が少なかったけぇ、のんびりと見て回った。

ほいじゃが、このまま萩の町を散策する気にはなれんかったけぇ、駐車場で天気図とにらめっこ・・・

「そうだ 下関 行こう!」
(CMのキャッチコピーっぽいハハハ(^▽^))

やはり西の方が早く天気が回復しそうじゃ。

というても、すでに3時半をまわっとるけぇ、今日は温泉でも入っておわりじゃの。

ということで「川棚温泉」を目指した。

川棚温泉は、こぢんまりした温泉街じゃけど、銭湯感覚で行ける所もあって気にいっとるんじゃ(^^)


夜の間は強い風と、雨に悩まされた(^^ゞ

朝にはなんぼかようなったけど、まだ降りよった。

いうても、まだどこにも行っとらんけぇ、このまま帰るわけにはいかん( ̄^ ̄)

そうじゃ、こないだからの「来島又兵衛(きじままたべえ)」シリーズが、美祢にあったわぁ(^^)

#いつからシリーズになったん?(笑)

話はさかのぼるんじゃけど、前回の「来島又兵衛生誕地」へ行ったときに、

「ここから150メートルほど北にある田んぼの南端の生家の有った場所に、石碑がある」って書いたんじゃけど、

その後、そこは探し当てとったんよ。

「喜多村家居宅後」

ほいで、「喜多村家」から「來島家」へ養子に行った又兵衛が1年後に妻の実家のある、ここ美祢市厚保(みねしあつ)に居宅・剣道場を構えたらしい。


以下説明看板より
~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~
 維新の志士 來島又兵衛翁事蹟
又兵衛翁は文化14年(1817)小野田市高須の萩藩士喜多村正倫の二男として生まれ幼名は亀の進。
天保7年(1836)20歳で長門市俵山の萩藩士來島又兵衛政常の養子となり、西厚保町本郷の永代大庄屋格
の來島清三郎の長女タケと結婚。
結婚1年後、妻の実家のあるここ厚保小学校運動場の側に居宅・剣術道場を構えました。人並みはずれた
立派な体格の持ち主だった翁は、ここで剣・槍・鉄砲・馬術等すべての奥を極めていきます。
嘉永4年(1851)には家督を継いで來島又兵衛政久と名のります。
藩主の信任が厚かった翁は、安政2年(1855)には大検使役に、文久元治(1861~64)には江戸御留守居手元役・
学習院御用掛・馬関総奉行手元役と藩の要職を歴任しました。
文久3年(1863)5月下関で外国船を撃つ攘夷戦の際は、おおいに奮戦、しかしその直後公武合体派によって
攘夷派長州藩は京都を追放されてしまいます。これに憤慨した翁は攘夷派長州の京都復帰を果たすため「進発論」
を主張し元治元年(1864)遊撃軍を率いて大挙上京7月19日蛤御門において公武合体派の薩摩・会津軍と戦いますが、
翁自身は薩軍に狙撃されて戦死(48歳)。長州軍は敗走。しかし、翁のこの決死の活躍が慶応元年(1865)正月の
高杉晋作決起、明治維新への起爆剤となっていったのでした。明治24年には正四位が贈られています。吉田松陰
先生は翁の人となりを「飛耳長目」の人「胆力人に過ぎ精算密思あり」と評されました。
「昭和9年、地元有志の努力によって翁の像を建立しましたが、その後供出によって、台座を残すだけとなって
いました。幸、明治維新130年にあたる本年、翁の功績を後の世まで語り継ごうと、地元の皆さんとともに再び
翁居宅ゆかりのこの地に、又兵衛像を建立することに致しました。」
平成10年9月6日 來島又兵衛像再建委員会
        美祢市教育委員会

~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~



力強い立ち姿じゃね。

大河ドラマ「花燃ゆ」の時はこの「來島又兵衛」を山下真司が演じとったね。

体型は違うけど、いかつい感じは似とるかも(^^)


ほいで、そのすぐ横に「世外候養痍隠晦之処」(井上候がきずをいやし姿をかくしたところ)

というのがあった。

蛤御門の変で朝敵になった長州藩の内部主導が、改革派(正義派)から保守派(俗論派)へ変わったとき、井上聞多が

保守派に襲われ瀕死の重傷を負った。ほいでここで療養をしたとなっとる。

「世に棲む日日」にも井上聞多のけがは出てきたけど、療養に厚保へ来たのは覚えてないなぁ(^^ゞ

なんで、厚保?

井上聞多の妹が、來島又兵衛の息子の嫁じゃったらしい。フーンそうなんじゃ。

ここへ来て長州ファイブに会えるとは思うとらんかったわぁ(^^ゞ

なんか、つながっとるんじゃねぇ。

家康って、やっぱりすごい(^^)

2016年09月15日 | 歴史
武蔵の国へおる間に、どっかへ行こうってことで「東照大権現」へ行って来たよ(^^)

いわずとしれた、家康の墓所じゃけど、修学旅行以来じゃね(笑)

武蔵の国といっても、都内(葛飾区)まで車で10分ほどの場所じゃけぇ、日光東照宮までは下道走って3時間はかかる(^^;

ということで、いざ出陣!(笑)

外環(東京外環自動車道)の下の道(一般道)からはずれて、一路東照大権現へ!

埼玉県から茨城県をかすめて栃木へ行くんじゃけど、景色が・・・

360度、山も海も見えないところを何時間も走ると、体内コンパスが狂う~(笑)

関東平野はでっかいねぇ~(^^;

助手席でスマホをいじりよる人が「宇都宮餃子を食べていこう!」

「( ̄▽ ̄;)!! はい、はい」

ナビでは宇都宮市街には入らず、郊外のバイパスを走るようになっとる。

ご希望の餃子店「宇都宮 みんみん」は市街地に入らんと無いじゃん(^^ゞ

せっかくじゃけぇ、行ってみるかぁ~(^^;

とうことで、ネットで評判の餃子店へ行ってみることに。


これで、230円は安いじゃろ(^^)

メニューは、焼き餃子、水餃子、揚げ餃子、ライス、あとラーメンもあったかなぁ・・・

セットメニュー的なものは存在せず、餃子はいずれも230円、ライスは100円じゃった。

おいしかった(^^)

広島だとおいしいけど高い店か、安いけどそれなりのお店しか思いつかん(^^;

近所にあるとええなぁ・・・

歩いて行けて餃子で一杯やるか、テイクアウトで家で一杯できるなら最高なんじゃけどなぁ(笑)

さぁ、腹ごしらえも済んだし、いざ!

再び日光東照宮を目指す。

国道121号線を北へ向かっとったら「例幣使街道」の文字が。


なんかようわからんけど、街道の文字に反応して直感的にそっちを選んだ。


すごい!w( ̄o ̄)w

この風景!

(例幣使街道は東照宮へ向かう勅使が通った道なんと。)

さすが東照大権現さまじゃ~!

こんな道が何キロも続く。

見たこともない、スケールの大きな街道にテンション上がりまくりじゃった(^^)

さあ、いよいよ「東照大権現」へ到着。


神社へ向かう参道(振り返って撮っとるけぇ(^^ゞ)

ドラマ「仁」のロケで使われとったよ。

すごい、気になっとったんじゃ(^^)


ほいで、入り口の鳥居

この石の鳥居は「黒田長政」(官兵衛の息子じゃね)が寄進したもの。


入ってすぐにある五重塔。1800年代に再建されたものとはいえ、きれいじゃ。

よく手入れされとるね。


見ざる、言わざる、着飾る? ヾ(--;)ぉぃぉぃ 聞かざるじゃろ(笑)

でお馴染み、神厩舎。

残念ながら、今は平成の大修理中で一部は彫り物ではなく絵が貼り付けてあった。


手を洗ったり、口をすすいだりする御水舎ですらこの豪華さ!


境内には沢山の灯籠があるけど、中でも有名なのがこの鉄製の灯籠。

仙台藩主 伊達政宗の寄進じゃ。


ほいで、かの有名な「国宝 陽明門」

って、これが修理中じゃった(^^ゞ


ほいじゃが、その横にのびる廻楼は見られるよ。これも国宝。

手の込んだ彫り物がびっしり。


さらにその奥「国宝 唐門」

国宝だらけ。ほんまに見事としか言いようがない


そして、奥宮(いよいよ家康の墓所じゃね)へ向かう通路へ


通路の上には眠り猫。左甚五郎作って言われとるやつじゃね。

小学校の頃使っとった彫刻刀が「甚五郎」っていう彫刻刀でこの眠り猫の絵が描いてあったね(笑)

父親にその由来を聞いた覚えがある(^^;


ほいで、奥宮へ向かう階段。

階段が一枚物の石で出来とって、手間がかかっとる。

外国人観光客も多いよ。


階段を登ったところに、いよいよ奥宮がある。

そのうらに

鋳抜門

これ、見たことがある!

芝 増上寺にもあったわぁ(^^)

扉を除いて、その他のパーツがすべて一つの鋳型で作られとるけぇ鋳抜門っていうらしい。

増上寺みたいに、近くまでは行かれんかった(^^ゞ


ほいで、御宝塔。

ここに家康公が眠っとるんじゃね。

立派なお墓じゃ。


奥宮へと続く通路も、ええ感じじゃったよ。

見所満載でとてもこんな時間から来たんじゃ、見てまわれんわぁ(^^;

どの建物もすごく手が込んでいて、さすがと思わせる物ばかりじゃったわぁ。

小さな物を作るとき、手間暇かけて作るのは分かるんじゃけど、

ここの建物は大きな建物なのに、細かなところの装飾を、手を抜かず作っとるわぁ。

もっとゆっくり回りたかったんじゃけど、朝のスタートが遅かったけぇそろそろ帰るわぁ(^^;

ほんまは、この後いろは坂を登って中禅寺湖、華厳の滝が定番なんじゃけどねぇ。

帰りは例幣使街道(R121)を使わず、日光杉並木街道(R119)を通ってみた。

こっちもええ感じの道で、一部は街道を通らず平行して国道が走っとる。

車を停めて、街道の方へ入ってみると静かでええ雰囲気じゃったよ(^^)


日光東照宮へ向かう道。こんな立派な街道が2本もあるなんて、、、徳川家康って(笑)

ここを少し歩いてみたら、地元の散歩しよる人に出くわしたりして、「昔の旅人はこんな感じじゃったんかなぁ」って思えた。

ここが、自宅から3時間なら何度も通うんじゃけどねぇ(^^ゞ

津和野街道を旅してみるハハハ(^▽^)

2016年08月12日 | 歴史
毎日暑い日が続くねぇ~(^^;

そのうちバナナが採れるようになるんじゃないん(笑)


ほいで、こないだ暑さから逃れてマッキーと山へ行ったんよ。

この時期涼しい山じゃったら、1,000メートルは上らんといけんよねぇ(^^ゞ

とりあえず、いつもの佐伯町から吉和方面を目指したんじゃ。

宮内別れから上って佐伯町まで来たとき、津和野街道の話になった。

「行ってみようかぁ(^^)」

佐伯町内にある「重なり岩」からのぞいてみた。


大きな岩が重なっとるんじゃけど、絵馬があるじゃろ。

受験生が合格祈願を書いとるんじゃけど・・・

「落ちない奇岩(祈願)」だって。

ダジャレじゃん!ハハハ(^▽^)

この岩、過去に地震で落ちたり、大名行列の際に藩主の命により落としたりしたんじゃけど、

2度とも翌日には元の位置に戻っとったという伝説のある岩らしい(^^)

さて、この後は石畳の残る津和野街道へ行くことになったんじゃ。

佐伯町栗栖の先から入っていくと、石畳が残っとるらしいんじゃけど・・・

ここの標高はまだ300メートルそこそこじゃけぇ、避暑と呼ぶには低すぎる(;_;)


これがそのルート・・・ 暑いじゃろうのぉ~(^^;

とりあえず今日は、石畳の見られる所まで行ってよう。

現在の道は羅漢温泉まで上ってから谷筋を中道へ抜けとるんよ。

それをここからまっすぐ山越えしとるんじゃけぇ、きつさがわかるじゃろ(^^ゞ


そこからさらにまっすぐ羅漢山をこえて六日市方面へ、さらには津和野へと続く街道。

意を決して進んでみるけど、山の中の道は日向よりは少し涼しいかもしれんけど、、、

暑い

少し進むと、案内板通り「峠の茶屋跡」があった。

ここで、旅人達はお茶を飲んで休憩したんじゃね。

さらに進むと、あった~!

石畳の道

この道を「隠れキリシタン」達は津和野まで歩かされたんじゃねぇ・・・

そんなことを考えながら歩いてみる。

もちろん、津和野藩主 亀井氏も駕籠に乗って通っとるよね。


街道のすぐそばを小川が流れとった。

旅人達はここで喉を潤したんかねぇ。

ちょっとだけ、江戸時代の旅人気分に浸れた(^^)

歩いた距離はほんのちょっとじゃけど、暑過ぎじゃ~(^^;

続きはまた涼しくなってからじゃね。

四境戦争「芸州口の戦い」 今、四境戦争がマイブームじゃけぇ(笑)

2016年08月02日 | 歴史
「あれ~?・・・、おかしいのぉ~??」

何度も写真と見比べたけど、大砲の跡なんか見あたらん。

「あぁ~!w( ̄o ̄)w 、なんか違う。」

「こりゃ、西念寺違いじゃ!(笑)」


今日はマッキーと「四境戦争 芸州口の戦い」の戦跡を見に来たんじゃ。

ほんで、長州の本陣といえば、てっきり小瀬川より西の山口県側だと思うたじゃん(^^ゞ


ちょっと勘違いから始まったんじゃけど、まぁ長州側から見ていけばええかぁ(笑)

とまぁ、そういうことで、まず長州側のお寺「安禅寺」から。


裏へ回ると、ここへは彦根藩士の墓がある。

立て看板には、『彦根藩士「竹原七郎平」が従者2人とともに先陣を切って小瀬川を渡ろうとしたところを、長州軍(しょう翼団)の銃火を浴びて河中に倒れた・・・』

書いてあるんじゃけど・・・なんで、幕軍の中でも彼らだけ特別扱いなんかなぁ??


気になって大竹側のサイトで見ると、「幕府軍の使者として封書を高く掲げて川を渡っていて・・・」となっとる。

そうか、使者を撃っちゃってちょっと申し訳ない感じで特別に弔ったんかな。

そこから、ちょっと歩いて和木小学校の東側に「竹原七郎平徒渉地点」っていう碑がある。

この辺へ向かって渡ってくる途中で撃たれたんじゃ。

道路を隔てて反対側(川側)に「四境之役 封境之地」っていう石碑がある。

「激戦は2ヶ月に及んだが幕軍はついに小瀬川を渡ることができなかった。」てなっとる。

幕軍はこの川を渡れんかったんじゃね。

逆に長州軍は、いくつかのルートで広島藩へ攻め込んどる。

ほいで、ここの対岸あたりに青木公園(青木神社横)があり、広島藩側の石碑があった。

これは以前行ったときに撮ったもの。


ほいで、次はしゅう翼団や各隊が定宿としとった浄蓮寺。

和木小学校から少し上流、さらに支流の瀬田川を上ったところへある。

ちょっと小さめかな(^^)

ほいで、小瀬川沿いに戻ってさらに上流へ行くと「籌勝院(ちゅうしょういん)」がある。

ここは、かの遊撃隊の本陣となった所じゃけぇ。

遊撃隊といえば、来島 又兵衛(きじま またべえ)が奇兵隊に対抗して作ったんじゃ。

もっとも、来島 又兵衛は蛤御門で亡くなっとるけぇ、この時はもうおらんかったんじゃけどね。

本堂の裏へ回ると、遊撃隊士の墓がある。

隊士の数が多かったのか?それとも最前線で戦ったからか?沢山の墓がならんどる。


ほいで、いよいよお待ちかね、本物の「西念寺」じゃ~(笑)

場所は、ちょうど大竹のゆめタウンから山側を向いて少し小高くなった所にあるんよ。

幕末には、ゆめタウンはまだ海じゃったろうけぇ、あの辺から幕軍が軍艦から撃ってきたんかのぉ・・・

などと考えながら、眺めてみる(^^)

さて、いよいよ本堂へ


「ほうほう、これが砲弾の跡かぁ・・・」(笑)


○印の場所に本来は、右側矢印のように「肘木(ひじき)」と呼ばれる木があるんじゃけど、砲弾で壊れて穴だけふさいである。

本堂の柱に、説明が貼ってあった。


大島のお寺の石垣の砲弾跡に比べると、被害が小さく見えるなぁ。

大島では石垣の石が一つ無くなっとったけぇ、この程度の壁ならドーンっと一枚無くなりそう(^^ゞ

それとも、無くなった壁を修復するときに肘木の所だけ色を変えたんかね。

芸州口・・・
近場じゃけぇ、あまり気にしとらんかったけど、調べたらけっこうあるんじゃね(^^;

近場は見尽くしたかと思っとったわぁ(笑)

「花神」を見てから始まった、四境戦争 戦跡巡りじゃけど、小倉口は遠いけぇひとまず、これで終わりかな(^^;

次は何シリーズを始めようかぁ(笑)

津和野城跡、天空の城もあるのか?(^^;

2016年07月14日 | 歴史
こないだから「四境戦争 石州口の戦い」を見に行きよるんじゃけど、もう少し見たいところがあったけぇ、

続きに行って来た(^^)

ほいで、最初は津和野藩。

乙女峠

新政府による隠れキリシタン弾圧で、長崎より連れてこられて拷問を受けたところ。

信仰を改めるよう、5年もの間続けられ多くの殉教者をだした。

明治6年に釈放されたってなっとるけぇ、新政府とはいえまだまだ江戸時代と変わってなかったんじゃね。

次に行ったのが、津和野城跡

ここは気になっとったんよぉ。山城とはいうてもリフトがあるけぇ、敷居は低いよ(^^)

地図上に「現在地」ってなっとるところが、リフト乗り場。

尾根まで登れるけぇ、アップダウンは多少有るけどぜんぜん楽。

ちなみに地図の「現在地」の右下あたりに太鼓谷稲成、右下隅あたりに藩主の菩提寺永明寺がある。

雪のないリフトに乗るのは、変じゃのぉ~って言いながら、5分ほどで降り場についた。

そこから少し進むと最初の史跡「出丸」があった。

ご覧のように、天気は快晴じゃないけど十分暑い(^^ゞ

期待しながら登って、景色を見ると

おぉー!イメージ通りのものが見えた(^^)

真ん中を流れる川は高津川、そこにかかる橋が津和野メインストリートにかかるあの橋(^^)

ほんで、左下に写っとるのが太鼓谷稲成神社。

なんとなく位置関係がわかったじゃろ。

そこから、尾根伝いに一度下がってさらに登ると本城がある。

見えてきた、見えてきた(○゚ε^○)v

規模も大きくてええ感じなんじゃけど、ちょっと荒れててもったいない(^^ゞ

木が大きくなって石垣を崩しよるし、崩れそうな石垣に落石防護ネットがかけてあった。


石垣がきれいなところだけでも、かなりスケールが大きい。

ここには石垣の上、両方にまたぐように建物があって建物をくぐるように入って行く感じ。



(この絵図の現在地は出丸と本丸の間です。)

ほら、柿木林道から津和野に入るときにある、大きな鳥居がちょうど見えるじゃろ(^^)

じゃけぇ、あの道路から見上げるとここの石垣が見えるはず。


山の上じゃけぇ、エエ所から見たら、竹田城跡みたいに天空の城になりそう。

今、検索してみたら有るねぇ、やっぱり。

霧に浮かぶ津和野城跡(^^)

ここまでで、出丸と本丸だけじゃけぇ規模が大きいのがわかるじゃろ。

熊本城の石垣も大変じゃけど、こういうマイナーな石垣も大事にせんといけんねぇ(^^ゞ