北の旅人

旅行や、ちょっといい話などを。そして、時には言いたいことを、ひとこと。

「1956」-14歳の心象風景<22>

2009-07-31 14:13:38 | Weblog

<作文>

                 救援物資
                            (K・K)

今年の北海道は冷害に当りました。私の家でも冷害に当って、今年の麦が取れるまで生活していけない有様です。ですから、私の家では現在、大変生活に困っていますが、父さんはT町の山へ働きに行きました。

又、年末などには、なんにも仕事が有りませんでしたので、私達はお正月が出来ないかと思いました。でも思い掛けなく冷害農家の人々に与えてくださいました救援物資と冷害農家に対しての救援事業が行われましたので、私達も立派に良い年を迎える事が出来ました。

私は救農事業に父母が働きに出かけましたので、その仕事の終わるまで学校をやすんで家の手伝いをしました。冷害になると私までが馬の草を切ったり、薪を切ったり外から内まで私一人の手に行き渡って来るのではありませんか。今でこそ、本当に心の中から苦労がしみじみわかりました。

また、救援物資には、古着とか鉛筆、ノート、お金などが送られて来て居ます。私の家ではお金が890円、古着が色々と沢山あたりました。其れからノート4冊、鉛筆4本などが配分されて来ました。

私は、この様にいろいろな品物を沢山送って下さった全国の皆さんのあたたかな心に対して何と云ってお礼をもうしあげれば良いのかと心から涙のでるような心持に成りました。また、この様な救援物資は北海道の町ばかりでなく内地とか色々な外国からも郵送されて居ます。

こうした私達北海道の冷害のために、色々な諸外国にも知れ渡り、私達の冷害に危機を救って下さいました心のあたたかい人を、私達はふかく感しゃしております。また新聞などにも、北海道の冷害に対しての品物が沢山送られて来ています。

私は、これらの救援物資に対して、世界の全国の人々は皆な兄弟のようにさえ思えてきました。又、スピーカーなどでは、私達の北海道が気になって、内地の方から暖かい言葉には、こんな声が流れてきました。「北海道の皆さん、お元気ですか。気をおとさずに、しっかり勉強して下さい」というような、はげましの声が送り出されて来ます。

こうして私達北海道をみてくださいます人は、誰かは知りませんが私は大変救援物資の皆様を心の底から感謝して居ります。

        ☆        ☆

1956年(昭和31年)の北海道大冷害は44年ぶりで、農業ばかりでなく不漁でもあったので、北海道全域にわたる被害額は396億円にのぼった。50年以上前の、この金額だから大変なものであった。

それを物語るように、娘の身売りが続出したとさえ言われる。後年聞いた話だが、当時のクラスには弁当を持って来られなかった仲間がいて、担任の先生が弁当を分けてあげたという。また、弁当箱にはコメは入っておらず、イモやカボチャだけという友達もいたのを覚えている。

冷害でなくとも、経済的にはまだまだ貧しい時代であっただけに、極めて深刻なものであった。今年の北海道も冷害が心配され始めている。収穫期を迎えた小麦が、この10年で最も不作になる可能性があるという。

それというのも、6月の低温に加え、7月の雨が多かったからだ。7月26日現在の統計をみると、札幌の7月の平均気温が19.3℃(平年より 1.2℃低い)、降水量が172ミリ(平年値118ミリ)、日照時間が65.5(平年値175.8時間)という状況だ。

全道的にみると、平均気温が2℃以上低いところがあり、降水量は平年の23倍、日照時間が34割しかないという具合。わが家にはクーラーがないが、夜などは、結構厚着して過ごしている。冷害などを吹き飛ばすような、夏らしい日が来ることを心待ちにしているところだ。


全く信用できない鳩山由紀夫・民主党代表

2009-07-30 12:12:08 | Weblog

 



読売新聞7月28日付

鳩山氏の昨日の発言には驚いた。7月27日に300人の報道陣を集めて鳩山代表自らが発表した民主党の「マニフェスト発表会」の中身に関し、29日の記者のインタビューに答える中で、「あれは政策集ですからね」と発言したのだ。何という無責任な発言であることか!
ほんとうに呆れるばかりだ。

それというのも、マニフェスト発表後、大阪の橋下知事が国と地方の協議機関設置が政権公約に入っていないことを厳しく批判するとともに、自民党が協議機関を盛り込んだことについて高く評価したため、急きょ「マニフェスト・バージョン2」として、それを盛り込んだものを出さざるを得なくなったからだろう。

また、鳩山氏は、1月15日に期限が切れる新テロ対策特別措置法に基づくインド洋での海上自衛隊による給油活動について、つい先日、「政権を取ってからじっくりと関係国と相談し、方向性を定めていく」と語っていたが、マニフェストでは、給油活動には触れておらず、ただ当面継続するとした。

しかし、社民党などからの強い反発を招いたため、28日になって、別の党幹部が「政権交代後、すぐに引き返させるのは現実的ではないが、これまでずっと撤退を求めてきており、基本的に延長は考えていない。そこはぶれていない」と修正した。

こうした、外交・防衛など極めて重要な政策に関する矛盾などを突かれたため、あれは、最終的なマニフェストではないと言いたかったのだろう。誠にいい加減な話だ。麻生総理も一国のリーダー足りえないと思っているが、こんな政治家に、日本の国を任せることはできない。極めて危険だ。

鳩山氏の弟である邦夫氏が、文藝春秋8月号で言っている。
「兄は日本一のスイマー」「信念の人ではまったくない」「自分の出世欲を満たすためには信念など簡単に犠牲にできる人」「小沢一郎的なものを全部、今の政界から抹殺するんだ、それが俺のライフワークなんだといいながら、ゴマをすって、べったりくっついていった」「今は虚像が前面に出過ぎている」とバッサリだ。

 マスコミにも一言いいたい。今日のテレビ朝日「スーパーモーニング」で、このことに触れていたが、コメンテーターの鳥越俊太郎氏は「正式なマニフェストというのは、告示になってから出すものだから、今の段階でバージョン2というのがあってもいいのではないか」と庇っていた。これもいい加減な発言だ。

国民もマスコミも「政権交代」という言葉に踊らされることなく、実態をよく見極めて政権選択をする必要がある。そうでなければ、あの8か月であっけなく退陣した細川内閣(1993年8月~1994年4月)の二の舞を踏むことになるだろう。


「1956」-14歳の心象風景<21>

2009-07-29 15:39:05 | Weblog

<作文> 
          1956年を振り返って
                
(T・T)

「1年の計は元旦にあり」とよく言われるが、去年も何の意義もない年であった様な気がする。人間は誰でも過ちというものはある。その過ちを振り返り、それを正すか、どうかによって、その人間の善悪が決まると云う。私たちが過ごしてきた1年の間にも、新しい社会が築かれている。

さて、その去年はどうであったかを反省してみよう。人に対して笑われる様な事はなかったか。学校で決められた事は良く守られたか。勉強はしっかりしたか。自分で反省する事は実に多い。去年はあまり意義のない年であった様な気がする。

こういう事は、毎年思う事であるが、どうして守られないのであろうか。やはり、一日一日が、ただむやみに過ごすからであろう。もう一度良く考え直して、これからが楽しい、有意義である様にしなければならない。

今年こそは、悔いのない、そしてむだのない一日一日を過ごして、立派な新しい歴史が築かれる様にしたいものである。 

        ☆        ☆

有意義な一日一日を過ごしているかと、14歳の君には言われたくないな~という気がするが、実際のところ耳が痛い。

いつか、テレビ番組で、「サイナラ、サイナラ」で知られた映画評論家の淀川長冶氏が、一日を終えてベッドに入った時、今日一日、みんなと仲良くできたかな?と、自分に問いながら眠りにつくのを習慣としていたと言っていたが、これ一つとってみても実に難しいことだ。

しかし、日々、反省しながら、それを次に生かしていくことは大事なことだ。初心に帰り、改めて心したい。

ところで、1956年がどんな時代だったかについては、この連載の初めに書いたが、その前後の年はどんな社会だったのか、ちょっと視野を広げて覗いてみたい。

☆1955年(昭和30年)の10大ニュース 

①「紫運丸」沈没事件  

②保守合同と第3次鳩山内閣成立 

③砂川基地闘争

④総選挙と第2次鳩山内閣成立

⑤津海岸の中学女生徒水死事件

⑥日ソ交渉

⑦横浜聖母の園の焼死事件

⑧全国的大豊作

⑨森永粉乳中毒事件

⑩新潟の大火

そして、この頃、電化製品が普及し始めて、「三種の神器」と呼ばれたのが電気洗濯機、電気冷蔵庫、テレビだった。また、ソニーがトランジスタ・ラジオの発売を始めた。

政治的には、自由民主党が結成され、左右両派社会党が統一されたのもこの年。さらに、統一地方選挙で創価学会が政界に進出した。

☆1957年(昭和32年)の10大ニュース 

①ジラード事件

②原子炉に太陽の火

③南極基地に日章旗

④石橋首相引退と岸内閣成立

⑤国連安保非常任理事国に当選

⑥宇宙時代への国民の関心

⑦九州大水害

⑧流感猛威ふるう

⑨ネール首相来日

⑩瀬戸内海で「第五北川丸」沈没

ジラード事件というのは、記憶になかったが、群馬県の相馬村の米軍キャンプ・ウェア演習場で空薬莢を拾っていた農婦が米陸軍のウィリアム・S・ジラードに銃で撃たれ死亡した事件だという。 

この年は、5,000円札、百円硬貨が登場し、ロカビリーが流行り、フランク永井の「有楽町で逢いましょう」が大ヒットした。そう言えば、高校の修学旅行で有楽町へ行ってみたが、確かに、あの曲がかかっていたことを覚えている。

「美徳のよろめき」(三島由紀夫) 「晩歌」(原田康子)が出版され、世界のトップニュースは、ソ連の人工衛星「スプートニク」の打ち上げに成功したことだった。 
   (以上、読売新聞社 「10大ニュースに見る戦後の40年」から)                 


「1956」-14歳の心象風景⑳

2009-07-28 10:34:02 | Weblog

<作文> 

          ブタ
              (K・S)

私の家で一頭のブタをもらいました。初めは小さなブタでした。まだ父はブタ小屋をつくっていませんでした。一番初めは、はこにいれておきました。やがて父は、ぶた小屋をたてました。

一番初めは「このちゃわんだけになるといいなー」と父は、すこし心配そうにいいました。やがてブタも大きくなり、ちゃわんよりも、もっと大きくなりました。

ブタのごはんをもってってやると、ブタは、前に立ちあがって来ました。私はあわくって、ごはんをやると、ブタは、いかにもおいしそうに、くちゃ、くちゃ、いやな音をたてて食べています。

ある日、私の家に小さな女の子が遊びに来ました。おひるに、でんぷんのだんごをやりました。その子は、半分でやめてしまいました。そのあまりを、ブタにやると、ブタは、歯をキーキーならしてたべていました。

私はそれを聞いて、歯が抜ける様でした。私は、歯をおさえながら、ブタ小屋から逃げて来ました。でも、ブタだから、しかたがありません。春になると、沢山の子を産んでくれることでしょう。

        ☆        ☆

農家では、ブタ、ニワトリ、牛、馬などを飼っていた。クラスメートの中にも、それらの世話をしていた子が結構いた。

先日のクラス会でも「俺はあまり学校へ行っていなかったからな」と笑っていた仲間がいたが、彼も牛や馬の世話をしながら、畑仕事を手伝っていた一人だった。

そのM君は、今もふるさとで農業を営み地域のリーダーの一人として頑張っている。クラス会で、ふるさとを訪問した際、彼が街中のガイドを引き受け、昼食時には皆にビールをサービスしてくれた。

「そんな気を遣わなくていいのに」というと、彼は「皆こんな遠くまで、わざわざ来てくれたんだから」と言う。唯一人ふるさとに残って地域のリーダーとして活躍している彼の心遣いは、うれしかった。

ふるさとを離れた一人としては、ふるさとのために、何か少しでも役に立つことがないかと考えている。それが、彼に対する、そして、ふるさとに対するお返しになればと思う。


「1956」-14歳の心象風景⑲

2009-07-27 15:18:50 | Weblog

<作文>
         
鳥捕り

             (B・Y)

僕は9日の日に鳥を捕りに行った。網を持って官行の裏の山に行った。一年のN君と6年のO君と行った。行った時は鳥はいなかったが、呼鳥がないたら、山にいる鳥は来たが、かすみあみにかからなかった。

よくじつは、僕とN君と行ってO君はこなかった。その日は、コガラという鳥をとった。4時になったから帰って来た。帰ってきてから、空気銃で鳥をとりに行ってカケスを2羽とった。4時半に家に帰って仕事をした。それから、夕飯を食べて、宿題をして、その日は寝た。

翌日は学校へ来た。学校の帰りに姉さんの家によって空気銃をもらって家に帰った。その日は鳥は何にもとれなかった。

      ☆         ☆

山間の街だったので、当然のごとく野鳥が身近にいた。今、考えれば決して褒められたことではないが、子どもたちでも空気銃(当時は、規制が厳しくなかった)や網を持って鳥を捕りに行っていた。

わが家では、父や兄が動物好きで、ウソという鳥などを結構長い間飼っていたことがある。ただ、生き物はみんなそうなのだが、死んじゃったりすると可愛そうなので、私はあまり好きではなかった。

今は、都会生活だが、家の周りに緑が沢山あるので小鳥のさえずりを家に居ながらにして聞くことができる。冬になれば、ナナカマドの赤い実に雪が降り積もるころ、沢山の野鳥がその実を食べにくる。

それを撮影しようとアマチュアカメラマンが大勢やってきて、ちょっとした撮影スポットになっているほどで、家のベランダからもバードウオッチングを楽しむことができる。

こうした緑の風景や小鳥のさえずりというのは、子どものころ過ごした環境を思い出させてくれるし、心が癒されるものだ。自然環境の大切さを痛感する。 


「1956」-14歳の心象風景⑱

2009-07-26 17:34:49 | Weblog

<作文>

          卒業期
               (U・A) 

春うららかな3月と共に、私達は卒業生の皆様と、お別れする時期になりました。私は今2年生で、もう1年すると今の卒業生と同じく学校を去らなければならないのです。

小学1年から中学2年までの8年間、楽しい時や悲しい時や、いろいろのことがあったけれど、その生活を過ごすのも後もうわずかです。今までの8年間に色々な友達と別れてきましたが、もう1年すると全員が一人一人ばらばらに分かれて、社会に出なければならない。

その一人一人の友達も社会に出たら、一生会わなくなる人もいるでしょう。私は、これから社会に出て自分の歩く道を選んでいかなければならないのです。私はまだ、自分のあゆみを、そう深く考えてはいません。

私は普通の人とちがって自分の一生を皆以上に考えていかなければならない。母は今から私のことを心配している。私は今、未来の事で頭がいっぱいです。残り少ない学生生活を楽しく過ごしたいとおもいます。

         ☆       ☆

田舎の学校だったので、小学校、中学校は同じ校舎にあり、小学一年から中学3年までの9年間は同じクラスだった。今流に言えば、小中一貫校というわけだ。それ故、仲間意識は大変強かった。私も、皆と別れ別れになるのは、「寂しいな~」と思ったものだ。

先日、このクラス会を51年ぶりに開いたのだが、半世紀の空白も何のその、皆あっという間に14歳の少年少女に戻って楽しい時間を過ごした。

そして、「このクラスで、ほんとうに良かった!」「小さい学校だったけれど、この学校で良かった!」と言いながら、旧交を温め合った。

当時、将来の進路ついては、野球小僧だったが、体が小さかったので、野球選手は早々と諦め、スポーツ新聞の記者に憧れたり、何故か政治に関心があったので政治家がいいかなと思ったり、お金儲けには、やっぱり会社の社長がいいかなど、まったく、考えがまとまらなかった。逆に言えば、夢多き年頃だったということか。

クラス会の別れ際に、一人のクラスメートが、「皆いい顔してるな」と言っていたが、それぞれが社会の荒波を乗り越えてきた歴史を読み取ったからではないか。縁あってクラスメートになったことを、改めて嬉しく思う。


「1956」-14歳の心象風景⑰

2009-07-25 12:45:06 | Weblog

<作文>

          テレビ
              
(T・M) 

1月12日、札幌の丸井デパートでテレビの陳列を見た。テレビを陳列している8階にいくと、すごく混雑していた。テレビの特長など会社の宣伝の紙5枚ぐらい集めると、なんだか自分が恥ずかしいような気がした。それでも今まで集めたのをポケットにつっこんで置いた。

きょ年、完成したという高さ147mのテレビ塔は、200mもあるように思われた。ここへ帰ってくる途中、富良野の親戚の家によるため富良野におりた。腹が減ったので食堂へ行った。ぐうぜん、ここにはテレビがあった。

1月10日なので、今日から大相撲初場所の始まる日だった。3時から大相撲が映りだした。残念にも4横綱の土俵入りを見て、もうすこしで、まく内の相撲が始まると云う時、父が「さぁ、もういくぞ」といったので、しかたなく僕はその食堂を出た。

道路を歩きながら土俵入りのすばらしいさが目に浮かんだ。そして吉葉山の土俵入りがいかったとか、栃錦のが悪いなどと自分の頭の中で考えた。しんせきの家はテレビがありません。

よくじつの昼ごろ帯広についた。汽車から家の混んでいるところを見るとチラホラ、テレビのアンテナが立っている。地図によると、ここは帯広より少し遠いので帯広より立っていない。釧路に来るとぜんぜん立っていない。

家へ帰ってきて10日ぐらいたつと札幌の兄さんの家ではテレビを買ったらしい。札幌の郊外なので、室内アンテナでもはっきり映る。あと10年ぐらいたつと、このM町でもはっきり映るようになると僕は信じているのである。それから小型のけいたい用のテレビも出来るようになると思います。

        ☆        ☆

まぁ、驚いた。50年以上前に「小型の携帯用テレビ」の開発を予言していたとは。子どもの発想力、頭の柔軟性というのは凄いものだと思う。まさに今、手の平の上でテレビを見る時代になっている。

テレビ放送が始まったのが昭和28年、この年の11月に30万世帯が、テレビを持っていたという。「もはや戦後ではない」「神武景気」という言葉が聞かれたのも、この頃だ。

街頭テレビでは、プロレスと共に相撲のテレビ中継も人気が高かった。当時の横綱は、栃錦、吉葉山、千代の山、鏡里。プロレスでは、何といっても、ヒーローは力道山。外国人を空手チョップでバッタバッタと倒す姿に熱狂したものだ。外人では、シャープ兄弟、ル・テーズなどが記憶に残っている。なんとも、懐かしい時代だ。


「1956」-14歳の心象風景⑯

2009-07-22 15:43:54 | Weblog

<作文>

                    空想

                            (R・K)

空想。空想ということばは、僕に一番あてはまる言葉だ。空想は僕の親身の友だ。こうして作文を書いていても窓から見る雲、雪、木、地面と、あらゆるところから空想は泉のようにわきでてくる。

現実からはなれている自分、声をかけられて、夢からさめたような気持ちで、ぼうっとしている僕。空想にもいろいろの空想がある。

一つに時間中に空想にひたることがある。が、この時の空想にスリルがあってなかなかおもしろい。一つは、真っ暗なところで、一人になった時、空想にひたる。この空想は武器だ。

一つは、たった一人で自然を見ながらの空想は宝物。その時その時による空想は、ほんとうの親友だ。だから、一人っきりで、空想にひたることが一番の小さな希望であり大きな希望である。

僕はどんな小さいことでも空想にえがいて喜び,楽しむような心を養っている。あるときは、大きなのぞみである空想は、僕の友であり、この親友を永久に心の中にきざみこんでおきたい。

              ☆         ☆

自分には空想力や想像力(創造力)といったものが、甚だ乏しい。だが、空想は希望だという気持ちは分かるような気がする。

振り返ってみれば、小さい希望にせよ大きい希望にせよ、希望があったからこそ、色々な困難を乗り越えて今日まで何とか頑張ってこられたに違いない。

これからも、ささやかな希望であっても、それを目標にしながら、ゆっくりと歩んでいきたいと思う。


「1956」-14歳の心象風景⑯

2009-07-21 10:44:19 | Weblog

<作文>

       赤ちゃんの生まれた時

                (K・S)

私は、学校から帰ってみると、店の方がいそがしそうでした。いつもなら、そういそがしくないのにと思いました。茶わんがあらってないので、私が、茶わんをあらっていると母さんが、「S子、おつかいに行っておいで」といったので、私はしぶしぶながら出かけました。

校長先生の家について、おばさんに「おねえさんはどうですか」と聞かれた時は、私はなにがなんだかわかりませんでした。おばさんは、「今日、6時になったら行きますからね」といったので、私は「はい」と返事をして、もううすぐらかったので、いそいで家に帰りました。

母さんに聞いたら「おねえさんが赤ちゃんが生まれる」と言うので、その夜いもうとと眠る時「女だといいな」といいながら、うれしくて眠れませんでした。

次の朝、私は「女の子が生まれたか」と聞くと、母さんが笑いながら「男だよ」といったので、いもうとと、「うそだ」というと「ほんとうだ」といったのでがっかりした。

でも今では、笑うようになり、とてもかわいくなりました。いもうとと、二人で赤ちゃんの取りやっこをするので、母さんによくしかられます。赤ちゃんは、お風呂にいれると、とても喜びます。

         ☆        ☆ 

甥っ子、姪っ子というのは可愛いもの。私には2人の姉がいたので、よく分かる。その一人の姉には、3人の息子がいるが、その甥っ子たちは皆結婚し、子どももいる。

わが家には30代の一人息子がいて、独身。その姉夫婦は、息子が小さい頃から可愛がってくれていて、夏休みなどは遠く離れていたが、1週間ぐらい連れて行ってくれたものだ。息子は今、東京でサラリーマンをしているが、地震や火事などがあると、わが家に電話をしてくるほど心配してくれる。

今年の夏休み、息子が東京から帰省することになり、友達と一緒に北海道のK市(姉夫婦が1時間足らずのところに住んでいる)などを観光してくるということに。そのことを姉に話すと、「17年も会っていないので、ぜひ会いたい」という。

当日は雨だったが、K市まで車を走らせ息子に会いに来てくれた。2時間ほど、焼き肉をご馳走してくれて、楽しい時間を過ごしたと、姉から報告の電話があった。

そして、息子に「K君を、うちの4男だと思っているから」といってくれたのだという。ありがたいことだ。前後して、息子からメールが入り、「結婚の話ばっかり(笑)」と書いてあったが、「うちの4男」ということには、まんざらでもなさそうだった。

姉夫婦は、70代だが、「今度いつ会えるかな~」と、名残惜しそうだったという。結婚の話など耳の痛い話を親以外から聞くのも、たまには必要なことだし、親の他にも自分を気遣ってくれる人がいるということを感じることも大事なこと。姉夫婦に感謝!だ。


「1956」-14歳の心象風景⑮

2009-07-20 09:25:00 | Weblog

<作文>

         古いスキー
                 (K・M)

僕のスキーは23になる兄さんのおさがりで、もう大分古く、後ろの方が、かけて丸くなってしまっている。こんな古いスキーでも、友達のスキーをはくとやっぱりはきずらくて、自分の持っている物が一番いいのだな…と思った。

このスキーをはいて、三十りんぱん(場所の名)へすべりに一人で行った。なんだかさみしいような感じがした。それでも5、6人の人がすべっていた。みんなのスキーとくらべて見ると、どうも僕のスキーの方が一番古いようだ。

そして皆んなに、君のスキー、ずいぶん古いなあーなんて言われた。すると仲間の一人が「古くたってすべれればスキーの値うちがあるんだ」と云った。僕はその日はその人を同情したくなった。もちろんあたりまえである。

いろいろなスキーの話をしながらみんなとすべった。3、4人が同じ所をすべって、ジャンプを飛んだので、僕もおそるおそる飛んだ。のぼって行こうとすると、あとからすべって来た人が「こんな所にスキーの折れたのがある」と云って、君のスキーのだ、と大きな声を出した。

僕はドキッとした。 近所ですべっていた仲間達が、あつまって来て「やっぱり古いスキーだけあるね」とゲラゲラ笑っていた。僕はどんなにざんねんだったか皆にはちょっとわからないだろう。

折れた所を見ながら、帰ったら、しかられるかな、すべれるかなと心配しながらのぼっていった。            

        ☆        ☆

仲間というのはいいものだ。ありがたいものだ。そう思ったことが何回かある。

その一つ。昭和50年代初めの頃、誘われて30代前半で転職しようと決意したことがある。それまでとは全く畑違いの職種だったが、150人ほどの会社で、当時としては月給も高く、役員という条件だった。子どもが5歳位でお金がかかる時期になってきていたので、悩んだ末に転職した。

ところが、初出勤して皆に挨拶し、名刺も貰って新しいサラリーマン生活が始まるはずだった。しかし、一日で「この会社で勤めていくのは、無理だな」という、自分でも的確に表現できないのだが、何とも言いようのない不安が頭をよぎり、2日目から欠勤した。

1週間後に社長の自宅を訪ね、お詫びして退職を願い出た。社長は「疲れているんだよ。しばらく休んで、疲れが癒えたら来いよ」と言ってくれたが、気持ちは変わらなかった。

転職に当たって、中に入ってくれた知人・友人たちからは総スカンを食った。当たり前だ。いい大人が、自分で決断して決めたことなのだから。

そんな折、大学時代の友人が、親の後を継いで会社を経営しており、「お前がどうしても嫌だというなら仕方ないだろう。いよいよになったら、俺の会社に机と電話を置いてやるから、お前なら食べるくらい何とか出来るだろう」と言ってくれたのだ。ほんとうに、涙が出るほど有難い一言だった。

しかし、同時に、そう簡単に世話になるわけにはいかないという思いも強くした。結局、3か月ほど失業保険で食いつなぎ、運よく自分でも好きな仕事ができる会社から誘われ入社した。設立間もない会社で、月給が一度に出ないような状況だったが、背水の陣で一生懸命頑張った。

3~4年経ったころ、私が「一日重役」で辞めた会社の社長が亡くなり、その後、合併、吸収の果てに倒産してしまったのだ。皮肉なものだ。そういうこともあり、疎遠になっていた人たちにも理解してもらえるようになった。

窮地に陥っていた私を、精神的に支えてくれた彼とは、もちろん親友として今に至っている。