北の旅人

旅行や、ちょっといい話などを。そして、時には言いたいことを、ひとこと。

花畑牧場へ行ってきました

2009-08-26 11:20:01 | Weblog

    先日、十勝へ行ってきた。日勝峠からは広大な十勝平野が一望でき、
    さすが「でっかいどう」を実感できる。ここのドライブインで食べた「ぶた丼」は、
    美味い!ソバとデザートもついていて、お勧めだ。


            鹿追町の道の駅にある「花の動物園」では、
            短い北国の夏を楽しむかのように、
            クマ、パンダ、フクロウ、リス、アシカなどがのんびりと
            遊んでいた。

             
                   
                   



自治体のワインづくり発祥の地として知られる池田町のワイン城。



中札内村にある、ご存知、花畑牧場の本拠地は
今や観光バス、観光客で大賑わい。
「ホットキャラメル アイスクリーム」(下の写真)を食べてみたが、
確かに美味い!

     昨年、生キャラメルが売り出された頃は、東京・大阪などの友達から頼まれ、デパートの売り場に2時間ぐらい並んで買った。
     甘党を自認する私としては、ここの「生キャラメルロールケーキ」(1,600円)が一番好きだ。



まったくおかしい!飲酒運転死亡事故裁判

2009-08-14 12:43:04 | Weblog

いよいよ裁判員制度が動き出し、少しずつ国民の意見が反映されつつあることは喜ばしいことだ。だが、一方で、裁判員制度が始まる直前に行われた裁判の審理では、相変わらず理解に苦しむ判断が示されている。

先月、北海道栗山町で4人が死傷した交通事故を巡り、札幌地検は逮捕された容疑者(35)について、法定刑の重い危険運転致死傷罪や、逮捕容疑となった道交法違反(ひき逃げ)の適用を見送ることを決めた。

事故は同町の直線道路で発生し、容疑者の車に追突された乗用車が対向車と衝突、3人が死亡、1人が重傷を負うという、誠に悪質な事故。にもかかわらず、容疑者を自動車運転過失致死傷罪と道交法違反(酒気帯び)で起訴する方針だという。

札幌地検によれば、事故から約3時間後に容疑者の呼気からアルコールが検知されたので、危険運転致死傷罪の適用を検討していたが、正常な運転ができないほど酔っていたとはいえないと判断したという。

また、「ひき逃げ」については、現場で救護措置などをせずに徒歩で立ち去っていたが、現場で警察官らの聴取に応じていることなどから適用を見送ったというのだが、まったくおかしな話だ。

2006年8月に起きた、福岡市の車事故3児死亡事故も、一審の福岡地裁は、事故現場まで接触事故がなく、追突直前にブレーキをかけたことなどを理由に飲酒の影響を認めず、脇見による前方不注視が事故原因と認定。懲役25年の求刑に対し、業務上過失致死傷罪のみを認定し、懲役7年6月とした。

しかし、二審の福岡高裁は危険運転致死傷罪を認定し、道路交通法違反と併せ懲役20年の判決を下したのは、極めて真っ当な判決だ。この二つの事故に共通しているのは、飲酒運転が確認されているにも拘かわらず、「正常な運転ができないほど酔っていたとは言えない」「事故現場までは正常に運転していた」などと、常識では考えられないことを言っていることだ。(福岡の場合は二審で覆ったが)呆れた話だ。

問題は、被害者には何の落ち度もなく一方的に地獄に突き落とされたという厳然とした事実があるのみなのだ。これでは、何とかして加害者の刑を軽くしようとしているとしか思えない。加害者の立場に立てば、このような理屈が出てくるはずがないのだ。

飲酒運転だけでも大変な犯罪であり、酒の量によって罪の重さが変わるのではない。何を判断の基準にしているのか、全く理解できない。裁判官たちの狂った判断としか言いようがない。

こんなばかばかしい、大甘な判決しか出せないようでは、飲酒運転は絶対になくならない。おかしな裁判官たちに猛省を促したい。


「1956」-14歳の心象風景<27>

2009-08-12 15:04:02 | Weblog

<作文>

              46日間の病院生活 
                                (K・M)

私が目を悪くして北部・K市のF眼科へ入院したのは1月13日の事でした。体が人より丈夫な私にとって、学校を1ケ月あまりも欠席する等という事は本当に初めてであり、病院生活等と言うことも未経験でありました。

しかし、つきそいの母が10年位前に同じK市のF眼科へ目を悪くして1ケ月程入院した事があったので、あまりそういう方面では苦労をしませんでした。それに私も2、3日のうちでそれにも慣れ、一緒の入院患者さんや、つき添いの人達と雑談等をして時を過ごしました。

「物を見る」「書く・読む」と言う事を一切禁じられている私にとって、食べる・聞く・話す・は一番の楽しみであり、又それしかなかったのです。しかし、友達からの手紙の返事は必ず出しました。今、考えると、そんな事をして目をつかったのがいけないかと思います。

それに、私の目の病気は見かけは何ともないようなのですが、「両眼毛性眼瞼炎及皆部眼瞼炎」といって、とてもおそろしい病気で丁度「そこひ」のような病気なのです。だから、手術等と言う事もなく、じわりじわりと薬品による治療でなおしていくのです。

ですから、私の日課は、先ず8時起床。布とんは上げないのでベッドの上にしいたままです。なべを洗いに行きますが、わずか3つの蛇口からの水だし、水道のところも大変せまいので早くしなければ後までのこらなければなりません。しかし、そんな事は付き添いの母がやってくれました。

そんな頃、決まって聞こえてくるのが「水アメ屋」のラッパの音です。私達は1本10円の割りばしに巻いた水アメをよく買ってなめました。今では、これも病院生活の一つの思いでです。10時半、一緒の入院患者さんと治りょうに行く。治りょうが終ってから12時頃まで寝る。あと、午後はひま。

「目さえ良ければ勉強でも、すきな本でも読むんだけど」と何となくイライラしている。私に、私の洗たく物でもして終ったのか、ぬれた手で一生けん命に何かをほしながら、母の後ろ姿がいう。「そんな事をいう位なら、こんな所にいなくてもいいでしょう」と、苦笑しながらその手を休めた。

まだ、ひとしずく、ふたしずく洗たく物の水が残り、それが午後の日をあび不思議な位に美しかった。4時頃。明日の「まき」が、入院一人に一ぱずつ配給される。私達の部屋は私をくわえて4人だから4ぱである。それが終って5時半ごろ夕はん。後片づけをしたらねる。こんな具合で私達の日課はほとんどのんびり、ゆっくりであった。

しかし、その日一日が私にとっては重苦しい日であった。きっと私がこんなにしてくらしているのに対して、みんなは勉強に、クラブ活動にと一生けん命だろうと思ったり、学校の事がいろいろと頭の中をかけ回るからである。でも、私は沢山の友達の手紙になぐさめ力づけられた。

 Aさんからの手紙の本文。「もう三学期が始まっているというのにM子さんは病院での生活、きっと学校の事ばかり思うでしょう。でも、1ケ月や二カ月のしんぼうで一生楽しく勉強できるのですから頑張ってね。お体も大切にね」。まだまだ沢山あった。

私が病院生活で、すごく胸をうたれた事、その日記を拾いだして書いてみよう。

1月29日 火 天気はれ
「私が、この2、3日治りょうに行っていつも胸を打たれる事が一つあった。それは44、 5才の女の人と、その子供の6才ぐらいの女の子の話である。目のみえない母親の手を引くその女の子の姿をみ、その態度のかわいらしさ。

その女の子は、まゆ毛の濃い親によくにた大きな目、コールテンのズボンがやぶれんばかりである。そのやぶれを、つぎしてやることが出来ぬこの母親。今日も見た。その女の子が小さな手で母親を引いて治りょう室に入るのを」

こんなある日の日記である。後でわかった事であるが、その親子は一番おもい患者さんが入る、5号室に入っているとの事。私の部屋は15号室で2かいであった。白い壁で、ベッドが4つ、ならんでいた私の部屋。

無理に退院を許してもらった時の私のうれしさ。終れっしゃで家へ帰った2月27日の晩。しばらくぶりで、畳へねる事が出来たなつかしさ。今では46日間の病院生活も、かえってなつかしい気さえするのです。

       ☆         ☆

私も3年前、「神経鞘腫」(しんけいしょうしゅ)という、脊髄に腫瘍(良性)ができるという病気になり手術、1か月の入院生活を送った。

半年ほどのリハビリを経て完治したが、何せ首を自由に動かせないので、仰向けになったまま専らラジオを聴いていた。若い頃から「ながら族」だったので、ニュース、音楽、野球中継などを聴いていると、それほど退屈はしなかった。夜、眠れないときは、NHKの「ラジオ深夜便」をよく聴いていた。

入院してみて気がついたことがある。それは、同室の患者さんのところにお見舞いに来る人たちのことだ。私は、基本的には自分が具合悪いのだから、家族以外は誰にも来てもらいたくないので、たとえ親戚などにも入院していることは決して言わないことにしている。

ところが、隣のベッドの患者さんのところへ、やたらと見舞いの人たちが来るのだ。大人だけならまだいいのだが、小さい孫たちがきて、ワイワイガヤガヤというのが、何日かおきに繰り返されるのには参った。

談話室などまで歩ける患者さんなら問題ないのだが、そうでない場合は、見舞う方が、もっと他の患者たちに気配りするべきだ。妻が、ちょうど夏休み中に入院した時も、入院している子どもの兄弟がキャッキャッと病室内を走り回ったりしているのに、若い母親が注意しないのには驚いた。

妻は手術直後で高熱を出して苦しんでいたので、見かねて、「ここは遊園地じゃないぞ!」と、怒鳴ってやったことがある。病院にも、注意するよう要請した。当然のことだが、病院への見舞いには、そうした気遣いが必要だ。

なお、「神経鞘腫」という病気について、過去のブログ(2007・2・27セカンドオピニオン)に書いているので、首や肩の激痛などに悩まされている方は、ご参考にしていただければと思う。


「1956」-14歳の心象風景<26>

2009-08-07 14:39:50 | Weblog

作文

             家の子ネコ・チーコ

                              (N・E)

私の家にいるチーコは、二毛です。でもストーブのそばから、いつもはなれないので横腹がこげて三毛みたいです。私が一番大事にするので、いつも私のそばから離れません。

寝る時も、私が父や母に「おやすみなさい」をすると、ちゃんと私のそばに来て戸を閉めると、ふとんへもぐりこんできます。私はいつも「チーコちゃん、こたつがあるからあたたかいよ」といって、足でおつけています。するとチーコは、ゴロゴロと鳴らしています。

私は父が「よそのおじさんに家のチーコをやってしまう」と大きな声で、家にやって来た時、チーコを抱いて、かくす場所をさがしてうろたえました。

チーコがよそへいったら、しあわせにくらせるとよいが、もしまちがって投げられ(捨てられ)でもするとチーコは目がわるいので、一昼夜外にいると死んでしまうかもしれないから、このことを考えるとチーコをだいてかくし場所をさがして泣いて考えました。

すると父は笑顔で「A子がそんなに可愛がっているチーコをよそのおじさんにやらないぞ」といったので、私ははじめて「父さんほんとにやらないでしょう」というと、父は「ほう、泣いたA子が話した」と、又もおかしそうに笑いました。

それからは、チーコは父や母、弟などに大事にされ、いつも父が仕事から帰ってくると横になっている父のこしに上がって、バンドやシャツをじゃれます。すると父は「やらんで、よかったなぁA子」と、私の顔を見ました。

チーコは、こじけて太りません。でも私はチーコが外へ出ている時に学校から帰ると淋しくて、淋しくてたまりません。母に「チーコは」と聞くと「母さんはチーコの、ばんぺいではありません」とからかわれます。私はチーコをだいて、ごはんをたべます。勉強する時は机の下にねています。いつでもいつでもチーコといっしょにくらしています。

今では、なんぼ私が食べたいものがあってもチーコがニャーンとなくと、それをわけて上げます。ほんとうに可愛い、可愛いチーコちゃん。      

                ☆       ☆ 

私は、どちらかというとイヌ派だが、ネコを可愛がる気持ちは良く分かる。子どものころ家で犬を飼っていたからだ。

名前は「マリ」。13年ぐらい餌やりや散歩に連れ出したりして可愛がっていたが、老衰で死んでしまった。埋葬したのだが、大変悲しい思いをしたことを記憶している。

人と犬の交流を描いた物語は沢山ある。先日も、あのタロ、ジロが登場する「南極物語」(1983年=昭和58年)が放映されていたが、泣けてきた。それというのも、後年、はく製になり、別々になっている「タロとジロを同居させる会」ができ、運動の中心となっていた作家の先生に頼まれ、事務局長役を引き受けた経緯があったからだ。

常時一緒にさせることは出来なかったが、平成9年、稚内市開基120年、市制施行50年、開港50年のメインゲストとして里帰りを果たすことができた。タロ・ジロには、もう一頭兄弟がいたが、稚内で訓練中に死んだのだという。

明日から、忠犬ハチ公をハリウッドで映画化した「HACHI約束の犬」が全国ロードショーだというから、観てみようかなと思っているところだ。


拉致被害者解放のため世界的アピールを!

2009-08-06 13:05:46 | Weblog

アメリカのクリントン元大統領が電撃訪朝し、北朝鮮に拘束されていた2人の記者を連れ戻した。アメリカ政府は、クリントン氏は民間人としての立場だと強調しているが、この報道を見るにつけても、「拉致問題」を抱える日本政府の対応は、ほんとうに「情けない!」。

拉致被害者のご家族は、どんな思いでこのニュースを見ただろうか。 2002年~2004年に、小泉首相が2度訪朝し、拉致被害者5人と、その家族が帰国したが、それ以降の進展はまったくない。クリントン元大統領は、日本や韓国の拉致被害者の解放についても強く迫ったと伝えられるが、金総書記は反応を示さなかったという。

日本政府は、北朝鮮に対しては言うまでもなく、アメリカや中国などに対しても、あらゆる手段を講じて一日も早く拉致された被害者の皆さんを取り戻すための外交努力をすべきだ。小泉内閣以降の安倍、福田、そして麻生内閣に至るまで、一体どれほどの効果的な解決策への手を打ってきたのだろうか。相手は世界の常識が全く通用しない国なのだから、それなりの対応、知恵が必要なのだ。

衆院選に向けて、自民党は「日本を守る、責任力」と謳っている。そうなのだ、政治の最大の仕事は、まさに「国民の生命と財産を守ること」なのだ。ならば、マニフェストの最重要課題として、何故もっと前面に出してこないのか。民主党とて同じだ。「政権交代、政権交代」と叫ぶ前に、もっとやることがあるのだ。

全くの愚策である「定額給付金2兆円」のバラマキをするぐらいなら、世界中のマスコミを使うなどして日本の拉致被害者の実態、北朝鮮の非人道的な悪業を、もっと知らしめるべきだ。定額給付金の何分の一かで済む話なのだから。是非、ダイナミックなキャンペーンを展開してほしいものだ。

今の日本では、政治のプライオリティ、税金の使い方が全くなっていない。こうしたところに税金を使うなら、ほとんどの国民は理解するだろう。ほんとうに援助を必要としている人たちには、もっと別の形で手をさしのべればよいのだ。

北朝鮮問題は、核問題などもあって、極めて難しい状況には違いないが、今こそ一身を賭して拉致問題を解決しようとするリーダーが出てこないものか。国民は、こうした問題への取り組みや、あきれ果てた年金問題への対応などに絶望的な怒りを覚えているのだ。

政党や政治家が信頼を取り戻すためにも、「政治とは何か」「政治家の責任とは何か」という原点に戻って、衆院選に臨んでもらいたい。


「1956」-14歳の心象風景<25>

2009-08-05 12:10:44 | Weblog

<作文>
                
「僕」
                         (Y・K)

僕は時々、自分ということを考えることがあります。僕は勉強ができないので、中学三年を卒業したら、しゅうしょくしなければなりまん。

僕の親は勉強が出来れば、どんなに借金しても、どんな学校にでも入れてやるといってくれます。したけど、僕は勉強ができないからだめです。

しゅうしょくしても人に何をきかれても、こたえられないとおもいます。そんなの一つや二つぐらいならいいけど、僕ならきっとたくさんあります。だから、ぼくは、いまから何でもおぼえておこうと思います。

       ☆         ☆

こう言っていた彼は、後に周辺地域にある運輸業界のリーダーとなった。久しぶりに会ったクラス会で、スピーチの際、「俺は中学しか出ていないが、運輸省(当時)に乗り込んで、東大を卒業した官僚と堂々とやりあったこともある」と、誠に頼もしい話を披露していた。

その顔は自信に満ちていた。かつて、評論家の大宅壮一氏は、「男の顔は履歴書である」(昭和40年の流行語)と言ったが、まさに彼の顔は一仕事をやり遂げてきた男の顔だった。

仲間の一人が「しかし、皆いい顔しているよな」と言っていたが、いかにもピッタリとする気がした。遠い日に、お互いが腕白小僧にして悪戯好きだったことを思うと、なお更、そう感じたのかもしれない。ちなみに、「女の顔は請求書である」と言ったのは、作家の藤本義一氏である。


「1956」-14歳の心象風景<24>

2009-08-04 15:00:39 | Weblog

<作文>

          

             (I・Y)

僕。僕は今、中学2年生である。僕の体重は皆より軽い。身長はそのわりでもない。僕はおしゃべりだと思う。母や兄は、小さい時から良くしゃべるので、六つの時、間ちがって、七つにしてしまったのだと云う。

今僕は、本当は中学一年のはずである。それが中学二年にいるのだから少しへんだ。だから二年生よりもすこしできないのも、当りまえかもしらない。それでも良くしゃべる。二年生以上かもしらない。 口はうまいと言われる。

僕は時々、変なことを思った。この間も、弁論大会で日本一になった人がいった。口の上手な事は何故悪いのだろうかなと思う。自分ではなんにもわるいとは思っていない。 だけど母は口がうまくたってだめだという。

僕は時々、母に口ごたえをする。すると母はおこる。その時はおそろしいからだまっているが、あとから思う。どうして母の反対をしたらだめなのか。 たまぁには、僕の言うのも良い事があるかもしらない。それも良く聞かないで、ただ頭からおこりつける。

何故自分より年上の人には、口をきけないのだろう。これは僕も母も考えなければならない事だろうと思う。 僕は兄弟で一番小こい。母は僕が家で一番幸せものだと云うが、僕はそんなに幸せだとは思わない。(ばちがあたるかな) ぼくは、これから良き中学三年生になろうと思う…。

               ☆         ☆

私もクラス(55人)で、前から5番目ぐらいだったから、かなり小さく、また口が達者な子どもだったと言われてきた。なので、読みながら笑ってしまった。

確かに小学低学年の頃、よく近所の大人たちと話していたというか、からかわれていたというか、そんな記憶がある。「Tちゃんは落語家になったらいいぞ!」などと言われたりもした。

大好きだった相撲の実況中継を真似たりしていたから、おしゃべりだったのだろうと思う。「大人になってからは、一転無口になった」と妻に言うと笑われるのだが。 ただ、そんな少年時代だったせいか、兄弟の中では一番、親に文句や意見を言った。

サラリーマン時代においても、会社の上司や社長に、思ったことはハッキリ言ってきた。生意気だと思われたに違いないが、これは大事なことだ。大勢の人の前で話すことも、そんなに苦にならなかった。

そんなせいか、時として「弁論部出身?」などと聞かれることもあった。余計なことは言う必要はないが、自分の思い、考えをキチンと相手に伝えることは、もちろん大切なことだ。

 ただ、今は家に口が達者な上司(笑)がいるので、「まぁ、まぁ」と、妥協することが多くなったかな~。


「1956」-14歳の心象風景<23>

2009-08-03 13:44:25 | Weblog

<作文>  

                   作文
                          (S・K)

それは1月のある日、僕は学校へ行った。すると一人の生徒が、僕のうしろのほうで「今度、国語の先生がかわったよ」と云うので、僕はその声のした方をみると、N先生が国語の本をもって教室に入ってきた。

N先生は僕達のほうをみて「先生はこんど君達と一しょに国語のべんきょうをしていくのだ」と約一時間、国語の勉強についての話でおわってしまった。先生は「君達に一つ作文を書いてきてもらいたい」というのです。

僕は今夜かこうと思って、スキーにのりました。ところが、つかれてしまって作文をかくのを、すっかりわすれてしまった。それから3日、4日たったある日、先生が「作文を出して下さい」といった。僕は、しまったとおもった。

「先生、あしたまででいいですか」ときいたら、「あすまででもよい」というので僕は、こんどはわすれないようにとノートに書いた。だが又わすれた。そうして国語の時間が終って作文をだすことになった。

先生は「出していない人は何人いるか、手を上げなさい」といったので、僕は僕だけしかいないかなと思って手を上げた。すると、ほかにも5、6人いた。先生は「だめだな」といって、又「先生のいうことを守らなければ」といった。

僕は、ちいさい声で「書いてこいばいんだ、1枚でもいいんだからな…」とすぐとんでもないことをいってしまったと思ったが、先生の耳にきこえたのであろう、先生は「そういう気持ではだめだ」と、みんなのまえで云った。僕は自分だけがせっきょうされているように思った。いや、そうなのであった。

     ☆          ☆

私も作文は苦手であったことは以前書いたが、N先生が私たちに、何とか書かせようとしてくれたおかげで、半世紀以上たった今、こうして14歳の自分に会えることができ、感謝、感謝だ。

同時に、記録を残すことの大切さも痛感している。今はデジタル時代で、映像でも音声でも手軽に記録することができるが、当時は写真か、こうしたガリ版刷りで残すかしかなかった。

中学生時代に自分は何を考えていたのか。クラス会で読み返して、「俺、こんなこと考えていたんだ」と懐かしみ、「ゆっくり読んでみたいので、コピーしてほしい」と。高齢者用にとB5版からA4版に少し拡大し、製本して送っている。

メールや電話で感想を寄せてくれるなどしていて、この文集のおかげで、クラスメートとの絆がさらに深まっている。


甲子園・伝説の名勝負

2009-08-02 15:50:28 | Weblog

夏の高校野球出場校が決定した昨日、たまたま高校野球の名勝負を取り上げた番組2本を見た。

①NHK「アーカイブス 甲子園・伝説の名勝負△「死闘延長18回蓑島VS星稜」 △30年後の球児たちは 

②テレビ朝日「神様に選ばれた試合 いま甦る真夏の名勝負△「田中将大VS斎藤佑樹5時間33分決勝再試合612球…死闘の舞台裏

①は、1979年(昭和54年)夏の甲子園3回戦。蓑島が何度も離されてはホームランなどで追いつき、結局、劇的なサヨナラ勝ちを収めるという感動的なものだった。まさに神がかりというしか表現のしようがない、素晴らしい3時間50分の試合だった。今まで何回か観ているのだが、それでも胸を打たれる。

② は、2006年(平成18年)夏の甲子園決勝。駒大苫小牧VS早稲田実業は、駒大苫小牧が73年ぶりという夏三連覇に挑むという試合だった。早稲田実業は夏の初優勝を狙っていた。延長15回1―1で決着つかず再試合。翌日は結局、4-3で早稲田実業が初優勝に輝くのだが、これまた球史に残る一戦だった。



朝日新聞社のパネルより

今、田中君、斎藤君ともに、プロで、大学で期待通りの活躍をみせ、日本球界を背負う逸材として進化を続けている。楽しみこの上ない。

この決勝戦、今、思い出してもぞくぞくする。あの感動を鮮やかに活写した名文がある。高校野球をこよなく愛した作詞家の阿久悠氏が長年スポーツニッポンに連載していたものだ。あの熱闘を改めて讃え、あの感動を呼び起こすために、ここに掲載させていただく。

2006年夏 甲子園の詩2 終わりなき名勝負

ぐるりと取り囲んだ
純白の人の壁につつまれて
甲子園の空気が
震えることも忘れて凍りつく
団扇のそよぎが
嵐の予感のように壁を這うが
空気は呼吸を停めて
動かない
緊張と興奮で満員の観客は
声を発するふうでもなく
ただ 見つめる そして
やがて訪れるであろう
劇的な結末を待った

第88回全国高校野球決勝戦
駒大苫小牧 早稲田実業
終わりのない名勝負は
奇跡にも似た少年たちの可能性を
イニングごとに引き出し
増幅しながらつづき
涙ぐみたいような感動を
三時間にもわたってくりひろげた
最初はそれぞれの学校に対して
別々のシンパシイがあった
73年ぶりの三連覇を
達成させてやりたいという思い
名門伝統校の初々しさに
栄光を与えたいという願い
それらが確かに競っていたが
しかし いつか
どちらにも勝たせてやりたいとか
どちらにも負けさせたくないという
そんな思いになった
まさに 終わりなき名勝負
挫けない精神力と
おとろえないタフネスに敬意を
きみたちは凄いと言おう

2006年夏 甲子園の詩3 二〇〇六年 いい夏

昨日から持ち越した興奮が
超低周波の音のように
甲子園球場に満ちた
静寂でありながら
鼓膜を叩くものがあるのだ
このようなときめきこのような胸騒ぎを
日常に感じることがあるだろうか
寒々としたことばかりの社会で
歓喜の瞬間を待つ心の準備を
足踏みしながらととのえたことがあるか
この日 人々は
球場で テレビの前で
人から得る情報の確認で
久々にワクワクしたのだ
引き分け再試合
37年ぶりの
過酷だが誇りに満ちた
頂点の少年たちの決戦
勝利のためか
青春の光輝く証明のためか
本来なら
全精力を消化し尽くして
悲壮に見える筈の少年たちが
まさに 疲れを知らない
昂揚の美を示して
ただの一度も崩れることなく
毅然として闘った
顔を歪めなかった
肩でいきをすることもなかった
コントロールも乱れなかった
球威も落ちなかった
脚力ももつれなかった
最後までベストであった
二〇〇六年 いい夏
人々は日記に きっとそう書く(阿久悠氏HPより)

さて、今年の夏は、どんなドラマを見せてくれるのか。 8日からの甲子園が待ち遠しい。